考えないようにしていたといっても、時間はあるし他に考えることもなかった。飛び出 してきたときの最初の怒りが治まると、宗一郎は「藤崎」のことを一生懸命考えた。 宗一郎は、「藤崎」のことが嫌いだ。直接会ったわけではないし、いたことをはっきり 知ったのもつい最近だ。けれど、「藤崎ーのことを考えると、わけもなくムカムカしてく る。 錬摩はどうやら「藤崎ーが好きらしい。そこにすべての問題がある。 つまさき 宗一郎は爪先で地面に三角形を書いた。上の点が錬摩。左が宗一郎。右が「藤崎」。お れは「藤崎」が嫌い、錬摩は好き、と、それぞれの感情を矢印に書く。できあがった複雑 な図形を、ちょっと離れて見て、宗一郎は満足した。 けれど、この三角関係 ( それくらいの一一一一口葉は、宗一郎も知っているのだ ) はさらに複雑 だ。下の二つの点、宗一郎と「藤崎」は、もとは同じ人間なのだ。その関係も書き込もう なら と四苦八苦した挙げ句、ぐちゃぐちゃになった図形を宗一郎は足で均して消してしまった。 いや 本当に嫌なのは、錬摩や他の誰かが自分を「藤崎」扱いすることではない、ということ は宗一郎にもだんだん分かってきた。もちろん、自分の知らない人間と同一視されるのは ムカつくけれど、本当に嫌なのは、自分が、いつの間にか「藤崎、と同じことをしている ことなのだ。 空手を始めたいと思ったのは、どうしてだったろう。自分の中の感情をいくら探って
206 集めることができた。しかも、母親が趣味でアクセサリ 1 を作っていて、金属メッキ作業 を行っていた。おそらく自宅の仕事場から、メッキに使う青酸カリを持ち出すことができ ただろう。ガリウムヒ素混入事件と、青酸ガス発生事件、二つの現場の近くには、彼女の 勤める通信会社の、携帯電話販売ショップがあった。 ここまで条件の整った人間もそういまい。おそらく彼女が、あれらを実行した。 みいだ つな 彼女を見出したのはまったくの偶然だ。たまたま犯人と繋がる青柳咲良という人間がい なかったら、これほど短い時間で犯人にたどり着いたとは思えない。 だが、これからが問題だ。状況証拠しかない彼女を、どう立件するか。捜査をどのよう に詰めていくかに、犯罪心理捜査士としての本領が要求される。 しかも、それはもしかすると、あまり悠長にしていられないかもしれない。 めがね みけんも 錬摩は眼鏡を外して眉間を揉んだ。窓からの、照り返しの日差しが痛い。 気になる点が二つあった。 ひとつは、青酸ガス事件の被害者である、池端の病室で彼女に会ったことだ。彼女と池 端は、以前から知り合いだったのか。なぜ、彼女はあの場にいたのか。そして、なぜ、自 分をそれと分かった顔をしておきながら、池端の病室で会ったことを伏せたのか。 よみがえ ふいにひとつの情景が甦った。池端と彼女が知り合ったかもしれないきっかけは、あの 事件そのものであったかもしれない。池端が、ガスの充満した店内から出てきたとき、女 けいたい
268 留置所の面会室が、あまりにテレビドラマと同じなので、わたしは内心吹き出したく なった。 くぐ 婦人警官に連れられてドアを潜ると、ガラスの壁の向こうで、母親がはっと顔を上げ 歳をとったな、というのが、第一印象だった。それとも、やつれているはずだ、と思っ ていたから、そう見えるだけかもしれない。 ここに入れられてから、自分の外で起こるすべてのことに関心が薄れていた。 死にはぐれた。そのことがわたしを無気力にしていた。わたしは人を傷つけることに失 敗した。そして、自分を殺すことにさえ失敗したのだ。 ガラスに面して用意されていた椅子に座った。 わたしの顔を見て、表情を崩し、ハンカチで口元を押さえた母親は、面会の間中、ほと ひとごと んど泣き続けていた。そんな彼女を、わたしは他人事のようにじっと見ていた。 すすり泣きの合間に繰り返すのは、「どうして」「どうしてあんなにしつかり者のお姉 ちゃんが」という一一 = ロ葉ばかりだった。留置所に入れられてから、一人の時間にわたしも同 じ疑問を繰り返した。どうして、わたしはこんなところに来てしまったんだろう。 二週間も経ってようやく、おばろげな答えが見えてきた。わたしは若い人たちが嫌い だった。他人とコミュニケーションを取りたがらない、気取って、プライドばかりが高 とし
