ことでは卒業後十年経っても逸話がゼミ生に受け継がれてきた秀才・篠原に対して桜井は どうも気後れがする。 そして、視線を手前の応接セットのソフアのひとつに座っている男に向けて、桜井は即 座に表清を硬くした。 三人は初対面ではないんですよね」 篠原が穏やかに言った。その男は、いつ見ても馴れ馴れしい素振りで片手を上げた。 「先日は、お電話をどーも」 「・ : ・ : どうして」 思わず桜井はロ走っていた。 「どうしてあなたがここにいるの、柚留木さん」 男は、フリーでスポーツ新聞や三流誌に記事を書いている、ライターの柚留木だった。 そういちろうきょぜっ そして柚留木は、宗一郎に拒絶された桜井が電話をかけて接触を図った、まさにその相手 」っ」 0 「桜井課長」 桜井の問いに答えたのは、桜井のために紅茶を淹れに立った篠原だった。 「われわれ三人には、ひとっ共通点があります。そうでしよう ? あたらしく淹れた紅茶を手に振り返った篠原は、ソフアのひとつを桜井に勧めた。柚留 ゆるき
「挨拶したこと、なかったかしら ? 「分かるけど」 「そう、よかったわ」 宗一郎の無愛想な態度など軽く受け流して、桜井は宗一郎の正面に座った。宗一郎は、 ひね 体を捻って視線を外す。 ここへ来てようやく、松並にも、宗一郎がただ拗ねているのではなく、桜井のことを避 けているのが分かった。だが、どうしてだ ? 松並は桜井の前にこの家で唯一の皿付きの コーヒーカップに入れたコ 1 ヒーを勧めながら、二人の様子を注意深く見守った。 コーヒーを一口すすって、桜井が切り出した。 いそうろう 「藤崎くん。大滝くんのところを出て、松並の家に居候しているって聞いたんだけど、 いったい何があったのか、聞いてもいし 宗一郎はむつつりと黙って答えない。そういえば松並は、自分の家に転がり込んできた ときの宗一郎の様子があまりに追い詰められて見えたので、あえて理由を聞かなかったの 「 = 「いたくない ? それならいいんだけれど」 桜井はカップに視線を落として、についた口紅を、手持ちぶさたに指先で拭った。そ れを見て、松並はおや、と思った。いつもより、桜井の口紅は鮮やかな色をしていた。 あいさっ
木と同じテープルに着くことに、桜井は抵抗があった。 「いいですわ、わたしはここで」 きやたっ 天井まで本に埋め尽くされた書棚の前の、アンティークがかった木製の脚立が、小柄な 桜井にはスッ 1 ルにちょうどいい高さだった。そこに腰を引っかけるようにして座ると、 ほまえ 篠原はそれを見てちらりとロの端に微笑みを浮かべたが、何も言わずに自分のデスクに 戻った。そういえば、部屋中に置かれた多種多様な形の椅子の、どれに相談者が腰を下ろ すかによって心理を読み解くカウンセリング方法があったことを思い出した。篠原に、自 すきまのぞ 分でも見えない心の隙間を覗かれたような、落ち着かない気分にさせられた。 「おやおや、嫌われたもんだな」 柚留木が笑った。無視して、桜井は手渡された紅茶に口を付けた。篠原のオフィスでは 真夏でも紅茶がホットでサ 1 ビスされるが、冷房の効いた部屋で、香り高い紅茶は体のす しわた みずみに染み渡った。 「それで、今日のご用件はなんですの、篠原課長ー 「用件、というほどではないんですがね、今日は顔合わせです。お互いに、同じひとつの 対象に、並々ならぬ興味と関心とを抱いている、ということを、確認しておいたほうがい いだろ , つ、と田いまして」 おおたきれんま 篠原の言ってるのが大滝錬摩のことだと、桜井にはすぐにピンときた。桜井は長年、
