案ずるでない、無理するでない , 小さな小さな愛し子に語りかけるように、優しくささやきかけた老ソール・ドーリ ーの声 も、頭部を輝く光にかえ、耳を失っているダイアナには届かない。 ふる 足元を探り、震えながら遅々とした前進を続けるダイアナから視線をそらし、後ろを向い た老ソール・ドーリーは、ニーナ・クレイエフを仰ぎ見る。 「すまぬが、抱いていってやってくれ」 きようじん このような形になってまで動こうとするのは、ダイアナの恐るべき強靭な精神力と魔道 こころぎしなか ほうかい 力のおかげだが、このままでは先に、志半ばにして肉体が崩壊することは目に見えてい る。 願う老ソール・ドーリーに、うやうやしくニーナ・クレイエフはうなずいた。 いっ腐って崩れ落ちてもおかしくはないだろう、あまりに過酷な試にえた、たおやか なる女性の身体を、大きな魔道力を持っその身をもってかばい守るよう、ニーナ・クレイエ 王フがそっと抱きあげる。 る状況が知覚できず、抱きあげられてもダイアナは、まだ自分のカで前進しようと緩く身体 麗を動かし続けていた。 なさ 床に腰をおとしたまま、今にも泣きだしそうな、情けない顔でダイアナを見上げているス ヴァラに、 ニーナ・クレイエフは声をかける。 さぐ あお ゆる
からだ 心配するなと、老ソール・ドーリーは赤ん坊をあやすように、軽くダイアナの身体に触れ た。望するところに連れていってくれるのだということを、ようやく理解したらしいダイ アナの身体は、動きを止め、ひっそりとニーナ・クレイエフの腕に抱きかかえられていた。 頭部のある位置に浮かぶにべールをせられたダイアナは、そうと知らない者が見れ ば、まさか首がないとは思われない。ただ、ダイアナの魔道かを妨ず、しかしできるだ そでぐち け身体を保護するため、着せられた長衣の袖口から見える手は、雪をあざむく白さというに は、あまりにすぎたルの色をしており、身じろぎもせず抱かれているその者が、生きている ただよ ふよいしゅう ようには、とても思われない。内から漂い出るかすかな腐敗臭や、確かな生物である骨と 肉の手応えさえなければ、それを腕に抱いているニーナ・クレイエフでも、糯な、作り物 のように感じられる。 ( これが現実でなければ、どんなに救われることか : : : ) 親族であるサフィア・レーナやロワール、そしてダイアナを慕う、糯守の民たちにとっ かな ても : : : 。真実を告げられた時の哀しみを思うと、老ソール・ドーリ 1 も、ニーナ・クレイ エフも、憂えずにはいられない。そうしてこうやってダイアナを連れていくことが、サフィ さいごしゅんかん ア・レーナとロワールに、ダイアナの最期の瞬間を見せることになるだろうと、強く胸が 痛んだ。 うれ
城じゅうの誰もが一目置く怖い官を、歯の根もあわないほどにさせたものを目 ゆが した の当たりにし、老ソール・ドーリーは顔を歪めて舌を打つ。 「嫌なことが起こっているようじゃな : それはまさしく驚の、とも呼べる光景 開け放たれたままだった扉から、部屋にたどりついたニーナ・クレイエフが、老ソール・ ドーリーの向こうに見たものは、頭部を光にかえて頂き浮かべたまま、寝台から起きあ がったダイアナの姿だった。 繿魔道師ニーナ・クレイエフの術をもって行った、肉体保存のための蜥じの水晶を微 からだ きんこう 塵に破壊し、自由となったダイアナの身体が、寝台を降り、両腕を前に出して均衡をとり、 萎えた足をゆっくりと動かして、りなく震えながら、前進しようとしている。 こうろ 部屋じゅうの香炉を破壊したのは、ダイアナがその身から吹き飛ばした水晶の破片に違い あとかた ない。強制解除させられた術は、もう消えてしまって跡形もないが、それを証明するよう けた香炉の破片はダイアナを中心に、放射状に飛している。 こうぼくた : いつもと同じように、炉の香木を足そうと参りましたのですが、突然、このようなこ 麗とに : ニーナ・クレイ 何も特別なことをして、刺激を与えたのではないと報告するスヴァラに、 エフはうなずく。 じん
