だけど。それやったら、全部やらせてもらっ 活の設計」とか、話を聞いてるから、テレ て急に、「若月君、ギター弦 6 本あるよね 一番細い奴は何線って言うんだ ? 」とか分ビでやってたりすると、あれだと思って観たみたいで、すごく嬉しいんだけど 若月桂さんとポルノ小説書いたんですよ かってんのに質問するんだよ。ピアノも弾る。 井手さん処に持っていった。読んだら、「こ くから、「鍵盤は何鍵ある ? ーなんで聞く 桂いただいて書いちゃえばいいのに。 んだよ。ギョッとすること。ああいうとこ鎌田骨格は随分ありますよ。歌舞伎の話れ若月君、書いてないよね」。「原案と、 説ちょっと書いて後は桂さんが全部書い とか、ずいぶん、役に立ってるけど。 意地悪なんだね。 た」と言ったら、「それなら分かる」 ( 笑 ) 。 桂僕も書いてた時はほんとに役に立った 桂底意地悪いんですよ 桂さんの書くもの面白がってましたよ ですよね。 若月たまに、タクシー便乗して渋谷まで 鎌田「戦国自衛隊」の時だと思ったんだ 行くんだけど、ナマイキな運転手がいるで けど、剣持 ( 亘 ) さんが「時をかける少女』 しよう、返事しないャツ。俺すごい腹立っ ③ をやってて、師匠が『武蔵野夫人』かな、 たんですけど、先生は二千円払ってお釣り 日活ポルノ。 3 本同時封切だったんですよ 四百円か五百円、必ずそういうャツにあげ 鎌田師匠は、たぶん、芝居もやりたかっ るんですよ。俺、先生に「あんなナマイキ た。小説も書きたかった。そう言ってまし喜んでた。すごく喜んでくれてて、普通な たからね。時間がないからやらなかった。 ら弟子がそんなにやってるの : なャツに何でやるんですか ? 」と言ったら、 それを全部、僕がやってるような気がする。桂師匠は弟子が出てくると嫉妬しないの一 「だからあげるんだーと。なんか訳わから かねえ 若月井手さんの若い頃、東宝に行く前だ ないこと言ってね ( 笑 ) 。 か行ってる間に小説で応募して入選したと鎌田金子さんに言われた。「独立してか 鎌田偉そうに出来ない人なんですよ ら、師匠が弟子の悪口言わない。弟子が師 言ってたよな。 岩田全然、偉ぶらなかったですね。 これ、珍しいんだよ」と 岩田新派の芝居を書いて入選した、とポ匠の悪口言わない。 鎌田したくても出来ない。したくもない どこの世界でも、弟子が独立したら大体悪 たろ、つけど。 ロッとおっしやった。 ロ言ってるって。まあ、ライバルになるわ 若月小説の短編も。最初そうだったんだ 若月自慢はしないよね けだからね と。それからシナリオに。 鎌田だから偉く見えなかったんだけど。 桂自慢しないけど、他人の作った映画を鎌田元々そっちの人ですね ものすごく辛辣にズバッズバッとね。あれ、若月鎌田さんの角川 ( 文庫 ) の小説、隋 ④ 分買ったけど。 役に立ったですね。 鎌田俺が師匠の代わりにやってるような鎌田井手先生のお葬式の時に、最後の講 鎌田戦前の映画のこと随分話してもらっ たんですよ。『チャンプ』 ( 昔の ) とか「生気がする。歌舞伎もやりたいと思ってるん座の生徒さんで、棺桶から離れない人がい
から勝手に学びなさい、みたいな。 岩田井手先生って文芸作品やっていなが鎌田『里見八大伝』は『ローマの休日』 だもの ら青春ものも。 鎌田一回だけ、「中年女のセリフ書けな いね」と言われたんですよ。書けないの当 若月『青い山脈』がデビュー作だと言っ 桂映画のシナリオは全部いただきだとい うのを井手さんに習った。アレとアレを たり前 ' 三十ちょっとぐらいで。上手かっ てたけど、誰か有名な脚本家が先に書いた んだよね くつつけてやればいいんだよ、なんてよく たじゃないですか、井手さん、中年の女を 聞きましたよ 描くのが。