なり。すごくショックだった。それにやめたとたんに、全然ピアノ弾いてくれなくなったし」 つまんないって思いな 「演奏する方に興味がなくなっちゃったんだから、仕方ないしゃない。 がら弾いてちゃ、泉にもピアノにも悪いでしょ ? 恭子はティーポットの紅茶を、銘々に注いでまわりながらあっさりと告げる。口を噤み、眉 を八の字に寄せて泉は彼女を見つめた。 「ねえ泉さん。れ : : : 連弾の曲の名前とか、わかるかな。弾いたんだよね、連弾」 真悟は、新しいクッキーの包みを開きつつ尋ねる。 「ええ。わかる方だと思う」 「じゃあさあ、ちょっと教えてもらっても、 しいかなあ。タイトル知りたいんだ俺。さっき、恭 子さんにも聞こうとしてたんだけど」 真悟はもう一度手をおしばりでごしごしと拭いて、再びグランドピアノの前に座った。 プ「こーゅーの」 わせい デ右手の親指から音が跳ね、左手が和声を重ねた。そしてユニゾン、三拍子の単純なメロディ いろど ス ーは柔らかなスタッカートとスラーとに彩られている。 が「あ」 セ 泉と恭子が、ほとんど同時に声をあげた。 つぐ
180 一一人はどちらともなく、学部へと歩きだした。学生が行き交う道を並んで歩きながら、ばっ んと、恭子が口を切る。 「あのね。今朝、出掛けにちょっとピアノを開いたんだ。六年もプランクがあるから、本当に へた 目もあてられないようなごっごっした演奏しかできなくて、どう聞いても矢野くんより下手な んだけど。けっこう : 楽しかった。 呟きの中に生まれた言葉に、透は顔を上げた。 「今度、また高原くんと矢野くんをうちに招待していいかな ? それまでには『ドリー 『小組曲』くらいは、追えるようになっておくから。泉の留学祝いも兼ねてね」 ちょっと照れくさそうに尋ねる恭子に。 こぼ 透は零れるように笑顔になり、一一つ返事をした。 つぶや 了
目、べッドから出て歩き回ることを許されてから三日目にして、病棟内の半数以上の入院患者 と顔見知りになっていた。もちろん全員の顔と名前を、きっちり一致させている。 うわさ 「ああこれ、大きな声を出しちゃだめよ真悟ちゃん。こういった場所ではね、その手の噂は厳 禁なんだから。看護婦さんに聞かれたら叱られるわ」 いながわ 真悟の向かい側の長椅子に座った稲川みさえは、ちらりと左手に目をやってたしなめた。談 話コーナーの隣はガラス張りのナースステーションで、常時数名の看護婦が詰めている。 「あそっか、ごめんなさい稲川さん」 うなず 真悟は頷いて謝り、そのついでに三十センチ前方にはわほわと漂っているモノを何気に手で ししゅうひ 祓った。本当に、病院にはこの手の〃病気や死臭に惹かれてくる〃のが多い。 「で、で ? それってどんなの ? どの辺で会えるのかなあ ? たず 真悟は周囲を見回し、今度は声をひそめて尋ねた。期待しまくっているのが一発でわかる、 弾んだ声。前後左右からわらわらと、患者たちはロを切った。密やかに。 プ 「会うとか会わないとか、そういうんじゃなくて。動き回って〃生気を吸い取るみのがいるん スだよ。入院患者や付き添いのー かげき ン「そりやまた過激なんだね」 セ「真悟さんが入院してきた日にもありましたよ。夜にね、お見舞いに来られた患者さんのお母 さんが、そこの、ナースステーションのすぐ前でいきなり倒れられてねえ」 はら しか ひそ
