196 大声で話せることでもなさそうだから、少し外へ出よう」 品治の飼い葉桶を横からひょいと取って、弓月は唇の片端をつり上げる。 「こっちは手伝ってやるからさ」 「あ。はいっ あしげかげ 四半刻の後には、海辺近くに葦毛と鹿毛とが並んで歩いていた。 あわ ざ : : : っと波が寄せて返す。浜辺に白い泡が湧き立ち、すうっと引いていった。澄んだ秋の 空の下の海は、夏のそれよりも荒さを増している。海中に突き立った岩にぶつかる波は、高く しぶき 飛沫を上げて、また海へと戻った。 だいしよう 「代償ね。いかにもあいつが言いそうなことだ」 樹の幹に鹿毛をつなぎ、弓月はやれやれといった風に吐息をつく。 かば 「それで一一度と庇うな、か。まったくどうしようもない」 あがな 「どうすればいいのか、まだぜんぜんわからないんですけど、それ。贖いなんていらないか ら、命令もきかないって、言いそうなんです今は」 おおあま 少し離れた樹に自身の葦毛をつないできた品治が、砂を蹴り上げた。あの夜以来、大海人と
100 いいかなあと」 「いいかなあって : ・ : いいわけないでしようが ! 何で俺がっ 「まあまあ。それは謝るから、な。一緒に何か考えよ」 大海人は右手を品治の目の前に、差しだした。 「はあ 品治は彼の白い手を握り、立ち上がりかけたところで思い切り強く引っ張る。 「うわっ ! 」 ばしゃんと景気よく水の跳ねる音がして、大海人は頭から海に突っ込んでいた。 「 : : : おーまーえー」 「これで、言い訳ができましたよ。品治にやられたって」 につと笑って、品治は腰を上げる。 「お前、少しは加減ってものをだな」 全面びしょ濡れとなった自分を見下ろし、大海人はちょっと恨めしそうに彼を見る。 「お互いさまと一一一一口うものです」 今度はしつかりと大海人の手を掴んで、品治は彼が立ち上がるのを助けた。 あるじ 「私は一応お前の主人なんだけど」 うわぎ しぼ 上衣の端をぎゅっと絞って、海水を落とす。 つか
130 品治は言葉を探りつつ、続けた。きっとこれが、彼の一番知りたいことなのだ。 けれど自分は、返せる答えは持たない。 おおあまのむらじゅづき 「大海連家の弓月どのであれば、何かお答えできるかもしれませんが、私には : ・ : ・わからない のです」 「そうか 葛城はため息を漏らすみたいに言い、唇を結ぶ。 「ただ、こちらに出発する前に王子は『父上が早くお元気になられるよう、お祈り申し上げて います』と、おっしやっていました。それに『戻ったら、宮のことを話しに来い』と命じられ じかうかが ています。私が王子から直に伺ったのは、それだけです 「 : : : ふん。なるほど」 ほんの少し、まなざしが和らいだような気がした。 うまや あしげ 厩に回り、品治が葦毛を連れだしてくるのを、葛城は宮門で待っていた。 「それでは。わざわざのお見送り、ありがとうございました」 こ、つレ」う ひざ 門の前で品治は葛城に向き直り、膝をついて叩頭する。顔を上げたとき、ふっと道の脇に並 ぶ木立ちの一本に、隠れる人の姿を見たような気がした。 気のせいか ? 「どうした ? 」
思い起こしたように、弓月は品治を眺め回す。 おおきみ 「あ。俺はもう、全然元気です。生まれて初めて宮なんてところに行って、大王とか王子とか おおきみ 王なんて方々に会ったりしたもんだから、帰った途端にどっと疲れが出たんしゃないかな」 あはははは、と声を立てて笑い、品治は頭を掻いた。外から見てもわかるくらい落ち込んで いたのかと思、つと、ちょっと情けない。 たかがあの程度のことで。 「そうか。良くなったんなら、よかった。お前に元気がないと、何となくこいつらまで毛づや が悪かったり調子が今いちだったりするからな」 弓月はばんばんと、自分の鹿毛の背を叩いた。 「もし余裕があるなら、お前、大海人のことを少し気をつけてやってくれ。狩りの場になると 章 みんな大海人の指示を受けるだけで精一杯で、あいつを見る余裕のある人間はほとんどいな の 玉い」 「あ、はい」 虹弓月が『大海人』と言ったその声が届いたわけでもないだろうが、大海人がすっと彼らの方 日に顔を向け、ふわりと目をほころばせて向かってきた。 「品治っ」 品治は葦毛を降りて、跪拝しようとする。だが。