ポロッと言われて、口惜しくて。 鎌田小國英雄さん。 鎌田歌舞伎に綯交ぜって手法があるんで桂そんなの当たり前じゃない 若月四百枚だか五百枚くらいあって、 鎌田ガキに書けるわけない。 ( 随分後に 「切ってくれ」と言っても小國さんが「切す。二つの話を交せる なって ) 東芝日曜劇場で中年女を五人集め 桂そうそうそれも聞いた らない」と言って、自分の所に来たと。 て『おんな五人で』ってやったんですよ 鎌田井手さん、プロデューサーやってた鎌田男と女入れ変えるとかね。『道成寺』 シリーズになって三本くらいやった。 を男でやるとかね。子供でやる、とか。そ んですよ。藤本プロで。それで、お前やっ ういうのを聞いているんでね てみろと言われて書いたのがデビュ 1 桂やつばり井手さんすごいですね。そう いう話聞いておくと書けるようになる 國さん、その頃、忙しくてヒロポンかなん桂だから偉そうに、人間を描けだとか、 コンストラクションがど、つだとか言われ鎌田頭に残ってるから。のナイスミ かやってたんじゃないかって。あの頃は、 デイバスってあったじゃない。あれの元 たって、書けるようにならないですよ 禁止薬物ではなくて、薬局へ行くと売って あの頃、中年の女性が友達同士で旅行に行 たらしいから。 鎌田俺、一番教わらなかったのはシナリ くなんてなかったんですよ。その走りみた オの書き方。全然教わらなかった。言いた いになった。の制作だったから、向 くもなかったんだろうし、言、つ必要もない ⑧ と思ったんだろうと うの観光課の人に「テレビは凄いですね」っ て言われた。放映して一週間後に観光客が 岩田有名な話だけど、『青い山脈』は歌桂僕も、そういうこと二人の巨匠に言わ 来たって。あの頃、テレビってそれくらい れなかったですよ。白坂さんにも。 舞伎の『忠臣蔵』を参考にしたと。 影響力あった。 桂だからシナリオライター、芝居が元な鎌田普通、これじやダメだと : 岩田さっきの歌舞伎の話で言うと、『放 んですよ。芝居を知らない人はうまくいか 岩田シナリオ書いて持っていくと、それ に対して言わないで、「こういう映画観な課後』って栗田ひろみさん主演の映画が ない。白坂さんだって、書棚一杯外国の戯 あるんですけど、これは『東海道四谷怪 曲。「ジャン・アヌイ作品集」だとかだ さい」「こういう本もあるよ」。 しと思って、すぐ 談』だと言、つんです。「四谷怪談』の発端は、 から、僕は真似すればい、 鎌田それがほんとのいい師匠なんだけど。 民谷伊右衛門に隣の家の孫娘が惚れちゃう。 岩田シナリオは教えられるものじゃない 『アヌイ全集』を買って : ・
いたらたまらないよ うことも分かってなかったんだけども 編集部井手先生の交友関係は ? 鎌田知らない。六年間弟子でいて一度も 岩田桂さんだと分かって、審査員は「ふ桂二十四時間一緒に居られたんだから凄 いですよ。 家に行ったことなかった。ちょうど東大に ざけるな」となったんでしよ。井手さんは、 行ってた息子さんがプロ野球選手になって、 二十四時間じゃないよ、通いだから、 「中身が面白ければいいじゃないーと。 鎌田 契約金をこんなにもらったんだよ、と言っ 若月シナリオのコンクールの規約に反し十時間くらい てたのを覚えてます。 てるから他の人はダメだと言ったけど : 若月それは自分がシナリオライターにな 岩田遠くより詩人が声をかけてきた、み桂他の人ったって、山田信夫とあと一人りたいから我慢したというのもあるでしょ たいな俳句があって、寺山修司と知り合い が絶対ダメだと。井手さんが「これを入れ だったみたいな。 なきや」と 鎌田我慢したというのはないんだ。