228 いけ・また 翌日、わたしは池端さんの入院している病院にいた。これから行う大事の前に、やって おかなければならないことがある。 浴姿で病院に見舞いにくる人もそう多くないだろう。からころと鳴る下駄を気にしな ろうか がら、通い慣れた長い廊下を歩いた。 土曜日の午後、正規の面会時間は、いつもわたしが池端さんを見舞いに来るとんでもな い時間とは違って、穏やかな雰囲気が流れている。 さくらで 、つかカ 病室の前で、ドアの内側の様子を窺った。こんなところで、池端さんの家族や咲良と出 くわ 会すのは困る。誰かがいる気配はしなかった。それどころか、物音ひとっせず、静まり 返っているのに、不安が沸き立つ。 ノブを回しても、ドアは開かなかった。はっと気づいて入り口の表札を見ると、池端さ んのプレートは外されていた。 退院したのかと思ったが、考えてみたら、つい二、三日前まで意識不明だった患者がい きなり退院するはずはない。おそらく、意識が戻ったか何かで、個室から大部屋に移った のに違いない しゅんじゅん 開かないドアの前で、しばらく逡巡した。目が覚めてしまった池端さんに会ったとこ ろで、池端さんはわたしを知らない。 いきなり「一緒に死んでください」などと言って、死んでくれるとは思えない。
池端さんは、つまらない話も嫌な顔一つしないで聞いてくれるし、答えづらいことを聞 いてきたりしない。彼のそばで、わたしはとても安心することができた。 けれど。 「 : : : ねえ、さっきの人は、誰 ? 」 気になって、気になって仕方がないことに、答えてくれることもない。そのことが今は とても寂しかった。 びつくりするほどきれいな人だった。モデルのように背が高くてスレンダーで、人を寄 せ付けない独特の雰囲気を漂わせていた。初めに遠目に見たときには、機敏な動作に男性 かもしれないと思ったけれど、近くで見て、女性なのだと確信した。 ままえ 彼女は、とてもやさしい、女性らしい微笑みを浮かべていた。 「今日は顔色がいいのは、あの人が来たから ? 」 咲良が池端さんのことを親友と呼び、そのことを疑ったわけではなかったけれど、同時 すき に咲良と池端さんは恋人同士なのだと いや、「余人がつけいる隙のない仲」なのだと 日思っていた。けれど、もしかすると、咲良の言っていることは本当だったのかもしれな ) 0 寂しくて、心細くて泣きそうになった。テレビドラマのような展開を期待していたわけ ではないけれど、池端さんがわたしを助けたときから、わたしは池端さんにとって、池端
229 EDGE3 もちろん、最初の目的を諦めて、ただ、死ぬ前にひと目、目を覚ました池端さんに会っ たってかまわない。「あなたに助けていただいた者です」と言えば、不審に思われること もないだろう。 でも、やつばり止めた。目を覚ました池端さんが、わたしが勝手に想像した池端さんと は違っていたら布い ろうか きびすを返し、からころと下駄を鳴らして廊下を渡り、外へ出た。外は蒸し暑くて、帯 を巻いた胸の下に汗がにじむのが分かった。 はで やつばりわたしは一人で死ぬしかないのだ。でも、せいぜい派手に死んで両親や弟に当 てつけてやろう。 帯を上からそっと押さえる。池端さんの分が一本余ってしまったから、三本のアンプル が体と帯の間に並んでいるのを確かめる。 これらを使って、せいぜいたくさんの人に一緒に近ってもらおう。 東京のタ焼けは、どうしてこんなにどろどろと濁った朱い色をしているんだろうな。 さいたま 正確にいえば川を一本越えて埼玉に入っている街の、駅前商店街を抜けながら宗一郎は ◆ あきら あか
