一時間前、栃木県の佐野市からここへ着いた。 「これから何をしようがオレの自由さ」心の底からワクワクしてくる。 このカタチのまま、二幸の窓際でほおづえをついて新宿駅を見ているこのカタチのまま フッと死んでしまいたいと思う。 少女とワルツ 一九五六年十一月、フィラデルフィアに留学していた各国の学生たちが、ペンシルヴァ ニア州の北にあるポツツビル・ロータリークラブから招待された。ポツツビルは、人口二 題千人の小さな炭坑の町だった。 話おもしろそうだったので参加した。 一週間の滞在だったが、なかなかの趣向を凝らしたものであった。 ジ まずホスト・ファミリーが決まる。これは夜寝るところであり、ブレックファストを食 章べるところである。 五 ちそう 第ランチは毎日一理うファミリ ーのところにご馳走になりに行く。 ディナーも入れかわり立ちかわりいろいろなファミリーに招ばれるという段取りになっ ている。
五枚と下着と洗面用具を手さげカバンに入れ、これでというわけにはとてもいかない だろう。洋服に合わせて靴だって何足かは持って行かなければならないだろうし。 成田から同じ飛行機で発ち、帰ってくるまで一週間、会議はもとより朝昼晩の食事もび ったりいっしょである。横にアメリカ人がいる限り彼女なしでは動きがとれない。 彼女たちこそ「時の国・ニッポン」にとって、なくてはならないたいせつな、たいせつ な「た種丑」なのである。
父母会の役付のお母さんたち約三十人と、その会長さんとテーブルについた。 問われるままにぼくはアメリカの「カップル文化についてわけ知り顔で話し始めた。 「アメリカでは夫婦は常にいっしょにおります。結婚ということが一つの約束事、つまり いっしょにいる〃という契約だからです。″単身赴任〃は契約違反ですからやりません」 「ニューヨークの大銀行の頭取が就任したとたんに帰宅時間が遅くなり奥さんに詰め寄ら れました。″夫婦でいっしょにディナーができないなんて意味がない。わたしをとるか頭 取をとるか決めて % 困り果てた彼は銀行の内外に宣言しました。″今後いっさい、ディ ナーは家以外ではしない。そのかわり毎朝六時半からわたしは頭取室にいる。用事があれ 題ば朝食にしてほしい〃」 話そんな話のあと、アメリカの離婚の話になった。 ス「ペンシルヴァニア大学の同級生十四、五人と、いまでもクリスマスカードのやりとりを ジ しています。その全員が離婚の経験者です。一回どころか三回したのもおります」 章壇上からではなく近々にお母さんたちを見るとパッと花が咲いているようにきれいだ。 第 一人ひとりがここへ来る直前に美容院へ行ってきたという感じ。夫婦生活も理想的に進 行しているに違いない幸せな妻たち。そういう人たちが清らかな目でこちらを見て一生懸 命にきいている。
一三ロ とりあえず専門職二十一名、補佐職十一名、計三十二名ではスタートする。 乙女座 ローズマリーがニコニコしながら部屋へ入ってきた。 0 、 ーティをやりたい」と一一一一口う。 「明日金曜日オフィス・ 「何のために ? 」 「発足一か月をお祝いしたいし、わたしの誕生日でもあるし」 よくのみ込めなかったが「 O 」と言った。 金曜日の午後四時、どこからともなく三々五々、人がぼくの部屋の前に集まってくる。 奮あっという間に三十人ぐらいになった。 長四十代半ばらしいが少なくても十歳は若く見えるローズマリーは、今日はおめかしをし Ⅵ黄色いワン。ヒースを着ている。 章まだ独身である。 第秘書の机の上が片づけられ、ビニールのテーブルクロスの上にシャンパン、氷のいつば い入ったバケット、コカコーラが並んでいる。ロサンゼルスから夏休みだけアルバイトで しらっしゃいっ 働いている O の大学生エリックが、向こう側に立って、「はい。、
安らかに食事ができないという所がノン・スモーキング・セクションになってしまったら どうするのだろうか。たぶん、もうその人たちはレストランへあらわれないだろう。 タクシーの中でも、タ・ハコは吸えない。 「バブリック・エリア」といって人が大勢集まるところもダメ。米国野村證券のビルの一 階ロビーにも「バブリック・エリア」という看板が立っている。タバコはダメという意味 「こうなると道を歩きながら吸うぐらいしかなくなったね」といつも使っているハイヤー の運転手に言ったら「いま、みんなガタガタ言っているけれど、あと三、四か月も過ぎれ 帰 里ば、そういうもんかということになりますよーと事もなげに言う。 へ たしかにそうかもしれない。 ク ュ ニューヨークの友だちが会社へ行く途中、道端に「わたしはエイズ患者です」と書いた 章 第小さな板を前においてすわっている男がいた。友だちはかわいそうにと思い、時々小ゼニ を箱に入れてやった。毎朝毎朝見るたびに、やせて小さくなっていく。 二か月後、彼はもういなかった。 「ひとごと」ではない :
