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検索対象: 明日香幻想 玉響の章
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1. 明日香幻想 玉響の章

静かな問いに、品治は同しように静かに答えた。 「わかった : : : 約束しよう」 かす 掠れた低い声は、確かに品治の耳に届いた。 「もういい、用は終わった。部屋に戻れ 吐く息とともに、大海人の肩からカが抜けた。品治の身体もこわ張りから解放される。 「王子。俺は、王子が好きです」 部屋を出る直前に、ふり向き彼は大海人に言った。 「そんな言葉は聞きたくないと、以前言ったはずだ。忘れたのか」 掠れた声が冷ややかに響く。 「いえ、覚えてます。一一度おっしゃいました。一度目は『聞きたくない』、二度目は『ばかな 章 ことを一一一一口うな』と」 の 「だ 0 たら : ・ 「でも俺は、王子が好きですから。俺がそう思うことまでは、止められないですよね」 虹わすかな間。そして。 香 「下らない : ・ うめ 明 細い、呻くみたいな声が彼の喉をついた 「私はお前が、嫌いだ」 のど

2. 明日香幻想 玉響の章

170 ていた。 大鹿があのまま大海人を突けば、おそらく身体を飛ばされて、大海人自身が「あと数歩で川 だ」と語った場所へと落ちていただろう。一撃では無理でも、一一撃目かその次には。 何しているばか野郎 死にたいのかっ のど 飛び込もうとする直前に、そう喉の奥から声が突き上げていた。多分大海人を目にすれば、 どなりつけただろう。 「確かに、俺がどなりつけたとしても、当たり前っちゃあ当たり前だよな。あんな無茶でわけ わかんないこと、 いきなりやるなんて。ほとんど自殺行為だぞまったく。運良く真稚どのが間 に合われたから良かったけどさ、あのままだったら : よぎ ふ : : : っと、疑問が。同時にあの瞬間に大海人の顔に浮かんでいた表情が、頭の隅を過っ た。大鹿の動きにばかり気をとられて、今の今まで意識してなかったが。 ぼうぜんじしつ 琥珀色の切れ長の瞳は、まっすぐに大鹿を捉え柔らかに見つめていた。茫然自失していたの でも恐怖で身がすくんでいたのでも、立ったまま意識をなくしていたのでもない。

3. 明日香幻想 玉響の章

「ああ、気がついたか」 とばり 帳をあげる音とともに、声がおちてきた。 ゅづき 「弓月どの : ・ 「こら、動くな。お前、鹿の大角に右肩をやられてるんだから」 寝台のすぐ脇に腰を下ろし、弓月は品治の額に手を伸ばす。 「少し、熱があるか。まあ、仕方がないだろうな。かなり腫れているから。これからもっと出 るかもしれない」 「鹿 「覚えてないのか ? 」 「いえ、何となく思い出してきました。おばろげですが」 もやもやとした記億の中に、確かにそんなことがあった。 ふんいき 鹿狩りに同行させてもらったこと、弓月がいつもとちょっと雰囲気が違っていたこと、大海 人が勝手に大鹿を追っていってしまったこと、それを追いかけたこと。それから。 大海人が、大鹿の角にかけられそうになっていたこと。 「間に合いそうになくて、馬から飛び下りたんだ、俺 「そう。俺が着いたときは、お前、大海人に覆いかぶさっていたんだ。背中真っ赤にして」 その時のことを思い起こしてか、弓月はきり、と唇を噛んだ。そして、真稚が鹿を仕留めた おお まわか おおあ

