ちゃったのは、昴の方だった。 「そうそう、言っておかなきゃね。昴くんは、康平の唯一の肉親ですもの。私、いずれあなた のお姉さんになるのよ。これからもよろしくね」 かまくび 蘭子が勝ち誇った笑みを浮かべた。蛇が鎌首を持ち上げたように : ・。そしてさらに続ける。 「ここ、もうすぐ完成するわ。そうしたら、新しい店をオープンさせるの。私たち二人がオー ナーで、康平は料理長も兼ねるのよ。だから、結婚式はここで挙げることにしたの。以前はオ ークラあたりで盛大につて思ってたんだけど、せつかく二人の店ができるんだもの、こっちの 方がいいでしよう ? 」 とつじよ シ昴はしばしあんぐりとしていたが、突如おかしくなって笑い声を上げた。蘭子の話はリアル 天で、一瞬、信じそうになったけど、危ない危ない、そんなことがあるわけないのだ。 康平が息吹と別れて蘭子と結婚するなんて、断じてあり得ない。 イ ポ「それ、冗談にもならないよ。なあ、兄貴 ? 」 ☆ ン 康平は青ざめた顔で、静かにかぶりを振った。 ク 「 : ・つてか、マジなのか ? 」 昴は、康平が黙 0 ていた次の瞬間、拳を握 0 て彼に飛び掛か 0 ていた。
減り張りのきいたボディは一目でそれとわかるプランドのワンピースを纏っている。 「息吹さんなら、隣町の酒屋さんのところよ」 こめかみの上でくつきり分けたシャギーのワンレングスをかき上げながら、お高くとまった 斜め目線を向けてきた。康平と同じ十九歳のこの人は相変わらずだった。 ひさいし 「酒屋って、久石のおじいちゃんとこ ? 何で ? 」 すじあ 昴は康平に目を戻した。蘭子から息吹のことを聞かされる筋合いはないし、それ以前に彼女 が康平と一緒にいること自体が納得いかよ、。 歳 何と言っても、康平には息吹がいるのだ。二人は将来をかたく誓い合っている。 ス「見ての通り、住む家がなくなったからよ」 しゃべ シまたも蘭子だった。いちいちカンに触る喋り方だ。 天「だから何で ? 」 「あなたのお父様、借金を残したの。それを埋めるために売りに出されたのよ。このレストラ イ ポンもまとめてね」 グそんなただ事ではないことを「簡単でしょ ? 」と片付けた蘭子の後に、康平がやっと口を開 キいて付け加えたのはこんなことだった。 かぶ 父は、夜逃げした知り合いの借金をまるまる被ってしまったのだと。何だかの保証人になっ しんろう ていたのだそうだ。料理一筋だった父は、その心労がたたって倒れてしまったんだろうか ? ちか まと
昴の脳裏につと、厳しい父の顔が浮かび、胸の奥がズキリとし 「そんなわけで、家もレストランも両方ともうちが買い取ったってわけ。私、急吹さんに、そ のまま住んでも、 しいって言ってあげたのよ。なのに、彼女、出て行っちゃったの。素直じゃな いのよね」 助手席に収まったまま、蘭子が「シラケちゃったわ。だから壊しちゃったの」と首を竦めて 見せた。 たくぞう 彼女の父、並木卓三はファミリーレストランを広く手掛ける成り金で、元々は父、一成と共 に料理の修業時代を過ごしたシェフだったと聞いている。 せんねん ふぞ 並木は経営者に専念した後も、家族と共に踏ん反り返ってレストラン三鷹にやって来たが、 それが一人娘の蘭子にせがまれてのことだとわかったのは、彼女が康平にばかでかいバレノタ インのチョコレートを渡した時だった。 まだ小学生の頃のことで、あれからチョコレ 1 , 下は毎年、康平の手に渡された。 もっともその間にもプレゼント攻勢は続き、康平は何度かやんわりと断りを入れていたのだ しゅうねん が、蘭子の辞書に " ギブアップ , という言葉はなかった。康平に対するあまりの執念深さを 目の当たりにして、昴はこっそり彼女にニョロラン ( ヘビのニョロニョロと蘭子の合体だ ) と いう名前を進呈した。 そんなニョロランから、住んでいいと言われても、息吹が家を出て行くのは当然だ。シラケ
