184 外国特派員クラブ 有楽町電気ビルの二十階に外国特派員クラブがある。 、ほ ~ 、とリ ( リウッド氏は八月二十二日月曜日十二時きっかりにそのクラブに着いた。 三人の外国特派員がロビーで待っていてくれた。すぐ図書室に連れていかれ、「食前酒は」 というから「オレンジ・ジュース」と言った。 まったく気が進まずどうしようかと思いながら、とうとう「そのとき」が来てしまった。 について三十分講演し三十分質問を受けなければならない。考えただけでも = ーウッである。 ワシントノこ 、冫いたとき、世界銀行の広報担当官が、東京へ行ったら記者会見をするよう にすすめた。うつかり「」と言ってしまった。そのあと、しまったと後海する。 のことなどよくわかりもしないのに、鋭い質問をすることを業とするプロの記者の前 長官奮戦記
216 囲世紀フォックスからの電話 『ウォール街』という映画は去年の暮れ、ニーヨークで見るはずになっていた。 。ほくの滞在がたった一週間、昼間アポイントメントでいつばいなのを知って、ニ = ーヨ ークの友人が、夜の十時が最終回だからそれを見ようと誘ってくれた。 その夜九時半ごろ日本料理屋でやっとタ食が終わったとき、まったくどうにもならない ほどグロッキーになってしまい、その友人に電話で断った。残念だった。 東京へ帰ると世紀フォックスの加藤さんという女性から電話があった。あの『ウォー ル街』の翻訳を手伝ってほしいという依頼である。とにかく加藤さんと会ってみた。彼女 のところへアメリカの本社から、 「この映画にはウォール・ストリート の人たちだけしか使っていない言葉が出てくるので、 日本訳については一応専門家に相談してほしい という連絡が入っていたらしい 映画『ウォール街』監修記
116 る日本人には、その場所のいいところを見つけてほめることにしている。 「いやそうでもないですよ、と一応は否定するが、けして悪い気はしていないということ が顔に書いてある。そして、その土地の悪口は「彼に」言わせるのである。「ぼくが、言 ってはいけないのである。これは永年ニューヨークに住んで・ほくが会得した、外国を訪れ たとき、その国に住んでいる日本人に対する「仁義ーとでも一言うべきものだ。 リのストリップ クレージー・ホース 「ダミアのシャンソンにひかれてパリに来ました」。安東さんは意外なことを言う。 「そう。ソイフル・ディマンシ = なんてよかった。学生時代、新宿のムーラン・ルージ = のそばにジ 0 ーという喫茶店があ 0 てね。そこでダミアばかり嚇いていた」。・ほくも調子 にのって軽口になっていた。 もうダミアはいないけれど、モンマルトルかどこかのうらぶれた酒場でああいうくずれ た感じの女が、われわれの知っている、あの時代のシャンソンを、人生にすねたように歌 い上げているところはないものか。安東さんは首を横に振る。 「うらぶれた酒場」が駄目だったので「ストリップ小屋」に行った。
大きな組織のサラリーマン生活をした人ならわかってもらえると思う。何事につけ「目 立ち過ぎる」ということは、サラリーマンにとっては避けるべきことなのである。 ぼくも・にエッセイを書いて欲しいと飯村女史に頼まれたとき、「どう かな」と思った。でも結局は引き受ける。ニ、ーヨークだけにしか知れ渡らないではない リか。本店勤務でなくニューヨーク勤務の身である。要するに読む人も書く人も「ニューヨ ス ーク」ということにおいて「身内」なのだ、と勝手に解釈してのうえであった。 7 「寺澤さん、いっェッセイストになったんですか」と、当時・ほくの下で実際に米国野村の オ 2 経営にあたっていた社長の清水君にちょっぴり皮肉を言われた。飯村女史が、よせばよい トリート日記」 章のに「エッセイストとカッコの中に記したからである。「ウォール・ス は一九八五年七月から 00co に連載されることになった。 日本へ帰って五か月ほどたったとき、日ごろあまり親しくしていない広報担当の取締役 カ・ほくに会いに来た。 『ウォール・スト丿 ート日記』顛末記
半分入ったコップをたたく。 チン、チンという音で何となくざわめいていたあたりの雰囲気が急にシーンとなる。 英国人の場合だったら十人が十人ともスビーチは必ずちょっとしたジョークか小話で始 まる。 ウォール・ストリートでも十人のうち六人ぐらいはそうだ。 話し手がものすごく背の低い男で、演壇に上がっても机の上からすぐ顔がちょこんと見 える、といった場合、 「アイ・アム・スタンディング、レディス・アンド・ゼントルマン」 こう切り出す。聴衆がドッとわく。 この程度ならわかりやすい。「これでもわたくしはちゃんと立っているのであります」 と言っただけでかなりおかしい。 ・ほくが通訳だったら前もって話し手に会い 、「小話や冗談をおっしやりたいのなら、わ たくしにいま教えてほしいと頼むだろう。そうすれば本番でうまく訳せて恥をかくこと もない。 それにアメリカ人にはゲラゲラ笑える冗談でも日本人には少しもおかしくないことだっ てある。そういう内容だったら「日本人向きではないかもしれませんね」とアドバイスし
