月夜の珈琲館の本 阜、・おいしい水 N 大附属病院の産婦人科医、 織田鉱ー。同僚である麻酔科 医の志乃崎は、謎めいた織田 の性格に大いに好奇を刺激 され、彼をカワテル・バーに 誘い出すのだガ・・ 大人気 N 大附属病院シリー ス第 3 弾 ! ! 記憶の数 、イし、 学会に出席するために九州 を訪れていた志乃崎は、中年 の医者にしつこく部屋へ誘わ れていた製薬会社の青年・永 瀬を助けた。彼の持つ純粋さ に、強く惹ガれる志乃崎は・・ 、、 N 大附属病院シリーズ″番 外編を含めた、傑作短編集 ! ! イ
124 ふと、ばんやりと視線を上に向けて立っていた青木の耳に、目の前にいた青年が深く息 を吸うのが聞こえた。 確かに息苦しい 青年の呼吸が不規則なものに変わったのが気になって、視線を落とすと、わずかに見下 ろすかたちになった青木と顔を上げた青年の目が合った。 青木は、はっとした。 ひとみ きれい 青年の瞳が、近頃では珍しく綺麗に澄んだものだったからだ。 二十歳は超えているのだろうが、最近ではもっと若い年齢にもここまで純粋な目をした 者は見ないな : : : と青木は思った。まるで何にも汚されたことがないかのように、一点の 曇りもない。 何かを確かめるかのように美しい目を細め、青年が小さく息を吸ったのを見て、青木は ようやく、ごく微量ながら自分がコロンをつけていたことを思い出したのだった。 病院職員で香りを使っている者は、意外と少なくない。 きゅうかく 医療に従事していると、どうしても嗅覚が麻痺して気にならなくなりがちだが、思っ まひ
けい、トうレ」ろ・ 消された蛍光灯に代わり、下ろされたプラインドの隙間から射し込んだ西日が、橙色 のストライプとなって室内を染めていた。 「なんだおまえ、まだいたのか ? 」 先に声をかけられたのは、青木だった。 誰もいないと思っていただけに、びつくりして机の並ぶほうに顔を向けると、津川が帰 せびろ り支度をしているところだった。すでに服は着替え、背広とファイルケースを手にしてい ーカに る。驚いたことにそのすぐ横には、先ほどエレベータ 1 の中で見かけた青年が、パ ジーンズ姿で立っていた。 「君は、さっきのーー」 「おまえだったのか」 あっけ そう言って、呆気にとられた青木のほうに向かいながら、津川が顔を綻ばせた。後に続 く青年もまた、白い歯を見せて笑みを浮かべている。 々 日 なんのことだかわからずにいる青木の前まで来ると、津川は青年を促すように、半歩足 の 金を引いて言った。 「紹介するよ。彼は岡野亨。新進気鋭の画家だ。岡野、彼は俺と同級で、同じ外科の青 木克巳センセイ」 かつみ とおる すきま ほ」ろ だいだいいろ
いたのはこの人だ ! 』って思ったんです。頭の中の理想像が実体として目の前に存在して いたんですから」 「なるほど」 えか 絵描きのことはわからなかったが、気取りのない岡野の話を聞きながら、そんなものか もしれないなと青木は思った。 「しかし : ・ 「なんですか ? 「いや、確かにあいつは男前だと思うよ。体格もいいし。だが、絵になるかどうかと言わ れたら、君のほうがずっとモデル向きだろう ? 」 それもまた、本当の気持ちだった。 せかっこう 事実、岡野は、なかなかの好青年である。顔立ちも整っているし、背格好も決して悪く きれい みりよく 何より、綺麗な目だけでも、充分に人を惹きつけるだけの魅力があると言うと、さすが に青木を見る岡野の顔にも、呆れたような笑みが浮かんだ。 「そんなのは関係ありませんって。惹かれるのは、どうしようもない 「まあ、確かにね : ・ あき
146 花の向こうに、。、 ノンフレットに見入る岡野の姿があった。 岡野が作者だと知る人間は少ない、と津川が言っていたとおり、客の中に本人を知る者 うかが がいる気配は窺えなかった。 もっとも、彼が作者だと言われたところで、ほとんどの人々が信じないに違いない。岡 だいたん 野には、絵から想像される大胆でダイナミックなところも、若手芸術家にありがちの変な 自意識も、まったくと言っていいほど感じられなかったからだ。 会場で見る姿も、作者というよりは、少々場違いながら覗きに来た青年、というところ 戔」っ一」 0 「やあ、個展おめでとう。 しい感じじゃないか」 「あ : : : どうも。ありかとうございます」 ふいに声をかけられたせいか、岡野はびくっとしたように急をむと、顔を上げた。 何か考え事でもしていたのだろう。目はこちらを見ているのだが、心ここにあらず、と おび いう感じだ。青木には岡野が、何かに法えているようにも見えた。 「あのーー」 「あら、津川先生。いらしてくださったんですね」 のぞ
126 総合病院とはいえ、そこでは終業時刻を過ぎると、医局には誰も残ってはいないのが常 だった。当直医も、ここでは早々に当直室で待機する決まりになっているらしい ひま 都心部から離れているせいで比較的暇ということもあるが、言ってみれば病院自体の体 質だろう。勤務中は熱心だが、自分のプライベートも大切。だから必要以上に他人に干 しよう ふんいき 渉はしない、という雰囲気がそこにはあった。 ししよう ただ、厳しい所になると関係者以外の入室は固く禁じているのに比べ、そこでは支障が ない限り、知り合いが医局に出入りすることにも寛大だった。 かんさん 青年と一一度目に会ったのは、そんな終業時刻を過ぎた閑散とした医局の中でのことだっ た。エレベーターの一件から、小一時間ほど後のことである。 患者だろうか ? それとも、上へ行くということは、見舞客か ? そうこう考えているうちに、エレベータ 1 が病棟を示して停まった。 いろいろと気にはなったものの、ストレッチャーと共にそこで降りると、青木は残して きた仕事へと頭を切り替えながら病室へと向かった。 かん
