る。 少年の刀は動きは鋭いが、素直だった。日頃父や彼の武将たちに鍛えられていた孫策には、 慣れてしまえば見切りやすい 「聞けよ」 両手に力を込めて、彼は相手の刀の動きを封した。徐々に、自分の態勢へともっていく。技 きんさ 量は僅差かもしれないが、腕力は明らかに孫策の方が上であった。孫策自身、そしておそらく は少年の方もそれに気づいている。 ぬすっと 「俺は、盗人でも盗人の手先でもない」 あせ じり、と刀を押しやりながら孫策は言った。少年の顔に見えるのは、驚きと焦りだ。押され つつ、それでも彼は孫策をにらみつけた。 「では姉上を、かどわかしにでもきたのか」 「てめえ : ・ きゅうだん いわれのない糾弾に、孫策はかっとなる。カ任せに少年をつき放し、一瞬できた隙を狙って 彼は、その刀だけを弾き飛ばした。 少年の手から刀が離れ、高く空に弧を描く。 「話を聞けってば のどもと 孫策は彼の喉元に刃の切っ先をつきつけた。さすがに息が荒れている。 すき
148 「だけど、お前の姉上は」 しよう 「姉上は人一倍心配性なんです」 首を横にふった。 気を落ち着かせようと、孫策は一つ息をついた。濡れて落ちてきた前髪を、掻き上げる。 「それに伯符、さっきから申し上げよ、フと」 「わかった」 周瑜に最後まで喋らせずに、彼ははっきりと言った。 「お前がいやだって言フなら、 俺は一人で行くから。お前の姉君に約束したんだ、必す 採ってくるって」 「伯符 ! ですから、それはもう」 「お前は母君のところへ行って待ってろ。俺が特効薬を持ってきてやる。あとで絶対に、感謝 させてやるから」 にやりと笑ってみせ、彼はまだ何か言いかける周瑜をおいて内庭へ駆け出す。 雨は相変わらず降り注ぎ、日が完全に暮れたのかあたりはすっかり暗くなっていた。 走りながら、必要なものを考える。長くて丈夫な綱と、馬。明かりがほしいが、この雨では どうせ役には立たないだろう。 一人だと、暗い中での作業は時間を食うな。 しゃべ つな
「ちがう ! 俺は琴を練習なんてしたくないって」 両手に拳を作り、孫策は声を大にした。 「やめようって、さっきも言っただろう。あれは、お前に教わるのがいやだっていうのと違う んだ。お前の姉上にだって、俺は教わりたいなんて思わない」 一つ息をついた彼は、声の調子を落として、少し言いづらそうに続ける。 しつ 「母上はごちやごちや言ってたけど、俺は室にこもって楽器をいじるなんて趣味しゃないん だ。そんなことより、外で刀の稽古とかする方がよっぱど面白いし役に立つって。そう思う し 周瑜は琴の上に手をおいたまま、孫策の訴えを聞いていた。表情は全く変わらない。 「なあ、母上にお前の方から言ってくれないか ? 俺があんまり下手くそなんで教えるのは無 理だとか、練習しても無駄だろうとか、俺のことけちょんけちょんにけなしちゃって構わない から。母上はお前のことやけに気に入っているみたいだから、お前が言えばきっと納得する」 こんがん 最後は懇願するみたいな声になった。 夢「頼むよ , の けれど。 嵐 青 「できません」 げんか 周瑜は言下に拒絶した。静かな口調であるが、きつばりと。 こぶし
周瑜は黙っていた。机の前に座して、手を休めすにただ孫策を見つめるばかりだ。 「ええと : : : 」 さすがに気ますくなってきて、孫策はロごもった。 「なんとか、言えよ」 「あの曲は私が勝手に弾いたものなので、謳も名前もありません。もう一度同しのを弾けと一言 われても、多分できない , 周瑜は立ちあがり、奥の備えつけの棚に手をのばす。 「伯符はどのような曲がいいですか ? もしなにか好きな謳があるなら、それが一番ですけ 孫策はばかんと口を開けたまま、絶句した。 「お前、俺の話聞いてた ? もしかして、耳が悪い ? 」 「いえ。ぜんぶ聞いていました「弾いていたのが姉上でなくて、申し訳なかったです、 柔らかに目を細める周瑜に、そうじゃなくてと、孫策はもう一度説明をしようとするが きん 「姉上も琴の上手ですが、今はちょっと人に教えるのは無理ですので、それはあきらめて下さ そのうちに、機会があったら頼んでみますね」 彼が口を挟む余地を見いだす前に、周瑜は棚に並べられた巻き物の一つを取りだした。細い 竹を糸でつないだものである。 ど」 たな うた
