148 決してメムノンのことが嫌いになったわけではない。 だが、この心の揺れはどこから来るのだろう。 ハミルがロードス島に来てからというもの、バルシネはつかみどころのない自分の気持 ちに、ただ振りまわされている。 客用寝室に向かう回廊を曲がったところで、バルシネは思わず足を止めた。庭園の敷石 に腰をおろしているハミルの横顔が見えたのだ。 リューク ( 御曹司・ : : ・ ) 夜風にあたりながら、何を考えていたのだろう 。ハミルはひどく怖い顔をしていた。バ ルシネは声をかけようかどうかためらった。 すると、視線を感じたのだろう 。ハミルが顔をあげた。 二人は互いに驚いたまま、しばらく見つめあった。 月の光が、世界を淡く青く染めている。 夜だというのに、ハミルには少しバルシネが眩しかった。このバルシネのことを考えて いて、なかなか寝つけなかったのだ。 ハルシネにもこのときはっきりとわかった。自分の顔がほっと上気したからだ。 まぶ
留守の間、おれのことを忘れないでいたか ? なんだかんだ寛容なことを言っても、年上であっても、やはり男は女性に自分のことを ゞ、ヾレノネには嬉しかった。いつもあふれ 第一に考えてほしいのだ。その男の身勝手さカノノ、、 んばかりの笑みで答えるのだった。 だんな はい。ずっと旦那様のことだけを考えておりましたとも。 その笑顔が、どれほどメムノンを幸せな気持ちにさせたことか。 だが、たとえバルシネがいいえと答えても、制裁を加えることなどできなかっただろ う。それほどメムノンはこの少女を大切に思っていた。もしバルシネがほかの男に恋心を 寵 恩抱いたと言えば、彼女のために仲を取りもってやるくらいのことは本当にしたかもしれな ゲゝ。 工 ハルシネには、それが切なくてたまらない。 碧 自分を救い出してくれたメムノンは、バルシネにとって、神のような存在である。 彼がやれと言えばなんだってやるのに、彼がバルシネに言うことといえば、好きな男が うれ
「これは厳しいな」 「ときどきわからなくなります。生那様はバルシネにもう飽きてしまったの ? もうどう でもしいとお思いなの ? 「ばかだな。そんなことはない 「だったらちゃんと気にかけてください。私が誰を好きになろうとかまわないなんて、ひ どいわ : : : 」 「わかった、わかった」 よしよしと子供のように頭を撫でられたバルシネは、そのまま寝かしつけられそうに なってしまった。 なぜならそこは、親を知らないバルシネにとって、どんな場所よりも温かくて静かな平 安の地だったからだ「バルシネはあきらめたかのように大きくほおっと息をついた。 けんか 恩喧嘩にならない。 →年が離れすぎている。 工 ハルシネがいくら切ない思いを訴えても、言葉ははねかえされることなく、すべて父ほ 碧 ど年上の彼の包容力にきれいにのみこまれていってしまう。 もっと気持ちをぶつけあって、たまにはメムノンの心の奥底も見せてほしい。
132 せん。判断は自分でするし、その結果生じた責任も一人でとることになります」 ハルシネはそこで思わず身をこわばらせた。 「だけど、驚きました。現れたのはあの男だった : : : 私たちはためらいました。おびえた うお のです。彼は恐ろしい : : : 殺ししか請け負わない殺し専門の男です。トラキア針を使うの で、我々は彼を『トラキアの死に神』と呼んでいます」 「死に神 : : : カシモフは彼を、マティアと呼んでいたが : ・ 「マティア : ・ その『トラキアの死に神』に、事もあろうにハミルは食ってかかったのである。 むぼう あまりにも無謀な行為だった。バルシネは思わず目をおおった。トラキアの死に神とい えば、地中海世界にその名を恐れられるほどの殺人者である。ハミルが殺されずにすんだ とわかり - 、バルシネの涙は止まらなくなった。 ( どうしたんだろう私 ) 人前でしやくり上げて泣くなんて生まれて初めてのことだった。 ( 何もなくてよかった : : : ) 自分でも不思議なくらし ) 、バルシネはハミルのことが気になるのだった。 ハミルがロ 1 ドス島に現れた当初、バルシネは彼にかなりとまどった。ハミルはほかの
146 しいえ、何も」 と首を横に振る。だが普通にふるまおうとすればするほど、バルシネの態度はぎこちな くなる。 ( ミルの顔には明らかに喞のあとが見えるし、メムノンは首をかしげた。 ガッシナがそのことについてメムノンにわびようとしたので、ハミルが彼を制して言っ 「昨日の夜、ガッシナさんについていって街ではぐれてしまい、ちんびらと喧嘩したんで す。これはそのあと」 なるほど、とメムノンはうなずいた。 が、バルシネがハミルから目をそらしたのを、見逃しはしなかった。 二人で寝室に引きあげると、バルシネはますます落ち着きをなくした。メムノンのそば に来ない。こんなことは今までありえなかった。 ハルシネの心の中には、昨日ハミルに言われたことがひっかかっていたのだ。 ( どうして司は私に、生那様と一緒に寝るななんて言「たんだろう・ = = ・ ) おんみつ 隠密だと知れたからだろうか、とも思った。でも 、ハミルがメムノンに、バルシネは 『王の目・王の耳』の隠密だと言った様子はない。
