けげん フェレスは怪訝な顔をする。 「なんだ」 木材が必要なときには、森の木を伐り出すことはある。しかしそれは、木こりの家だっ たミランの家を拠点にして、村の者が森に入っても危険のないように、きちんと話し合い きのこ をしてから、木を伐りに出かけるのだ。そうでなければ、茸や木の実、薬草を求めて森の けが 中に入ることもある村の者たちが、思わぬ蚤我をすることにもなりかねない。 たお おの 斧の音は聞こえなかった。木が倒れることを知らせる声も、聞こえなかった。 森の中にあった古木の一本が、自然に倒れたのかもしれない。 「あっちか ! 」 何があったかと、フェレスは木が倒れたほうに向かって走る。 「フェレス、一人じゃ危ないよ・ : あわ わなかか 袋を担ぎ、罠を抱えたまま、飛ぶような勢いで走るフェレスを、ミランは荒てて追いか ける。 花 の 絶轟の正体は、ひと抱えほどある木が倒れたものだった。人間の腰ぐらいの高さで、木 しか つの をへし折ったのは、一頭の大きなマギーザックと呼ばれる、角のない鹿に似た動物であ る。このあたりの森や山では、よく見かける動物の一種だ。頭から木に激突し、その勢い かっ
が、どきどきと早を打「ているのを、耳を当てて聞き、スザナはくすくす笑う。 スザナにぎゅっと抱きっかれたミランは、どうすればいいのかわからず、どきどきしな がらうろたえる。他人の善噫に甘えていることを痛いほどわかっているミランは、言葉の 暴力によってフェレスに卑下され続け、それが正論であるがゆえに逆らえなかった。あら ゆることに対して、ミランには自信がない。収穫祭でカレットを見ようとスザナに誘わ れ、ほんの少しだけ村に行き、村を通りすぎるたくさんのカレットを見送っていたとき に、スザナとフェレスのことを話している村人の一 = ロ葉を、ミランは少なからず耳にしてい た。自分とフェレスは、とても比べられるような存在ではないし、スザナはフェレスのこ とが好きなのだとばかり、ミランは思っていた。スザナが自分に同情してくれているだけ と思いながらも、やつばりミランはスザナのことが好きで、変わらないままの状況に甘え ていたのだ。 抱きしめてもいいのだろうか、遠慮しながら、腕を動かしたミランは、笑っていたスザ ナが泣いていることに気づいた。 「スザナ ? まゆひそ のぞ どうしたのだろうかと眉を顰め、ミランはスザナの肩に手をかけ、スザナの顔を覗きこ む。スザナはミランから目を逸らし、詫びる。 「・ : ・ : わたし、ミランが言ったようないい子じゃないの : ミランが病気なの、本当は
122 村で一番大きな農場の息子だということもあるが、フェレスは村から森の中のミランの 家に毎日のように通い、ミランの獲った鳥や木の実を持って帰って、それと交換する農作 物を届けたり、日用品の買い物を頼まれてやったり、絵師として仕事をするための絵の具 や筆などの道具を、こまめに調達して世話を譁いている。そのことをよく知っているか ら、皆はその年の見事なカレットに贈られる褒美を受け取る、名誉ある役を、快くフェレ スに任せるのだ。 「ふうん、そう」 言いよどむフェレスに、とてもそれだけには見えないと、スザナは楽しそうに笑った。 友達を自慢できるのは、素晴らしいことだ。 からだ 「身体が弱いとか、そんなことは関係ないわ。まぐれなんて、三回も続かないもの。ミラ ンにはとても素晴らしい才能がある。そうですよね」 スザナは医師であるジェイを見る。一杯のジュースをやっと飲みおえたジェイは、まだ ぼーっとしていて、杖をつき、佐で煙を吸っている。朝のジ = イは、機の悪 あいそ そうな普段の顔に加えて、まったく愛想がない。無反応のジェイに代わって、ルミがにつ ほまえ こりと微笑む。 「才能と本人の努力、そしてそれを支える周りの人の協力があってこそ、素晴らしい作品 が生まれるのだと思うよ」
199 彩色車の花 らいいですよ」 ほまえ 洗濯物の最後の一枚を干しながら、リンゼはスザナに微笑む。 「でも、リンゼさんも、ジェイさんといっしょに村に行かれるでしよう ? これぐらい、 わたしがしますよ」 「ありがとうございます。でも : 恥ずかしいですから . 洗濯物には下着もある。一回くらいなら甘えることもできるが、毎日では気が引ける。 リンゼはちょっと赤くなって笑って、これは自分の仕事だと、スザナに言った。
つぶや 呟いて、ジェイは煙草を吸った。 「うん。そうだろう」 ルミはくすくす笑って頷き、寝台に腰を下ろすリンゼを見る。 ひど せんさい 「ジェイはね、こう見えてけっこう繊細なんだよ。ほら、話しただろう。十一一年まえに酷 けが い怪我を負ったって」 今、こうして見ているかぎりは、そんなことがあったなどとはまったくわからないが、 ぎんふ ここうしゆらおう ジェイは十歳のときに、当時孤高の修羅王と名乗っていた、現在の救世の英雄・銀斧の戦 士に村を襲撃され、死の重傷を負いながらも、ただ一人死の淵から逾い上がった生き残 むざんた りだ。右の肩口から腹部にかけて、無惨に断ち斬られた傷は、肉芽を盛り上げ肌を引きっ からだ みにくすいりゅう らせ、醜い水竜の姿を模して赤黒く、今もジェイの身体に残っている。命を繋ぎ止める ふさ だけでも奇跡に等しいほどの大怪我は、なんとか傷が塞がって快方に向かっても、運動機 ざんこく すぐ 能に障害を残し、回復訓練にはそうとうの月日がかかった。子供の世界は、残酷だ。優れ かいめつ きようあくぞく おと ている者は見上げ、劣っているものは見下す。凶悪な賊の襲撃を受け、壊滅した村の唯 の一の生き残りといっても、何を持っていてどうなのかという、子供社会においては、価値 ひた 彩なく劣った存在として認識されるにすぎない。卑しめて優越感に浸るのに、孤児となり、 かっこう しかも身体の自由もままならないジェイは、格好の存在だった。大怪我を負い、故郷を失 、肉親を失い、耐えることばかりを強要され、不満や泣き言を漏らしてもどうにもなら いっ うなず つな