234 何か、気が抜けた : あしげ 品治はまだ少しばうっとした状態で、葦毛を操っていた。夕暮れの近い陽は青から黄金へと 空を染めて、西の方にある。陽射しが背中に注ぎ、葦毛の行く方向に長く影を伸ばしていた。 風は急速に冷たくなり、冬の匂いを漂わせる。けれど品治の身体は奇妙にほてっていて、寒 さを感しなかった。 わざわざ来てもらったものを、手ぶらでそのまま帰すわけには、今日はいかん。 そ、 2 言われて気がつけば食事を招ばれることとなり、葦毛が不服を訴えるくらいの衣を持た されていた。 ほか なばり 思いの外長居をさせられることになってしまい、本来なら今ごろはとっくに名張に着いてい ぎんみ 言葉を探す。不自然でないものを。ゆっくりと吟味して、田村大王は唇に音を乗せる。 「そのときのことを、玄理が書簡に寄越してな。大海人が琥珀に似た色の瞳を輝かせて聞き入 っていたと書いてあったのだが、真にそうだったのだろうか」 こわ張り幾分青ざめても見える目の前の青年の顔に、瞬間、鮮やかに明るい笑顔が生まれる のを大王は目にした。 おおきみ いくぶん きぬ
232 した」 「いや。それは構わない。ただ、そなたは忘れ物を取りにきたのであって、すぐに行かなくて はならないようなことを言っていなかったかと、それが気になるが」 「まあー いけない。すっかり忘れてたわ」 あわ 宝姫王はすっとんきような声を上げて、慌てて奧の棚の方へ向かった。細長い小さな箱を取 ふところ り上げて、懐へとそっとしまい込む。 「気づいておられたなら、もっと早くおっしやって下されればよろしかったのに」 あわ きはい 少し恨みがましげに睨んでから、彼女は優雅に跪拝をし、夕方には戻りますと言いおいて慌 ただしく出ていった。 「ゆっくりで構わない」 とばり 聞こえてはいないかも知れないと思いつつ、田村大王は閉してしまった帳に向けて声をかけ る。それからまっすぐに天上を見上げた。その窪んだ眼窩の奥に輝く瞳には、今は冷ややかで 厳しい光がある。 やがてそこに、来訪者の知らせが届いた。名を聞いた大王の唇が、ゆっくりと横に広がる。 わたし 「通せ。そしてこの大殿を衛る全員に、朕が呼ぶまでは門の外にいるよう申し付けよ。誰が来 ようと、決して中には入れぬように。よいな」 やまい 病に冒された身とは思えないほどに、深く重い声が響いた にら まも くぼ たな がんが
「誰を連れてきた、弓月 かす くぐもった細い声。驚いて、品治の足が止まった。 掠れて、 本当に、中に入る前に声を掛けられたことと、そして。 こわね どことなく聞き覚えがある声音に。 なんだ ? どこで聞いた ? とっさにはい出せなかった。そう古い記億ではないと、感しるばかりで。 「安八磨からの客人だ。お前のやり方が腹に据えかねて、殴りにきた。入れるぞ」 きざはし 弓月の呼びかけに、返事はなかった。唇を片方だけ持ち上げて、彼は階の下から見上げてい る品治に登ってくるよう促す。 「どうぞ、この中だ。大海人がいる」 こうし 弓月は連子格子になっている扉を押し開き、彼を招き入れた 建物の中は格子の窓から風が通るせいか、思っていたよりもずっとひんやりとしている。 さまざまに調度が置かれた広い一室の奥に、ついたてが一一枚少し重なり合うように立てられ ていた。 「跪掃は必要ない。あいつはそういうの、好きじゃないから きびす 弓月はついたてのすぐ側まで来たところで、軽く品治の両肩を押し、自身は踵を返す。 「安八磨に戻るときは、門まで見送る。もしどうしても俺を殴らないと収まらないなら、その なぐ
