115 と自分の手でぬりだした。 いい気持ちだ。 なんとなく、肌がやわらかくなったような気がする。 「ほら、あなたたちもぬってみたら ? 」 むじやきびん どれほど高価な香油か知っている侍女たちは、無邪気に瓶を差し出すサラから思わずあ とずさった。 ぬる よくそう とゆ この塗油室から出ると、次は冷浴室に入る。温めのお湯がタイル張りの浴槽から絶えず あふれ出ている。サラはテュロスでこんなぜいたくな水の使い方を見たことがない。 「このあふれた水はいったいどこへ行くの ? さあ、と侍女たちは首をかしげるばかり。 もういいだろうと出させてもらうと、なんと、奥には湯気をもうもうと上げている別の 熱浴室があって、サラはそこに押しこまれた。 眠 暑い。真夏の浜辺よりも暑い 深 の「なんでこんなところに座ってなきゃあいけないの ? 」侍女たちの鼻の頭にも、汗がびっしりと噴いている。 ぐったりして出てくると、次の部屋では別の侍女たちが手にまがった棒のようなものを ぞうげ 持って待ち構えていた。この象牙の肌かき棒で、浮き上がった垢をかき落とすのだ。 あか
341 ミエザの深き眠り おれは : : : 本当は生まれてきてはいけなかったんじゃないだろうか : : この国に とっておれは、騒乱の種でしかない : : いっかビュルサのおばばが言っていたとお り、おれは周囲を不幸にする星のもとに生まれているのかもしれないな : ・ ・ : ねえ、あたしは、どうしてあたしが生まれてきたのかは、わかんない。 うん。 でも、どうしてリュシアスが生まれてきたのかは知ってるよ : どうして ? みう だって、テュロスであたしを金貨六枚で身請けしてくれるためじゃない そうだな。 もしリュシアスが生まれていなかったら、あたしは今ごろ、もう、あたしじゃあ なかったよ。テュロスで毎日客を取らされて、もう今ごろ、あたしじゃあなくなっ てた。 そんなことはない : ・ : お前はお前だったよ。 そうかなあ : : : どんな目にあっても ? そう。どんな目にあってもだ そこでサラは、何か思い出したようにくすくすと笑った。
ぎようぎよう 着飾った妙齢の女性たちの仰々しい訪問が続いた。 なり 皆、貴族らしいたいそう立派な形の男性 おそらく父親か伯父といったところ に、大切そうに連れられてくるのだが、その話しぶりを聞いていると、特にリュシアスに 急ぎの用事があるようにも見えない。 そしてリュシアスが彼らに対し、ひどくそっけないのだ。ひどいときには立ち話程度で 追い返すようなこともある。 ルデトに応対を任せ、仮病や居留守を使ってサラと時間を過ごすようなときもあった。 「あの人たち、ここに何をしに来るの ? 」 「知らん」 と、リュシアスはなんだかわけを話したがらない。 乳母やにきいてみると、すぐに質問の意味がわかったとみえて、また大きく身ぶり手ぶ りをまじえてわかりやすく説明してくれた。 き「お見合いですよ、縁談。みんなばっちゃまと結婚したいんです。結婚。わかる ? 」 のつまりペラでは、なぜかみんなリュシアスに縁談をもってくるのだ。 やしき 工見合い相手を、直接邸に連れこんでくるのがこの国のやり方だった。リュシアスはこ れいじん れをかたつばしから断ったらしく、やがて館を訪れる麗人はめつきり減った。 リュシアスは生まれ故郷の王都ベラで、孤立していた。
