唇の両端を吊り上げる。 「了解。じゃあ、ぬかるなよ」 静かに、来た道を戻っていく仲間を孫策は見送った。そして再び木の陰に埋もれて、時を待 待っている間に、男三人が奧の棟へとおばっかない足取りで向かっていった。 なんだろう ? 孫策は少し身を乗りだした。衛士の交替にしては男たちの服装が違うし、何よりも酔ってい るとい、フのカおかしい 三人の男は真っ直ぐ中央の建物まで行き、そこにいる衛士と一一言三言話すと、少し強引に衛 きぎはし 士を脇に押しやり階を登っていった。 よろめいた衛士が、止めようとするみたいに声を荒げる。しかし三人は何かをささやきか け、そのまま中へと入っていってしまった。 「 : : : なんなんだ : ・ 孫策はばかんとして、建物の前でどう見ても怒っている様子の衛士を眺めやった。側にいる ふんいき 残もう一人の衛士が、なだめるみたいな顔で何事かを話しかけている。あまり良い雰囲気ではな 花 さそ、フだった。 「けど : : : 三人増えたとなると、ちょっと大変か ? まあでも、酔っ払いだからな」 つ。
「公瑾。俺、さっきから考えてて、どうしてもわからないんだけどな」 ようひん しゅうゆ こめかみのあたりを爪でひっかき、楊斌は右手を同し速さでゆく周瑜に話しかけた。 じよ 整備された通りを、馬を引いて三人は歩いている。訪れた城市は舒と同じくらいの規模の広 さをもち、城市をゆく人の数も似たような感しであった。 三人は大通りからは外れて、市場のある城市の西側へと向かっていた。 月周瑜は楊斌に目を向けて、先を促す。楊斌は言葉を探しながら、質問を形にしていった。 花「どうしてさっきお前が説明してくれたみたいなこと、父上たちは気づかないんだろう。俺た ちが野盗の件を調べだすすっと前から、父上たちはあいつらを追っているのに」 「うー ものすごく、不満そうな顔を孫策はみせた。が、周瑜はそれを無視して続ける。 まちむら 「ですから今日は、もしまだ元気があるなら、そばの城市や邑里で、三日前の情報を仕入れて きませんか ? 夜の川を下っていった船を見た人がいるかもしれませんし。巣湖へは日を改め て、準備した上で行くということで」 地図を折り畳みながら、彼は右手、川の下流に見える城壁を目で示した。 こ、つ * 、ん たた つめ
236 「ほお。話に聞いた以上に、上玉だな」 予想どおり、男が三人である。身体が大きく、 いくらか酒が入っている様子だった。充血し た彼らのまなざしがねっとりと、蓮たち三人の少女の身体にまとわりつく。 こと じよう 「殊にお嬢さまは、別嬪だぜ」 なわ すぐにほどけるように後ろ手に縄を巻いている彼らの方へ、男たちは大股に近づいてきた。 ぶしつけな、卑しさをあらわにした目から逃れるように、しり、と、少女たちは房の奧へにし りながら下がる 「逃げても無駄だ」 おやっ 「親父さんに味見していただく前に、毒味が必要ってな」 じよう 「お嬢さまに、触るなっ ! 」 周瑜は男を阻むように蓮の前に出た。 がき 「豎子が、殺されたいか ? 」 えりくびつか 一番大柄な男の武骨な手が、ぬっと周瑜の首元に伸びて襟首を掴む。 「細っこい、首を。このままへし折ってやろうか」 まゆ 絞り上げられる痛みに眉を苦しげにひそめながら、周瑜は男から一瞬も目を逸らさなかっ しの 三人を、この状況で倒すことは不可能に近い。たとえこの場は凌いだとしても、騒ぎを聞き いや べっぴん おおまた