233 あとがき 「って、いったい何ですか」 と聞き返したほど何も知らなかった。 まさに「降ってわいた」話であったからだ。条件としては野村證券との縁を完全に切る ということだった。 きち このままそっとしてくれたらあと五、六年は野村グループの幹部としてとどまれる。吉 じようじ 祥寺に家も建てた。大学生の三人娘と高校生の一人息子にそれぞれ屋根裏のある部屋も造 子供たちの部屋にそれそれの子供が住んでいて、「ご飯ですよ」とワイフが声を張り上 けるとドタバタと全員が食堂に集まってくる そんな家庭生活をひとりつ子だった・ほくは夢見ていた。このようなごく普通の小市民的 な幸せを捨てなければならないのだろうか。 この年齢になって、まさかこういうことでむとは思ってもみなかった。ありがたいオ ファーではあったが、ぼくとしては、ほとほと困ってしまったのである。 八七年十月、主婦の友社から『ウォール・ストリート日記』を出版した。本を出すなん てもちろん生まれて初めてである。 八七年十月十九日、ウォール街で株の大暴落があった。同じ日の日本経済新聞に五段抜
ったとき、メアリーという秘書をニューヨークからワシントンまで連れていった。 むすこ アメリカの秘書はポスの「私的ーなことまでめんどうをみる。息子の大学の授業料の支 払い、ポスがプライベートで使用したクレジットカードの支払い、ポスの家で三十人のパ ーティーをするので、外からポーイを頼んだりお手伝いを見つけたり : : : そんなことまで 秘書の仕事である。 日本的に言えば「公私混同」もいいところなのである。もちろんポスに主婦専業の奥さ んがいれば話は別だが、たいてい奥さんも働いている。それにポスが独身の場合だってあ る。 仮にポスの年収が五〇万ドル、秘書が三万ドルとしよう。アメリカでは週五日制だし、 祝祭日、バケーションを差し引くと三六五日のうち二三〇日ぐらいしか働かない。 これで時間給を計算すると、ポスが二七〇ドル、秘書が一六ドルとなゑ一時間に二七 〇ドルもとる人に息子の授業料の支払い事務をさせるよりも、秘書にさせたほうが会社と してはずいぶん得をする。まあ、いうなれば万事こういう考え方をするのである。 研攤を怠らず ダイアンは日本語ができるから、日本からニューヨークを訪ねてきた英語の得意でない
194 電話が鳴った。フロントからで、書類が届いたという。ミガからだった。 「ウエルカム。七月五日火曜日午前八時半にホテルにお迎えにあがります。マルコム・ヒ ーズ」というメモが入っている。一日のくわしい日程表が入っている。 明日はさつばりしていなければと思い直し、九時過ぎに睡眠薬を飲んでべッドに入る。 初登庁 七月五日朝九時、ウエスティン・ホテルの入り口の回転ドアからスーン・フーン・アン 女史が入ってきた。 握手をして車に乗りこむ。運転席にいた男が手をさし伸べながら握手を求めゑマルコ ム・ヒ、ーズ氏。 三人で世界銀行ビルへ向かう。 、、ガはそこの十階に間借りをしている。 ぼくの部屋、つまり「長官室」へ通される。 八メートル四方の大きな空間に、これもクイーン・べッドほどある執務机と椅子、八人 は優に囲める中華料理風の丸いテーブル、それに灰色の布地の長いソファーと、同じ色の 二つのチェア。何となく殺風景だがゆったりした部屋である。
しかし日本のビジネスでは普通「寺澤芳男ですーとは言わず「寺澤です」になる。 「ロナルド」と聞いたとたん次の会話から「ロン , 「ロン , と言い始める場合も多い。「レ ド・レーガンです」と言うことは「ロンと呼んでくださっ ーガンですーと言わず「ロナル てけっこうなんですよ . ということ、いや、むしろ「ロンと呼んでくださいな」と催促し ている趣さえある。 どうしてこうなるのだろう。 まず、アメリカの場合いろいろな国の人々が集まって生活しているから、姓のほうが発 合 び音がむずかしい場合がある。ポーランド系、ギリシャ系、インド系。舌をかみそうな姓が で多い。そしてアメリカでの英語は会話の途中に相手の名前をポンポン入れていかねばなら あゝさっ ない。「グッド・ モー = ング」だけでは朝の拶は終わらない。 ス四、五人男たちがいれば、「グッド・モーニング・ジェントルメンーだし、ジョージと モーニング・ジョージ」である。 いう一人の男に向かって言う場合は、「グッド・ フ 「あなたそう思うでしよう、ジョージ」 章 第「そんなはずはないじゃないか、ナンシー」 というぐあいに、やたらと会話の中に相手の名を入れるのである。 自分だけが一方的に話しているのではなしに、相手も自分の話に「引き込もう」という
そ、っそう 「誰にも青春があった」によると、当時の『文芸首都』には佐藤愛子、北杜夫など錚々た る人たちがいたらしい ぼく自身、これまた照れくさいが小説家志望だったのである。 「新馬鹿グループ」 中学四年のぼくらは自動的に新制高校の一年生になった。 マントこそは羽織っていなか 0 たが高い朴歯の下駄をはき、坊主頭を主張する学校と 華の上や 0 と勝ち得た長髪をなびかせながら街を歩した。ていた旧制高校生の「 ネをしてみたかったのである。 「新馬鹿グループという名をつけて・ハ力なことをずいぶんやった。クリスマスイ・フに、 身体の大きな藪君にサンタの衣装を着せ、町中「ジングルベル」を歌いながら練り歩いた。 高校の先生の家を回り、子供たちにサンタの大きな袋からオモチャやお菓子を配った。 当時エノケンの『新馬鹿時代』という映画が受けていたのでこんな名前になったのだろ 卒業後このグループはたった一回だけ集まった。昭和三十七年。高島忠夫司会のフジテ レビ「グループ対抗クイズ番組」に出演のため。