187 黒蓮の虜囚 かばん 「今のお前の体格なら、鞄はこれでいけるよ」 てさ しようひんだな せおひも トロセロは出来合い品を並べた店の商品棚から、二本の太い背負い紐のある手提げ鞄 かたくず を持ってきてリンゼに背負わせて、背負い紐の長さを調整した。形崩れしないよう、太い 糸でかっちりと縫われた鞄だが、これもリンゼが持っていたものに比べると、半分以下の 重さだ。肩だけでなく、背面でも鞄を支えることができ、しかも背負い紐が太いので重さ が均等にかかり、肩に食いこむことはない。 みつろう 「蜜蠑を少し分けてやるからよ。しつかり手入れして使えよ」 なじ ていねい よい道具を長持ちさせるには、丁寧に使うことに加えて、手入れも大切だ。より馴染ん こ、」ち で、心地よく使うことのできるものになる。 「はい ! ど一つもありかと一つ′」ざいました ! 」 くっ かたまり 履いてきた靴と蜜蠑の塊を鞄に入れてもらい、リンゼはトロセロに大きな声で礼を言っ た。トロセロはリンゼの茶色の髪に触れて一度乱暴に撫でると、につと笑った。
114 くず 軟らかい具を崩さないよう、慣れた様子でレ 1 ドルを動かしたジェイを見て、リンゼは せまちゅうぼう まるいす あし 感心する。狭い厨房の一角に、背もたれのない丸椅子を置き、長い脚を組んで腰掛けて なじ いる姿も、おさまりよく馴染んでいる。 階段を下りきりかけたところでいつまでも止まっているリンゼに、ジェイは顔を上げ る。 「・ : ・ : なんだ ? 」 「いえ、何も ! 」 胸当て付きの前掛け姿のジェイに声をかけられ、リンゼは急いで首を横に振る。 厨房に入ってきたエレインがジェイに尋ねる。 「ジェイ、お肉いいかしら ? 」 「まだだ」 ジェイは再び新聞に目をやり、エレインが来てくれたおかげでジェイの視線から逃れら れて、リンゼはほっとする。 ビール 「そう。じゃ、麦酒だけ持っていくわ。ジェイも飲む ? さか于・き たる 棚から大きな持ち手のついた陶器の杯を一つ取ったエレインは、樽から麦酒を注いで ジェイの近くに置き、リンゼに気づいて振り返る。リンゼを見たエレインは、一瞬顔色を たな
ない。辛いことだらけだ。 けつきよく、自分を守れるのも、信じられるのも自分だけさ。 くつかばん 聖地で買った剣と防具は、靴と鞄を作ってもらったお礼に、トロセロに渡してきた。戦 う武器も身を守る防具も、リンゼは持っていない。何かあったときには、ジェイが言った ように、走って逃げるしかないのだが、走るのにそんなに自信のないリンゼの場合、それ すが まじなこ こそ運に頼るか、神様に縋るしかない。帰り道に男からもらった呪い粉のことを思い出 し、リンゼは首を動かして、壁にかけたライトコ 1 トに目をやる。 ( お守りっていうのは、鞄の中がいいのかな。服のポケットのほうがいいのかな : : : ) たぐい なが 信心深い祖母はお守りの類が好きだが、リンゼは祖母の持ち物をじっくりと眺めたこと はない。集めて、部屋に飾っていたのは知っているが、どこにどうやって持ち歩いている のかは知らない。女性であるエレインなら、こういうことはよく知っていそうだが、持っ ないしょ ていることを内緒にしたほうがいい呪い粉なのだから、話題に出して尋ねることはよくな かく一と すべ しゃべ いだろう。リンゼは隠し事が上手なほうではないので、ロが滑って喋ってしまいそうだ。 ( そういえば、お爺ちゃんは、お守り袋を首からかけてたなあ ) 祖父がお守りを肌身離さず所持していたことを、リンゼは思い出す。中に何が入ってい るのかは、見せてもらえなかったので、今でも謎のままだ。 ( あれも、そんなふうになってるのかな ) つら なぞ
