262 品治の腕が、倒れかかる大海人を支える。軽さを感しさせる濡れた細い身体が、ぐったりと もたれかかってくる。 「王子 ! 「何でもない。足が滑っただけだ」 抱き締めた身体が必要以上に熱を帯びているのを、品治は腕に感した。 「品治。私のために死ぬことは : ・ : 許さない 熱い。そう思わせる手が、品治の肩を擱み。 「これ以上、命を。背負わせるな。お前の命なんて、欲しくない まっすぐに、大海人の瞳が品治を射た。はっとするくらいに透明なまなざしが 「だったら、私に死を望むなと言った、あの言葉を取り消せ。でなければ私を・ : ・ : 」 お前が私を殺せ 「私に死を望ませないお前が。父上の追及が、大海家に及ぶ前に」 「王子 : : : 」 答えを持たす、品治は絶句する。 ふっと。大海人の表情が和らいだ。
124 かか あやのおおきみ 漢王の呪いを受けて生まれた王子に、自身が呪われて病に罹ったとでも思われたかな ? 」 やまい 「父上は大海人を捨ててなどおられない。大海人は、呪われてもいない。ただ病が移るもので あったが故に、温暖な尾張の地での療養を決められた。それだけのことだ」 きついちべっ のど 喉の奧から押し出すように、葛城は言い放つ。彼が周囲を屹と一暼すると、そこに集まった 者たちはこそこそと場を離れていった。 おおきみおうこう 「大王も王后もそなたたちも、ただの一度も見舞いに行かすに放っておいてですかな ? 十四 年間、短くはありませんな」 「それは、母上が私たちに移ることを怖れられてのことだ。尾張の大海家からもそのように一言 ってきたゆえ、父上はすっと」 かたしろ 「本当にそうか ? 大王と王后が真に怖れたのは、胸の病が移ることなどではなく形代を見る ことで、漢王の呪いがそなたたちにまでを及ばすことなのだと私は聞いたが」 そで 葛城が息を詰めて身をこわ張らせるのが、気を通して伝わった。品治の袖で互いに握り締め た手が、知らず震える。 「いや : : : それ以上に、大海人を見る度に、己が手にかけた漢王を思い出さすにはいられなく て、遠ざけたのだという話であったかな」 「きさまっ : 「山背大兄どの。お言葉が過ぎますぞ」
てきてる」 「それは、できれば勘弁してほしいな。今の君に殴られると、きっとただでは済まないだろ う ? 」 す : : : と、風にほころぶみたいに弓月はほほ笑んだ。作り物めいたところのない、ごく自然 な柔らかな笑顔。 先までとは何か、違う。それに戸惑いを覚え、品治はかえって身を硬くした。 あはちま 「だったらさっさと退け。俺は安八磨に帰るんだ」 「うん。それは知ってる」 うなず 頷きながらも、弓月は動こうとはしない。 「いったい俺にまだ、何の用があるって一一 = ロうんです。あなた方の望みどおり、俺は王子には仕 ゅのうながし えない。父上は、きちんと説得すれば湯沐令を受けるだろう。それでいいはずだ。それ以上何 があるって ? 」 品治は警戒を解かずに尋ねた。 「いや、どうせ殴るんだったら、俺しゃなくて君たちを怒らせた張本人を殴りにいかないかと 思って」 「なに ? 意味が掴めない。 なぐ
「顔を合わせもしないうちから、人間をそのようなものだと決めつけておいでの方に、何を言 ってもどれだけ誠意を尽くしても無駄だ。どうせ何一つ、まっすぐには受け取って下さらな 「品治っ。何という無礼な」 「無礼なのはそっちだろう ? 俺たちのことを、呪いなんていい加減なもんを信し込んでいる 奴だって、大王に命しられて、機嫌を損ねたくなくて渋々ここに来た者だって、最初から決め てるんだ。最低じゃないか」 「品治リ」 怒鳴りつける蒋敷を、品治は平然と見下ろす。 「父上、俺は会いもしない相手を自分の計りで決めてしまうような奴に、仕えたいとは思わな いからな。これ以上ここにいたいとも思わない。理解してもらおうと思えば思うほど、ここの 連中は俺たちが王子と大王にを振 0 ておもね 0 ていると見る。俺はそういうのは嫌だ。父 上がどうしてもここの王子に安八磨の人間を仕えさせたいってなら、他の奴を選んでくれ。俺 は帰る」 抑えた声で言い放ち、彼は矢代に視線を移した。 「そういうことですので、宴席には私は失礼させていただきます。無礼とは存しますが、それ はお互い様だと思いますので」 おおきみ ひと