ジェイが行っていた村の家の往診も、ひと通り終わってしばらくたった。ルミの具合も だいぶよくなって、いよいよ明日、ジェイたちはミランの家を出発することを決めた。何 かを教わることができるのは、ジェイたちがいるときだけだ。森の中の食べられる野草や 茸などを教えてもらうために、朝早くから植物採集をしていたミランは、見たこともない 茸が生えているのを見つけた。 「これ : ・ 昨日そこを通ったときには、確かそんなものはなかった気がする。しかし、あるものを 疑っても仕方ない。半径一メ 1 トルほどの円形に、ぐるりと輪を描くようにして、ばこば のこ生え出ている茸をとって籠に入れたミランは、視線を感じて振り返る。 色 彩 「で、拾ってきちゃったんですか」 「そのままにしておくのも、気が引けて : 第十一章接近
118 「フェレスさん ? 」 うなが デザートに手をつけてくださいと促され、リンゼがスプーンを握ったとき、小屋の外に 砂トカゲの曳く荷車が止まった。 「ミラン、食料を持ってきてやったぞ ! カレットの下絵はできたのか ? 大きな声で呼びかけながら、ひと抱えはある穀物の袋を持って小屋の扉を開けた若い男 小屋の中にいたジェイたちを見て、スザナと同じよ・うに驚いた。 「フェレスの家は、村で一番大きな農場なんです。毎日、ミランのところに来てくれて、 何かとよくしてくれる、とてもいいお友達なのよ」 えしやく スザナに紹介され、フェレスはジェイたちに会釈する。 「ミランの描くカレットは、領主様も自漫なさるぐらい、とっても素敵なんです。ぜひご 覧になっていってくださいね」 皆のためにお茶をいれながら、自分はミランがカレットを描くための手助けをしている ままえ のだと言って、スザナは微笑んだ。 かか
第三章痛苦 ( こんなことだったら、あの馬車に乗せてもらえばよかった : : : ) のんきどんかん 高みから見渡せるよう、木に登ったリンゼは、 ) しまさらながら呑気で鈍感な自分に腹が 立つ。あのとき、何があったのか、きちんとルミに聞いていれば、こんなふうに慌てるこ とにはならなかったのに。徒歩で日暮れまでに進める距離なんて、たかが知れている。 ( 炭焼き小屋か、森番の家でもあれば : : : ) 町か村に行き着けたなら、それが一番だが、第は言っていられない。 リンゼは必死で目を凝らす。 けむり 森の西で一つ、細く煙が上がっているのが見えた。よくよく見ると、その下あたり、 の緑に生い茂る木の葉の合間に、赤い色が小さく見える。 色「あった ! かんき 民家らしきものを見つけたリンゼは、歓喜して顔を輝かせ、急いで木を下った。 あわ
は、これだけなんだからな」 「うん : : : 」 うなず 視線を落とし、ミランは外に出ていくフェレスを見ずに頷く。 今日は客がいるために、食器の洗い物も、いつもの何倍もあるのだが : ・ 「そう、ですか ? 」 強く言うのも不自然に思えて、スザナはリンゼに頷いた。 「じゃあ、またあとで来ます。あの、ね、ミラン : : : 」 「フェレスが待ってる」 「うん、それじゃ : 後ろ髪を引かれるような表情のまま、スザナはミランの家から出ていった。 いつものことなので、ミランは二人を見送らない。 の音が聞こえ、車輪を軋ませなが ら、フェレスとスザナの乗った車が、村に帰っていく。 「 : : : すみません、僕、することがありますので : : : 」 食後のお茶を終えたミランは、食器を持って席を立つ。 「あ、僕が片づけますから : : : ! 」 リンゼは残りのお臻を急いで飲み干す。 腕を折り、肋骨に罅が入っていて安静が必要なルミのこともあり、しばらくは回国の活
200 第八章恋人 おとこじよたい 男所帯は汚いものというのが世間の一般的意見なのだが、ミランのところはジェイた きれい ちが来て、以前より綺麗になった。ミランが集中して絵を描いていて、食事をしたあとの 食器や、洗濯物が出しつばなしになっていても、ジェイかリンゼが自分たちの分といっ すそ しょに片づけている。宝石を身につけ、生地も高価そうな、裾を長く引く服装をしている ルミがいるので、台や衣服が擦りそうなところはこまめに拭かれ、ひっかけないように、 足元も綺麗に整理され、掃除されている。 いつものようにあちこち見て回ったスザナは、すっかり出る幕がないことを確認するこ とになってしまった。ジェイやミランたちに食べてもらうように、村の者から預かってき た果物をミランに渡し、スザナは家に帰った。 戻ってきたスザナを見て、家の前に置いたべンチでキルトを縫っていた、スザナの祖母 は目を丸くした。 「なんだい ? 忘れ物かい ? 」