35 碧きェーゲの恩寵 ぶあいそう ハミルが無愛想な顔でグラスを受け取り、ロをつけると、彼女はハミルを間近で見なが ら心配そうにつぶやいた。 「服、気に入っていただけました ? 」 「ええ」 会話は続かない。 バルシネはあわてて笑顔をつくった。 「でも、今選んだ服も、すぐに袖が足りなくなることでしようね」 ハミルはただうなずくだけで、バルシネはため息をつくばかり。 すねたようにかわいらしくつぶやいた。 「それにしても、御曹司のロの重いこと : : : 」 ハミルロ バルシネはちょっと不満だった。 メムノンの息子の世話を、もっとかいがいしく焼いてみたい。 だがハミル冫冫 こよビ = ルサ時代に厳しく自分の生活を律する盛がついていたので、日常バ ルシネの手をわずらわせることはほとんどなかった。 そのうえ無ロで、なぜか彼女の顔も見ようとしない。
ぼうぜん 呆然としているハミルを引き起こしてその場に立たせてやると、マティアは足元に落ち ていた自分の短剣を拾いあげた。 ちょっと眺めてから、ハミルを見やった。 「こいつはお前にやろう」 ばんと投げ渡した。 っちぼこり ハミルの服についた土埃を払い落としながら、マティアは優しく言い含めた。 「いいかい ? ・ ・ : 自分がもどかしいのはわかるが、それ以上背伸びをするんじゃないよ ・ : しつかりと顔をあげて、胸を張りさえすれば、たぶん大丈夫だ」 たた お前さんならな、と背中をばんと叩かれたハミルは、思わず声を忘れた。 「じゃあな」 寵そして陽気な殺人者は、闇の中に消えた。 の ゲ 工 ハルシネの肩が小さくしやくり上げて、ようやくハミルは我に返った。 碧 座り込んだままのバルシネは、声をあげて泣いているわけではなかったが、それでもよ ほど恐ろしかったに違いない。 やみ
138 ハルシネはうなずいた。 「ええ、言い逃れはできずに、治安部隊に引き渡されて : ・ 「でも、お父さんが一緒にいたんでしよう ? 」 と、つぞく だんな 「養父は、私たちが盜賊団の一味だったかのような証拠を残して消えました。だから旦那 様は今でも、私を盗賊団の引き込み役をしていた子供だとしか思っていないのです」 「置いてきばりはひどいな」 「仕方ありません。私がしくじったのですから : ・ でも、それがどうして父のところに : : ときこうとして、ハミルは先日ガッシナがこぼ していたことを思い出した。 サトラップ うわさ 今の州長官のティッサフェルネスは手に負えないほど好色な老人で、ひどい噂がいろい ささい ろ伝えられていた。些細な罪で女性を捕らえてきては留置場に押し込め、宴会の余興に引 はずかし きずりだして辱めたりするというのもその一つだ。貴族たちもそうした接待を案外喜ぶも のだという。 このバルシネも、きっとそうした席で父メムノンの目に留まったに違いない。これほど 母に似た少女が、ベルシア貴族たちにもてあそばれるのを、父メムノンが黙って見ている ことはできなかっただろう。
142 くちびる 驚いたバルシネの唇が震えた。 死んだものとは思わなかったらしい 「亡くなられた : ・ みつき 「 : : : そろそろ、三月になる」 ひとみ しばらくバルシネの瞳は揺れたままだった。 だが、それでようやく事の次第がのみこめたらしい だんな 「 : : : では、旦那様は、あなたが来るまで、奥様が亡くなられたことを知らなかったのね ハミルがうなずいた。バルシネの大きな瞳に、みるみる涙があふれた。 「そうか : : : それで旦那様は、私から目をそらすようになったのね : ぼうぜん ハミルは呆然とした。 ( こんなに長いまっげなのに、涙を止めるなんの役にも立たないなんて : : : ) だが、バルシネは咽は漏らさなかった。 考えていたのだ。 最初から、メムノンに愛してもらおうとまでは思わなかった。欲張ってはいけない。そ ばにいるだけで、バルシネは息がつまるほど幸福だった。メムノンは、バルシネが生まれ
134 そむ このときもハミルはバルシネから顔を背けている。 ゞ、バルシネがあらためてよく見ると、ロの端に殴られた傷があって、乾きかけた血が 堅くこびりついていた。 ( ひどい そでぐちさ バルシネはあわてて袖口を裂いて泉水にひたし、ハミルに手渡そうとした。ハミルは驚 いたように顔をあげた。 「何 ? 「血が : : : ほら」 「血 ? 」 でも逆にバルシネは、安心してハミルの横顔や、伏せた顔を見つめることができた。 ひとみ どちらの角度から見ても 、ハミルの瞳は不思議な瞳だった。 青色の底が深い。 なんでこの瞳は、自分のことを正面から見つめようとしないのだろう。 バルシネにはわからないことだらけだった。 なぐ