おおきみ あるじ 自分は何をした。主人である大海人と世話になっている大海家とを騙して、大王に対面し て。己の為したことは、彼らに何をもたらした ? まえかが 樹にもたれかかるようにして、少し前屈みになって大海人は息をついた。 「それでなぜ、私を助けた ? お前」 疲労の濃い顔、雨と返り血とが深い藍の服を汚していた。右手で左肩を支えるようにした、 その手の間から血が流れ落ちてゆく 全部、自分がこの人に与えた。黙って、彼ではない者のために動いて、この手が。 この人を追い詰め傷つけた。身体に、それ以上に心に。 。いたのだろ、フ ? それなのにどうして、ここにいる ? 「安八磨じゃなくて、明日香こ、 言葉が出ない。何も、言う資格などない、自分には。 かば 「変な奴 : : : 父上に頼まれて、傍にいただけなのに。庇って、言葉で縛って。私を好きだなん て言って。なぜ ? 私のために手を、血に染めさえした」 しぼ 怒りも憎しみも恨みも感しない静かな声が、尋ねた。胸が、絞られるように痛い 「王子 : : : 俺は」 「知っているのだろう ? もう。私は王子しゃない。田村大王の末王子は、ここにいない。大 海人王子は、どこにも しば だま
128 「いえ。お : ・・ : 私より、葛城さまが」 ひじり せっしよう 「あれが偉大な摂政の息子、聖である厩戸王子の心を受けついだ者だそうだ。笑わせる。父上 すく に敗れたくせにまだ大王位に色気をだして、少しでも父上の足を掬わんとしている奴が」 大殿への門に一度目をやり、葛城は品治に歩くよう促した。 「奴は今回の、父上の私と大海人への新たな湯沐の地の制定を快く思っていない。だからあん おとし うわさ な風につつかかって、下らない噂を流して父上や母上の権威を貶めている」 共に宮門へと進みながら、葛城は半ば独り言のように言葉を吐きだす。 えみし 「そうかと思えば、蝦夷のように王族の一員でもないくせに宮にのさばり、大王に成り代わろ うとしている奴もいる」 そがのおおおみのえみし ではあれが、蘇我大臣蝦夷だったのか。 品治はちらりと大殿への門を、ふり返った古人王子と一緒だった老人の、王子たちを前にし ごうぜん いやむしろ傲然とすらしていた雰囲気を思い出す。 ても平然と : ちょっかっ 「知っているか ? 奴の私兵は、大王の直轄する軍よりも巨大なのだ。ここ四代に亘って、大 王の地位は蘇我の助力を得た者に委ねられた。王族の血も持たぬ者が、王族に己の血を送り込 み取り込もうとして」 葛城の言葉は強く、だが先のような感情の露出はない。 「私が、成人していれば。もっと力があれば。蘇我になど : : : 」 ゆだ ゅ ふんいき おおきみ
「王子、おけが違」 尋ねる品治を遮り。 「なあ、品治。さすがにこのまま収めてほしいってのは、虫がよすぎるよな。こいつらが戻ら なければ、父上はきっとまた新たに人を送り込んでくるー かす いつもよりいっそう掠れた声が、大海人の唇から漏れた。 「これで今私が死ねば、父上は大海家への追及ができなくなるかな ? 病死に、治められれ できし いや、溺死でもいいか」 「王子卩」 淡々とした口調と裏腹な内容に、品治は思わず叫ぶ。 「それとも、この目を潰しておかないと無理か ? 死んだ人間の、目の色は : : : わかるものな 章 のか ? 知ってるか ? 品治」 の 玉がく然として、彼は目を見開いた。 「何を卩王子つ。何をおっしやるんです、そんなっ 虹「何 ? だから : : : ああ、そうか。お前は父上の側だっけ。忘れてた」 香 苦笑を浮かべる大海人を、びくんと、弾かれたように見る。 明 「違うつ ! 俺は : 言いさし、品治は声を呑んだ。 つぶ