108 ふきげん 不機嫌そうな様子で部屋に入ってきたジェイは、寝台に腰を下ろしたままのリンゼの前 に、サンダルを置いた。 リンゼの前に置かれたのは、リンゼの足にちょうどよさそうな大きさの、まだ新しい様 子のサンダルだ。 「これ : : : 」 「履け」 しまたた 見下ろして目を瞬くリンゼに言い捨てて、ジェイは書き物机に向かうと、席に着き、羽 こぎ 根ペンを握った。 かわぐっ ジェイの持ってきてくれたサンダルならば、さっきまでリンゼが履いていた革靴とは形 が違うので、足の裏にできていた一つを除いて、治療してもらった肉刺にはらない。 「ありがとうございます」 ( 助かった : : : ) くつず つら 靴擦れを起こした革靴を履き続けるのは辛い。少し足を休めたかったところだ。 なが サンダルに足を入れようとするリンゼを眺め、ルミはジェイの背中に目をやる。 「いいのか ? ジェイに尋ねるルミの一一 = ロ葉に、リンゼはどきりとして動きを止める。 「かまわん」
まったし、同行者になることが決まっても、今晩は使徒の家に泊まって、明日の朝早くに し・んぼく 出発するだろうと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。親睦の意味をこめ て、お茶や食事に出かけようというのなら、荷物を持って、使徒の家を引き払って出てく ることはない。 「ーーあのお、どこに向かって歩いてるんですか ? 」 めんどうくさ 遠慮がちに尋ねたリンゼに、くわえ煙草で歩きながら、面倒臭そうにジェイが答える。 「 : : : カナール ほまえ ルミはにこりとリンゼに微笑みかけた。 こうていしんせいしょ 「リンゼの書いた行程申請書にあった、最初の土地さ」 「でも、あれは僕が一人で勝手に出しちゃったもので : ・ 「かまわん」 びつくりするリンゼに、ぶつきらばうにジェイは言った。 きやっか ( : ・ : ・却下だって、言ってなかったつけ ) 虜もちろんリンゼは困惑する。相変わらず仏頂配のジイの = 一〔葉を、ルミが補う。 蓮「気が変わったんだってさ。行きたい場所があるわけではないから、わたしはべつにどこ でもかまわないし。今回だけは特別だ」 「 : : : はあ。そうなんですか」 しと と
( はいい 薬品も調剤のための器材も、すべて薬局から借り出したルミは、来たときから手ぶら かっこ、つ だった。これで、もとの格好だ。 「さ、帰ろう」 うなが ふさ ほが 両手を塞ぐ荷物をなくして身軽になったルミは、よく働いたと朗らかに促して、ジェイ かばん ぼうぜん と肩を並べて歩きだす。呆然として鞄と紙袋を抱えていたリンゼは、遠くなるルミの背中 を見つめながら、泣きそうな情けない顔になる。 ( い、意地悪うつ : ほまえ きれい 綺麗な顔で優しそうに微笑む姿は、虫も殺さないほどだが、とんでもない食わせ者だ。 リンゼが持っているジェイの往診鞄は、白衣や聴診器のほかに、血圧を測定する道具や縫 ごう 合の道具などが入っていて、見た目のわりにずっしりと重い。ほかに何もないのだから、 かさば 嵩張るだけの荷物ぐらい、ルミは自分で持っても、たいしたことはないはずなのに、それ をわざわざリンゼに渡すとは。 囚 虜「ーー待ってくださいよお : 蓮 一度荷物を下に置いたリンゼは、ジェイの鞄の持ち手に腕を通して肩にかけるようにし 黒 て持ち、紙袋を両手に抱え直す。 リンゼの声を聞き、公園の入り口で足を止めたルミは、大荷物を抱え直して、ころころ かか
( ルルナ水、買おうかなあ ) くつはなお まだ靴を履き直して歩く気にはなれないが、ジェイのいる物売りのところには、ルルナ よゅう こびん むだづか 水の入った小瓶もあった。しかし、無駄遣いができるだけの余裕はない。よく考えて、今 のどうるお 日はもうお昼に飲んだことでよしとして、リンゼはルルナ水を諦めた。喉を潤すだけなら ば、すぐ近くにある水飲み場の水で十分だ。あれなら、お金もかからない。 しばらくしてリンゼが少し落ち着いた頃、中身の入った瓶を持ってルミが戻ってきた。 「君も飲むかい ? ー 「はい かばん 荷物番をしていたリンゼは、喉が渇いていたので、鞄からカップを出し、遠慮なくルミ に差し出した。