142 あわ 慌てて礼を言い、けれども思わず一言こばれた。 「ーーーそれにしても、なんで松並さんのところなんだ : : : 」 『それはこっちが聞きたいよ』 深々とため息を吐かれて、錬摩は恐縮した。 「すみません、お手数をおかけしました。朝になったら迎えに行きますから」 そのことなんだが、と、松並はさらに盛大にため息を吐く。 『しばらく、そっとしておいたほうがよさそうだぞ』 「宗一郎が、何か言いましたか」 『何にも言わないよ。あのおちゃらけ小僧がムスッと黙りこくっているから、あ、こりや 相当深刻だな、とは思うけどな。おれの家にいることを、お前に知らせるなと言われたか ら、この電話のことは内緒だぞ』 「そんな : : : それじゃあ松並さんも迷惑でしよう」 『無理に連れ戻そうとしたら、今度はどこへ逃げ出すか分からんぞ、あの様子だと。うち でしばらく保護しておくから、お前は安心して仕事に励んでくれ』 「 : : : そういうことですか」 『そういうことだ』 が 返事はとても楽しそうで、どうして誰も彼も、自分を言い負かすことに生き甲斐を感じ
31 EDGE3 「お忘れかもしれませんが、ここは松並さんのご指定の店ですからね」 「通るばかりで入るのは初めてなんだよ」 トレイを断って片手で握りしめてきたグラスのオレンジジュ 1 スを一息に飲み干して、 松並がため息を吐いた。 めがね その様孖を、眼鏡のレンズの奥から冷ややかに見守っていた錬摩が、胸の前で腕を組 み、顎を聳やかして唐突に口を開いた。 「それで ? 」 「は ? 」 グラスの向こうから目を丸くして錬摩を見返した松並は、ふいにその問いに思い至った ように、困惑した表情を浮かべた。 「説明しないと、だめか ? 「約束しましたから、おっき合いはしましよう。でも、説明するのが社会人のルールで 1 ) よっ ? ・ 「そうだよな」 テ 1 プルが吹き飛びそうな盛大なため息を吐き、松並は肩を落とした。 「実は、ムフ日逢うことになっているのは、ちょっといわくつきの相手でな : 大学時代、松並には一人の友人がいた。親友と呼んでもいいほどの仲だった彼は、松並
262 柵から飛び降りた錬摩と彼女との間を、突然、ひとつの背中がさえぎった。今にも空へ 放られるところだったアンプルを握った手ごと、大きな手が握り込んでいる。 「だれ ゆが 振り返った顔が驚きに歪む。 「だめだよ、お姉さん。これ投げたら、人がいつばい死ぬんでしよう ? 」 「宗一郎ワ 宗一郎はもがく彼女の両手を静かに降ろさせると、片手ずつ、指を開かせて、小さなビ ンを取り上げた。 「なんで、ここに」 ほまえ すらりと伸びた背が振り返って、いたずらを見つかったようににこりと微笑む。 「錬摩、おれのことちょっとも考えないんだもん。どこにいるのかぜんぜん『見え』な かったよ」 「宗一郎 : : : 」 あんど すき 安堵のため息を吐いた、一瞬の隙だった。 , 彼女は宗一郎の手を振りきって、猛然と正面 へ走った。 とどろ 地上から、人々の歓声とため息が地鳴りのように響いてきた。盛大に爆音を轟かせ、今 ゆかた 宵最後の花火が華々しく夜空を輝かせた中へ、彼女は浴衣姿の身を躍らせた。 さく
168 「宗ちゃあああん、なんていい子なのお ほお すりすりと肩口に頬をすり寄せる酔っぱらいの処遇に困って、肩を撫でながら松並に情 けない顔で助けを求める宗一郎に、松並は盛大なため息を漏らした。 こいつは、天性のスケコマシだ : ・ やるかたなく、松並はすっかり気の抜けたビ 1 ルを自棄になって飲み干した。 すっかりできあがった咲良を、一台きりのべッドに寝かしつけたのはすでに日付も変 わって一時近かった。 「悪かったな、酔っぱらいの相手をさせちまって」 飲み散らかし、食い散らかした跡を片付けながら松並が言う。 「ううん。咲良さんって、 いい人だよね」 ふとん 座卓を片付けたあとに二人分の布団を敷きながら答える宗一郎に、考えたところで宗一 郎には筒抜けだと観念した松並がロに出した。 「なんとかいうアイスひとつで釣られてるんじゃないぞ」 「なんだよ。松並さんだって『うまい、うまい』って二杯もおかわりしたじゃないか」 そんな問題ではないような、と、泡だらけの洗い物にため息を落としながら漫才のよう け・いい な会話をしていると、突然、携帯電話の呼び出し音が鳴り出した。 あわ
283 あとがき けるんじゃないかなあ、と思える話にまとまるヒントをくれたさんと、ただでさえ遅れ に遅れたスケジュ 1 ルのなかで、最後のわがままを聞いてくださった講談社の野村様に 心より感謝申し上げます。 おきもとしゅうこ うるわ それから、今回もため息が出るほど麗しいイラストをつけてくださった沖本秀子先生。 いつもながら本当にありがとうございます。みなさん、表紙を見るときは、忘れずに帯を れんま 外してご覧ください。わたしはここに隠された錬摩のくるぶしに悩殺されました ( 笑 ) 。 そして最後に、このシリーズを読んでくださっているみなさま、これから読んでくださ るみなさまに、最大級の感謝を込めて。 二〇〇一年早春 ( 実は問題のラスト五ページはこれから書く ) とみなが貴和拝