ばち : : : っ : きん 琴の最後の音がそんな響きをもって奏でられるのと、周瑜がついまた琴の弾き手に目を向け てしまったのとは、いすれが先だったのか よいん どう わすかな余韻が消えても、冬の柔らかな陽射しの注ぐ堂の内は、奇妙な緊張感をたたえたま ましんとしていた。 震えの止まった絹の弦、そのわずか上の位置で、一一本の手が硬直している。孫策は唇を堅く むしろ えい 結んで、琴を睨みつけていた。卓の向こう側にいる聴衆ーーーーー彼の真正面で席に座る英と、 そんけん 英の抱く赤子と、その隣にちょこんとくつついている孫権と、赤子の誕生の祝いにきている孫 こうそんゅ 暠と孫瑜の兄弟ーーーーーのことは、あえて見ないふりをする。 た第 o 夢どんな顔をしているか、見なくてもわかった。右手に端座している周瑜が、たった九節のあ 嵐いだに二十回はこの手元に目を落としたのだから。その上最後の最後がこの音だ。 青あき 呆れているのと、わけわからないのと、今にも吹き出しそうなのと。 そ、フして にら かな そん
「なにをおっしやるのです。そんな、分別のないふる舞いを元気だなどと。お恥ずかしいかぎ りです」 まゆね 眉根をよせて、英はかぶりをふるが。 「だって、弟君のためですもの。大目にみてあげなくちゃ」 蓮はそう言って、半分英の後ろに隠れるみたいにして座っている孫権をのぞき込んだ。 「優しい兄上で、 しいわね」 うなず 英の袍にぎゅっとしがみつき、顔を真っ赤にして孫権はこくりと頷く。蓮は柔らかにほほ笑 むと、今度は顔を伏せたままの孫策に目を向けた。 きんねひ 「それに、奧にまで入り込んだのだって、琴の音に惹かれたからなんでしよう ? それなのに うむ 公瑾てば、有無も言わさず打ちかかっていったんですって ? ごめんなさいね、乱暴な弟で」 胸が高く音を立てるのを孫策は知る。 「姉上、それは」 周瑜が何か言いかけるのを、蓮はちらと睨むことでとめた。 「半月ほど前に、館に夜盗が入り込んだの。ここ一年くらいは、このあたりもちょっと物騒に はやがてん なってきていて。公瑾はそれもあって早合点したのよ。許してやって」 「え、でも。やつばり俺が、悪かったんだし。面倒くさがらずに、ちゃんと頼まなくちゃいけ なかったんだ。ごめんなさい」 ふんべっ にら
「ねえ。私たちは、従父さまのおっしやるようにすれば良かったの ? 従父さまのお申し出を 受けていれば、こんなことにはならなかったの ? 」 こばれる涙のままに、彼女は弟に訊く。周瑜の顔に動揺が走るのを、孫策は見た。ほんの一 瞬。 「教えて。私が縁談を嫌だなんて言わなければ、そうしたら」 「それは、違う」 周瑜は首を横にふり、蓮を抱きしめる。 「違います、姉上」 なだ 彼女は周瑜の胸に顔をうすめた。泣き声が、くぐもって響く。その細い背中を宥めるように おだ そっと叩き、同じ穏やかな口調で彼は、大丈夫と繰り返した。 「母上は大丈夫です。明日の朝には、目を覚ましてくださいます」 おえっ 泣く声はいっしか嗚咽に変わり、そうして静かになっていった。やがて、蓮は袖で顔を押さ うる えて周瑜を見上げる。潤んではいるがもう、流れるものはない。 夢周瑜はそっと手を放した。 嵐「着替えて参ります。伯符にも、汚れを落としてもらわないといけませんし。姉上も一度室に 戻って、身を休めてください。医師どのが私たちを必要となさったときに、応えることができ ないといけませんから。後で茶を、運ばせますー はくふ そで