373 あとがき まれ 世界史の中で、アレクサンドロスはたしかに天才的で、史上稀に見る強運の持ち主で、 勝負強く、たくましく、相当にいい男です。 ( ポンペイの壁画のかっこゝ しいこと ! ) 間違 いなく英雄の一人に数えられるでしよう。だけど、私には多少屈折して見えてきました。 そしてさらに資料を読み進めると、お父さんのフィリッポス二世がアレクサンドロスを 自分の子ではないと信じていたとか、両親の仲が決裂していて、アレクサンドロスはお母 はら さんの方に肩入れしてたとか、お父さんには何人も愛人がいて、アレクサンドロスには腹 いのお兄さんもいたとか、もともと隣国の王女だ「た美貎のお母さんが秘密宗教に凝る うわさ ような強烈な人で、お父さんの暗殺にお母さんが関与した噂もあったなんて、かび臭くも うれ 嬉しい歴史資料が、あちこちからばろりばろりと出てきます。 ( 時代が時代だから、みん な、そうらしいというレベルの話ばかりですが : : : ) そのうち、勝手に一つハルナが確信したことがありました。これは今回の重大なポイン トになりました。つまり、 「この人は、両親の期待を一身に受けて大事に大事に育てられた一人息子じゃあない」 幸せに育った総領息子だったら、もっと早期にギリシアに引き揚げていたような気がす るのです。どうしてかって ? それはもう、男の子を複数産み落として育てている母親の 勘としか言いようがありません。 ただ実際の異母兄さん フェリプ・アツリデウスは、もともとあまりよくできた方 かん
振り向いたリュシアスは、アレクスの笑顔を見てひどく驚いた。 「アレクス」 日に焼けた、高い頬骨。 せいかん 一一年の月日は、異母兄リュシアスをより精悍な男に磨き上げていた。ますます父王フィ ようぼう リッポス二世の容貌に似てきたではないか。 ( リュシアス : ・・ : ) アレクスは声もなく、その場を動けなくなった。 幼いころから、アレクスはずっと父王に憎まれてきた。 あしげ ささいな理由で、大柄な父に足蹴にされたときは、親でなければいっそ殺してやりたい とまで思った。どうして自分がこんな仕打ちを受けるのか、アレクスにはわからなかっ た。高慢だからだろうか、と思ったことがある。 アレクスは、たしかに高慢な王子だった。 きもちろん幼いころは高慢という一一一一口葉こそ知らなかったが、王妃である母オリムピアスが の日ごろ他人に対してとっているよくない態度を、知らず知らずのうちに自分も真似してい 工るのに気づくことがあった。 王子としての身分からいえば、わがままであっても特段困るようなことはない。 だが、アレクスは改めようと思った。 ほおぼね
狂ったように騒ぎ祈るその秘密の教義は、普通のギリシア人にとってはと朝てい受け入 れられるものではない。だが、ギリシア西部のエピルスの王女であった時代から、彼女は ほ・ん 6 う うつくっ 人一倍多感で自尊心が強かった。その一見奔放な教義のありようが、彼女の鬱屈した精神 にびたりと当てはまったに違いない。 ようき そしてこの朝の王妃オリムピアスには、さらなる妖気がただよっていた。 びぼうすごみ すでに二人の子供の母でありながら、衰えることを知らない悪魔のような美貌に凄味が 加わって、秘密部屋にはぞっとするような空気が充満した。 ( どうしてくれよう ) オリムピアスは握りしめた手を震わせた。 ( あの男が戻ってくるなんて どこかでのたれ死んでいたはずだったのに ! ) 隣り合った金の指輪同士がこすれ、ぎりぎりと鈍い音をたてる。 しら 彼女のもとにリュシアス帰還の報せが入ったのは、まだ日も昇らない今朝未明のこと きだった。 , 彼女はいてもたってもいられずにこの部屋に入ると、銀の針でぶすりと自分の小 の指をついた。 さんご きやしゃ 工華奢な指先をしごくと、真っ赤な鮮血が珊瑚玉のように指先にわきおこる。 みつろう 王妃はそれを、純白の蜜鑞の中にしたたらせた。蠑はしばらく異物を拒否したのち、詳 もんよ、つ 血をばっと表面に散らせた。オリムピアスはランプの火を寄せ、その血の文様が意味する