4. 明日香幻想 玉響の章

「私は湯沐の地も、新しい従者もいらない。明日香に戻ることなど、ないんだから、 やまい 「ばか言うな。十四年の間にお前は充分でかくなったし、胸の病も治まってきている。もう少 きた し身体を鍛えれば、いつでも宮に上れるはすだ」 「行かない」 「お前ね : ・ 吐息とともに、彼は肩を竦めた。 おおのおみほんじ > ずれにせよ、もう決まったことだ。お前がどう思おうが、多臣品治は明日から 「まあし > うまや お前の従者として働く。馬の世話が一番得意だと言っていたから、厩の管理を任せようと思っ ている力しいか ? 」 おんち 「 : : : 馬の扱いは、確かに上手い。方向音痴だがな」 しとね 章むつつりと答え、大海人は褥に横になった。まっすぐに天井を見上げて、弓月の方は見な の 響 玉 「しゃあ、俺も行くな。熱が下がったとはいえ、お前はすぐにぶり返すから。もう寝ろ」 想「ああ」 声だけが答えた。 明 「それから。これからは、この部屋の中ではともかく、外では必ずみすらを結っていろ。絶対 に垂髪になどするんしゃない」 たれがみ すく

5. 明日香幻想 玉響の章

・ 152 「はあ 本当にびんとこなかった。確かに当日の夜はありがとうと言いに来てくれたが、その後は朝 えしやく あいさっ の挨拶も顔を合わせたときの会釈も、交わす言葉が一機会に一言なのも、全然変わっていな 「それにこんなふうに何度か一緒に動く機会があれば、無視しようとしても相手のことがわか ってくるものだしな。どれだけ先入観があっても、お前なら突き破れる」 「だったらいいですね」 心から、そ、フ一一一口った。 「それにしてもお前は、本当に良い腕をしてるよな」 うなず 弓月はしみしみと品治の葦毛を眺めやり、感心しきったみたいに頷く。 「馬を操るのがうまいのは知っていたが、あんな足場の悪い森の中を速度を落とさすに駆け抜 けられるとは思わなかった」 くず 「こいつは体ががっしりしていて、安定感があるから。馬上で態勢が崩れにくいんです。鈍い ものお 分、物怖しもしませんし」 たてがみを指で引っかいてやりながら、品治はちょっと誇らしげに答えた。褒められた葦毛 あるじ は、主人の指の感触に気持ちよさそうにうっとりとしている。 けんそん 「謙遜するな。それだけじゃあ、ここまで狙いどおりの場所に追い立てるってのはできない」

6. 明日香幻想 玉響の章

134 で、すませてしまったのだが。 葛城とのことは別に口止めされてなかったので、品治は見送りの際に訊かれたことを、大海 人に順に話していたのである。 とばり とうみよう 部屋の外はとうに夜の帳が下りており、灯明の揺れる灯の中で、一一人は床の筵に座り込んで ひざそろ 話している。品治は膝を揃えて座っているが、大海人は思い切り膝を崩していた。 「ばかになんてしてないですつ。そりや確かにばーっとしてることが多いよなあとは思ってま すけど、〃だけ〃だなんて、そんな」 「要するに、ばーっとしているとは思ってるわけだ」 「うつ・ ふんいき れいり 「いいけどね。どうせ私は、兄上みたいに『少し近寄りがたい雰囲気すらある、怜悧で鋭い印 象』で、『知性を感しさせるきりりとして端正な、思わず目を惹かれてしまう』方しゃないも んな」 「いえ、その。俺は別に王子を」 「お前が最初に言ったんだぞ。私が兄上のことを訊いたら、『王子とは正反対で』って」 ほこさき もう、返せる言葉がなかった。すっと膨れつ面になっている大海人の、矛先を何とかそら そうと思って話を戻す。 「あの、しゃあ王子は、御自分で色々と勉強なさっておいでなんですね。俺が知らなかっただ き つら むしろ

7. 明日香幻想 玉響の章

確かにここで声をかけられなかったら、気がっかず足を踏み外していたかもしれない。 もし落ちていたら : ・ 雨で増水した川。 ちょっと、ぞくっときた。 「・・・・ : ありがとう。教えてくれて」 「どういたしまして」 こた おっとりとした声が、応えた。 呼吸を整えてふり返り、品治は声をかけてきた者の姿をおもむろに見直す。 おび 「変わった馬だな、こいつ。今みたいなことに出くわしたら、普通は怯えて暴れるか硬直して 動かなくなってしまうはずなのに。飼い主と違って、鈍いっていうかすいぶんと肝が据わって る」 優しい瞳とふわりとした笑顔が彼の葦毛を見つめ、そのたてがみに手を突っ込んで引っ掻い てやっていた。 あさうわぎこ くひも 確かに人間である。服はごくありふれた麻の上衣と袴で、細い組み紐で腰を結んでいた。多 分、この近辺の集落にでも住んでいる者なのだろう。 たれがみ けれど、髪をみずらに結いもせずに垂髪にしているのは、奇妙と一一一一口うか普通しゃなかった。 けつばっ 女性でもこのくらいの年齢だと結髪するのが常識で、ましてや男子は人前でだらしなく髪を垂 らすことなどしない きも か

