第一章遷 だいせいどう 大聖堂の屋根の上で、一人の若い男が泣きながら吠えていた。 「来るなあ ! 僕はもう死ぬんだー ここから飛び下りて死ぬんだからなあっ ! 」 着ている制服から、屋根の上の男は、王立学問所の学生だと知れた。進級試験の合否発 表の頃である。進級試験にでも落ちたのか。 みまえ 「落ち着きなさい : 神の御前で、そのようなことをしてはいけません : つど しんかん 大聖堂の下に集った二百人近い人々の前に出て、神官が男を見上げて呼びかける。今の 位置からだと、男が落下するのは、おそらく大聖堂の入り口の真ん前である。大聖堂の中 では、今も厳かに、大神官長による儀式が行われている。 午後を少し回った、うららかな昼下がりだった。食事を終えた者たちが、大聖堂前の噴 水のある広場でひと休みしようかと、楽しげに笑いさざめきながら訪れるような時間であ ほどこ る。見事な彫刻を施された大きくて美しい噴水をひと目見ようと、何も知らず足を運んだ わめごえ 者たちは、噴水の虹よりも高い位置から聞こえた喚き声に、何事かと顔を上げ、驚いて立 おごそ にじ
幻た本望だろう。 「そうではない : だいしんかんちょう 大神官長ヒルキスハイネンは、やや怒りを含んだ声で、同じ言葉を繰り返した。大神 官長の言わんとしていることがまったく伝わっていない様子の二人に、ミゼルの神官長マ イトバッハは一一一一口った。 まどうし と、つ 「あの者は助かりました。魔道士に運ばれた癒しの塔で休んで、じきに帰ることでしょ う。大神官長がお話をなさらなければと思われたのは、あの者ではなくあなたたちのこと です」 となり 対象が自分たちだとわかって、ルミは隣に顔を向けた。 だめ 「ほら、やつばりお叱りを受けることになった。駄目だよ、ジェイ、あそこで灰を落とし ちゃ」 しんせい 神聖なる大聖堂の上に煙草の灰を落とすのは、まったく感心できない行為である。 大聖堂の讎えの間で、ミゼルの使徒としての旅立ちに必要な承認の儀式を待っていた ジェイは、煙草が吸いたくなって、上のほうの階に移動した。大聖堂そのものはどこも禁 煙である。大聖堂の外に出てしまうと、空いた時間に儀式を希望する順番待ちの権利がな くなる。テラスに出て煙草を吸っても、煙のいで見つかって咎められることになる。神 しゅうどうし 官や修道士たちに文句を言われないためには、風向きに注意し、煙が上にのばっても気 しか しと
けんめい づかれないぐらい、できるだけ上の階に行って、窓辺で煙草を吸うのが賢明である。 そうしてたまたまジイが屋根に近い場で一服しているときに、飛び下りるのどうの と、騒ぐ迷惑な輩が現れたのである。大聖堂の前の広場は、大きくて立派な噴水がある、 きわ 聖地でもひと際美しい場所だ。儀式を終えたなら、いつものように気持ちよく大聖堂の正 面から出ようと思っていたルミとしては、そんな者に飛び下りられては、大変迷惑であ ばかまね る。馬鹿な真似は止めさせろ、ということになった。 「 : : : いや、風があった」 煙草の灰をき誑としたことは事実だが、決して大聖堂の屋根を汚してはいないとジ = うなず イは主張する。確かにかなり強い風が吹いていた。ルミは頷く。 「大丈夫みたいです」 「それもよくありませんが、そのことではありません」 とぎた へんずつう 的を外した事柄を取り沙汰され、軽い偏頭痛に襲われながら、ミゼルの神官長マイト ヾッハは二人をまっすぐに見つめる。 しと 蓮「ミゼルの使徒は、人々を救う使命を帯びているはずです」 はもの ジェイ 「それが、死ねなどという言葉を口にして、刃物を振り回すとは、何事か : なんじ % クラット・グラス、医師である汝が左手に持っそれは、人を生かすための刃 ~ あるはず しんかんちょう