206 集めることができた。しかも、母親が趣味でアクセサリ 1 を作っていて、金属メッキ作業 を行っていた。おそらく自宅の仕事場から、メッキに使う青酸カリを持ち出すことができ ただろう。ガリウムヒ素混入事件と、青酸ガス発生事件、二つの現場の近くには、彼女の 勤める通信会社の、携帯電話販売ショップがあった。 ここまで条件の整った人間もそういまい。おそらく彼女が、あれらを実行した。 みいだ つな 彼女を見出したのはまったくの偶然だ。たまたま犯人と繋がる青柳咲良という人間がい なかったら、これほど短い時間で犯人にたどり着いたとは思えない。 だが、これからが問題だ。状況証拠しかない彼女を、どう立件するか。捜査をどのよう に詰めていくかに、犯罪心理捜査士としての本領が要求される。 しかも、それはもしかすると、あまり悠長にしていられないかもしれない。 めがね みけんも 錬摩は眼鏡を外して眉間を揉んだ。窓からの、照り返しの日差しが痛い。 気になる点が二つあった。 ひとつは、青酸ガス事件の被害者である、池端の病室で彼女に会ったことだ。彼女と池 端は、以前から知り合いだったのか。なぜ、彼女はあの場にいたのか。そして、なぜ、自 分をそれと分かった顔をしておきながら、池端の病室で会ったことを伏せたのか。 よみがえ ふいにひとつの情景が甦った。池端と彼女が知り合ったかもしれないきっかけは、あの 事件そのものであったかもしれない。池端が、ガスの充満した店内から出てきたとき、女 けいたい
とどろ まだ、雷の轟きは続いている。それともこれは、わたしの心臓の音だろうか。 のどもとせあ いつものように池端さんの病室に滑り込んで、ドアに背を預けた。心臓が喉一兀に迫り上 がってきたように、息が苦しい なんとか呼吸を落ち着けると、明かりの落ちた病室の奥を見やった。 池端さんは、いつものように、ひっそりと眠っていた。穏やかな眠り、低い機械の音、 くらやみ 暗闇の中の小さな明かりは、いつもわたしを幸せにした。 べッドにそっと近づいて、静かな眠りを見下ろした。 「こんばんは、池端さん」 ろうか 廊下の端で、ふと振り返る。今しも病室のひとつに入るところだった女性が、歩を止 め、こちらに白い顔を向けた。 カッと廊下中の窓が白熱したように光った。 かんはっ 間髪入れず、ほとんど頭の上から、雷の響きが落ちてきた。女性はすでに病室の中へ消 えていた。そこは、たった今、錬摩が出てきたばかりの病室だった。 ここち ふいに、首筋を冷たい手で撫で上げられたような心地がした。 ◆
ままえ たように笑んだ。 かんちカ 「よく勘違いされますが、みんながみんな、というわけでもありません」 わたしはなんと答えるべきか、返答に困った。池端さんの病室から出てくるのを見たと きから、わたしは大滝さんが女性だと信じて疑わなかった。いつ、池端さんの病室を見舞 おび う当然の権利を持った女性が現れるかと怯えるわたしの単なる思い込みか。 いや、違 う。そのときの彼女の表情が、い とおしいものを包み込むような穏やかな微笑みだったか らだ。 そのことを、指摘しようと開きかけたロが途中で止まった。咲良の前で、池端さんの病 室に行ったことを、一一 = ロうわけにはいゝ とど わたしは意味もなく微笑むに留めた。その話はそこで終わった。 大滝さんの質問は、あの日、あの店に入ってから見たこと、聞いたこと、したことを事 細かに説明することだった。 「もう警察に何度も説明したことだと思います。けれど、こういうことは何度も繰り返し 順を追って説明するうちに、意外なことを思い出すことがあるものです。人間の脳は、わ たしたちが意識して見たり、聞いたりしているよりも意外に多くの情報を溜め込んでいま す。それをうまく引き出してあげるための作業だと思ってください あとは、警察での事情聴取と変わらなかった。わたしが主導で、あの日の出来事を説明