198 「どうして ? 「何か南雲さんに、利用されそーな気いするもんで」 ゅうずう 「それはないだろう。僕は君が中に入りたいと一言うのを、融通しただけじゃないか。むしろ感 謝されてしかるべきだと思うが ? 」 「だーかーら。おばかにも自分から飛んできて、待ち構えてる火の中に入っちゃったのかなあ って」 「ひどい言われ様だ」 どこか拗ねたみたいに、由久は肩を竦めた。 「ただ、視て意見を聞かせてほしいというのは、あるかな。この距離でガラス越しだと、僕に はちょっと判断し兼ねるんだ。君なら、わかるだろうか ? これ以上先に進むのはだめだと、彼は真悟の動きを手で止める。 せんばいとっきょ 「そーゅーのは、俺しゃなくて透さんの専売特許なんだよなー」 真吾は視線を宙に浮かせ、困ったように首をかしげた。 パトカーの中の無線で話をしていた中年の男性が、一一人の姿を目にして外へ出てくる。ちょ っとくたびれたサンドカラーのトレンチコート、薄くなってきた頭髪と鋭いまなざし。どちら かというと人に命令する側に見えた。 「南雲くん ? 彼は ? 」 すく
100 「あ、そうだ。あのさ、泉さんがいざ来たらとりあえずピアノ弾いてもらうとして、どーゅー のリクエストすればいっかなあ ? ロの中をもぐもぐさせながら、尋ねる。 「俺クラシックって、歌の曲なら伴奏やらされたんで片手分くらいは名前わかるけど、ピアノ 曲だと曲名ばーぶーでさ。どうせなら本人が得意なところっての、押さえておいた方がいいた ろーし。何て言えばいい ? つい聞き流してしまいそうなくらい、さらりと語られたものに。 透はえ、と思い。そうして彼が一度だけ、趣味がバイクとピアノだと話していたことがあっ たのを思い起こした。 話していた相手は、自分ではなかったけれど。確かにそう聞いた。 「真悟、お前ピアノ弾けるの ? 」 「矢野くんて、ピアノ弾けたの ? 同じ問いが違うトーンで、示し合わせたみたいにきれいに重なる。左手と左前から音声多重 で尋ねられた真悟は、一瞬たしろいだみたいに身を引き、えーとと、ロの中で言った。 「〃弾ける〃なんて一一 = ロうと、バチ当たるよきっと。俺の場合、それ以前のレベルだからさ」 かし 首を傾げて、少し考え込むみたいに眉を寄せる。 「でも弾けるのは、まちがいないんでしょ ? 日本語として」
に入った。 「透さーん今日の : ・・ : 」 透を呼びかける真悟に、彼は手にした受話器を耳元に運びながら、左手の人差し指を唇の位 置に立てる。それから、事務室の奧の方へと身体を移動した。 「まい、 お電話代わりました。高原です」 つぐ 真悟はロを噤んでそっとドアを閉し、市橋に「だれ ? 、と唇の動きだけで尋ねる。 「樋口恭子さんだ」 「ああ 納得したみたいに頷いて、真悟は一度カーテンの奥に入って手を洗いノ たカップを持ってでてきた。 し - を」 「真悟。向こうで何か妙なことでもあったか ? 」 もの プ「んー別に。ちょー美人な依頼人さんと話して、憑き物つきのほんわかタイプの美人さんに会 って、ふつーにお茶とお菓子招ばれて、ふつーに帰ってきただけだけど」 ス デスクに身を乗りだし気味にひそひそと尋ねる山本に、真悟は同しように小声で答える。 が「あ。俺のマヌケなピアノ演奏は、すっげーみよーだったと思う。客観的に」 セ 「ピアノ ? お前ピアノなんざやってたのか」 たいきよう 「『胎教から始めました』な幼稚園児よか、どーんとレベルは低いですー」 ープティーを入れ