俺の ほうが図太かったから。師匠が我慢してた 鎌田親しくはなかったけど、知り合いは若月井手さんのおかげですよね 知り合いだった。興味は持ってたから。 鎌田変ったものを面白がる のかな ( 笑 ) 桂僕は寺山さんにも良くしてもらった。 編集部井手先生は好奇心が旺盛だった ? 編集部井手先生という方は実際にそこに 鎌田そうです。シナリオ教室で、「脚本 いないと魅力がなかなか伝わらないような。 鎌田変な人に興味持つから ( 笑 ) 。 桂寺山さんとか白坂さんとか、そういう になるには何が大事ですか ? 」と聞かれる若月だから、こういう上映で映画を一本 でも二本でも観れば、井手さんという素晴一 人には感化受けちゃうんですよ。くそまじ と、必ず「好奇心」って言うね。 めな人と会ったってダメですよ。偉い人に 桂好奇心がなければ映画も観ないし、本らしいシナリオライターがいたということ 眼をかけられないと絶対にライターになれも読まない。 をね、シナリオの生徒達が知れば、大物に ないですよ なる人は得るものがあるでしよう。観たり 若月警察官みたいなものです。まともに 読んだりすると。 パーツと聞いてても、待てよ、コイツうま 鎌田桂さんは黒い原稿用紙に白で書いて コンクールに入選した。目立つだろ、つと いこと言ってるけど、実はこうだろうなと桂だからちょうど上映にぶつけて本誌で 桂ろくでもないシナリオ書いてる人がプ 必す疑ってみるからね。だから、最初先生も特集をやってほしいと思ったわけです。 ロやってるから、非常に頭にきてね、なん の所に入った時、先生の眼まともに見れな ・ : と、あんな方法を考かった。なんか見透かされているような。 で僕のシナリオは : えた。その時、石堂 ( 淑朗 ) さんとか審査岩田恐いですよね。ジロッと見られると 員だったでしよ。みんな作者はすごい女だ若月眼鏡の奥から。 と。でも井手さんだけが、「そうかしら」と。鎌田軽蔑するからね、ダメだったら。 一人だけ何でも読めた人でした。僕とい 若月そりや、鎌田さん二十四時間一緒に
いくんだ、と傍で見てて、いろいろ勉強に くなった。テレビの方が時代に合った頃 桂やつばりシナリオライターっていうの なりました。傍で見てるだけで。 だったから。 は、ちゃんとした師匠に付かなきゃいい脚鎌田俺も学んだ。仕事の関係の本ばかり 岩田青春ものの元祖で。『チャコちゃん 本書けるようにならないですね。ほんと、 読んでちゃいけない。関係ない本を読む。 ケンちゃん』も書いてた。 つくづくそう思う。その人が教えてくれる 「そうしないといけないーとは教わらない 桂でやった『時をかける少女』ほ かどうかは別にして、傍にいなきやダメで んだけど。師匠がやってるから、そういう んとに面白かった。 す。 もんだと。今でも、ずいぶん言われますよ、 岩田剣持さんが映画書く前 ? 鎌田六年いたわけだから。子供が小学校「何で、こんな本読んでるんですか ? ーと。 若月ずっと前。 卒業した時に、六年って随分長くいたなと桂『海の情事に賭けろ」って誰か観たの ? 鎌田「兄貴の恋人」って : ・ 思いましたもの。六年の間にいろいろ聞い 若月観た。赤木圭一郎好きだから。この桂加山雄三。あれ傑作だと思いますけど てるから、後で助かった。先生が積み重ね主題歌も好きなの ね。 てきたもの全部聞いてる。それで後すごく 岩田これ自慢してましたね。「日活ニュー 鎌田それ、テレビ版をやったんですよ 楽だった。 アクションも書けるんだぜ」みたいな。 映画と同じ森谷 ( 司郎 ) さんが監督して。 桂ダメな師匠に付くと、師匠がいい経験若月井手さんというのは、自分の得意な桂森谷さんのことは全然悪くは言ってな硯 をしてないし、何にもいいこと喋ってくれ ジャンルには厳しい。