それそれの部門に大勢の申し込みが来ている。ä—t<< にとって良い人材を集めること は絶対に必要なことなので、ぼくとしてもこの「人の採用、には全力を傾倒しているので ある。 全世界のいろいろな国の人が申し込んできている。そういう人たちと一人ずつ少なくと も四十五分から六十分の時間をかけて会って話を聞く。 革命で国を追われ二、三の国を転々としながら、ついにはアメリカのハ ド大学で 博士号をとった人もいる。彼らのドラマのような人生に耳を傾ける。 優れた人たちに多く接することができるのも国際機関なればこそで、ほんとうに仕事 みようり 冥利に尽きるというものである。 会議に費される時間もかなりある。 新しく誕生したなので、戦略も前例などもないから、皆で考えて立てなければ ならない。 もう六十代半ばのライシャワー元駐日大使そっくりのアメリカ人ラッド・ポーツ氏、四 十ちょっとで猛烈に働く、まだ独身のドイツ人ヨーゲン・ポス氏。この二人が・ほくの良き 相談相手となってくれる。 九月十日に新しいビルに移転することも決まった。
人を見ることができるようになる。 ほんとうは、そのこと自体たいへん失礼なことだし、やってはいけないことなのかもし れない。余裕はできるが上の空で話を聞くということになる。身を入れて話を聞いていな いということでもある。 事実、ときどきぶつんと話がとぎれて、つじつまが合わず困ることがある。 キッチリした正確な数字で論理が構成されていくぼくらの世界のビジネスの話を、「愛」 とか「情」とか、それも低俗な小説の読みすぎからくる人間の感情のひだをからめて聞く などということは言語道断なのである。 ただ、そうでもしなければやりきれなかったほど、いろいろな人に会ったことも事実で 奮ある。いちいち先方のペースにはまっていたら神経がどうかなってしまうほど、すさまじ 長 かったことも事実である。 Ⅵウォール・ストリートもかなりインターナショナルだが、さすがに国際機関そのもので 章ある世界銀行に至ってはその比ではない。 第ど、つい、つ 環境にあっても「至誠は必ず通じると信じよう。幸いにどういう国の人が横 にいようと「平常心」は失わない自信がある。あとは普通にしていればよいのである。当 うそ たり前のこと、「嘘はつかない」「約束は守る」「自分に厳しく、他人に優しく」そういう 1 三ロ
226 ョ 者のケン ( ケネス ) ・リッパーをぼくはよく知っている。彼の娘と・ほくの娘がニ = クの同じ私立の中学に通っているもんだから。いっしょにタ食でもしようか。彼はあの小 説を書いたとき、ソロモン・・フラザーズの副社長だった。そういう点では君とよく似てい る。知り合いになるときっと楽しいよ」 アレ、、、 トが親切にそう言ってくれた。 もちろんぼくは「せひ」と頼んだ。 ウォール街』の原作者 ア . レ。、 ートのしよっちゅう行っているレストランは「ルテス」である。 ; 、まくはここのフランス料理がニ、ーヨークでは一番うまいと信じて 誰が何と言おう力を 疑わない。 予約がなかなかとれない。三週間ぐらい前でないとまずムリである。どうしようもない ときはアルバ トの名前を借りてとる。 ・ほくのワイフも、いまニューヨークで絵の学校へ通っている二十一歳の次女の治子も、 ルテスへ行くというので美容院へ行ったりしてしゃれ込んでいる。 アレく トが招待してくれたのである。取引所で会ってからたった二日後のこと、アル
トムとは株の話しかしたことがない。二、三人の人から金を預かり、それを運用してい る様子である。頭がツルリとはげていて、長身でやせているトムはいつもべアリッシュ ( 弱気 ) である。そして泳ぎといえば毎朝背泳ぎしかしない。 プールサイドで激しく屈伸運動をしているのは弁護士のヘンリーである。彼はプールの あ、さっ 中で泳ぐというより、外での運動に熱心だ。実に愛想の悪い男でこちらから拶でもしな い限り何とも言わない。昼ウォール街のランチ・クラブで時々会うことがある。 洋服を着ていると、ほうきを持った掃除人のフランクが寄って来た。まだ三十そこそこ の人なつつこい男である。三か月前に子供が生まれて有頂天になっていた。今日は何とな 帰 里くしょげている。 へ 「ディヴォース ( 離婚 ) するかも」と、ロの中でもぐもぐと言う。 ク 「いったいどうしたの」「ついこのまえ赤ん坊が生まれたばかりなのに」いろいろ言いた せりふ ュ い台詞はあったが、何となく億劫で「そう」とだけ言って急いで支度をした。 出口のドアを押しながら「元気を出して」と、フランクに一〇ドル札を握らせた。 章 第やっとニーヨークらしい生活が体の中に戻ってきた。
214 飛行機というものは十中八、九遅れる。だからポーディング・ゲートの前では眼を覚ま していなければならない。い ろいろな点でぼくにとってはものを書くのに都合のよい条件 がそろっているのである。 去年の十二月。東京でのある土曜日。朝、思い切りよく早く家を出た。ホテル・オーク ラのプールでゆ 0 くり泳ぎサウナに入り、第沢なブレ , クファーストを食べる。 フレッシュ・オレンジ・ジュース八〇〇円、フライド・エッグス五五〇円、べ ーコン六 〇〇円、 トースト三三〇円、コーヒー四五〇円、合計一一七三〇円。一ドル一三〇円で計算 すると二一ドル。フツーのアメリカ人ならビックリする高さである。 先週東京で会った英国の婦人が、「イツツ・ジャスト・インポシブル」 ( 考えられない ) と怒っていたことがある。東京都内を走っている首都高速道路の料金が六〇〇円だから、 片道五ドルを毎日払って車で通勤するとしたら、いったいどうなるということなのだ。そ ういえばワシントン・ブリッジもリンカーン・トンネルも三ドル、それも片道だけ払えば 体もほどよく疲れたし、贅沢な朝食で気を良くしたぼくは日本橋の丸善へ行った。 やはり、『ウォール・ス トリート日記』が気になるのである。