270 じゅう 頭を食べさせないでよかった。 よかったと、頭では考えるのに、期待していたような壮快感はなかった。ただ、椅子の 上にカ無く座り、母親をじっと見つめていた。 何度目かのすすり泣きのあとで、ふいに顔を上げて、母親が言った。 「お姉ちゃん、すこし痩せた ? 」 「そう ? 自分の身なりへの関心が薄れていたので、つい、おざなりな返事になった。自分の頬を 触れてみる手は、思いのほかかさついていた。 「ちゃんと食べてるの ? 」 どうだったろうか。食べるよりほかに楽しみもないので食事の時間は待ちどおしかっ た。けれど、ばそぼそのご飯と、古い油で揚げた衣ばかりの天ぶらだけのような食事は、 食欲をそそらず、箸でつついて終わることも多かった。 「だめよ、ちゃんと食べなきや。お母さん、お弁当作ってきたのよ。刑務所のご飯はまず いっていうでしよ」 わたしは急に恥ずかしくなって、後ろに彫像のように黙って立っている婦人警官を省み あさって た。警官は表情ひとっ変えずにどこか明後日のほうへ視線を合わせていた。 母は足下に置いてあったらしいバッグから、紙の包みを取り出した。本当にお弁当か、 ほお
むだ 無駄だと分かっていながら冷たい水で顔をこすり、タヌキになったアイラインを洗い流 こんいろ した。握っていたハンカチのきれいなところで水滴を拭い、細いチェックの入った、紺色 なが の麻のハンカチを、ようやく落ち着いて眺めた。名前が入っていないかと広げてみたが、 苦しんでいたわたしにこれを手渡してくれた男性は、そこまで気質ではないらしい ハンカチを、返さなければいけない。 ) しや、もうひどく汚してしまったから、新しい ンカチを贈ろう。お礼を言って。あなたのおかげで助かりました、と。 顔を確かめる余裕はなかった。でも、背中をさすってくれた手の感触、二の腕を引き上 げてくれた腕の強さは、若い男性だと思われた。 被害者のテロップに、男性の名前は三つしかなかった。ひとつは四十代で、もうひとっ とし はわたしと同じ歳、そして最後が十代だ。今も耳に残る、落ち着いた口調は十代の少年の いけはたひろき ものではありえない。わたしの命の恩人は、「池端宏樹ーさんという人だ。 ようやく気持ちが落ちついた。そろそろべッドに戻ろうと、ふたたびロビ 1 に出た。初 つぶや めて知った男性の名前を繰り返し呟いて、子守歌がわりにして眠ろう。 かんだか そのときふいに、ホールのがらんどうの天井に甲高いヒ 1 ルの音が響いた。歩調は速 あわ あふ かったが、荒てふためいているふうでもなく、真っ直ぐ、自信に溢れてロビーを突き進ん でくる。 ロビーの真ん中で立ち止まり、顔を上げると、ほの暗いアトリウムの向こうに現れた、
166 あわ 松並が慌てて口を挟むより早く、宗一郎がムッと口を歪めた。 「錬摩は女だよ」 「ちょーっと待ったー 座卓にバンと両手をついて、松並は急いで誤解に誤解の重なる不毛な会話を断ち切った。 いっさい 「取りあえず ! おれが全部説明する。だから二人は、基本の事実を理解するまでは一切 がっさい 合切黙っておれの話を聞いてくれ ! あっけ 呆気にとられた沈黙が、狭い部屋中に立ちこめた。半眼で松並を睨みつつ、咲良がビー ルを一口飲む。 「いいわよお。その説明とやらを聞こうじゃないの」 おいおいお前、まだビールをグラスに半分も飲んでないのに早すぎるぞ。内心ハラハラ しながら、これ以上、咲良の正体がなくならないうちにと、松並は手早く、大滝錬摩の素 性と貢献、そして宗一郎の特殊な事情を、警視庁職員の職務規定に反しない程度に説明し しんちよく たずさ た。宗一郎には、これまた捜査の進捗状況に触れないように、錬摩の携わっている事件 と咲良との繋がりをかいんで説明する。 「ふうううん。それで松並くんが、宗一郎くんといっしょに住んでいる、ってわけ」 うさんくさ 咲良の胡散臭げな視線は酔いのせいか、他に含みがあるのか、聞いてみたいような聞く のが怖いような気持ちで松並はうんうんとうなずいた。 ゆが にら
