ばっ れても、その場で事情を説明すれば、罰せられることはない。 ジェイは今日、診療を受けにきた者たちゃ、天幕を片づけるために広場に集まってくれ た者たちのことを思い出す。 こくれん 「黒蓮の中毒患者は、いなかったようだが」 ふかみどりいろひとみ それらしい者が近くにいれば、ジェイにはわかる。深緑色の瞳で見つめられ、ハッ うなず シュは頷く。 「そういう話は聞いてねえ うわさ おきゃあげや 置屋や揚屋もない、小さな宿場町だ。町の住人の誰かに何かがあったなら、必ず噂にな る。食堂をやっているハッシュは、市場に買い出しに行くし、顔も広い。毎日たくさんの 人と逢って、何かしら会話を交わしているので、この町の出来事はたいてい知っている。 ねら 「 : : : 旅行者狙いの、よそ者だな」 ふむ、とルミは考える。この町での宿代は、宿泊予定の日数分だけ、先払いというかた ちに統一されている。王都や聖地への観光客が多い宿場町では、旅行者の出入りが多い。 お忍びで王都に向かう貴族家の者が、長衣をまとい、帽子を深に「たり、べールをつ 蓮けたりして、姿形がわからないようにして宿をとることも特別に珍しいことではない。危 めいわくきやく 害を及ばしかねない迷惑客ならば、相互に連絡を取り合って注意も払うが、このような しようぞく とざた あや せんさく 宿場町の者は、わけありらしい旅行者を詮索したり、装束を取り沙汰して怪しむことは
122 にこやかに誘いかけるルミに、エレインは少し拗ねた顔で返事をする。 ジェイのことで恥ずかしがるのを、ルミが面白がっていることはわかっている。 「なんだ。残念」 ぶどうしゅ 「またこの次にね。葡萄酒はいかが ? 「ありがとう。ジェイに持ってきてもらうよ」 「そう ? それじゃあ少し待っててね」 一つの卓の客が帰り、会計をしたエレインは、卓に残った食器を片づける。 「ーーールミさん、僕、知らないから借りてしまいましたけど、これ、早く脱いで返したほ うかいいですよね」 「いや、そのまま履いてていいよ」 今すぐにも二階に戻ろうかという様子のリンゼに、気楽に返事をしたルミは、落ち着い て座って食事をするようにと手で示し、優雅に食事を始める。 「・ : ・ : そうですか ? 」 ぎようぎ リンゼはしぶしぶスプーンを持つ。食事を始めたルミを一人残して席を立つのは、行儀 かよくない ちゅうぼう 新しい客が来る様子はないので、厨房での調理は、今日はこれで終わりだろう。
204 唇を噛み、赤くなっていているリンゼに、エレインは優しく誘いかける。大きな声を 出して興奮しているようだが、お茶を飲んで気持ちを落ち着ければ、リンゼの頭も少し冷 たぐいそろ えるはずだ。雉子亭はお茶の専門店ではないが、よほど特殊なもの以外、茶葉の類は揃っ ているし、エレインはちゃんとしたいれ方を知っている。 「 : : : ルルナ水 : : : 」 俯いたまま、ばつりとリンゼは呟く。エレインはジェイとルミにも目で尋ねたが、二人 びたんさん は小さく首を振った。ルルナ水は子供が好む甘い微炭酸の飲料で、ジェイやルミがロにす るようなものではない。しかし、だからといって、リンゼといっしょにお茶を飲む気は二 人にはないらしい 「ちょっと待っていてね」 しよくだい ちゅうぼう エレインは燭台を持って厨房に下り、すぐにルルナ水を入れたグラスを盆にのせて 戻ってきた。 「よい、、 とうぞ」 「・・ : : ありがとうございます・・ : : 」 リンゼは俯いたまま、エレインの差し出した盆からグラスを取り、ルルナ水を口にし なっ うる た。舌を軽く刺激する炭酸と甘みが、ひどく懐かしかった。思わず目を潤ませたリンゼの 月に、エレインが腰を落とす。 つぶや ぼん
持ってきた水差しと洗面器をジェイのいる書き物机の端に置いたルミは、呆れ顔でリン ゼを見て苦笑し、ジェイに試験管を渡す。ジェイは左手で試験管を受け取り、一度羽根ペ ンを置く。 しまたた わけがわからないという様子で目を瞬いているリンゼの隣に腰を下ろしたルミは、小さ にゆう ひざ てのひらだい かばんてぬぐ な鞄と手拭いを横に置き、小さな鞄から膝の上に掌大の水トカゲの皮を一一枚出すと、乳 にゆうばち ぼう 棒を動かして、乳鉢の中身を混ぜ合わせた。 席を立ったジェイは、試験管を傾けて、中身を半分ずつリンゼの肩に垂らすと、ぐいぐ いと右手でリンゼの肩を揉む。 「痛、痛い痛い : : : っー 「 , フるさい : 悲鳴をあげて思わず逃げようとするリンゼを、ジェイが睨みつける。 あざ 「その薬をつけてよく揉みほぐしておくと、痣を作るためにそこに集まっていた血が散 る。跡形は早く消えたほうがいいだろう ? はつか ただよ 虜乳鉢の中身を混ぜ合わせながら、ルミはリンゼに微笑む。ルミの乳鉢から漂う、薄荷に 蓮似たこの匂いは、リンゼもよく知っている。 「ちょっと冷たいよ」 言ってから、試験管を受け取ってジェイと交代したルミは、どろりとした乳鉢の中身を にお ほまえ となり にら た あきが