200 ずに唇を噛む。 「伯符」 りようひ そんな孫策の肩を、梁斐が軽くたたいた 「今は蓮どのたちの救出だけを考えよう。今 れこそ公瑾の行動が無駄になってしまう」 うなず ゆっくりと体からカを抜いて、孫策は頷く。そっと、右肩に置かれた梁斐の手を退けた。 「わかってる」 あら 心配を顕わにした七人の友人を見回し、それからおもむろに姚洪に向き直る。 「それで、これからどう動く ? 二人と三人で三組に分かれるか、それとも四人で一一組がいい のか ? 」 ひとかた 「お一方はここに。私の方の手伝いと、いざという時の連絡要員として残っていただきます」 きようしゅ 姚洪は軽く孫策に拱手した。 「あとは皆さまの判断にお任せ致します。ただ、慎重に。それだけを忘れないでください 「わかった」 「若君は、できれば目印を残すとおっしやっておいででした。ただ、機会がなければそれもか ないませんでしようから、当てにはできないかもしれません」 うだうだして、気を散らして機会を逸したら、そ
「ごめ : : : 伯符、公瑾。俺が、どし踏んで」 りようひ 切れ切れの声で訴えたのは、梁斐の横で後ろ手に高手小手に縛り上げられた少年だった。 がき 「良くやったよ、お前たちはな。とんでもない豎子どもだ。だが、子供のお遊びもここまで だ。武器を捨てろ」 孫策は周瑜と目を合わせ、蓮と彼女の側仕えとを見やって、ごめんと声にならないくらいの ささや 声で囁いた。 がちゃんと、刀が地面に落ちる音が一一つ重なる。 「よおし。じゃあ、豎子一一人はこっちに来い。お前らにはゆっくりとお仕置きしてやる」 きょ - っしゅ そう言いつつ、杜一兀はすぐ側に控える衛士三人に顎で蓮を指した。衛士たちは拱手し、素早 く三人の少女を取り押さえる。孫策と周瑜が、顔色を変えた。 やすやす 「お前らがそう易々とおとなしくしそうにないことは、重々わかってる。妙なことを考えるな じよう よ、お前らの大事なお嬢さまの顔や体に、傷をつけたくはないだろう ? うな じゅそ 孫策は唇をきつく噛み、呪詛にも似た低い唸り声を発した。周瑜は息を詰め、目を見開く。 「やはりな。このお嬢さまが、お前たちの弱味か。ならばやりやすい 残「て : ・・ : めえ : : : つ。蓮どのに何かしたら、許さない ! 」 花 「まだ寝言を言っている。立場を全然わきまえてないようだな」 くつくっと、杜元は喉の奧で笑った。楊斌を後ろの男に預け、彼はゆっくりとした足取りで のど
228 うな れいり 孫策は唇をゆがめ、低く唸る。梁斐の怜悧な目が、彼を見つめてすうっと細まった。 「どうする ? 一応火の元になるものは準備してある。幸い今日は乾燥してるし」 「はん」 ぼや 孫策は風の匂いをかぐみたいに、鼻を鳴らす。確かに気が乾いている。小火騒ぎぐらいは起 こせるだろう。 「陽動、危なくないか ? 「こうしてること自体、充分危ないって」 「そうそう。何をするにしたって、危険はっきものだよ」 どうやら皆、もうすっかりその気のようだった。 「頼んでいいか ? 「押し込む方に、何人いる ? しゅしよう 孫策の殊勝な言い回しに、楊斌が逆に尋ねてくる。 「こっちは俺一人でいし 騒ぎが始まれば、必す公瑾が内側から動く あご うなず 顎で見張りの立っ建物を示し、孫策は頷いた。 「女が三人だぞ ? 「だからできるだけ大がかりにやってくれ。こっちの見張りが、仕事をそっちのけにするくら いにな」 にお
がちがちになっている様子に、隣で聞いている周瑜はつい笑いたくなってしまった。そんな 自分に、がまんしろと命する。 姉を見つめる明るい瞳はあんなにも切ない何かを含んでいて、伯符がどんなに真剣か、自分 は解っている。 いちべっ 蓮は優雅な足取りで一一人の側までやってきた。周瑜に意味ありげな一暼をくれてから、孫策 に向き直る。 「今朝はすいぶんと早いのね ? 伯符どの。何か : そう尋ねかけて、回廊から一一人の幼児がばたばたと下りてくるのを目にして、彼女は小さく 驚きの声を上げた。 孫権と孫翊は、孫策の後ろにびたっとくつついて、両横からちょこんと顔だけを出して蓮を のぞ 覗き込む。 「あらあら。珍しいお客さまも一緒だったのね」 蓮はくすくすと笑い、腰を落として一一人の少年に目線を合わせた。 「おはよう、おちびさんたち。三人でそろってだなんて、今日はよほど特別なことでもあるの 残かしら ? 」 きん 花「あのねえ。ばくねえ、兄上の琴をききにきたんだよお 孫翊が大きな手ぶりを交えて答えた。五歳の言葉は、なかなか呂律が回らない。 ろれつ