まどうりん そう離れていないとはいえ、魔道鈴で知らせることができるのに、わざわざ呼びにきたと しろひげ は何事かと、長い白髭をいじりながら老ソ 1 ル・ドーリーは首を傾げる。 腰の高さほどのところから問いかけた老ソール・ドーリーに、 に返ったレンカが視線を 向ける。 「大変なのです ! ダイアナ様が : さっち 元に戻ったという知らせではないことを察知し、老ソール・ドーリーもニーナ・クレイエ フも、にわかに緊張する。 「とにかく、まいりましよう : 「話は、ダイアナを見てからでよい ニーナ・クレイエフと老ソール・ドーリーは、レンカの報告を打ち切った。 ひび じゅうたん 眠れる者たちに気を配り、足音が響かないよう、城のあちこちには普段より厚く絨毯が 敷かれている。とんでもない高のわりには、色ルも血色もよく、かくしやくとした、元気 ろうか のありあまっているソール・ドーリー 老人は、廊下の絨毯を蹴り飛ばすかの勢いで、レンカ こうひ やニーナ・クレイエフを引き離して走り、一足先に公妃の部屋へとたどりついた。 忙しく絨毯を踏む足音をさせ、椥でぶち破るようにして部屋の扉を開き入ってきた老 ゆか ソール・ドーリーに、床の上に座りこんでいたスヴァラが、青い顔で振り返る。 「 : : : ソール・ドーリー
118 はめつ みちび での時間に、世界は確実に破滅へと導ける。 アール・フィージの願望は、達成される たまらない悦に酔いしれ、高笑いしたロワール。ア 1 ル・フィ 1 ジが身にまとう炎竜 よろ、 ほのおふ の織から、激しい炎が噴きあがる。 降り注ぐ陽の光も、生命を生かす大気も、熱も、ロワールアール・フィ 1 ジの周囲にあ たつまき るものすべてが、集められた。風が彼を中心に竜巻を起こし、周囲の温度が一気に下がり、 黄昏時のように薄暗くなる。ロワ 1 ル。アール・フィージを中心にして、集まったものは 時にしてカに転化され、恐ろしい勢いで炎の中に吸収される。 大気を奪い去られ、真空で頬を切り裂かれたフラナガンは、はっとして箱舟を見上げた。 チ = ニア・リニーがいなくなった今、箱舟のをとる者は誰もいない。 「やめよ ! アール・フィージー ふしぎけつか、 不思議の結に包まれながらも、揺れる箱舟で、ダイアナを抱きかかえたニーナ・クレイ エフが、悲痛な叫びをあげた。魔道師ニーナ・クレイエフは、すでに浮空城でア 1 ル・フィージのカのまえに、敗北している。ニーナ・クレイエフには、あの、リカルドの違 を奪い去った時以上の力を振るうだろうアール・フィージを、止める力はない。 ほお はこぶね
焦点が定まらなくなっていく目を見開いて、ロワールが呟く。 その、変わり果てたひとが、母、なのか : ぼうぜん 信じられないと茫然とするロワールの後ろで、かっとアール・フィージが目を吊りあげ うそ 「嘘だー どきせま くちょうさけ 怒気迫る激しい口調で叫ばれたその言葉に、びくんとロワールが震える。 老ソール・ドーリーやニーナ・クレイエフが、嘘を言うはずがない。しかし自分の目で見 てそこにいると教えられても、とてもそれが、その女性がダイアナであるとは信じられない サフィア・レーナたちも、眉をひそめる。 しよ、つげ・き ふくうじよう いくらリカルドの死が大きな衝撃であったとしても、その有り様は異様すぎた。浮空城 を出発した時のダイアナは、たしかに臥せってはいたものの、そこまでひどい様子ではな かった。だいいち、あの優秀な官長のスヴァラや、ニーナ・クレイエフ、老ソール・ ドーリーたちのような信頼すべき者たちがそばについていて、どうしてダイアナをそんな酷 いことにしておくだろう。 老ソール・ドーリーは、緩く首を振った。 しようしんしようめい せいりゅうおうひ 「嘘ではない。 これがダイアナじゃ。正真正銘の精龍王妃 : しようてん まゆ ゆる つぶや ふる
第三章情愛 まどう 信じる気持ち、思いの強さがカとなる、魔道という不思議が存在する世界であったから、 は認めねばならない。 陶器の割れける凄まじい音を耳にして、書庫にいた老ソール・ドーリーとニーナ・クレ イエフは驚いて顔をあげた。 のかけらを奪するため、箱舟を送りだして後、海洋に浮かぶ岩盤都市である 城は、完全に蜥じられている。旅立つ者たちに魔道力を託した精守の民たちは、皆静かな 眠りについた。しわぶきの音すらき渡るほどの静寂に満たされている浮空城の番をしな いとな けんじゃ がら、今、細々と日常生活を営んでいるのは、一族最長老の賢者ソール・ドーリー翁と精 霊魔道師ニーナ・クレイエフ、そして箱舟を浮空城から取りだす際に、サフィア・レーナや けつかい おお ディーノたちを結界に入れるという役目を仰せつかっていたため、魔道力を放出しなかった 官知のスヴァラと、龍珠奪回の旅を幼い公子ロワールと予巫女チ = ニア・リニー ゆず 譲った精霊魔道士のレンカの、四人だけだ。