きぎすてい あいさつうかが 「こんばんは、ハッシュさん。今から雉子亭にご挨拶に伺うところだったんですよ [ きばむ あで 牙を剥いた地獄の番犬グレオニルでも気を削がれるだろう、とっておきの艶やかな微笑 だいだいいろひとみのぞ おやじ ほおゆる みを浮かべているルミの、橙色の瞳を覗きこんでから、親爺はにやりと頬を緩める。 「そうかい ? そうならいいんだけどよ。まあたこの馬鹿が、うちを素通りして、よそに 行っちまうんじゃねえかと思ってよー 腰に手を当て、ち誇ったように親爺はがははと笑った。 かたき ( 恨みのある仇とかじゃ、ないんだ : : : ) にんじようざた 豪快に笑っている親爺の姿を見て、刃傷沙汰になるのかと、どきどきしていたリンゼ は、肩に入っていた力を抜く。 「帰るぞ、おら ! 大きな肉切り包丁を振って、有無を言わせぬ様子で命じた親爺を、ジェイは冷ややかに なが 眺める。 「急に血圧を上げると、死ぬぞ」 虜若くもなく、痩せてもいない親爺にとって、急激な運動はよくない。 蓮先に立って歩きだそうとした親爺は、まだ肩で息をしながら、ジェイに振り返って怒 鳥っこ。 ロ / 「ううるせえや ! 俺は、エレインが産む孫の顔を拝むまでは、殺されたって死ぬもん うら ままえ
132 全に抜けた。育った町の同年代の少年たちのなかで一番頭がいいなどと褒めそやされ、 すっかり思い上がっていたようだ。ここ一一年ほどは、勉強中心に生活してきたが、リンゼ だめ は懸命になったわけでも苦労したわけでもなく、駄目だったら仕方ない、また次があると いう程度の気持ちで、のほほんと試験を受けていた。自らが死にし、そこから復活する か」く しようがくきん という過酷な衝撃的体験をして、誰一人頼ることなく独力で奨学金を勝ち取り、医師に なったジェイとは、あまりにも真剣さが違いすぎる。 しと 「大学院まで出たミゼルの使徒でも、お二人は最年少に当たるのではないですか ? 」 煙草を灰皿に置いたジェイは、新聞を読みながらリンゼに横顔を向けたまま、フォーク ぶどうしゅ を動かして黙々と肉と葡萄酒を口に運ぶ。ほんの少しシチューを残したルミは、パンもひ とロ残して、葡萄酒を飲む。 「そうだね。最年少ではないだろうけど、若いほうだと思うよ。リンゼ、君は、わたした ちがこれまでに見てきたミゼルの使徒とは、少し違うような気がするのだけど」 毛色が違うと言われて、リンゼは恥ずかしそうに笑う。 「僕、本当は王立学問所の研究員になりたいんです。一日でも早く、なれたらいいなあっ て思って : : : 」 わく 王立学問所の研究員採用試験の特別枠のことは、ジェイたちも知っている。ミゼルの使 こうていしんせいしょ とほ、つ 徒となって初めての回国における行程申請書の内容が、途方もない規模であったことが納
156 ( こんな傷 : : : ) 、ようし 凝視できず視線を落としたリンゼは、近くでかちかちと鳴っている音が、自分の歯の音 であることに気づいた。 長手袋をしたままの左手のために、カフスを外してシャツを着、スラックスに着替えた につけい たばこ くつは ジェイは肉桂の香りのする新しい煙草に火を点けて、靴を履く。 「 : : : 行くぞ」 右手で軽くリンゼの頭を押し、ジェイは階下に向かう階段へと歩きだす。冷たい汗をか あわ いて立ち尽くしていたリンゼは、置いていかれかけてててジェイの後を追った。 きぎすてい にぎ 雉子亭は朝食と弁当目当ての客で、おおいに賑わっていた。ひと足先に一階に下りてい たルミのいる卓に、ジェイとリンゼは足を運ぶ。朝食のパンとス 1 プ、卵とソーセ 1 ジの ひたゝ たつぶり入ったサラダを運んできたエレインは、リンゼのに賺られたタームを見て苦笑 する。 「朝から大変だったわね」 「 : : : 誰も教えてくれないから : ・ むくれるリンゼに、エレインは困った顔で微笑む。 「だって、知っているかと思ったんだもの」 ほまえ
