バルシネは賢い少女だったが、特殊な環境で育ったせいか、どこか精神的に未発達なぎ こちなさが残っている。 ここに来たときも、まだ男を知らない体だった。ひょっとすると彼女はまだ、本当の恋 を知らないのかもしれない 「お前はかわいいな」 ひご 境遇を哀れみ、庇護してやった少女とこうしてねんごろになってしまったのは、忘れえ うり ぬ女性に瓜二つだからだった。どこか後ろめたさがメムノンにはある。 だからこそ思うのだ。 ( かわいいお嬢さん。お前が誰かに恋したときは、すぐに私から解放してやろう : ・ ら早く言いなさい : : : 決して一人で苦しむのではないよ : : : ) バルシネは、不満そうに小さく息をついた。 だがそのうちに、それがあえかな寝息に変わった。 した 神とも慕うメムノンの腕の中のあまりの穏やかさに、体が抵抗しきれなかったのかもし れない 温かな体ーー ランプの揺れる小さな炎をばんやりと見つめながら、メムノンは若き日の激しい恋に、
か、揺れる甲板上をその漁師の方に近づいた。 ハミルは思わず引き止めようと隹 . った。 だが、驚く漁師の隣に並んで海に向かった少女は、しごく嬉しそうに言った。 「前から一度、船の上から海にしてみたかったんだ」 姫が、なんてことを言いだすんだとハミルは動転した。 すそ だが服の裾を持ちあげ、小さなあごで押さえたナーザニンは、いともやすやすと : : : っ まり、立ったまま、足をそろえたままで、一回り小さな放物線を見事に夜の波間に描きだ した。 ( え ? ) 寵そしてハミルはようやく気づいた。 のナーザニンが何か小さな物を、指の間に挟んでいる。 きしばらくして、すっきりしたナーザニンが満足そうにハミルを振り返ると に落ち込んだ様子で、隅の方に座り込んでいる。 「どうしたのハミル ? かんばんじよう すみ あ はさ うれ
いつの間にか仲良くなっていたりする。 寝台の毛布の下から白いたちが何匹も飛び出してきたのにはハミルも閉ロした。 「ナーザ、寝台に上げるのはやめてくれ」 ハミルはねずみもいたちもあまり得意ではない。 ( ちなみに、ナーザニンの苦手は虫だった。天下御免のナーザニンを黙らせるためには、 しことをハミルは知っている ) 小さなばった一匹捕まえればい ) 乳母やがナ 1 ザニンのことを小さなばっちゃまとか、ちいばっちゃまと呼んで我が子の やしき ようにかわいがるので、そのうち邸の人たちは皆そう呼ぶようになった。 そのうちなんでわざわざ「小さな」をつけなければならないのかわかって 笑ってしまった。 しくつになってもあの大きなリュシアスをさ 寵彼女にとってただの「ばっちゃま」とは、 ) のすのだ。 ゲ ( いい人たちだな ) 工 だが、この一見美しく調和のとれた邸には、腑に落ちない面もあった。 碧 リュシアスの妻という女性の存在である。自室に閉じこもったまま、一応リュシアスの 客人である二人の前に顔も見せない。
ふところ もちろんリュシアスの懐という強力な後ろ盾があったおかげだが、小さなトラキアが、 今確実によみがえりつつある。 サラの夢であった小さな学校も建てられた。 ( この生まれたての街は、これからどんなふうに育っていくんだろう : : : ) ルデトがうららかな日差しを浴びながらにもなくちょっとばんやりしていると、ろば に引かせた荷車でちょうど通りかかった老人が、日に焼けた顔をくしやくしやにさせた。 そろ 「これはアルフィエーラ、それにルデト様。お揃いで : : : 」 サラが喜んだ。 「まあトフウ爺。もう腰の具合はすっかりいいの ? 」 「おかげさまでね。寝てるより働いた方がいい具合でさ」 寵「よかった。街までおりるの ? の「ああ。そのあとできれば港までおりていこうと思ってね」 一「あんまり無理しないで : : : 私たちもユウラの家の赤ちゃんの誕生祭が終わって街に戻る きところよ」 老人はしわだらけの手でサラの言葉をさえぎった。 そして仲良く並んで座っている二人に目を細めながら言った。 うしだて