。にはいかなかったのだろう、透明なプラスチックケ 1 スに変えられている。商品 の棚が台より十五センチほど前へ出ていて、その下にごみ箱は収まっている。その中へさ りげなく青酸カリ入りのビニール袋を落とし込み、素知らぬ顔でその上にティッシュを捨 ててまた棚下へ押し込んでおけば、まず見つかる心配はないだろう。 錬摩は顔を上げて売り場を見渡した。もちろん客は女子高生だけではなく、大学生や o らしい女性もいたが、 , 彼女らはたいてい一人で買い物をしており、高校生の集団に邪険 にされていた。 ねら この時間を狙ってガスを仕掛けたなら、ターゲットは女子高生だというのは、ほば間違 いないだろう。そして、女性ばかりの化粧品売り場に人目を引かずに毒を仕掛けられるの は、女性しかいない。 犯人は女性だ。その点は、警察の調査書の見解と一致する。 それならば、女子高生たちを狙う女性は、どんな人間だろうか。報告書にあった警察の 内部見解では、女子高生の犯行ではないかとほのめかしていた。 たしかに高校の化学実験室なら、装置に使った薬品類は簡単に手に入る。けれども、女 子高生が無差別に誰かを痛い目に遭わせようと思ったら、誰でも知っている劇薬を選ばな あふ 。もし、それほど殺意に溢れていれば、対象に無差別に「女子高生」を狙ったりしな 。もっと具体的に、自分が敵意を持っ個人に向かうだろう。 じやけん
Ⅷほど早く、午後四時ごろには発生していただろう』 午後四時。それは、犯人が意図した時間だったろうか。時間のことなど、とくに決めて いなかっただろうか。 その時間の、現場の様子はどうだったろうか。 現場を説明する見取り図を広げて、ふと、自分はあの現場に居合わせたものの、店内に は入っていなかったことを思い出す。 うだ パソコンに入力する。立ち上がったのは午後一一時前。茹 資料の要点をまとめてノート・ よど かなた うな るような熱さに澱んだ空の彼方から、遠雷が唸っている。このところ外出には手離せない 傘を持って、錬摩はむっとする梅雨の湿気の中へと家を出た。 原宿駅の改札の向こうは、すぐに道路に面していて、出口が切り取った外は、照明に照 たた らされた地下よりもよほど暗く、大粒の雨が道路を叩いていた。 雨宿りする人の間をすり抜けて、傘を開いて猛雨の中に歩みだした。 たけした 竹下通りの中ほど、煙幕の向こうのドラッグストアは、黄色い看板も鮮やかに、過日と たたず 同じ佇まいで立っていた。あれから半月、すでに営業は通常どおりに戻っているらしい はんらん たた かわい 畳んだ傘の雨を払い、暗い屋外から可愛らしい色の氾濫する店内に入った。 その場の光景に、正直、錬摩はたじろいだ。一面、制服を着た女子高生が埋め尽くして かさ えんまく
えていく粉末を見るのも楽しかったが、やることが複雑なぶん、今回のほうがもっと楽し かった。 おうか ぼうじゃくぶじん とにかく、我が世の春を謳歌している傍若無人な若者たちに目にもの見せてやりたい つら 一心で、根気のいる仕事も辛くなかった。 けず あれだけ根気よく削ったガリウムヒ素だったのに、なかなか事件は発覚しなかった。砂 糖に混ぜるには量が少なすぎたのかと、次第に増やしていったけれど、なんのことはな ぎた 四個仕掛けたところでようやく新聞沙汰になってみたら、ガリウムヒ素にはヒ素の毒 性はないという。ただの異物混入事件になってしまった。 誰にも、わたしのメッセージは伝わらなかった。一時は騒がれたものの、ただの異物混 またた 入事件は瞬く間に過去の事件にされてしまった。だから、今度はもっと確実な方法を選ん だ。さすがに青酸カリなら間違いないだろう。たとえ人が死ななくても、マスコミももっ まじめ と真面目に取り上げるはずだ。 きゅうけい いよいよ決行の日、三時の休憩時間に、職場を抜け出し簡単な変装をして、ガス発生 装置を仕掛けた。、 カスの発生予定時刻は十六時。近辺の女子高生たちが帰宅する時間、店 がもっとも混雑する時間だ。あらかじめ底の一部に穴を開けた、近所のプティックの紙袋 を提げていった。さりげなく一階を物色して、二階へ上がる。昼間から制服で買い物をし ていて恥じることもない女子高生に交じって、口紅を探すふりをした。店員の場所や視線
きないだろうと医師に診断された男は、自分にとって、死んだと宣告されたのと同じこと からだじゅう だった。あのときの絶望は、思い出しただけで、今でも身体中の酸素が絞り出されるよ うに息が苦しくなる。 奇跡的に息を吹き返したけれど、結局、あの男は戻ってこなかった。それでも宗一郎を 育て続けるのは、単なる藤崎への義務か。眠り続ける藤崎のかたわらで見守り続けること と、同じことなのか。 席を取るために頼んだコーヒーは、手を付けないうちにすっかり冷めてしまった。雨は 衰える気配もない。 ふと、眠り続ける男の顔を見よう、と思った。そこに答えを求めたわけではない。た だ、何かのきっかけでも掴めればと、思っただけだ。 ひるがえ 織ったままだった薄いレインコートを翻して、錬摩は店を出た。 ろうか 病院は早いタ食の時間を過ぎて、廊下の明かりも半分に落とされていた。面会時間も とっくに終わって、院内はひっそりと静まり返っている。急患の入り口から入って、錬摩 は影のように、薬品の臭いの染み付いた廊下を歩いた。激しい雨の音が、静かな足音をか き消してくれた。 かつぎ込まれたときの集中治療室から、個室に移ったと聞いていた。数は多くなかった つか