すれ、嫌がるなど言語道断 あるじ 「そういう問題じゃないって。主家と主人に対して隠し事をして、だますみたいな真似をしな きゃならない方の身にも、なってくれよ。心苦しくて、やってられないー おおきみ 「お前の感情など、大王の今のお心に比すればどれほどのものでもないわ 「あのなあ : : : そりゃないだろお : ・ その熱病めいた、揺るぎのない信念に、品治が思わず頭を抱えてしまったところに。 「お待たせしましたな、多臣蒋敷どの」 とばり このかみおおあまのむらじゃしろ 帳が開かれて、大海氏の氏上、大海連矢代の巨漢と言える姿が現れた 「これは、大海人連矢代どの」 あわ 慌てて蒋敷は品治から離れ、矢代に向き直る。 「遅くなってしまって申し訳ないー うつわ 大きな太い声は、陽気さと器の深さを感しさせる矢代の色黒の顔に、いかにもふさわしいも のだった。蒋敷は頭を下げた姿勢で首を横にふる。 「とんでもございません」 ちゃくなん 「そちらが蒋敷どのの嫡男であられるか ? 父上に似て、よい面構えをしておられる」 矢代は蒋敷が口上に入るより先に、品治へと視線を移して話しかけてきた。いきなりのこと 学」、つ A 」、つ に品治はあたふたと居住まいを正し、叩頭する。 つらがま まね
子の本当の姿も本心も、俺みたいな新参者よりもずっと、矢代どのや弓月どのはご存しだ。本 当に、心から王子の心を知りたいと望まれるなら、内密に探りだすなんてやり方しゃなくて王 子に最も近しい方たちに打ち明けるのが筋だし、それが一番いし すみふみ 「お前の言い分は知っておる。下手な墨の文で読んだわ。何度も同しことを言わんでよい 蒋敷はびしやりと品治を遮る 「確かに、もっともだとも思った。またお前のように大して取り柄もない者がたかだか三か月 た半年だと務めた程度で、王子が心をすべて開いて下さるわけもないー 「そうそう」 ちくりと胸が痛むが、我慢した。本当のことだ。自分は大海人の何も知らない まっと 「だが儂らが大王の依頼を引き受けたこともまた、事実。引き受けた以上は全うするが勤め」 「勤めってな。父上、俺は一番最初からそんなのはやりたくないって : : : 」 しようへい 玉「だから、だ。こたびの招聘に参り為すべき事を為した上で、お前が大王に直に申し上げるが 良い。お前の手紙は、正直胸を打った。字は汚かったがな。大王にもきっとお前の真意は伝わ 虹るだろう」 蒋敷はそこで一度息をついた 「そうすればお前の納得のできるやり方で、大海家にも王子にも大王のお心を伝えることがで きる。違うか」 さえぎ へた やしろ ゅづき
210 少しだけ大海人は唇をとがらせる。が、すぐに表情は和らぎ、彼は視線を横に流したままロ を切った。 「お前に、感謝している。兄上が視察団の責任者であられる玄理どのを大海家に滞在するよう 手配下さったのも、私に時間を割いて下さるようお願いして下さったのも、お前のおかげだ。 ありがとう、貴重な時間を得ることができた」 「いえ。俺はただ、葛城さまに頼まれたことをやっただけですから。全部、葛城さまのお力で す。感謝は、葛城さまに。俺はただ返事を書いたに過ぎない」 「兄上には礼状をだすつもりだ。私には、礼状を送るくらいしかできないが。父上にも返書を 送らなくてはならないから。一緒に」 細い指が垂れる髪をかき上げる。視線を流した横顔に、自嘲気味の笑みが浮かぶのが見て取 れた。 おおきみ 「宮へは : : : 参られるのですか ? 大王の、お見舞いに」 「弓月が喋ったな」 横目で、大海人は品治をにらむ。 「す、すみませんつ。余計なことを」 「いいさ。お前は元々、父上の命令でここに勤めている」 自嘲が苦笑いへと移った。 しゃべ じちょう