「お前の姉上の、縁談ってやっか ? 」 「そっちはおまけのようなものです」 えんりよ 彼の遠慮がちの言い回しに、周瑜はふっと表情を緩めた。 じよ 「舒の館と荘園を、本家の管理下に置くよう勧められているんです。母上にはもっと療養に適 らくよう したところを探し、私と姉上とは、洛陽の従父上の元に来るようにと」 まゆ 孫策は太い眉をひそめた。 しゅうちゅう 「おい。それってなんだよ。周忠の元につて」 「私と姉上とが本家に入るのは、別におかしいことではありません。兄上が京師に出仕なさる 際にも、従父上に後見していただきましたよ」 「三・ : だけどそれ、お前の家がなくなるってことなんじゃないのか」 しゅう 「同し周家に入るのですから、そういうのとは違います。それに、従父上が十歳そこそこの豎 子に分家の経営を任せたくないと思われるのは、しごく当たり前でしよう。私だって立場が逆 であれば、絶対に同じように考えますー ひとごと 夢淡々と、他人事のような口調であった。私がわがままなんですと、周瑜は笑う。 嵐「私も姉上も、母上と離れたくない。それで従父上に苦々しい思いをさせて、困らせている。 申し訳ないとは、思っているんですけど。どうしても : : : 」 ア : っ強、ん 「公瑾・ : ゆる みやこ こど
190 こ、つきん 「公瑾」 抑えようとして、それでも感情を抑えきれない、痛い声である。すがりつくようにのびてく る彼女の手を、周瑜は左手に包みこんだ。 「あれを、使って : ・ いの ? お母さまは、それで助かるの ? 毒だって、毒になるってお 医者さまはおっしやったわ。それなのに」 「姉上」 ド 5 自可こよっこ。 「だめ、だめつ、そんな」 「姉上、姉上。落ち着いて」 「だって公瑾 ! 母さまを、母さま」 高い声が、周瑜を、乳母を、そして同し場にいる孫策の耳を打つ。 「大丈夫です、姉上。大丈夫、母上はきっと目を覚まされますからー 「だけど、お医者さまが」 「大丈夫です」 「母さまに何かあったら、このまま母さまが亡くなられたら : ・ 周瑜にしがみつき、蓮は叫んだ。 れん そんさく
暑い 孫策はことさら明るい声で笑った。孫権は嬉しそ、フに顔を輝かせる。 おじうえ 「しゃあ、おみおくりできるね。叔父上たち、そろそろしゆっぱっつて」 「ああ、今いく。準備は、もうぜんぶ終わったか ? 」 腰を起こしながら孫策は尋ねた。 「だいじようぶって。にもっとか、ぜんぶもんのまえだよ。叔父上たちも、もう、もんのとこ ろ」 「へえ、けっこう早く終わったんだ」 うまこく 「そんなにはやくないよ。もう午の刻になるもの 「えつ」 ろう びつくりして、孫策は廊へ飛びだす。たしかに陽射しは天の高い位置から注がれていた。 「こんな時間になってたんだ」 四半時どころか、自分は一時近く室でばうっとしていたようだ。 あぜん 唖然として、彼は額にほっれてきた髪を指でかき上げた。 「はやく、兄上。まってるよ、みんな」 「ああ , 孫策は孫権の手を握って歩きだした。柔らかな丸い手が妙にべたついて熱いのに、あれ、と しつ
ていた。腕を組んで、目をきよろきよろさせて。が、ふいにほっれて落ちてきた前髪をかき上 げて、ロを切った 9 「あの、な。やめないか、それ」 「やめる ? なにを 「だからその。俺が、お前に琴を教わるってのだよ。昨日はあれよあれよと話が決まっちゃっ はさ て、俺が口を挟む余地なんて全然なかったから一言えなかったんだけどさ」 孫策は早ロで、まくし立てるように語る。顎で、扉の向こうを示した。 「俺がそこの内庭まで入り込んだのは、本当一一一一口うとお前の姉上が見れるかと思ったからなん だ。美人だって評判聞いたから。きっと琴を弾いているのは、お前の姉上だろうって思い込ん でさ。一目見てみたいって。だから、俺はただ単に琴の音に興味があって、奥に入ってきたっ てのとは : そこまでを一気にしゃべったが、周瑜の切れ長の目と視線がぶつかって、彼は一瞬言葉を見 失う。 「あ、でもさ、俺がお前の琴の音色にびつくりしたのも、ふらっとしたのも嘘じゃないぞ。水 夢 のだ、なんて思ったんだ。あと、夜の風。感じたんだ。あのときは本当に汗がひいて、鳥肌が立 うた しきよ、つ 青ったんだから。あれ、なんて曲だ ? 謳はつけてなかったけど、『詩経』かなにかか ? それ みんよう ともこのあたりの民謡とか」
「そう、ですね」 「そうだよ うなず 孫策は自信たつぶりに一一一一口う。周瑜は頷いて、牀から身を起こした。そうして孫策を、見直 宿符は、母上の元へ来て下さいますか ? 」 孫策の顔に浮かんでいた強い笑顔が、いきなり掻き消えるみたいになくなった。 「いいのか ? あいつ、来たのに」 ためらいがちに、訊く 「従上のことですか ? 」 孫策はこくりと首を縦にふった。 「お前たち、俺がいると迷惑だろう ? 俺は家族じゃないし、また嫌味とか言われたら」 「私は別に迷惑はしません」 「だけどさ」 夢「従父上と伯符とが顔を合わせるのは、あまりよくないだろうとは、思うんです。だから伯符 嵐のためには、来てほしいと一一一一口うのはいけないのでしよう」 青 周瑜は孫策をさえぎった。 「でも、姉上が伯符にいてくれることを望んでおられますし、それに す。 しよう