発見し、肩に入っていた力を抜いた。 「ふん」 ふきげん だいせいう 大聖堂の屋根の上に立っ白いコートの男は、不機嫌な顔で、気絶して運ばれていく学生 を見下ろす。 「さて。戻ろうか」 すず びぼう 屋根の上に座って、気持ちよく涼んだ美貌の青年は、言うより早く、白いコートの男を 残して屋根を下りはじめていた。 一生に一度は行ってみたい場所を五つ挙げてくれと言ったならば、そのなかに誰もが、 聖地クラシュケスの名を挙げるだろう。 えいちこうしよう はくあ 輝くクリスタルと白亜で造られたそこは、国じゅうの叡知と高尚たる者の集まる場所 であり、胸に抱いた夢を実現するための場所。誰もが触れることを許された贅と富、歴史 しようちょう はぐく あふ 的財産と自然と人類が育んだ美に溢れ、豊かさの象徴である優雅な場所。そして、祝福 せきべっ と惜別、新たなる出発のための儀式が、広く行われるところ 大神官長の祈りの言葉が終わり、大聖堂のが厳かに打ち鳴らされた。 しゅうどうじよ 音楽の神に仕える巫女は、パイブオルガンとハンドベルで優しい曲を奏で、修道女に いだ 0 かな
しき 指揮されて、聖歌隊の少年少女たちは澄んだ声で、旅立ちを祝福する賛美歌を歌った。賛 みこあで 美歌に合わせて、祈りの巫女は艶やかに、神に舞を捧げる。巫女が舞いおさめ、賛美歌が かな 終わり、一列に並んだ巫女たちがハンドベルを下ろしても、パイブオルガンを奏でる巫女 は、静かに曲を奏で続ける。 しと まこたか 「ーー使徒ジェイクラット・グラス、使徒ルミナティス・フォルティネン、誇り高き使徒 かしこ ごかご として進むべき道に、賢き知の神ミゼルのお導きと御加護があらんことを」 だいしんかんちょう しゅうどうし ひた 大神官長ヒルキスハイネンは、修道士の捧げ持っ銀の水盤にミゼラニアの小枝を浸 ひざまず こぼ し、跪いて顔を伏せている二人の青年の頭に、そのしなやかな緑の枝葉から零れる聖水 を振りかけた。 だいせいどう 大聖堂で行われているのは、ミゼルの使徒を承認し、送り出すための祝福の儀式であ る。二千人は楽に収容できるだろう大聖堂だが、今はこの二人のための貸し切り状態だ。 きかん ミゼルの使徒の承認の儀式は、本来は午前中に行われる儀式である。聖地に帰還し、また すぐに登録をして出発することを希望する使徒は、特別に申して午後の空いている時間 虜に、儀式を行ってもらうことがたまにある。 蓮白いコ 1 トやケープにつけられている、使徒としての身分を証明するメダルのリポン は儀式を受けている彼らが、四年以上の経験を持っ使徒であることを示していた。 たが いくらか明るさを違えたそれぞれの金色の髪に、聖水をいただいた二人は、今一度、
とど その行為は屋根からの転落を許さず、学生をそこに留めておくためのものであったのだ ようしゃ おうへい が、あまりにも乱暴だった。横柄に言い渡された学生は、踏みつけられた手に容赦なく体 からだ ゆが 重をかけられて、激痛に顔を歪めた。両手で棟を掴んで身体を引き上げようとしていた動 きは、今にもけるかと思える手の痛みで停止する。 大聖堂の中で行われている儀式の終了を告げるが、厳かに鳴り響いた。 まばゅ くもん 苦悶している学生を見下ろし、風に揺れる金色の髪に眩い太陽の光を浴びながら、白い コートの男は言った。 「死ね」 簡潔に繰り返された一一一一口葉に、学生は心底恐怖した。踏みつけられている左手は、この世 のものとも思えないほど、激烈に痛い。死ななければ殺される。殺されないためには、こ こでなんとかして自力で死ぬほかはない。 学生は叫んだ。 「助けてえ : : ・・つー まゆひそ 許しを乞う悲鳴を耳にした白いコートの男は、むっと眉を顰め、学生の左手を踏みつけ
上げた。 「ひいっ : 目を剥いた学生は辛くも身を捩り、風もる音を響かせて振り下ろされた刃を、かわし 「ちっ : 白いコートの男は忌ま忌ましげに舌打ちし、なおも襲いかかろうとする刃を避けようと した学生の足が、ずるりと屋根の棟を滑って落ちた。 「うわあー くず だいせいどう 大きく手を振り回して姿勢を崩した学生の姿に、大聖堂の下に集まっていた者たちが、 悲鳴をあげる。棟から足を踏み外した学生は、屋根から転げ落ちる寸前に、左手で棟を掴 んだ。 まぬか なんとか落下を免れ、屋根にへばりついて這い上がろうともがいている学生を冷ややか すそ に見下ろし、男は白いコートの裾を風に大きく揺らしながら、くわえたままになっていた 虜煙草を右手で取って、崩れ落ちかけていた灰をき藩とした。 蓮「落ちるな」 こ、つ 冷めた声で言い捨てて、再び煙草をくわえた男は、棟を掴んでいる学生の左手の甲を底 の厚いデザートプーツで踏みつけた。 すべ