「あの状況じゃあ、とてもしゃないが入り込めない 「結局ここで足止めか」 「そのうちに収まるって。様子を見ながら動こうぜ」 こ 目を凝らして塀の西側に並ぶ建物を見やり、孫策は舌打ちをした。 「だけどさ。何かずいぶんと物々しくないか ? どこもかしこもああだとしたら、結構やりに くいって気がする」 うな ようひん 楊斌が彼の真横に顔を突き出して、唸る。 行き来している人間を除いたとしても、警備はかなり厳重で、外から偵察して想像していた 以上に動き回るのは難しそうだった。それに中はすいぶんと広い 「まあその分だけ、ここが盗品の置き場だって雰囲気は、ばっちりあるな」 りようひ 身をかがめ気味にした梁斐が、一一人のすぐ後に立った。 こ、つきん 「蓮どのは、きっとここにいる。公瑾と一緒に」 うなず 孫策は無言で頷いた。 コ一手か三手に分かれるか ? どう行く ? 今のうちに決めておこう」 残梁斐が声を殺して彼に尋ねる。 花 「一人か二人はここに待機だな。万一ばれて騒ぎになったときに、向こうに知らせる奴が必要 れん そんさく ふんいき
そう取り決めをしたのは、激しく揺れる馬車の中だった。必す助けは来るから、それまで頑 張ろう。弱味を見せたりはしない、野盗に自分たちのことを、一切知らせないと、閉し込めら れた暗い空間で側仕え一一人と誓いあった。 だから馬車が動きを止め、閉ざされていた扉が開いて外へと引きすりだされた時も、後ろ手 に縛られ目隠しをされても、抱え上げられても、声は立てなかった。堂で目隠しを外され、野 盜の首領格と思われる男に値踏みする目で見られても、顔と身体に触られても、唇を閉ざして 残いた。自分の値段を聞かされ、売られる前に何をされるかをこと細かく教えられても、涙さえ 見せなかった。 やかた ぼう 、館の北に位置する建物にある小さな房に再び閉じ込められて、三人だけになっても、なお外 何があっても、どんなことをされても、絶対に何も話さないこと。とっさの悲鳴はど すじよう うにもならないだろうけど、意味のある言葉、素姓を知らせるようなことは、決して口にしな いこと をかけた。
一人っかまっていないと聞いてます。よほど組織の統制がとれた集団が、地の利を生かしたや り方をしているんだと思う」 「うん」 「それに野盗を見たといっても、伯符が追った男が顔を布で覆っていたように、他の連中も顔 せいしよう は隠しているでしよう。世将の父上は、きっと苦労なさると思います」 きまじめ けんい やくしょ 舒の府で彼らを招いて取り調べにかかった県尉の、息子と良く似た顎の張った生真面目な顔 を思い起こして、彼はため息を一つついた。 ようひん つかさど 舒の警察を司っているのは、一一人の共通の友人の一人である楊斌という名の少年の父親だっ そ、つり・よう やかた まち た。舒の城市で三番目に大きな館を構えている、楊家の総領である。 あざな 世将と一一一一口うのは、楊斌の字であった。 「そうだよなあ : 相づちを打ち、孫策は周瑜の青味を帯びた面を見つめる。そして軽く顎を持ち上げて、ロを 切った。 「で。お前はこれからその、野盗どもを追うとか考えてる ? 」 き・よ・つがく 驚愕が、周瑜の顔に走る。 「考えてるだろ ? それはほんの一瞬のことだったが。 はくふ おお