うろん 胡乱な目で見下ろすと、冷たい視線に怯んだ松並が、さも言い出しにくそうに一一 = ロ葉を濁 した。 「ちょっと、・ : ・ : 頼みたいことがあるんだが」 むだ 「このうえ何を無駄なことを」 あわ 鼻先で笑う錬摩の声に、松並は慌てて首を振る。 「ち、違う違う。仕事じゃなくて、ちょっとした個人的な頼みなんだ」 うかが 「お伺いする義務はありませんね」 「そこを、頼むと言ってるんだよ」 再三の依頼をすげなく断ったばかりなので、さすがにこれ以上冷たくするのもためらわ れた。肺の底から押し出すようなため息を漏らす。 「聞くだけ、お聞きしましようか」 腕を組んで冷ややかに見下ろす錬摩の白い顔を、松並は怯んだ様子で見上げた。 「ーー今晩、ヒマか ? 」 「は ? 」 おび 不審げに眉をひそめて威圧すると、大柄な警視庁の刑事はさらに怯えて口ごもる。 「あ、あの : : : 」 普段はそれほど気の短いほうではない錬摩も、煮えきらない松並に次第にいらいらして ふだん まゆ いあっ ひる
176 しばらく、気まずい沈黙が落ちた。ため息にも似た笑みを浮かべて、桜井が口を開い いそうろう 「松並も捜査本部に入って、これから忙しくなるでしよう。もし、藤崎くんの居候が長 くなるんだったら、松並の家に大の男二人で暮らすのは不自由ではないかしら、と思った ものだから。 だから : : : 」 らしくもなく、桜井は言い淀んだ。 「うちは父が死んでから母と二人暮らしなの。部屋も余っているし、よかったら、わが家 を提供するわ」 よよぎ 思い切ったように言う。松並は驚いた。桜井は、母親の実家が資産家で、たしか代々木 はちまん うわさ 八幡に、バブルのころには億の値が付いた高級マンションに住んでいるという噂だった。 だったらおれが居候します、と挙げそうになった手を押さえ、松並は宗一郎の答えを待っ しし , イカ、ない 宗一郎の答えは素っ気なかった。長い脚を抱え込んで、隣家の屋瓦しか見えない窓を つぶや 見つめている。一方の桜井も、「そう」と小さく呟いたきり、黙ってしまった。 「どうして ? よど
ゅうちょう られたと気付いた犯人に、悠長に花火見物で人混みに出かける心の余裕があるとは考え られない。 それではなぜ、突然彼女は花火大会へ向かったのか。 ひとつはっきりしていることがある。逃げ場のない百万人の見物客の人の波に身を投じ た被疑者は、おそらく、現場から逃げることを、つまり、自分の身を守ることを考えてい 捨て身になった彼女が何を考え、どういう手段に出るのか。 肌にまつわりつくような湿気に、胃がむかっくように感じた。 待ち合わせ場所のシャッタ 1 の下りた銀行前で松並は、汗をかきかき憔悴した面もち で立っていた。 「なんちゅう人出だ」 ため息混じりにこばす声もカ無い。泣き言は聞き流し、挨拶も抜きに錬摩はまわりの人 間には聞き取れない小声でねた。 「被疑者の現在位置は ? 「江戸通りを北上中。もうここも五分ほど前に通り過ぎた」 「何人っいてます ? 」 あいさっ しようすい おも
腰をさすりながら洗い物に戻り、今夜はまったく、女難の相でも出ているんじゃないか と、その夜何度目かのため息を松並は漏らした。 だが、女難の相は翌日まで尾を引いているとは、松並は思いもしなかった。 捜査本部についたからには、土日も返上は当たり前だ。翌日の土曜も、松並はいつもど おりの時間に起き出して出勤準備に追われていた。 咲良もよろよろと起き出して、昨晩は迷惑をかけたから、と、文字どおり勝手知ったる 他人の家の台所とばかりに、目玉焼きを焼いている。夜更けの電話が尾を引いているの か、宗一郎は今ひとっ冴えない顔でトーストにマ 1 ガリンを塗っている。 そこへふたたびの電話、しかも今度は携帯電話ではなく家に引いてあるほうの電話がや かましく鳴り響いている。 「誰だよ、こんな朝つばらから : ・ ほおたた アフターシェ 1 プ・ロ 1 ションをばちばちと頬に叩きながら、受話器を取った松並は、 相手の第一声に凍り付いた。 『おはよう、松並巡査部長』 Ⅲ「さ、さささささ」 よふ
234 『やはり、避けられているのかな。わたしがいるから、帰ってこられないのかもしれない け・い」い ふた 寂しそうに笑いながら、丸い携帯灰皿の蓋を器用に片手で開けて、灰を落とす。 『これだけ吸ったら、帰るか』 一口吸い、ため息といっしょに深々と煙を吐いた。一一 = ロ葉にはならなかったけれど、寂し いため息だった。 おれも、寂しいや。 会いたいと、思うけれど、今すぐ錬摩の元へ行くことはできない。錬摩が会いたがって いるのが、自分なのか、「藤崎ーなのか、分からないからだ。 なが 宗一郎は、小さくプランコを揺らした。顔を上げて、錬摩が眺めているのと同じ、少し ずつ星が見え始めた夏の夜空を見上げる。 おも 同じ空を見、同じ想いでいるのに、錬摩と宗一郎は一緒にいない。 帰りたいよう。 っや ひっそりと、心の中で呟ゃいた。 こた そのとき、錬摩のポケットで携帯電話が鳴った。錬摩は落ち着いて取り出して応える。 相手は松並のようだ。答えながら、錬摩の中で緊張感がせりあがってくるのが分かっ