228 いけ・また 翌日、わたしは池端さんの入院している病院にいた。これから行う大事の前に、やって おかなければならないことがある。 浴姿で病院に見舞いにくる人もそう多くないだろう。からころと鳴る下駄を気にしな ろうか がら、通い慣れた長い廊下を歩いた。 土曜日の午後、正規の面会時間は、いつもわたしが池端さんを見舞いに来るとんでもな い時間とは違って、穏やかな雰囲気が流れている。 さくらで 、つかカ 病室の前で、ドアの内側の様子を窺った。こんなところで、池端さんの家族や咲良と出 くわ 会すのは困る。誰かがいる気配はしなかった。それどころか、物音ひとっせず、静まり 返っているのに、不安が沸き立つ。 ノブを回しても、ドアは開かなかった。はっと気づいて入り口の表札を見ると、池端さ んのプレートは外されていた。 退院したのかと思ったが、考えてみたら、つい二、三日前まで意識不明だった患者がい きなり退院するはずはない。おそらく、意識が戻ったか何かで、個室から大部屋に移った のに違いない しゅんじゅん 開かないドアの前で、しばらく逡巡した。目が覚めてしまった池端さんに会ったとこ ろで、池端さんはわたしを知らない。 いきなり「一緒に死んでください」などと言って、死んでくれるとは思えない。
郎のためでもない。自分のため、自分が宗一郎の笑顔を見ていたかったから、引き取った のだ。それは、けっして間違いではない。ただ、自分はそれを宗一郎に伝えていなかった 」十ノ」 0 やみよ ほお 錬摩は闇夜に白い手を伸ばし、男の頬にそっと触れた。 「 : : : 早く目覚めてやれ。あなたの友人が、うっとうしくてたまらん」 ささや あかくちびるほまえ 囁いて、紅い唇に微笑みを浮かべた。きびすを返し、振り返らずに、後ろ手にドアを閉 めた。 ろうか ふと、顔を上げる。暗闇に長くのびる廊下の端に、白い影があった。 わら 場所柄時間柄、つい非科学的な連想をした自分を嗤い、錬摩は影に向かって歩き出し はじ まぎ た。弾かれたように影もこちらへ歩き始めた。近づいてみれば、影は紛れもなく女性、月 の光のような薄い水色のワンピースを着た若い女性だった。真っ直ぐな明るい色の髪が両 肩を覆っている。こちらにじっと視線を向けて歩いてくる。足音は降り続く雨の音にかき えしやく 消された。すれ違いざま、錬摩は唇に微笑みを作って会釈した。 かち合った女性の視線は、驚くほど険しかった。 考えてみたら、錬摩こそ全身黒ずくめの格好で、こんな時間に病院の廊下で出会った ら、女性は驚き警戒するだろう。けれど、それにしても女生はいたずらに敵意をむき出し にしていた。 おお
捨てる動作をしたのはその日一日で三十人を下らない。その三十のカットについて、現在 科学捜査研究所で画像分析が進められている。 残された毒ガス発生装置に関しても分析は進んでいる。 ビニール袋に入れた青酸カリと希硫酸、二つの袋が一回り大きなビニ 1 ル袋に一緒に入 れられている。電池と熱線で作った簡単な発熱装置が二つの袋の間に挟まれている。熱に よってビニ 1 ルが溶け、二つの薬品が反応して青酸ガスが発生する。毒が発生するひとっ 前の段階の二つの薬品を、使用する直前に一緒にする、バイナリ方式だ。核弾頭に採用さ れている方式を、犯人はごく身近な材料で実現してしまった。 ただし、仕掛けられていた装置にはひとっ欠陥があったという。 『ごみ箱に装置を落とした際に、装置は犯人が意図した方向に落ちず、横に倒れたと思わ れる。そのため、熱線の、希硫酸入り袋へ接している面に比較して、青酸カリ入りの袋に 接している面が少なく、袋の溶け方に著しい差があった。熱線の温度とビニールの厚さか ら計算するに、この装置が現場にセットされたのは、事件発生から二—四時間前だと推測 される』 事件の発生が午後六時過ぎだから、犯人が店に寄ったのは午後一一時から四時の間という ことになる。そして、報告書は続く。 『もし、青酸カリ入りの袋が希硫酸と同じ速度で溶けていたとしたら、青酸ガスは二時間