かが悪いなんて、ないはずなのに。 ふとした拍子に、周瑜の、あの切れ長の黒い瞳がまだ自分を見つめているような感しがし て、そうしたら胸のあたりとかみぞおちの辺とかが、変にきりきりするのだ。殴った拳の感触 が、まざまざとよみがえって。 今日もそうだった。 けんか 理由はわからない。喧嘩や取っ組み合いなんてしよっちゅうしているけど、こんなふうにな ったことは、これまでなかったのに。 「ああ、何やってんだよ俺は ! 関係ないだろ、もう」 いらいらして、思わず自分自身を怒鳴った。 「見送りだよ、見送り。これで叔父上たちには、今度いっ会えるかわかんないんだからな」 勢いつけて、一気に飛び起きようと息を吸ったとき。 「兄上」 堂のほうから声がした。 そんけん うかが 孫権が、扉のところから顔だけをのぞかせていた。心配そうな青い目が、こちらを窺ってい 夢 青「ぐあい、ど、フ ? まだきもちわるい ? 「もう平気だ。今、そっちに戻ろうって思っていたところだ」 なぐ
「うん」 「兄上だあ」 「具合、ちょっと良くなってきたって、母上が。会いにきていいって聞いたから。まだ熱が少 しあるみたいだけど、平気か ? 「なんだかねえ、ふわふわしてる」 せき かすれた声で、孫権は笑う。それが中途で咳になった。 「権っー 乾し 、た弱い咳は、何度か喉をついてから治まった。 「大丈夫か」 うなず かすかに頷いて、孫権はそのまま目を閉じた。浅い息をくり返している。 「なにか欲しいものとか、ないか ? まぶた そっと背中を撫でてやりながら、孫策は尋ねた。孫権は瞼を押し上げて彼に目を向ける。 くだもの 「食べたい物とか、飲みたい物とか。果物だったら水気あるから食べられるんじゃないかな。 もってきてやるよ」 夢 の赤みの強い唇が、動いたような気がした。身を乗りだして、なに、と孫策は訊く。 きん 青「 : : : 兄上の、琴」 虚を、突かれた のど
220 空いている方の手を、差し延べようとした。力が入らすに、指先だけがかろうして持ち上が おのれ てのひら る綾の白い甲の上に、周瑜は己の左の掌をのせる。 「今日、ぬかるみに足を取られて落馬してしまいました。大したことはありません」 きづか 気遣わしげなまなざしに、周瑜はおっとりとそう言った。 「きん : : : は」 「大丈夫です。すぐにまた、弾けるようになります やわ ほんのりと綾の表情が和らぐと、周瑜は苦笑めいた笑顔になる。なんとなく、照れているみ たいな感じがした。 「ほーら、こっちでも俺に感謝しなきゃな」 ささや 孫策は聞こえよがしに周瑜の耳元に囁く。少しだけ、彼の頬のあたりが赤く染まるのがわか 「太君」 医師が、堅い声で会話に割って入る。綾に向かって重々しく話しかけた。 「太君は今し方死地より帰られたばかり、あまり話してはなりませぬ。今はゆっくりと、休ま れることです」 しつ それから室にいる一同に、彼は向き直る 「皆さまも、それぞれの室へお戻り下さい。もう、大丈夫でございますから。そばに大勢人が おくさま おくさま ほお
かで今日の出発がだめになるんしゃないかと、大ましめに心配したぜ」 孫暠がしみしみと言うのに、彼はむすっとして唇をつきだした。 「それで『大丈夫か』かよー おばうえ 「ま、大事にしな。伯母上は身重なんだから、あんまり心配かけるんじゃないぞ」 うなず ぶっちょうづら 手を伸ばして孫暠は彼の頭を小突いた。孫策は鼻先で息をついて、仏頂面のまま頷く。それ から視線を隣にいる孫瑜に移した。 「元気でな」 「うん」 にこっとして、彼は孫策を見上げる。 きん 「琴、聴かせてもらえなかったね。兄上はあんまり期待してないみたいなこと言っていたけ はくふ ど、私は伯符の琴、聴きたかったなあー じやき 邪気のない言葉。それに顔色を変えたのは、孫暠であった。おい、といって孫瑜の肩を揺ら す。孫策は無言で顔をそむけた。 けれど孫瑜の方は、気がっかないのか気にしないのか、ゆっくりとした、どこか間延びした しゃべ ような喋り方で孫策に問う。 「今度会うときにはさ、ちょっとでいいから弾いてくれない ? 」 「 : : : それ、無理だ」
はやってられないって言ったのは、どこのだれだったつけ」 あっさりと切り返され、それも図星だったりするものだから始末が悪い。反論の言葉はもう うつわ 手元にはなく、彼は空になった器を床に戻してごちそうさまを言った。 「今日も行くのか ? 「毎日通うって、約束だ」 きん 「ねえ伯符。琴を教えてくれているのって、伯符と同い年の子なんだって ? どんな感じ ? 優しいの、それとも厳しいのかな」 しんしん 邪気のない声は孫瑜のもので、事情をよく知らない二つ年下の従兄弟は、興味津々といった 顔をしている。 「やさしそうだったよお。きれいで、ふわあってしてて。兄上とちがって、しいんとしすかな かんしでねえ」 もりやく 孫策が返事するよりも先に、孫権がそう言った。守役の膝の上に座って、うっとりと笑って 周瑜の姿を思い出しているのだろう。 「権、やさしそうっていうのとやさしいっていうのは、ぜんぜん違うんだぞ」 くぎ なぐ 孫策は一発殴ってやりたい思いを拳の中だけで抑えて、つとめて何気ないふうに釘を刺し けん