にてれてれと女の子を迎えに来るような奴じゃなかったのだ。優しかったけれど、決してこん なんば な軟派な奴じゃなかった。 「 : ・昴、ごめんな」 康平がパワーウインドーを下ろした。いつもの落ち着いた穏やかな表情を取り戻し、得も言 われぬ優しい笑みを浮かべる。それがまた、昴の体内の血を逆流させて、 「何でそうやって笑えるの息吹がどんなに苦しんでるかわからないのかよ」 と、運転席の兄の腕をグイとっかみ上げた。 「ちょっと来てよ ! 」 フ「まあまあ、落ち着きなよ」 わ哲朗が来て、昴の肩を取 0 て抑える一方、「ごぶさたです」と、康平に挨拶などする。 「うるさい。哲は黙ってろ ! 」 昴は哲朗の手を振り切って、兄の腕をつかんだ手に力を込めた。 ポ「来いって ! 」 グ 「 : ・わかった」 ン 兄がポルシェを降りる。 「康平 ! 何処へ行くの ? そんなの放って置きなさいよⅡ」 かど 蘭子が角だった声を飛ばしてきたので、 あいさっ
を耳にすることもなかったはずだ。 かたはし 昴は引き締まった薄い唇の片端を苦く引き上げた。 おやじ 「 : : : 親父らしいね」 あかむらさき 暮れ始めた春のタ空が、薄い赤紫の雲を広げている。 一年前、中学を卒業するのを待って、〃料理はやめます。お世話になりました″と短い手紙 を残し、駅へと走ったあの日と同じ空だった。 だけど、ここに置き去りにした世界は一変している。 「 : : : すまない」 康平が小さく、けれども、きつく唇をかんだ。天然のゆるいウェーヴのかかった髪が、俯い た顔に影をつくっている。 あやま 「兄貴が謝ることないだろ ? ってか、息吹は ? 」 昴は、彼女の名をさりげなく口にした。 「 : : : 彼女は・ : 」 康平は地面に落とした視線をゆっくりと昴に戻し、一度はロを開いたものの、再び唇をかみ からだ こぶし 締めてしまった。身体の横に垂らした手が、固く拳を握っている。 なみきらんこ すきま そんな康平の代わりに、ポルシェの助手席に座る並木蘭子が、少し隙間を開けていたウイン ドーを下ろして口を挟んだ。目鼻立ちのはっきりした顔はモデルのようなメイクをほどこし、 はさ いぶき うつむ
から五カ月ほど後のこと。そんな息吹を一人残して逝くなんて、それこそ心残りで化けて出て いちず もおかしくない。彼は、息吹の康平に対する一途な想いを知っていたのだから : 。一徹の父も、一人娘の息吹には弱か 0 たのだ。息吹に叱られてムスッとしながらも、そ の背で目尻を大きく下げたものだった。だから、康平と別れた息吹に内心ものすごく心を痛め かたわ ながらもどうすることもできず、傍らでおどおどと見守っていたに違いない。 そんな鬼父のうろたえぶりを想像するうちに、昴の内に父が死んだという本当の実感らし いものがやってきて、思いがけず、鼻の奥にツンと痛みを覚えた。 「すばる いつまでも泣いてる場合じゃないんだけど ? 」 キッチンに立っただしい音の中から、息吹の声が飛んで来た。 「誰が泣くよ」 昴はキッチンに向けてガオーと吠える。 寝室を出る前に手を合わせた他の三体の修牌は、鬼親父の隣が、五年前に亡くなった母、三 そばく 鷹ゆき。湯たんばみたいな素朴なあたたかさをくれた彼女は、心臓の病気だった。 あとの二つは、昴と康平の実の父母。記憶はわずかしかない。昴が幼稚園に入った年、二人 は交通事故で一緒に旅立ってしまったのだ。 じつぶ そんなわけで、他に身寄りのなかった兄弟は亡き実父の親友だった一成に引き取られ、三鷹 家の子供になった。だから、息吹は姉だけど、血のつながりはない。
、こ背中を向けた時、不意に 哲朗が段ボール箱の中に入れかけた手を引っこめて卩し 「康平ーっ ! 」 鼻にかかる甘えた感じの声が上から落ちて来て、 「・ : 今のニョロランだよね ? 」 おうど 昴は哲朗と合わせた視線を、黄土色の校舎へ移した。 なみきらんこ 二階の窓から、並木蘭子が顔を出し、駐車場に向けて手を振っている。 「つてことは・ : 」 昴が今度は門の中に入って車の列に目を移すと、思った通り、赤いポルシェのボディが見え まぎ た。その運転席で蘭子に笑顔で手を振り返しているのは、紛れもなく、兄、康平。 そんな兄の姿を見て、昴はカーツと頭に血が上ってしまい、気づくとポルシェに駆け寄って 「こんな時間にカノジョのお迎えかよ ? 」 とまど 兄の顔に、戸惑いの表情が浮かぶ。 「いったいどうしちゃったんだよこんなャツだったかよ」 へんばう 昴は思わず声を張り上げた。大好きだった兄の変貌ぶりに寂しさと怒りがごっちゃになって ちゅうばう 込み上げてくる。兄はいつだって真剣に料理に打ち込んでいて、厨房で働いているこの時間