いさぎよ ても、自分で決断して選んだことは、最後まで責任を取る。そうできるだけの潔さと強さ じゅん が、サラにはあった。選んだ道に殉じる美しさをサラは知っていた。 ( ミエザに帰ろう ) そう思うと、もう迷いはなくなった。すっきりとしたその表情を見て、セレウコスは がっかりした。これは口説き落とせる女性の表情ではない。 「賢いくせに、お前は本当に打算というものを知らないな」 サラはセレウコスを見つめて真顔で謝った。「ごめんなさい。せつかく : ・ セレウコスは笑った。 「いいさ。リュシアスに愛想がっきたら、いつでも声をかけてくれ。飛んでいくから」 「ありカとう・・・ : ・ セレウコスといる方が、幸せな暮らしができるんだろうなあと、サラにはこのとき確信 できた。 眠 この考えは大正解で、もしこのときサラがセレウコスとの生活を選んでいたら、彼女は 深 のフェニキアが滅びたあとのシリア全土を治める王の妻になっていた。何不自由のない一生 工 を送ることができただろう。 リュシアスのもとに戻ったサラの運命は、はたしてまた波乱に満ちた、ぜいたくとはほ ど遠いものになる。
( 必ず殺してみせる ) オリムピアスが顔を上げた、まさにそのときだった。 玄関先から男の大きな声がする。 「オリムピアス : ・ 王妃はあわてて立ち上がり、表情をつくりながら居間に現れた。 あわてふためく侍女たちをしり目に入ってきたのは、やはり夫であるフィリッポス二世 」っ一」 0 オリムピアスは彼を歓喜した様子で出迎えた。この離れに夫が訪れるのは、これが初め てのことである。 「ああ、ようこそおいでなされましたな。オリムピアスは嬉しゅうございます : だがフィリッポスは立ったまま、彼女を見下ろすように言った。 「一一 = ロい渡しておく」 きオリムピアスは正面からうっとりと夫を見上げた。 のあどけなさがかいまみえるほどの、見事な変身ぶりである。この角度から見下ろされた 工ときがいちばん美しいことを知りつくしての位置取りだった。 「なんでしようか」 「昨夜、リュシアスがペラに戻った」 うれ
325 でした : : : 」 サラにはびんときた。 「だからあたしったらなんにもできない子だったんだね。洗濯もできないのかって、テュ しか ロスでさんざん叱られたよ」 「洗濯なんてとんでもない。あのころは着替えだって、手伝いがなければできなかったん じゃないかな : : : 」 ままえ と、ルデトが微笑んだ。 ( ああ、初めて見たけど、この人の笑顔は、たしかに見たことがある・ : ・ : ) 不思議そうにしばらく見つめていたあと、サラはたずねた。 「あたし、ルデトのことをよく知ってるよね。昔のルデトのことを : : : 」 ルデトはうなずいた。 「 : : : 私の家とティナの家、そしてあなたの家の三軒は、お互い濃い血縁関係にあり、 眠 きトウーの部族をずっと共同で率いてきました。最近ではティナの家がハトウー戦士を束 だて ね、あなたの家が経済面で後ろ盾となり、私の家が両家の間に入ってまとめ、長老会議を しゆさい 工 主催していた : : : 私は、あなたの兄上マティアとともに育てられました : : : 家をよく行き 来しては、一緒に悪さをしたものです」 せんたく
114 また、入浴は当時の美容に欠かせない。 だがサラを浴室で磨き上げることは女たちにとって一騒動だった。手順どおり、まず最 初に侍女たちが全身に香油をぬろうとすると、サラは身をよじって笑いだした。立ってい られない。 「くすぐったいよ」 だがこの匂いは好きだったので、サラは香油の入ったガラス瓶を取り上げると、さっさ べ物の味に興味を引かれた。 つい生地の中に指をつつこみ、ロに運んだ。 乳母やが目を丸くした。 「嬢様ー 次の瞬間、サラは泣きだしそうな顔になっていた。 ゆが それはそうだろう、 乳母やもつられて思わず口元を歪めながら いくら蜂蜜が 入っていても、相当まずいに違いない この行儀作法をまったく知らないオリエン トの少女を、おもむろにたしなめなければならなかった。 「なめても効果はありません。これはお肌に塗りこむ美白クリームです びん はちみつ