「『わたし』が命じたわけではありません」 すず 涼しい顔で言ってのけたアール・フィージを、サフィア・レーナにかけた腕を放しながら メリンダが睨む。 すき 「ロワール様は心の隙をつかれて、アール・フィージとダイアナ様とを混同しているので まどう ・ : 魔道の術に墜ちているのではないのです : ・ 知らされ、老ソール・ドーリーは目を伏せてうなずく。 。ならばたやすい : ロワールよ、元の、あるべきお前に戻り、母のもとに 「そうか : 帰るがよいー しようこうぐち かすかに振り動かした老ソール・ドーリーの錫杖を合図に、昇降ロの階段をひときわ大 きな人影が上ってきた。 こうき 腕に高貴の婦人を抱きかかえた、精霊魔道師ニーナ・クレイエフ。 まど 惑わされていながらも、ソール・ドーリー翁のことはきちんと理解し、その言葉を聞いて かか 王 いたロワールは、ニーナ・クレイエフに抱えられた女性の姿に、目を瞬く。 からだ るその女性はべールで頭部を覆って顔を隠し、長衣に包まれた身体で、見えるのは手の先の 麗ほんの一部。 せいこう 生気をまったく感じさせず、誰の目にも、精巧にできた人形か、それともやつれ果てた女 の死かと映ったそれは、しかし、ある人物に酷似していた。 にら おお またた
めった スヴァラもレンカも抜け目がなく、しつかりしていて、滅多なことで失敗をしでかすよう な者ではない。顔をあげた老ソール・ドーリーとニーナ・クレイエフは、ザイフリート城の すいそく 中、音の聞こえた場所を推測し、眉をひそめる。 こ、つひ ・ : 公妃の部屋であるか , 」、つろ 「おそらくは。香炉かと思われます , 割れ砕けたのは、まだ生きながらにして朽ちはじめているダイアナの、肉体の腐処置に 使っている香炉か。ひょっとすると、になっていた最後のひとつ、残されていた頭部 が、元の形に戻ったのかもしれない。しかし、それにしては、その際いつも知らせに鳴らさ まどうりん れるはずの魔道鈴が、音をたてない。 解せないものはあったが、なんにせよ、残るひとつは頭部である。朽ちかけていれば、い としゃ しゅうあく きかい かに美女であろうとも、吐瀉をうながすほど醜悪で奇怪な形状に変化していても、おかし くはない。 たか、す 王老ソール・ドーリーは、身軽く高様子から飛び降りると、ニーナ・クレイエフの先に立っ とびら るて、書庫の扉を開いた。 たた 麗今まさに扉を叩こうと、書庫の前に到着したレンカが、招き入れるようにいきなり開けら れた扉に驚いて、目を丸くする。 「なんじゃ ? レンカ、いかがした ? 」 まゆ
かなくさ ロの中に金臭い味が広がるほど強く、アール・フィ 1 ジは歯を噛みしめた。 リカルドの卑劣さを激 死しても、決してアール・フィージにダイアナを返すことはない、 ぞうお しく憎悪した。 むざん 頑ななまでに、無残に変わり果てたダイアナを認めようとしないアール・フィージに、 こんがん ニーナ・クレイエフは懇願する。 「これ以上、ダイアナを苦しめないでやってくれ : : : どうほう 生きていたアール・フィ 1 ジが、事もあろうに同胞たちに反旗をひるがえし、こんな大事 しんぞう 件を引き起こしたことは、たとえ身をさいなまれていなくとも、ダイアナにとっては心臓も そ しようげき すみ とまりそうなほどの大きな衝撃である。悪事に手を染めることをやめ、速やかに龍珠を返 し、リカルドに安らかな眠りを与え、ダイアナに息を引き取る自由を。すべての痛みを、苦 うれ 0 しみを、憂いを、終わらせてやってほしい : くちびるまし 王 ニーナ・クレイエフの言葉に、両の目を見開いたまま、アール・フィージは唇の端をあげ 覇 な 麗「わたしが、どうしてダイアナを苦しめますか ? なぜ自分の半身とも呼べる愛しい者を、苦しめなければならないだろう。 「ならば龍珠のかけらを返し、ダイアナをもとの姿に戻してやってくれ」 かたく はんき