して、思い知らせてやって」 「あ、の。でも、まだ呪詛とは」 限りませんが、と透は告げようとするが 「私、あなたたちのことをクラシック好きな同級生とその弟って、泉に言っておく。それで遊 びにくるんだって。あの子、きっと喜んでのってくるって思う」 恭子はすっかりその気で予定を決める。 「ク : ・・ : クラシック好き ? 」 その一言に、その前に言いたかったことは完全にどこかへ吹っ飛んで、透は青くなって自分 を指差した。 「おれがですか ? 」 「嫌い 「そうしや、なくて。好きとか嫌い以前に : : : あまり知らないんで」 プ 「全然 ? 「あ、いえ。一度だけ、引きすられていったピアノの演奏会でものすごく感動して、その曲の ン OQ を買ったことがありました。でも他は、学校で習ったことくらいしか : カ セ 「あら。誰の演奏会で ? 恭子は興味を引いたみたいに、尋ねてくる。
「ばうすっ卩」 「透先生っ ! 何をばかなことをおっしやるのですリ」 山本の怒鳴り声が、市橋の、悲鳴めいた叫びが透の声を断ち切る。真悟は息を呑んで透を見 つめた。 「何だよ、それ。依に : : : 憑けっ放しにするっての ? あんなもんを」 目を見開いて、尋ねてくる。 「この方法なら、泉さんの憑き物を祓えるし、樋口さんを傷つけることもないんだ」 「どーして、そうなるわけ ? 」 どき 吐きだした言葉に、怒気がこもっている。唇はわずかに笑みを作り、目は、これまで透が見 たことのない光を宿していた。 「俺、わかんないんだけど。呪詛も邪念も、本人に返すのが筋なんしゃないの ? それでそい けが プつがどんなに傷つこうが怪我しようがさあ。俺はセンセにそう習ったよ。依を身代わりにする デなんて、一回も聞いたことない ス 透は耐え切れずに、目を逸らす。 が「 : : : わかってる」 セ 「わかってて、一一 = ロうの。俺にあの念をあなたに憑けろって。返せばすむものを、返すべきもの をわざわざ」
102 し」 弾いてないけど」 恭子は組んでいた足を外し、軽く身を乗りだしてきた。 「矢野くん。せつかくだから何か弾いてみてくれない ? ピアノあるんだし」 「俺が ? 」 「好きなんでしよう ? ピアノ弾くの」 ちょっと挑戦的で、どこか面白がっているような目で、真悟を見上げる。 「いやまー確かにそーですけど。でも、一応今日はほら、仕事で来てつから」 しんびよう 「元々″クラシック好きな友だち〃が設定なんだから、ピアノを弾いてくれてた方が信憑性 よろこ が高くなるわ。泉も悦ぶって思う」 「俺ピアノソロのクラシックってだめだって」 「こだわらなくていいのよ、それは」 「透さーん ? 」 いいのか、と尋ねるみたいに真吾は透に目をむける。透は、少しためらってから首を縦に振 った。 と思う。泉さんが、いらっしやるまでなら。おれも : : : お前のピアノ、聞いてみたい 「 : ・ : ・悪趣味つつーか物好きだなあ一一人とも 。いいけどね」
「いらっしゃい、待っていたわ」 どうぞと言われて足を踏み入れた部屋はゆうに十六畳はある洋間で、年代物のシャンデリア の下にはグランドピアノが鎮座し、その脇に応接セットがおかれていた。奧には楽譜が入れら れているらしい書棚と、ピアノ用の椅子がもう一脚。出窓の棚の部分にはグリーンが飾られ細 かい模様のレースのカーテンがかけられている。 ふんいき 応接間と一言うよりは、ちょっとしたサロンのような雰囲気があった。 「泉、朝また手に痺れが走ったらしいの。医者に寄って来るから、少し遅くなるって連絡が あったわ」 うなが 恭子はソファーから立ち上がって二人を出迎え、座るよう促す。 「グランドピアノだ」 プ 透が座ったソファーの隣に腰を下ろした真悟は、ポルドー色のカバーをかけられたピアノを ほれほれと眺めた。まるで部屋の主人みたいに、堂々としている。 ン 「これって恭子さんの ? 」 カ セ 尋ねる彼に、恭子があいまいに頷くのを透は見た。 「一応はね。昔弾いていたのよ」 うなず わき