ていた足を退けた。 激痛叫まれていた学生の左手は、もはや棟を掴んではいなかった。とんでもない方法 からだ であったにせよ、その場に繋ぎ留めてくれていた重しを失った学生の身体は、そのままの とど 位置に留まれはしない。 「う、うわああああっ 1 目をいつばいに見開き、屋根を滑り羅ちた学生の身体は、宙に投げ出された。 「きゃーっ ! 」 だいせいどう 大聖堂の下に集って、はらはらしながら自殺志願の学生を見つめていた者たちが、悲鳴 をあげて目をる。 こっぜんき 宙に投げ出された学生の姿は、自由落下運動を始めるまえに、忽然と消え失せた。 びぼう すず 涼しい顔で成り行きを見ていた美貌の青年は、ほっと息を吐く。 「終わったか」 まどうきゅう さん 広場の端では、魔道宮からようやく馳せ参じた魔道士たちが、引き寄せの魔道を使っ 虜て、宙を舞った学生を受け止め、無事保護していた。 蓮危惧していた恐ろしい結果を知らせる物音が、なかなか聞こえないことに気づいた者た ちは、恐る恐る目を開けた。落下したはずの学生の姿が見えないことに驚いて見回した たんか 人々は、音もなく現れた魔道士たちによって、担架に乗せられて運ばれていく学生の姿を つなと
こうべた 深々と頭を垂れる。 しと 「我らミゼルの使徒として、使命を果たすことをここに誓います」 そろ だいしんかんちょうみぎどなり 声を揃えて述べられた誓いの言葉を、大神官長の右隣で聖書を捧げ持っミゼルの神官 うやうや 長マイトバッハは、天窓の光を聖書に受けて押しいただき、恭しく神に送り届けた。 おごそ 静かに下ろされた聖書が閉じられ、パイブオルガンの曲は厳かに終わった。 ひぎまず 跪いていた二人の青年は、ゆっくりと腰を上げる。 大神官長ヒルキスハイネンは、姿勢を正す二人の若者に言った。 へいたん 「平坦ならぬ道にも、ひと筋の光があらんことを」 儀式の終わりを告げる、旅の安全を祈る言葉をいただいて、二人は大神官長に会釈し パイブオルガンを奏でる巫女は、儀式を終えた者たちを送り出すための曲を奏でた。髪 の長い美貎の青年は、手に持っていた帽子をる。 だいせいどう いつもならしずしずと、音楽とともに優雅に大聖堂の奥に下がる大神官長とミゼルの神 しゅうどうし 官長は、修道士が会釈して下がり、聖歌隊の少年少女たちが修道女や巫女とともに立ち 去っても、その場を動こうとしなかった。ミゼルの神官長マイトバッハはパイブオルガン すみ を奏でている巫女に振り返り、そっと合図を送る。合図を受けた巫女は、速やかに音を小 さくしていき、曲を奏でるのをやめ、そこから立ち去った。 かな ささ えしやく
ため、たとえ善意の行動であっても、勝手な振る舞いは許可されないのだ。決定が下され るのに時間がかかるのは、組織の常である。 「ー・ーまったく : 背後から聞こえた声に、危なっかしい格好で屋根の上に立っていた学生は、驚いて振り だいせいどう 返る。学生が振り返った様子を見て、彼の背後に何かあったかと、大聖堂の屋根を見上げ まゆひそ ていた者たちは眉を顰めて目を凝らす。 むぞうさ 自殺志願の学生から見て、八メ 1 トルほど後方の棟の上に無造作に立っていたのは、白 いコートを身につけた、金色の髪の若い男だった。コ 1 トのポケットに両手を入れ、細巻 き煙草をくわえた男に向かって、自殺志願の学生は喚く。 一歩でも近づいたら、ここから飛び下りて死ぬぞ : : : っ ! 」 むだ おど 説得なんて聞かない。止めようとしても無駄だと脅しかける学生に、白いコートの男 ふゆかい は、とんでもなく不愉快そうな顔をした。 「フるさい ふかみどりひとみね 白いコートの男は、目の前の自殺志願者を、深緑の瞳で睨めつけて言った。 「死にたいなら、死ね : 自殺を思い止まらせるために来たのではない。怒りを含んだ、押し殺した蓙で言われ かっこう わめ