半分ほどねじこまれていたコルク栓をルミが引き抜くと、ほのかに甘い香 りがした。ルミはリンゼのカップに瓶の中身を半分入れて、自分は直接瓶に口をつける。 「ジェイの分は ? 」 「ジェイはこういうものは飲まないよ」 虜笑ったルミがリンゼに分けてくれたのは、蜂蜜のたつぶり入ったレモネ 1 ドだった。リ 蓮ンゼから見えない場所で店を出していた物売りのところから買ってきたのだろう。甘い飲 ひとごこち み物で喉を潤して、リンゼは人心地がつく。 とけいとうかね 時計塔の鐘が鳴った。 はちみつ せん あきら
122 にこやかに誘いかけるルミに、エレインは少し拗ねた顔で返事をする。 ジェイのことで恥ずかしがるのを、ルミが面白がっていることはわかっている。 「なんだ。残念」 ぶどうしゅ 「またこの次にね。葡萄酒はいかが ? 「ありがとう。ジェイに持ってきてもらうよ」 「そう ? それじゃあ少し待っててね」 一つの卓の客が帰り、会計をしたエレインは、卓に残った食器を片づける。 「ーーールミさん、僕、知らないから借りてしまいましたけど、これ、早く脱いで返したほ うかいいですよね」 「いや、そのまま履いてていいよ」 今すぐにも二階に戻ろうかという様子のリンゼに、気楽に返事をしたルミは、落ち着い て座って食事をするようにと手で示し、優雅に食事を始める。 「・ : ・ : そうですか ? 」 ぎようぎ リンゼはしぶしぶスプーンを持つ。食事を始めたルミを一人残して席を立つのは、行儀 かよくない ちゅうぼう 新しい客が来る様子はないので、厨房での調理は、今日はこれで終わりだろう。
184 怪訝な顔をするリンゼの頭の上に、ルミはばんと手を置く。 「 ( 大切な人だからこそ 、 ) い加減にはできないんだよ ) こんいん 恋愛ではなく、婚姻になってしまうと、相応の責任があるものだ。根が真面目で、少年 の潔癖さを持っているジェイは、エレインに触れることもできない。少女の恋心を抱いた こわ ままのエレインは、自分の気持ちを押しつけて、ジェイに負担をかけることが布い。 「 ( ったくよ : : : ! ) 、 生きて二度と逢えないかもしれないのなら、せめて一度ぐらい、積極的な行動に出て も、神は二人を罰しないだろうとハッシュは思う。 いつまで盜み聞きしていても収穫なしと判断して、大きな溜め息をつき、ハッシュは部 屋を出ていった。 「 ( じゃ、わたしも続きをするか ) 」 部屋で行「ていたルミの作業は、ジイが毎日消費する、煙りである。診療所に差 し入れてもらった、大きな紙袋の中身は、ジェイの煙草に使う草を干したものだ。 「あ、ルミ、トロセロさんのお店の場所を教えてください : かばんくっ 作ってもらった鞄と靴を受け取りにいかなければならない。地図を書いたルミは、リン ほまえ ゼににつこりと微笑む。 「その剣の袋を持っていくのを忘れないように」 けげん
物紹介 ・ジェイ あいぼう ミゼルの使徒として世界じゅうを回国す ジェイの湘棒で同じくミゼルの使徒。薬 る青年。医師の資格を持っており、その腕は剤師として優れた腕を持っている。見事な びぼう おうと 王都でも通用するほどの超一流。訳あって、までの長い金髪に彩られた美貌の持ち主で、 みまちが ぎんふ しゆらおう 銀斧の聖戦士であり、かって孤高の修羅王女性に見間違えられることもしばしば。本 おこた と呼ばれたディーノを追っている。恐ろし人も、美を保っための手入れと装飾は怠ら ことばづか ない。立ち居振る舞いが優雅で、 = 三葉遣い く愛想が悪く、必要なこと以外はロにしな いが根は誠実。左手に鉄のを模した五本も優しいが、得体の知れないところがある。 の剣を装着し、剣客としても一流であるが、よく気が回り、ぶつきらぼうで言葉足らず めんどう のジェイに代わってリンゼの面倒をみる。 普段は黒い革の手袋で武器を隠している。 あいそ かわ かく かい・」′、 ・ルミ