ため息 - みる会図書館


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「す、すまん ! 」 まつなみ 開口一番、松並が目の前で大きな体をふたつに折って頭を下げた。錬摩が松並と落ち しぶや みやますざか あおやま 合ったのは、渋谷警察署からしばらく宮益坂を上がった、青山の喫茶店だった。店の奥 たた まったテ 1 プルからは、叩きつけるような灰色の雨の中を、二四六号線を下っていく車が ひっきりなしに水たまりの水を跳ね上げるのがよく見えた。 「本っ当に、面目ない [ ほの暗い店内は落ち着いた内装で、静かなジャズとコーヒー豆を煎る深い香りに包まれ せんきょ ている。つい昨日の待ち合わせの店のように、高校生に占拠されて騒々しい、ということ はなかったが、逆に店中に響く松並の声に錬摩は思わず眉をひそめた。ざらざらと き 雨がアスファルトを叩く音を窓越しに遠く聞きながら、錬摩は遣り切れない思いでため息 を吐いた。 「仕方がありませんね、 いくら謝られても、あなたが捜査本部に任命されなかったのはど れんま

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ち。司法の末端、警察だって、マスコミっていう第四の権力の前。冫 こまてんで無力だって」 「情けないー 「面目ない」 ふたたび頭を下げる松並をすげなく見下ろし、ため息一つで思い出したくもない男のこ とは頭の中から閉め出した。コーヒーを飲み干し、軽く胸の前で腕を組む。 「 : : : それで、これからどうするおつもりなんですか」 顎をそびやかした錬摩を、松並が困り果てた顔で見上げた。 「どうしたらいいと思う ? れで肩を竦め、「あなた次第ですね」と素っ気なく言い放った。 「わたしは昨日、あなたがお友達を無差別に巻き込んだ事件の犯人を捕まえるのをお手伝 いする、と言いました。わたし自身は、犯人を捕まえたいわけではありません。ですか あきら ら、もし、あなたが捜査本部に加われなかったからといって、諦めて犯人が捕まるのを指 をくわえて待っている、というのなら : : : 」 「諦められるか ! 」 かんはっ どな にら 間髪入れずに松並が低く怒鳴った。海しげに口をきつく引き締め、どこか一点を睨む表 ふだん だえん 情からは、普段の頼りない印象が消えて、学生時代に楕円のポ 1 ルを追いかけてグラウン し 9 ドで泥だらけになっていた姿が偲ばれる。

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目を凝らしてわずかな明かりで読みながら、ため息混じりの苦笑を漏らした。先にクギ を刺されては、さすがに頭から叱りつけるわけにはいか のぞ ふすま そうこうしているうちに、和室の襖の滑る音がして、目をしよばしよばさせた顔が覗い ほまえ た。気配に気付いたのだろう、錬摩と同じ一一十五歳の体を持った男が、十歳の微笑みを浮 かべた。 「ーーれん ? 「ただいま、宗。遅くなって悪かったね」 静かに、いたわるように声をかけた。 「今、何時 ? 」 「まだ五時前だ。もう少し寝てなさい」 そういちろう 宗一郎は、手首の内側で眼をごしごしとこすった。「いい。もう起きる」 ふとん 襖を開けたまま、いったん顔が引っ込んだ。ごそごそと布団を上げる物音に一人微笑ん で、錬摩ももうひとつの洋間に入って部屋着に着替えた。 きようだい もとは内藤兄妹の年老いた母親が住んでいた、京都の町屋風の家の小さなダイニング ヾーにかけたコーヒーカいい匂い キッチンに明かりをつけた。顔を洗っている間に、サー を漂わせ始める。着替えた宗一郎が台所で、食器棚から錬摩のコーヒーカップを用意して こ しか にお

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びぼう 彼女はいろいろな意味でわたしたちの学年の有名人だった。当時から人目を引く美貌 を、ひけらかしもしなかったが隠しもしなかった。明るく色を抜いて軽くカットする髪型 はや つや かつぼ が流行っていた当時、真っ黒で艶やかな髪を背中まで伸ばして校内を闊歩していた。勉強 もよくできたしスポーツも一通りこなした。生徒会活動はしなかったが文化祭や体育祭で は実行委員を務めて、姉御の郊っ風で頼りにされた。二十歳年上の既婚の古典の教師に 対する思慕を隠そうともしなかった。この教師のほうが、魅力的な教え子のアプローチを じつにさらりとかわし続けたので、彼女の追っかけは「名物」として周囲に容認されてい 女子校というあの小さな世界で、彼女はあらゆる束縛から自由だった。だからこそ他の 生徒たちの鳩れと羨望を一身に集めていた。 彼女の変わらない自信に溢れた笑顔がふいに翳った。 「もしかしてあなたも、あの毒ガス事件に巻き込まれたの ? 「ええ」 つぶや 呟いて下を向いた。そのことは、彼女の前であまり話したくなかった。 「ケガは ? 症状は大丈夫なの ? 」 「ちょっと気分が悪くなったけれど、もう大丈夫。一晩病院に泊まれば家へ帰れるわ」 不幸中の幸いね、と答えて咲良は小さくため息を吐いた。表情の翳りに、わたしは直感 あふ そくばく