そ、つは / 、 白い粉の正体を知り、蒼白になっているリンゼに、ジェイは尋ねる。 「どんな奴がどうやって、お前にこれを渡した ? 」 : トロセロさんのお店からの帰り道に、暗い、木の陰のところに、大きな帽子をっ こどもだま た男の人がいて : ・ 。でも、子供騙しだって、気休めだって : ・ うなず 泣きだしそうな表情で懸命に訴えるリンゼに、ルミは頷く。 「うん。だいたい、最初はそんな感じで近づいてくる。疲れがとれる、腰や肩の痛みが楽 になる、元気の出るもの。女の人に近づく場合は、肌の色が白くなる、肌あれやソバカス いじ きれい が薄くなる、若さを維持できる、見栄えのする綺麗な容姿になる。味のよくなる調味料。 利点ばかり並べた、調子のいいものだけど、とても安全なものだから、心配いらない。あ るいはほんの気休めにすぎないけれど、そう信じれば効果があるものだ。気楽に試せる、 ちょっと癖になりそうでも、すぐにやめられるーーー」 恐ろしいものほど、そうやって甘い言葉で誘いかけてくる。それが薬だとは、決して言 ておく わない。常用するようになり、正体に気づいたときには、手遅れなのだ。 囚 虜「リンゼさん、知らない人が、ジェイやルミさんよりもリンゼさんのことをわかっている 蓮なんてこと、ないと思うわ。ルミさんはリンゼさんが帰ってくるまで、ずっと窓を開けて 外を見ていたし、ジェイはリンゼさんの足のことを気にしてたもの」 「つたく、馬鹿がよ : やっ
ほろ ほ、つかい まどうし しんたく がら大地が滅びゆかんとした、世界崩壊の危機において、時の祭司長たる魔道師は、神託 つばさ せいじよしようかん によってこの世界に、背に白き翼のある聖女を招喚した。招喚された聖女と聖魔道士、 せいじゅう ひりゅう ほうじゅ 聖獣たる飛竜を友とする者たちとともに、世界を支えるという時の宝珠を探し出し、果 かん ぎんふ 敢に戦って苦難を乗り越え、見事世界を崩壊の危機から救ったのが、聖なる銀斧の使い手 に選ばれた、黒い髪の男である。 うじすじよう 氏素性や育ちという、生まれながらにして与えられただけのものを抜きにして、純粋に 評価した場合、誰もがその男に最高の賛美の言葉を送るだろう。そうと決して知られるこ おお そうめい とはなかったが、彼は誰より勤勉な努力家であり、強く雄々しく自信に満ちていて、聡明 たいく で博識であり器用で、男としての美の粋を凝らした、見事な体驅を有していた。自らカ強 みがあ ふさわ く時の輪を回し、磨き上げた大粒の金剛石たるこの男以外に、救世の英雄に相応しい者な どいない 世界じゅうの人間を敵にまわしていた極悪非道なる男は、その絶対的な力での活躍に 、つ くだ よって、かかる困難を打ち砕き、見事世界を崩壊の危機から救い、救世の英雄として人々 に認められた。しかし、だからといってその男の何かが変わったわけではなかった。 欲しいものは手に入れ、立ちはだかるものはなんであろうとことごとく打ち砕き、巨大 かぐれんほのお な飛竜を駆り紅蓮の炎で焼き払う。以前とまったく変わらぬ彼の所業に、世間の人々は、 かの英雄が善人ではなかったことを思い知り、彼は彼の生きるための世界を守っただけな すい こ , へこ、っせき
まじなこ 起き上がったリンゼは、ライトコ 1 トのポケットに入れていた呪い粉の小袋を取り出し しぼ ひも てのひら て、それを掌にのせた。ぐるぐると巻いて小袋のロを縛っていた紐を解いてみたが、それ は首にかけられるほどの長さはなかった。小袋の中に入っていたのは、掌の窪みにのるぐ らいの少量の白い粉だけで、下げ紐はなかった。適当な紐か何かがあれば首にかけられる だろうが、こんな粉だと、あまり肌に近いところに身につけていると、汗ばんだりしたと しつけ きに湿気を含みそうだ。 にお ( べつに、匂いはしないなあ ) せいれい 精霊の好む香りという言葉につられて、リンゼは小袋に顔を近づけて少し嗅いでみた ろ、っそく が、なんの匂いも感じられなかった。男に教えてもらったように、蠑燭の火に散らして燃 やさなければ、香りはしないようだ。 ( 嫌なことも辛いことも、消える気がする香りかあ ) こどもだま 子供騙しや気のせいでも、元気が出るのは悪くない。 しよくだい ほんの少しだけ試しに香りを嗅いでみようと、リンゼは小袋を持って燭台を置いた書 き物机に近づく ちゅうぼう 厨房での作業を終えたジェイは、昨日治療したリンゼの足の診察が残っているので、 エレインやハッシュよりも、ひと足先に二階に上がることにした。 つら