ちょうつがい 扉の蝶番に油をたらして、開けても音がしないようにしているのだ。侵入してくるつ 、もり - 、り 1 レい 「騒々しい夜だな」 うっとうしそうにつぶやいたマティアは、ハミルを抱えるように部屋の隅にさがると、 はめいた 床の羽目板を何枚か上げた。 くらやみ もちろん真っ暗闇の中のことで、ハミルには様子がよくわからない。だがマティアは手 で探ることもなく、白昼さながらに一連の作業を流れるようにしてのけた。 物音一つたたなかった。ハミルはまるで耳をふさがれているかのようだった。 てんじよう 二階の床下、つまり一階の天井裏に、逾ってやっと移動できるくらいの空間があり、 ハミルはそこに引きずり込まれた。もとどおりに頭の上の羽目板を閉めるとマティアは慎 重に隅に移動し、また足元の床板をはずしにかかった。 恩最初は、一階にある商店の天井を開いているのかと思ったが、そうではなかった。おろ つぼ ゲされた場所は商店の小さな倉庫だった。甘い匂いがした。果実酒の壺がたくさん置いてあ るらしい 一部天井が斜めのこの倉庫 ちょうど表通りから直接二階に上がれる階段の下の 狭い空間には、商店に通じる扉とは反対側に、外に出る小さな裏口もついている。 にお すみ
「日暮れ前に、ペラに着くんですか」 と」ノ、と、 「ペラ ? 船員は申しわけなさそうに、 「今日の泊まりはアンフィポリスです。ペラには、明日夕刻着きます」 と言う。伝達事項でもあるらしい 「アンフィポリス」 サラがいるというアンフィポリスである。 たちまちハミルの建て前はもろくも崩れそうになった。 サラに会いたい。 寵 ( だめだ、だめだ ) のとハミルは初志を貫徹しようと踏ん張った。だがもっと思いがけないことがこの小さな 一船上で起こった。 なんと、船倉から密航者が発見されたのである。 碧 かんばん 甲板に引き出された少年を見て、ハミルは息をのんだ。 「おはよう
306 一瞬ほっとしたが、ナーザニンはまたすぐ別の思いに捕らわれた。 リュシアスが最後にハミルに向かって叫んでいた。アンフィポリスに行ったら、サラと うまくやれよ、と。 ( 会いにいったのは、そのサラという女性だ ) きづか 船員がナーザニンの体を気遣った。 「船室に戻られては ? ここは吹きさらしで : ・ 。ここで待つんだ」 「では、毛布をお持ちしましようか。少しは違うでしよう」 船員が持ってきてくれた大きな毛布を頭からすつばりかぶり、ナーザニンはひやりとし てすり た手摺におでこをつけた。 体が重い。 小さな心までがけだるく揺れた。ナ 1 ザニンは目をつむった。 ( もしナーザニンが本当に女だったら、ハミルはもっとそばにいてくれただろうかーーー )
360 ( アンフィポリスへ行ってみようか ) あのサラの小さな街を守るために、ハミルが陰からできることが何かあるかもしれな ここでこうしてただ手をこまねいていることは苦痛だった。 だが気になることがある。 ( ナ 1 ザをどうする ) するとナ 1 ザニンが凜として言った。 「行ってあげてよ」 たんがん 嘆願するような口調だった。 ハミルは驚いてナーザニンを見つめた。 「お前はどうするんだ」 「ここにいる」 まくらもと それを聞いたハミルは、何も言わずにナーザニンの枕元に座りなおした。 彼とはもう何か月も一緒に暮らしている。必然的に互いにいいも悪いも知りつくしてし まっている。ナ 1 ザニンの心境の大きな変化は、ただ事とは思えない。 「何があった」 とたずねると、ナーザニンは目をそらした。 りん
蹴こいの位置だ。 彼らにあてて、ベルシアかアテネのいずれか ( ひょっとするとその両方 ) から、反乱の ための資金が送りこまれ、ここぞとばかりにそそのかされたに違いない。 ( うまくたきつけられて、こともあろうにまたもやフィリッポス二世相手に兵を起こすと ルデトはほぞを噛んだ。 ( 何度痛い目にあわされればわかるんだ ) 大国に挟まれた小さな故郷が、また戦局の一手としてうまく利用されようとしている。 そしてその中心には、おそらく病身の父将軍をかかえたハトウー族の象徴、男装に身を 包んだティナがいるはずだった。 ( ティナ : ・ : ・ ) ルデトはやりきれなかった。 高い理想をかかげ、ささやかな幸せを噛みしめてハトウソスで過ごしたこの数か月間の うたかた 努力が、すべて泡沫の夢と帰す思いがした。
だが願いはなかなか満たされない。 バルシネは彼に包まれ思わずうっとりしかけたが、これではいけないと体を離して起き あがった。 まくらもと そして枕元に置いてあったランプの炎を大きくして明るくした。 「ねえ、言って」 と、メムノンを引き起こした。 「何を ? 「いつものあれを : : : ほら、そういえば今回はまだお戻りになってから聞いていません」 メムノンはちょっと困った顔になった。 「そうだったかな」 それは、二人の間の、密かな約束事だった。 船に乗るメムノンは、ロードス島を留守にすることが多い。 海から無事に戻ってきた最初の夜に、寝台の上で、その大きな厚い両の手のひらでバル シネの小さな顔をすつばりと包み、こうたずねるのがいつのころからかメムノンの常と なっていた。