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とい・し 問橋東の、いずれも歩行者の一方通行が合流する交差点だ。人が集まり、かなりな混乱が 予想される。彼女が触発される恐れがある。 地図を松並に突きつける。 「尾行をしている捜査員に連絡してください。犯人は、これらの場所で、行動を変えるか もしれない。とくに注意してください、と」 「おい、この中で、犯人が動く確率の高いのはどこだ ? 錬摩は冷ややかに見返した。「確率の問題ではありません」 「だが、おれは、犯人をこの手で捕まえたいんだ。ここまで来て、ほんの百メートル先で 他の捜査員に捕まえられたんじゃ、立っ瀬がないだろ」 この期に及んで何を子どものように言い出すんだ、とやりこめようとした寸前に、錬摩 すく は松並の友人のことを思い出した。小さなため息とともに肩を竦め、いったん渡した地図 を取り上げて、厳しい目で三つの丸を見つめる。 「ーー浅草駅前、江戸通りと吾妻橋方向へ、人の流れが分かれる部分。駅からぞくぞく出 てくる人が、まだ流れに乗り切れないうえに、自分の向かいたい二方向へ強引に進もうと 船すれば、人と衝突し混乱も起きる。しかも、ここはメインの第一会場が目の前だ。早く進 みたいと無る人もいるでしよう」 「よし、分かったー

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テープルに身を乗り出す松並の詰まった目と、ゆったりと構えるように見えながら こ、つさく なにものをも跳ね返す意志を宿す錬摩の透徹した視線が、いっとき交錯した。 「 : : : ダメか」 むだ 「無駄です」 おうよう 鷹揚にうなずく錬摩の前で、松並が今度こそがつくりと肩を落とす。 「あああ、どうしてこう毎度毎度同じセリフを繰り返さなけりゃならないかなあ。 ここ数日、連日呼び出されては繰り返された松並の言葉で、今回もようやく引き下がる 気になったことが錬摩にも知れた。先ほどまでとは異なる、少々人の悪い笑みが錬摩のロ の端に浮かんだ。 「あなたが真っ向から突進する正攻法しか取れないからですよ」 しやくしやく うわめづか 恨みがましい目が上目遣いに余豁綽々の錬摩を見た。 てれんてくた 「おれに、桜井課長なみの手練手管ができると思うのか ? サッチョウ 「でしたら、お隣の警察庁に行って桜井さんに泣きついたらいかがですか」 「んなことできるか」 つぶや ふところ 深々と、ため息とともに呟いて、懐からタバコを取り出して火をつけた。錬摩はにやり と笑って、氷が溶けて透明な層を作ったアイスコ 1 ヒーに手を伸ばした。 ふじさき 錬摩が相棒の藤崎とともに、警視庁からの依頼を受けて凶悪犯や異常犯罪の心理分析を うら とうてつ

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らち 「奴が、拉致される前に吹き込んだ、っていう、アレか」 かすかにうなずく錬摩に、内藤は盛大なため息を吐いた。 「そんなもん、後生大事に持ち歩いているなよ。つくづく、宗一郎に関しては未練がまし い奴だな」 うなが 文句を言い言い玄関に上がって、錬摩を促して台所へ入りかかった内藤が、ふと思い 至ったように足を止めた。 「もしかして、今夜の宗一郎のご乱心の原因は、それか」 口を開かない錬摩に答えを察したらしい サイテー 「うわ、最低」 つぶや さかな 錬摩の神経を逆撫でするように、内藤はわざと軽薄に呟いた。煽られるままに、ギリギ にら リとねじ込むように鋭い視線で睨むものの、錬摩には反論する気力も残っていなかった。 傷だらけになったテープルに内藤が広げたものは、弥生が用意してくれた焼きおにぎり にいがた と漬物、白身魚のマリネ、そして、お中一兀の熨斗のついた、新潟の地酒のビンだった。 「近所の公園のプランコで、お前が追いかけてきてくれるのを待っている、っていうパ むだ タ 1 ンはなかったぞ。こうなると、奴の行動範囲は無限大だからな。無駄に歩き回らず あきら に、諦めて帰ってきた」 ちょこ さかな 用意よく取り出した青い切り子のお猪口に冷酒を注ぎ、マリネを肴に勝手に始めながら やっ あお