176 しばらく、気まずい沈黙が落ちた。ため息にも似た笑みを浮かべて、桜井が口を開い いそうろう 「松並も捜査本部に入って、これから忙しくなるでしよう。もし、藤崎くんの居候が長 くなるんだったら、松並の家に大の男二人で暮らすのは不自由ではないかしら、と思った ものだから。 だから : : : 」 らしくもなく、桜井は言い淀んだ。 「うちは父が死んでから母と二人暮らしなの。部屋も余っているし、よかったら、わが家 を提供するわ」 よよぎ 思い切ったように言う。松並は驚いた。桜井は、母親の実家が資産家で、たしか代々木 はちまん うわさ 八幡に、バブルのころには億の値が付いた高級マンションに住んでいるという噂だった。 だったらおれが居候します、と挙げそうになった手を押さえ、松並は宗一郎の答えを待っ しし , イカ、ない 宗一郎の答えは素っ気なかった。長い脚を抱え込んで、隣家の屋瓦しか見えない窓を つぶや 見つめている。一方の桜井も、「そう」と小さく呟いたきり、黙ってしまった。 「どうして ? よど
177 EDGE3 しばらくしてようやくこばれた桜井の声は、普段どおりに落ち着いていたけれど、視線 は手一兀に落としたきりだ。 「言いたくないならいいけど、理由を聞きたいわ」 あまりに重い沈黙に、松並は昨晩から数えて何度目か知れない冷や汗をかいた。この雰 囲気は何だ。クールな効率主義の元上司にはあまりにも似つかわしくない三文字を思い浮 かべて、松並は泣きたくなってきた。何だって自分がこんな場面に居合わせなければなら ないんだ ? しかも、それに答えた宗一郎の一言葉に、松並は他人事ながら心の中でカウンターパンチ を喰らったようにのけぞった。 「おれ、あんたきらい はじ ようやく桜井に顔を向けたかと思うと、その一言だ。桜井も、弾かれたように顔を上げ た。ジュラルミンの神経と言われる鉄の女も、心中の動揺を隠せないようだった。すうつ と顔色が青ざめた。 「なあ、宗一郎くん。そういう言い方は、ないんじゃないか」 こんなところでロを挟んだら逆効果だと心の声は叫んでいたが、松並は、この場で聞い ているだけ、という状況にはもう耐えられそうになかった。 「桜井さんだって、親切で言っているんだぜ。そう、端から聞く耳を持たない態度じゃな ふだん
180 固辞する松並に、桜井は薄く微笑んだ。 「口止め料も兼ねてるんだけど」 今度こそ、桜井が泣きそうに見えて、松並は恐縮しながら両手で押しいただいて受け 取った。 ばたんとドアが閉じるととたんに脱力したが、松並には、まだ片付けなければならない ひざ ことがいくつもあった。部屋に戻ると、膝を抱えて丸くなった宗一郎が、ふてくされた顔 ようしゃ こぶし うず を腕の中に埋めていた。松並は、その頭に容赦なく一発拳を落とした。 しかつめ びつくりした顔が上がった。松並は、せいぜい鹿爪らしい顔を作った。 「桜井さんの隠し事を、おれがいる前で暴露するのは、お前が悪いよ」 宗一郎の目がみるみる潤んだ。 「だって : ・ 「ま、あの場合、桜井さんも大人げなかったけどな」 なぐ 殴ったのと同じ手で、宗一郎の頭を撫でる。その手が払われて、無言のまま、宗一郎は たた ふすま 奥の部屋に駆け込んだ。叩きつけるように閉められた襖をそっと開けると、どうやって汚 れものの山を飛び越えたのか、奥のべッドにぎになって泣いているのを確かめて、あら ためて襖を閉めた。 休日出勤には登庁時刻など決まっていないが、今から行っても中途半端だし、あの宗一 うる ほまえ
その階には今でも彼女の元部下が仕事をしているはずだ。女性の上司をもりたててくれ る、気持ちのいい部署だった。 だからこそ、顔を出すことができない、と桜井は思う。 さら まつなみ 部下の一人である松並の前で、醜態を曝したことも理由のひとつだ。けれど、その後に ちゅうちょ 自分がした裏切りが、部下の前に顔を出すことを躊躇させた。 あいさっ エレベータ 1 を降り、心理科学課の面々に軽く挨拶をしながら部屋を突っ切り、奥に仕 切られた、篠原のオフィスのドアをノックした。 「桜井です」 「どうぞ」 篠原自身が返事をした。