。にはいかなかったのだろう、透明なプラスチックケ 1 スに変えられている。商品 の棚が台より十五センチほど前へ出ていて、その下にごみ箱は収まっている。その中へさ りげなく青酸カリ入りのビニール袋を落とし込み、素知らぬ顔でその上にティッシュを捨 ててまた棚下へ押し込んでおけば、まず見つかる心配はないだろう。 錬摩は顔を上げて売り場を見渡した。もちろん客は女子高生だけではなく、大学生や o らしい女性もいたが、 , 彼女らはたいてい一人で買い物をしており、高校生の集団に邪険 にされていた。 ねら この時間を狙ってガスを仕掛けたなら、ターゲットは女子高生だというのは、ほば間違 いないだろう。そして、女性ばかりの化粧品売り場に人目を引かずに毒を仕掛けられるの は、女性しかいない。 犯人は女性だ。その点は、警察の調査書の見解と一致する。 それならば、女子高生たちを狙う女性は、どんな人間だろうか。報告書にあった警察の 内部見解では、女子高生の犯行ではないかとほのめかしていた。 たしかに高校の化学実験室なら、装置に使った薬品類は簡単に手に入る。けれども、女 子高生が無差別に誰かを痛い目に遭わせようと思ったら、誰でも知っている劇薬を選ばな あふ 。もし、それほど殺意に溢れていれば、対象に無差別に「女子高生」を狙ったりしな 。もっと具体的に、自分が敵意を持っ個人に向かうだろう。 じやけん
とどろ まだ、雷の轟きは続いている。それともこれは、わたしの心臓の音だろうか。 のどもとせあ いつものように池端さんの病室に滑り込んで、ドアに背を預けた。心臓が喉一兀に迫り上 がってきたように、息が苦しい なんとか呼吸を落ち着けると、明かりの落ちた病室の奥を見やった。 池端さんは、いつものように、ひっそりと眠っていた。穏やかな眠り、低い機械の音、 くらやみ 暗闇の中の小さな明かりは、いつもわたしを幸せにした。 べッドにそっと近づいて、静かな眠りを見下ろした。 「こんばんは、池端さん」 ろうか 廊下の端で、ふと振り返る。今しも病室のひとつに入るところだった女性が、歩を止 め、こちらに白い顔を向けた。 カッと廊下中の窓が白熱したように光った。 かんはっ 間髪入れず、ほとんど頭の上から、雷の響きが落ちてきた。女性はすでに病室の中へ消 えていた。そこは、たった今、錬摩が出てきたばかりの病室だった。 ここち ふいに、首筋を冷たい手で撫で上げられたような心地がした。 ◆
「咲良さん」 錬摩がそう呼びかけたのは、もちろん故意だ。 「ここは病院ですから、もう少し声を落とされたほうがいいですよ」 ひとみ ぎりりと音がしそうに錬摩を睨み付けた瞳が、黒く燃え上がるように光った。 「 : ・・ : 咲良ちゃん ? 」 すきま いつの間にか、病室のドアが開いていた。細く開けた隙間から、患者の母親が顔を出し 「おばさま」 振り返った咲良の声は別人のもののようにか細かった。 「遅くに、どうもありがとうね」 しようすい 憔悴しきった中年の女性をいたわりつつ、咲良は病室の中へ消える。振り向きざまに、 「あとで、ゆっくり説明してもらうからね」と小さく捨てゼリフを忘れなかった。 おうしゅう い′」こち とうとっ せいじゃく 唐突に戻ってきた静寂に居心地の悪い思いがしたのか、きつい応酬のサンドイッチか ら解放されてほっとしたのか、松並はがつくりと肩を落とした。 「なんちゅうことを言い出すんだよ」 はな 松並の独り言は端から無視して、錬摩は閉じられたドアを眺めてしれっと言った。 にらっ なが
長い陽もようやく暮れ始めた時刻、店は、いつもどおりに営業していた。 たそがれ 離れた場所から、黄昏に浮かぶ店の明かりを見たとき、落胆すると同時に、なぜかほっ とした気分になった。歩調を緩めて店に入った。 カス発生装置を ものの、これからどうしようか、何も考えていなかった。、 入ったはいい けんのん 持ち帰ることは、自殺行為だ。だったら、さっさとこんな剣呑な場所を離れるに限る。そ んな理性とは裏腹に、自分の作ったガス発生装置が、本当に失敗だったのか、確かめた てっしゅう かった。もしかすると、たまたま店員に不審物として発見されて撤収されただけかもし れない。 意を決して、一一階の売り場へ上がった。設置した場所を、見るつもりだった。 なが 階段の壁にまでびっしりと並べられた小物を眺めながら、ゆっくりと階段を上がる。一一 階には、思いのほか人の気配がする。と、思うと同時に、よろよろと飛び出してきた影に 思いきり上から体当たりされた。 抱き留めた、アルバイトらしい店員は、口元を押さえて階段にうずくまった。鼻先を、 かす 嗅ぎ慣れたアーモンド臭がふうわりと掠めた。 ぐらり、と目の前が暗転したのはその直後だった。貧血のように頭が揺れて、手近な手 すりにしがみつき、そのままずるずると階段にしやがみ込んだ。 どよめきが店中に広がる。ようやく誰かが不審の声を上げたとき、わたしは手すりの柱 ゆる