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テレビドラマで見るように警察手帳を突きつけられるのかと、わくわくしながら待ってい た。鬼ごっこの鬼になったような気分だった。 ゆかた ただ、今日この日を迎えるまでは、捕まれない。汗を押さえるふりで、浴衣の帯の上を そっと押さえた。型くずれしないようにプラ板を入れた内側に、小さなアンプルの手り を確かめる。 会場までの道順は詳しく知らなかったけれど、迷うことはなかった。じりじりと進む人 の流れに流されるままに歩いていくと、国技館を通り過ぎ、広い庭園の前を通り過ぎ、大 きな橋へ向かって、流れは自然に曲がった。ようやく橋へ差し掛かったころ、大きく開い た川の上流のほうから、パアアアアン、と夜空を揺るがす第一声が響いてきた。 夜空に、一瞬、大輪の花火が花開く。 いくえ ため息とも、感嘆ともっかない声が、取り囲む人々の口から漏れた。それは幾重にも幾 重にも重なって、地響きのようなどよめきになった。 すみだがわ 東京の夏の風物詩、隅田川の花火大会の開幕だ。 ひとつの花火は呼び水のように、次々と花火が開いては消え、また開いた。花火に魅 : 入って思わず足を止めるとすぐに、警備員が立ち止まらないようにと怒鳴る。そこかしこ こわだか こんとん で聞かれる悪態、声高なおしゃべり、子どもの泣き声。地上はかくも混沌としている。 まぎ わたしは警備員の目に留まらないように、流れに紛れてゆっくりと歩き続けた。今日の

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郎を置いていくのも気が引ける。宗一郎の件は 0 担の仕事、捜査本部に加わっているとは いえ、本務は O 担だしなあ、と適当に言い訳を考えて、松並はその日は宗一郎につき合う ことに決めた。 たたみ 畳の目に染み込んだ、こばれたコ 1 ヒーをせっせと拭きながら、昨晩からの騒動を省み て、とんだ女難の相だよなあ、と、一人ため息を落とすのだった。 あらかわ 荒川べりは強烈な日差しをさえぎるものもない。大きく開けた空の下を、桜井は漫然と かわも / いた。川面はぎらぎらと輝いている。向こう岸では少年野球の一団がのんびり練習をし ている。 松並の家のまわりは、ごちやごちゃと道が細くて車が入れない。それでも桜井が、さら に土手を少し歩くところに車を止めたのは、藤崎と少し歩きたいと思ったからだ。 たまがわ 藤崎と初めて会ったのは、もう十年も前のことだ。風薫る五月、藤崎は多摩川べりの高 おおたき 校の二年生だった。桜井は入庁一一年目で、警視庁へ出向したばかり。大滝錬摩という逸材 はや みいだ を見出して、大学で研究していた犯罪心理学を実践できると逸っていたころだ。九歳も年 下の少年に、自分がこんな感情を抱くようになるとは思ってもみなかった、あのころ。 いだ

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傷つかずにはいられなかったはずだ。 それならば、きちんと自分の口から説明しておきたかった。 苦い後悔が、後から後から押し寄せる。胸が詰まって、食べるものも喉を通らなかっ た。仕方なく、酒ばかり飲んだ。 すく 押し黙ってしまった錬摩をちらりと見やり、肩を竦めて、内藤はテープルのかたわらに 置かれたカセットテ 1 プに手を伸ばした。 「それにしても、こんなもの、宗一郎もどこから引っぱり出してきたんだか」 指先でみ上げ、ためつ眇めつ眺める。つられて錬摩も目を向けた。灼けてチリチリに なってケースからこばれたテ 1 プが痛々しくて、見ていられなかった。 「子守歌がわりに毎晩聞いていたわけではないですよ。ただ、ある、というだけで安心で きた。 じちょう 唐突に、自分の本心に気付いて、錬摩は自嘲の笑みをこばした。 「不安だったのかも」 うなが くちびるしめ 内藤は黙って先を促した。きんと冷えた冷酒で唇を湿した。 「手元から離しておくと不安だった。また、自分の手の届かないところでどこかへ消えて しまうのではないかと思うと、気が気でなかった。日々、成長していく宗一郎を見守るの やま は幸せだったが、同時に、日々、消えていく藤崎に対して、疚しかった。誰もが奴を忘れ のど やっ