「でけえや」 自分がこれから何をしようとしているのかを、一瞬忘れそうになる。けれどすぐ半べそにな っていた弟の顔と、そのしやくり上げる細い声を思いだして、彼は勢いをつけて塀をまたぎ飛 びおりた。 身軽な体はさしたる音も立てすに土の上に着地する。狙ったとおりに館の奥の庭は、人気も なくただ静かであった。 一かいし 「さあて、さっさと見つけるか。遅くなると、権がまたびーびー泣きだしてうるさいからな」 こしゅう 孫策は自分自身にそう一一一一口うと、塀にこすれて汚れてしまった袴褶を手で払いながら歩きはし めた。 いとこそんこう 捜し物は、弟にせがまれて従兄弟の孫暠と立ち会いをしていたときに、力を入れすぎて弾き こうきんぞくとせいばっ そんけんかひ 飛ばしてしまった一振りの刀だ。それは、彼の父孫堅が下郵から黄巾の賊徒征伐に出立する直 前に、弟に与えた物であった。その時孫権は父より、母を、兄孫策と共に守るようにと言い渡 されたのだ。 孫権はまだ三歳にすぎない。だから形の上だけのもの、ど言ってしまえばそのとおりであっ いんじゅ あかし 印綬ーーーである。 た。けれど孫権本人にとっては、父から授かった何よりも大切な証 なくしてしまうなんて、あってはならないことだった。その原因が自分であるなら、なおさ けん へい ひとけ はじ
あさか・しよう 天秤座、 A 型。 96 年 2 月に、スーパーファンタジー文庫「夏嵐 ~ 緋 の夢が呼ぶもの ~ 」でデビュー。コバルト文庫に「現は夢、久遠の 瞬き」一旋風は江を駆ける ( 上 ) ( 下 ) 」「江のざわめく刻」「二龍争戦 ~ 星宿、江を巡る ~ 」「鳳凰飛翔 ~ 華焔、江を薙ぐ ~ 』「旋風の生ま れる処 ( 上 ) ( 下 ) 」がある。日本と中国の古代史にどっぷりはまって いる。趣味は遺跡や神社仏閣を見ること、ケーキを作ること。原稿 に煮詰まるとたいていピアノに逃避する。 青嵐の夢 せいらん COBALT-SERIES 1998 年 7 月 10 日 第 1 刷発行 著者 発行者 発行所 ☆定価はカバーに表 示してあります 朝香 祥 小島民雄 株式 集英社 会社 〒 101 ー 8050 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 10 ( 3230 ) 6 2 6 8 ( 編集 ) 電話東京 ( 3230 ) 6 3 9 3 ( 販売 ) 印刷所 OSHO ASAKA 1998 ( 3230 ) 6 0 8 0 ( 制作 ) 図書印刷株式会社 Printed in Japan 本書の一部あるいは全部を無断で複写複製することは、法律で認め られた場合を除き、著作権の侵害となります。 落丁・乱丁の本はご面倒でも小社制作部宛にお送りください。送料 は小社負担でお取り替えいたします。 I S B N 4 ー 0 8 ー 61 4 4 7 7-8 C 01 9 5
181 青嵐の夢 「それに私が下に降りたのは、自分で決めてやったことです。伯符には関係ない」 「関係ないって、なあ : : : 」 どういえば良いかわからなくて、 / 孫策はロの中でもごも ) 」言う。周瑜は地面におかれた薬草 を拾いあげ、彼に手渡した。 「これは伯符が持っていってください。姉上と約束したのはあなただし、きっと伯符の方が先 に館につくでしよ、フから」 手の中の草と、周瑜とを孫策は見比べる。 「お願いしますー 周瑜はそういうと、彼に背中を向けて先に坂を下り始めた。