どうやら秘書は出掛けているか、人払いを受けたらしい ドアを開け、まるで大学の研究室を思わせる、整然と、しかし場所をかまわず本や文献 が積み上げられた部屋に入った。いつもそこだけはばっかりと空いている、パソコンの 載った広いデスクの向こうに、篠原は座っていた。 そうしん ぼっ 桜井は、文字どおり「学者風情」という言葉がびったりの、痩身の男を見た。仕事に没 船頭するあまり出世も結婚も棒に振ってきた男は、四十を過ぎて、老成した一面と、妙に こんとん 若々しい面が混沌と混ざり合っていた。 同じゼミ出身といっても、篠原と桜井では在籍年に十年近い開きがある。とくに優秀な
174 「あと十分」 準備中だった朝食を冷蔵庫へ放り込み、そこらに散らかっているものは奥の部屋へ放り 込み、窓を開けて換気をしがてら簡単に掃除機をかけ、そこまで働かせておいてから謝り 倒して咲良を帰した。 ざぶとん 座布団がわりのクッションを座卓の左右に並べ、その一方に宗一郎を無理やり理座らせ たところで、ジャスト十分後に呼び鈴が鳴った。 「おはよう、松並くん。朝早くからお邪魔して悪いわね」 ドアを開け放っと、朝から眩しすぎる夏の日差しの中で、小柄な桜井がきりりと立って しオペリーショ 1 トの髪がようやくかかる、耳につけたピアスがきらりと光った。ハイ きなり ネック・ノースリープの紫のサマ 1 ニットに、生成のゆったりしたパンツが涼しげだ。 ふだん 休日で、私用だからか、普段よりも少し女性らしいファッションだった。 「おはようございます、桜井課長。汚い家ですけど、どうぞ」 桜井は物珍しげな目をあたりに投げながら、真っ直ぐに奥の部屋へ向かった。朝食にお 預けを喰らった宗一郎は、足を崩して、少々ふてくされた様子で座っていた。 「おはよう、藤崎くん。元気そうね」 「 : : : おはよ 1 ございます」 こちらに顔を向けもしない宗一郎に、桜井は小さく苦笑した。 まぶ
172 にら 条件反射で直立し、見えない相手に敬礼する。 さくらい 「おはようございますっ、桜井警視正 " ・ かっての上司、今は出向元の警察庁に戻っている、バリバリ の女性キャリア、桜井だった。 『休みの日の朝早くに悪いわね。まだ寝ていたかしら』 ゝえつ。自分はこれから出勤するところでしたので、この時間にお電話いただけてよ かったです ! 」 必要以上に力がこもる返事に、受話器の向こうで含み笑いが聞こえた。 『いいのよ、今日はちょっとした私用でかけさせてもらっているから、そんなに畏まらな いで』 そう言われたからといって、元上司の前でおいそれと気を抜くわけにもいかない。しか も「私用で」などと言われた日には、次に何が出てくるのか予想もっかず、松並はヘビに あぶらあせ 睨まれたカエルのように、脂汗を流しながら桜井の言葉を待った。 いそうろう 『実は、今あなたの家に藤崎くんが居候している、って聞いたのだけど、彼と少し話を したいの』 「ですが、彼は電話を通して話は : 『分かっているわ』 ふく の、という形容がびったり かし」
224 「そういうことだ」 柚留木も合いの手を打つ。桜井は返事を保留して、二人の男の顔を見比べた。この二人 が繋がっていたとは、桜井にはまったく思いも寄らなかった。おそらく、同じ一人の人物 へ向けた、よって立っ感情は違っても、思いの強さが磁力のように二人を近づけたのだろ そして、自分も。 桜井は手一兀に視線を落とした。 「 : : : 分かったわ」 返事は自然に小さくなった。手の中の紅茶は、急速に温度を失っていった。 読んでいた週刊誌を机の上に投げた。錬摩の目は、険しく記事を睨んでいる。 そこには、三週間前の青酸ガス事件の続報が、四ページにわたって小特集に組まれてい る。先週あった警察発表を検証する、という名目で、その実、揚げ足を取るだけの内容 だ。粗雑な紙の上を躍る扇情的な小見出しの最後に、「とある警察関係者の話」が載って つな ◆ にら