ほんじ くだらのみや 百済宮の大殿、広い謁見の間の下座に座した品治の声は、普段よりもかなりうわずってい かつらぎ うわぜい 「上背は、その、そちらにおいでの葛城さまよりも、す、少し低いほどじゃないかと、思いま す。身体は、ずっと痩せておいでですが」 章 これで舌を噛んだのは三度目で、いい加減恥ずかしい。 の おう・こ、フ たむらのおおきみ あしぎぬ 玉彼が平伏した先、を重ねて縫 0 た敷き物を乗せた台に田村大王が、その隣に王后である たからひめのおおきみ 宝姫王が寄り添うように座っていた。そこから半歩後ろに下がった位置には、葛城王子と えじ 人王女の姿もある。広い部屋の四隅と奥の私室への通路入り口に、武器を構えた衛士が今は 香 日 動かぬ像のように立っていた。 きざ おおきみ あすか 明 初めての明日香の地、初めての大王の宮、初めての大王への謁見に、品治の緊張は溶ける兆 しもない。父からの指示で単身百済宮を訪れた彼は、重罪人ででもあるかのように衛士たちに くだらのみや 百済宮 や えつけん
222 「お前を呼び出すのに、最も間違いのない方法を採ったまでのこと。ふむ、どうやら肩のけが の方は完全に治っているようだな」 うなず 蒋敷は目の前に座った品治の上から下までをしろじろと眺め回し、うむとひとっ頷く あるじ おおあまのみこ 「ちょっと待て。さらっと一一一一口うなさらっと。父上は父上自身の主人である大海人王子に、嘘を かしやく ついてだまして俺をここに呼び出したんだぞ。罪悪感とか良心の呵責とかはないのかよっー 平然としやがって」 わし ~ おおきみ 「何を一一一口う。儂は大王と大海人さまとに、何のわだかまりない親子の情を通わせていただきた いと、それをのみ願っているのだ。そのための多少の方便が、許されないわけがない」 自信に満ちた揺るぎのない信念の前に、品治は絶句した。 「あのな : ・ あすかた 「大王より、そなたに尋ねたいことがあるとの仰せだ。明日香へ発っ準備は、お前がくる前に 整えてある。今日明日はゆっくりと休み、明後日に出発するように。充分に間に合う」 「嫌だ」 力を込めて、告げる。 「それは前に、ちゃんと説明したはすだぞ。俺は、大海家をだますみたいな形でやらなきゃい おもんばか けないことなんて、したくない。もし大海家が大王と王子のことを変に慮って隠し事をしてい るとしても、大王がご自身の真意をきちんと説明なされば、わかってくださると俺は思う。王 おおあま 0
宝姫王を妻としてから、すでに十七年の歳月が流れていた。その間に、彼女とは一一男一女を も、フけている。 「お目覚めでしたか ? それとも、お起こししてしまいましたか ? けだる ほほ笑みの柔らかさと美しさとに、田村大王は一瞬気怠さを忘れた。四十も半ばをすぎてい るというのに、宝姫王の笑顔は昔のままにあでやかで、見とれてしまうことが多い 「いや。少し前に、夢から覚めたところだ。ちょうどそなたのことを考えていたよ」 「まあー くちもと どちらかというと切れ長の宝姫王の目が軽く見開かれ、彼女はロ許に手を当ててくすくすと 笑った。 「そんなことをおっしゃれるということは、今日はお身体の方がよろしいのでしようね。実は ~ かつらぎはしひと 章葛城と間人がここに来たがっていて : : : あ、これつ 事「お父さま」 のぞ すおう さらと帳を上げて、桜色と蘇芳の衣に身を包んだ間人王女が中を覗き込んでくる。十五歳の 想少女の手には、髪に挿したと同し淡い紫の藤の花が一杯に抱えられていた。 甘い花の香りが、部屋に立ち込めていた薬湯のにおいを消し去り、初夏の風を運び入れる。 そうごうくず 明 田村大王は一人娘の笑顔に相好を崩した。 「お加減は、いかがですか ? 今朝は藤がとても綺麗に咲いていたから、お父さまにも見せた きれい はしひとのひめみこ