さんはわたしにとって「特別」なのだとどこかで信じ込んでいた。何の保証もない、見え きずな ない絆が、突然断ち切られた気がした。 おそるおそる、手を伸ばした。シーツの下の、池端さんの手のあるあたりに、震える指 先でそっと触れる。この人を、この穏やかな時間を失いたくない。 ひろき 「ねえ、宏樹さん」 ロの中が、カラカラに乾いていた。 「 : : : 一緒に、死んでくれない ? 」 カッと窓の外が真っ白に光った。同時に、雷鳴がびりびりと窓ガラスを震わせた。 いなびかり 稲光に照らされて、池端さんは、うなずいたようにも、首を振ったようにも見えた。 もちろん、本当に動くわけはないのだけれど。 「ごめんなさい、冗談よ」 あわ わたしは慌てて手を引っ込めて立ち上がった。 「また来るわ。お元気で」 物音を立てないように椅子を元どおりに片付けると、わたしは静かに病室から滑り出
大丈夫よ。犯人はきっとすぐに捕まるわ。だから、すぐに安心して街を歩けるようにな るわよ」 ほまえ 思わず、微笑みがこばれた。咲良はわたしが不機嫌になったのを、事件の恐怖を呼び覚 まされたからだと思ったのだ。 青柳咲良のような人間には、わたしの屈折した感情など、思いも寄らないに違いない。 ゆが くちびる 唇の形が皮肉に歪まないように気をつけて答えた。 「そうね。そうすればあなたの池端さんも、安心して目を覚ますかもね」 「そうだといいわね」 咲良は憂いを帯びて微笑んだ。同性のわたしさえ一瞬目を奪われる、秋の湖のように透 んだ笑顔だった。 わたしは、今度こそ心の中で失笑した。ばっさりと心が切り付けられて血を流すのがか えって快感だった。 やつばりね。あの人は、あなたの池端さんなんじゃないの。 そっと視線を逸らして、窓の外を見た。雨足がさらに強くなったようだ。水気を吸って たた 黒ずんだアスファルトを、大粒の雨が叩いている。 うれ
207 性を助けて抱えていたのを錬摩は思い出した。もしもあの女性が彼女だったとしたら。松 並の友人は、あの店で、見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。彼女がそれ を恐れているとしたら。 その可能性に思い至るが早いか、錬摩は携帯電話を取り出して松並に電話をかけた。 「池端さんを転院させてください 開口一番そう言うと、案の定、わけの分かっていない松並が『はあ ? 』と間の抜けた返 事をする。 「転院が無理なら、せめて病室を移してください。犯人が、池端さんの命を狙う可能性が あります」 『何だって』 自分の親友のこととなるととたんに色めき立っ松並に、錬摩は端的に状況を説明した。 「わたしは犯人を追い詰めてしまった。犯人が早まる前に、速やかに対処してください 『犯人が分かったのか ? 』 「ーー・おそらく。でもまだ状況証拠ばかりですが」 あわ 慌ただしく電話を切った松並に、とりあえずひとつの心配事はまかせたが、もうひと つ、気になっていることがあった。 彼女が持っている毒は、二つではないかもしれない、ということだ。 け・い物い ねら
くうそ ろうか かっぽ カッ、カッ、カッと、闊歩するヒ 1 ルの音が空疎な長い廊下に高く響きわたった。 錬摩が、そして松並が顔を上げ、近づいてくる音に目を向けた。 やさしいペイル・トーンを基調にした病院の色彩の中で、ひときわ目を引く鮮やかなオ レンジのスーツを着た女性が、松並から少し距離を置いて立ち止まった。錬摩よりも目線 あご の低い、スレンダーな若い女性だ。いかにも頭の切れそうな雰囲気で、顎の線できっちり そろ つや と揃えられたポプは艶やかな黒。やや顎が小さいものの、小作りな顔の造作ははっとする ひとみ ほど整っていて、とくに、理不尽な事態に怒りを湛えてきらりと光るネコのような瞳が印 象的だった。 「松並くん」 鋭い声に、松並は弾かれたようにべンチから立ち上がった。 あおやぎ 「ーー青柳さん : : : 」 無意識の呼びかけのあと、松並は自信なさげに、 ぬぐ 拭った。 、はは編 「あ、それとももう、池端さん、なのかな・ : 「バカね。いまだに青柳だし、池端になる予定もまったくないわよ」 切り捨てるように答えるやいなや、女の顔がくしやりと崩れた。 「まったく、何年ぶりよ。こんなことになって再会するなんて、冗談じゃないわよ。わた はじ たた かいてもいない額の汗をハンカチで