ている以上に、病院特有のいというものが残りやすいものだからかもしれない。 さすがに現場では使える香りの種類も限られてはくるものの、他人に不快感を与えない 限り了承されている、というのが現状だった。 青木が香りというものに関心を持つようになったのも、成り行きで一夜を共にした相手 に職業を言い当てられたのがきっかけだった。 そうとわかった途端、一人の男としてより、医者として見られてしまう。そんなことが 嫌だったのだ。 きようみ きんせんてき とはいえ、金銭的にも気持ちにもそう余裕はなく、もともとたいして興味があるわけで もなかった青木にとって、香りは、シェービングフォームやアフターシェープローション などを買うついでに、店員が勧めるままに購入する一品にすぎなかった。 たぐ ) 香りといっても、香水のというよりは、持続性が取り柄なだけの、ボディ 1 シャン プー並みの淡く軽いメンズコロンである。 日きっかけがきっかけなら、名前も知らないまま店員が勧める物を使っていただけなの 金で、中途半端といえばそれに尽きるが、そんなよこしまな理由でいい加減な使い方をして かす いたにもかかわらず、青年は青木から微かに漂う香りを不快に思うこともなく、目一兀に笑 みを浮かべたのだった。
なければ、考えても答えが見つかるとは思えなかったが、本の中にコクトーのこの一一 = ロ葉を ばくぜん 見つけた時、青木は漠然とだが、菊地のことを思い浮かべたのだった。 岡野も言うように、人はそれぞれ固有の何かに惹かれていくものなのだろう。 そしてたぶん、それを見つけることができただけでも、幸福なのかもしれない。 津川を待っ三、四十分が、青木にはひどく短く感じられた。 岡野もそう思ってくれているかどうかはわからなかったが、二人とも退屈からは免れて いるような気がした。 かん すでに青木は、缶コーヒーを煙草に変えていた。岡野もまた、空の缶をテープルに置い て、すっかりくつろいでいる。 「津川と出会って、どれくらい ? 「半年に : : : なるかならないかってとこかな」 々 「えっ ? まだそれくらい ? 」 の 金青木には意外だった。そんなに浅い付き合いには思えなかったからだ。 「てつきり、もう何年にもなるのかと思ってた」 「自分でも不思議です。ずっと昔から知っていたような気もするんですよね。落ち着くと たいくっ まぬか
津川は泓めまをつくと、岡野のほうを見て言った。 「君は何歳だ ? ー 「いくらおまえでも、それはやりすぎだぞ ! 」 さすがの青木も声を 4 らせずにはいられなかった。 これでは完全に医者の守秘義務を犯している。いくら相手を納得させるためとはいえ、 とてもこんなやり方には黙ってはいられない きれい おび それに、綺麗な目をいつばいに見開いて怯えている岡野の様子から見て、今のこの状況 やまい かか は本人も理解しているはずである。覚悟ができている場合でさえ、自分が抱えている病の 重さに耐えられず自ら命を絶っ患者もいることを考えれば、こういう乱暴な方法がい力に 危険かということぐらい、津川だってわかっているはずだ。 「何歳か言ってごらん ? 」 「僕はーー一一十一歳。今年の : : : 七月で」 々 の はたん 金このままでは岡野の精神が破綻してしまうーーーそう言おうとした青木は、岡野の言葉 と、チラリと自分を見た津川の目に強い決意を感じて、思わず声を詰まらせた。 「では、今は何年だ ?
164 ハンドルの向こうでは、人々が足早に家路を急いでいる。赴任してきてようやく見慣れ たはずの風景が、青木にはまるで違った感じに見えた。 「出会ったのはあの写真の半年ほど前 : : : 俺がアメリカにいた時だった。勉強したいこと はたち があって、大学を出てすぐ向こうに行ってたんだ。彼はまだ一一十歳前だったかな・ : : ・。声 をかけられたんだよ。絵のモデルになってほしいってな」 その時のことを思い出しているのか、津川の顔に照れたような苦笑いが浮かんだ。 「ビックリしたよ。最初はじゃないと思「た。こいつ、どうかしてるんじゃない きようみ がら かって。絵に興味もなかったし、だいいちモデルなんて柄じゃないだろ ? 青木もまた、岡野が話してくれた津川との出会いを思い出していた。 まなざ 自分が描きたかった絵に、津川がピッタリだったのだと岡野は言っていた。真剣な眼差 しで必死になって自分を口説き落とそうとしている岡野を前にして、津川はさぞかし途方 に暮れたことだろう。 「ーーーでも、あんなに強く誰かに必要とされたのは初めてだった。俺には兄弟もいない むえん し、家族愛なんかとは無縁の家だったからな。自分じゃなければダメだという感覚を、俺 は初めて彼に教えられた。人にそう感じたのも初めてだったよ」 津川の気持ちの変化が、青木にはわかる気がした。 ふにん