今では、 " かっての〃をつけるべきなのだろうけれど、レストラン三鷹は縦長の細い窓を並 こみどり がき べたクリーム色の一軒家で、四方を囲む濃緑の低い生け垣とともに美しい街並みの中にしっと り溶け込んでいた。 らんまん 春爛漫の今、何の異変もなければ、正面に面した桜の並木道がレストラン三鷹に淡いピンク いろど の彩りを添えていたはずだ。 そんな、もう見ることもない懐かしい景色を抜けて、昴は並木道を東へ向かった。 このまま真っすぐに進めば、息吹が世話になっているという隣町の久石酒店に行き着く。距 離にして 4 ~ 5 0 0 メートルとい , っところだろ , つか : 息吹は今、どうしているんだろう ? やみくも 昴は闇雲に走りながら、癖のないさらさらの髪をかきむしった。何も知らずにのほほんと日 ほう・ろ - う とほう 本中を放浪していた自分が、途方もない大バカ野郎に思える。 ひと 息吹は兄に別れを告げられ、独りばっちになっていた。そんなことになってるなんて、夢に も思わないじゃな、ゝ , ちか そう、康平は将来を誓い合った息吹の元を離れ、あろうことか蘭子と婚約したと言うのだ。 こぶし ほお 康平は、昴の拳を受けた頬に手の甲を当て、あの優しい笑みを浮かべた。 『まいったよ。おまえのバンチ、また強くなったな』と : くせ なっ
「 : ・お帰り。戻ったんだね ? 」 康平は何か覚悟を決めたようなため息をついて車から降り立っと、彼特有の優しい笑みを浮 こん かべて見せた。ほっそりした長身を包んでいるのは、白いコットンシャツに紺のプレザーとグ じようもの レーのスラックス。シンプルだけど、どれも見るからに上物だった。これだって異変に違し ーバイスが定番だったのだから。 ない。昴と共に洗いざらしのシャッとリ 「 : ・うん。さっき」 きかんあいさっ 昴は兄に返す笑みも帰還の挨拶も忘れ、彼をまじまじと見つめたまま応えた。相当けげんな いっとき 顔をしているはずだ。そうしてますます混迷を深めながら、異変続きで一時すつばり抜け落ち かんじん ていた肝心なことを思い出した。 フ 工 そう、これをはっきり確認したくて戻って来たのだ。まずはこれだった。 シ ・丁おやじ 天「親父が死んだってほんとうなの ? 」 「 : ・ああ」 一康平の静かなきとともに、昴の中で父の死が現実を伴 0 てじわじわと広が 0 ていく。 のういつけっ ちゅうばう ☆ 「ほんとうに突然だった。脳溢血でね。厨房で倒れて、そのまま逝ってしまったんだ」 グ 兄は、深い息を吐いた。 ッ ク 父、三鷹一。成は礼として正統派フランス料理を貫いた人で、その死を旅先で聞くぐらいには ふほう そこそこ知られたシェフだった。昴が父の名を避けてさえいなければ、半年も経ってから訃報 こんめい
のって、技術とかは別にして、特別な能力が必要なんですって」 じつぶ 息吹の言う貫井薫とは、昴と康平の亡き実父のこと。ある期間、三鷹の父と同じ修業時代を 過ごしたシェフで、かっては、伝説のシェフと呼ばれていたのだと聞いている。 こころざしな、 三鷹の父は、伝説のシェフ、貫井薫の遺児を引き取って、志判ばで近った親友に報いる うわさ ためにも、『おまえたちを日本一の料理人にしてやる』と、決めた・ : という噂だ。 「でね、うちのお父さんはアレンジャーの名手。どうやってもクリエイターにはなれないんで すって」 「ふ ~ ん」 昴は、初めて聞く話だった。 「それで、考えたのよね。昴はきっと貫井さんタイプなんだなあって。で、お父さんは最初か ら、昴が貫井さんみたいなシェフになるって見抜いてたんじゃないかなあって思ったの」 「だから、俺、雷落とされてばっかだったってこと ? 」 「違うわ。その逆。お父さん、貫井さんが作る料理が好きだったみたいだから。自分にはとて まね も真似できないって。ほら、本当に見込んだ人には厳しいのよ」 「 : ・それにしちゃ、かなり鬼だったよ、あれ」 「それは、あんたが素直じゃないから : ・」 つら 息吹がクスッと、しかめつ面をして見せる。 むく