8. 明日香幻想 玉響の章

238 四 おわり 尾張に入ると、雨になった。急速に気温が下がり、吐く息が白く形を残すようになる。 むち しび たづな 腕が痺れてきて、鞭を振るう感覚がなくなりつつあった。左腕も手綱をちゃんと握っている のかどうか、よくわからない。 あすか 風を切り、森を抜け、峠を超えて。明日香から尾張への道は険しく、遠い。伊勢へ出ると道 は平坦になり、それでようやく少し楽になった。 どれだけの距離を走ってきたのか、どれだけの時間が過ぎたのか。覚えていない。何のため にこうして馬を駆っているのかも、実のところよくはわからなかった。 かなりの数の馬を、乗り換えてきた。それだけは確かだった。 否、確かなことはもう一つある。自分がまだ、追いつけていないということだ。 うかが えきれい 右手を見れば、所々で水平線が伺えた。平地を駆ける栗毛の脚は、力強い。腰で鳴る駅鈴 は、宝姫王が持ち出し、預けてくれたものだ。このおかげで、品治は駅舎で馬を代えることが わしづか 品治の心の臓を、言葉が鷲掴みにする。 わらわあこ 「大海人が殺される ! 妾の吾子を、助けてリ 人通りの絶えた道に、宝姫王の声が響いた。 いな

9. 明日香幻想 玉響の章

「さ。飲んで、休むが良い。身体を大事にな」 のど 促されるままに薬湯を口に含み、 , 飲み込む。喉の鳴るのがはっきりと見えた。 おおきみ 「ああ・・・・ : ありがとう・・・・ : ありがとうございます、大王」 くり返される、感謝の言葉に。 おろ 愚かな女だ。 かんがい ひのかみ そう感した。それ以外には、何の感慨もなかった。ここにいるのはもはや伊勢の日神に仕え いっきのみや た斎宮ではない。ただの愚かな一人の女であった。 「大王、王女もお疲れでしよう。我々はそろそろ : うなず 蝦夷が促すのに、大王は深く頷きこちらを見る。 いとま 「そうだの、では暇をしよう。山背大兄も、田村もよいか ? 」 名を、呼ばれて。 意識が急速に呼び覚まされる かつらぎやまふもと すかてひめのみこやかた 目が覚めると、そこが葛城山の麓にあった酢香手姫王女の館ではなく、去年完成したばかり くだらのみや たむらのおおきみ の、自身の百済宮であることを田村大王は知った。 たむら

10. 明日香幻想 玉響の章

しり : ・ : と近付いてくる男に、大海人は尋ねた。 「そう。大王の命は、あなたの瞳の色を鍵とするものでした。よく一人でふらふらと出歩かれ るというのが本当で、ようございました。こんなにもあっさりと、単身のあなたにお目にかか ることができましたからね」 「実に美しい透明な瞳をしておいでだ。あなたの従者が、大王に語ったその通りに」 せつな 聞き留めた、刹那。大海人の動きが完全に止まる。 すき そのほんの一瞬の隙に。 かたまり 熱の塊が、左の肩を突き抜けた。 熱が、通り抜けて。もう一度、今度は確かな痛みを伴って抜き取られる。 「外しましたか : ・ 熱が通り過ぎた後に、痛みが、脈打って傷口を知らせた。 おわりおおあま 「十四年もの間、見事にだまして下さいましたな。尾張大海家が、決してあなたを見せようと しなかったわけだ。十四歳に、今なら見えますー おおきみ かぎ