「分かってるじゃないの、ばうや」 宗一郎の複雑な事情を、咲良はもちろん知らないはずだが、もともと頭のいい女性なの でおおよそを察したのだろう。少々改善した雰囲気にホッとして、座卓を囲んだ咲良にも ビールを勧めながら松並がねた。 「ところで、こんな夜遅くにどうしたの ? その一言に、ふたたび咲良の視線が険しくなった。 「この前病院で会ったときに、わたし言ったわよね。『あとで説明してもらうわよ』って。 あいさっ なのに、松並くんったら挨拶もなしに帰っちゃったじゃないの、あの人といっしょに」 最後の一言が、ことのほか鋭く、厳しく、語気荒かった。松並はがつくりと肩を落とし おおたき てうなだれた。咲良の誤解は大滝が好きなだけ引っかき回していったせいで根深く、しか も宗一郎の前では、はっきり説明しづらい諸事情もある。 うら あお 勝手に松並のグラスにグラスを当てて、小気味よくビールを呷る咲良を恨めしげに見て いると、宗一郎がカレ 1 の皿を持ってきた。アイスをもらっただけですっかり懐いてし ま「たらしい。咲良の前へそそくさと皿とスプ 1 ンを並べながら、宗一郎が幸ねた。 れんま 「お姉さんは、錬摩のこと、知ってるの」 咲良はちょっと驚いた顔で宗一郎を見た。 「錬摩って、あの男のこと ? なっ
きないだろうと医師に診断された男は、自分にとって、死んだと宣告されたのと同じこと からだじゅう だった。あのときの絶望は、思い出しただけで、今でも身体中の酸素が絞り出されるよ うに息が苦しくなる。 奇跡的に息を吹き返したけれど、結局、あの男は戻ってこなかった。それでも宗一郎を 育て続けるのは、単なる藤崎への義務か。眠り続ける藤崎のかたわらで見守り続けること と、同じことなのか。 席を取るために頼んだコーヒーは、手を付けないうちにすっかり冷めてしまった。雨は 衰える気配もない。 ふと、眠り続ける男の顔を見よう、と思った。そこに答えを求めたわけではない。た だ、何かのきっかけでも掴めればと、思っただけだ。 ひるがえ 織ったままだった薄いレインコートを翻して、錬摩は店を出た。 ろうか 病院は早いタ食の時間を過ぎて、廊下の明かりも半分に落とされていた。面会時間も とっくに終わって、院内はひっそりと静まり返っている。急患の入り口から入って、錬摩 は影のように、薬品の臭いの染み付いた廊下を歩いた。激しい雨の音が、静かな足音をか き消してくれた。 かつぎ込まれたときの集中治療室から、個室に移ったと聞いていた。数は多くなかった つか
うろん 胡乱な目で見下ろすと、冷たい視線に怯んだ松並が、さも言い出しにくそうに一一 = ロ葉を濁 した。 「ちょっと、・ : ・ : 頼みたいことがあるんだが」 むだ 「このうえ何を無駄なことを」 あわ 鼻先で笑う錬摩の声に、松並は慌てて首を振る。 「ち、違う違う。仕事じゃなくて、ちょっとした個人的な頼みなんだ」 うかが 「お伺いする義務はありませんね」 「そこを、頼むと言ってるんだよ」 再三の依頼をすげなく断ったばかりなので、さすがにこれ以上冷たくするのもためらわ れた。肺の底から押し出すようなため息を漏らす。 「聞くだけ、お聞きしましようか」 腕を組んで冷ややかに見下ろす錬摩の白い顔を、松並は怯んだ様子で見上げた。 「ーー今晩、ヒマか ? 」 「は ? 」 おび 不審げに眉をひそめて威圧すると、大柄な警視庁の刑事はさらに怯えて口ごもる。 「あ、あの : : : 」 普段はそれほど気の短いほうではない錬摩も、煮えきらない松並に次第にいらいらして ふだん まゆ いあっ ひる