違、つジャンルにはすかった ? ないんですよ。 ごく甘いんです。当時、内田裕也の「コミッ 鎌田森谷さん好きでしたよ。映画ずいぶ 鎌田説教だけしてる ク雑誌なんかいらない」なんて凄く誉めて んやりましたよね、「海峡』とか 若月師匠がそれだけの人で、その雰囲気ましたよ。 桂「海峡」の悪口言わなかったしね。 に馴染むことも自分を成長させてくれる 桂井手さん、嬉しそうに「僕はアクショ 鎌田あと、青春もの。内藤洋子とか 岩田俺の立場で偉そうなこと言えません ンだって書けるんだ」って。 桂「育ちざかり」とか「赤頭巾ちゃん気 けど、ものの見方ってほんとに教えられま をつけて』。井手さんやるの嫌だから僕が したね。脚本家としてのものの見方とか、 デビュー出来たんだ、「白鳥の歌なんか聞 ⑦ 世の中の見方、映画の見方、本もこういう こえない』で の読まないといけない。い や、「いけない」 編集部テレビも随分書いてらっしゃいま鎌田『赤頭巾ちゃん 5 』の後の という言い方はしない。いろんな本読んですね 桂井手さんがおっしやってくださったの て、俺も本もらったんですよ。仕事来ると桂多かったですね かも知れない。 参考書いつばい読むし、あっこれで作って 鎌田一時、映画よりテレビのほうが面白鎌田面白い人がいると
た。そういう人たちがいて、すごく助かっ忙しかったからな。あれが響いたのかなと」 くらでください」と言ったら、あっ、これ と。 た。井手さんの奥さんに「実はガンなんで は独立したいんだな、とパッと分かった。 すよ」と言われて、おいそれと見舞いに行鎌田「信子とおばあちゃん』朝ド それで、師匠がやっていた日テレの青春も けなくなった。話したのは、俺と金子さん ラ年 ) だね。 ののプロデューサーに紹介してくれた。 だけで、本人は知らないって言われたから。桂僕にも言ってましたよ。「あんなもの桂夏木陽介と林与一の映画 (E 「おい 長く弟子だったから、表情で覚られちゃ、つ やるんじゃなかった」って。 ろけコミック不思議な仲間』 ) 、あれがあな ような気がしてね。その時、来てくれてた鎌田の朝ドラって合わない人だっ たの映画のデビューということになってる のが若い生徒さんたち。ミュージカルやる たから。それに、長いでしよ。 けど、あれは井手さんが口を聞いてくれた とかいろんな話してて、寂しくなかったん桂でも一生懸命助けたのは、あなたと とか ? 一人で書いたんでしょ ? ですよ、たぶん。 鎌田あれは藤本 ( 真澄 ) さん ( 東宝映画 桂大抵、師匠って孤独になっちゃうんで鎌田いや、僕は、直前に独立しちゃった 社長 ) にやれと言われて。どういういきさ すよ から。 つかは忘れましたけど 鎌田だから最後まで現役だった。そうい 岩田剣持さんは手伝ったと言ってました。桂あれは驚きました。こういうの書ける一 う意味では 鎌田あれは大変だったと思う。もう一年人が居るんだと。 若月何回か ( お見舞い ) 行ったんですよ いたら、病気にならなかったかなと後悔す鎌田あんまりエッチでおかしいんで、夏一 だいぶやつれたと思った頃、俺にひとこと ることが今でもある。 ( 弟子として ) 五年木陽介が「出るの嫌だ」と言ったんですよ 「若月くん、直腸がんってカッコ悪いよねー は居ようと思ったんですよ。五年目に金子藤本さんが偉いのは、「だったら辞めろ」 と言ったんですね。俺、何で ? 「 : ・ さんから話が来て、直にやらないかと。そ と言った。当時のスターですよ、夏木陽介っ なったんだけど、今思うと。知的な方だかれで師匠に「こういう話が来たけどいいで て。ふつう駆けだしの脚本家より向こうの ら、直腸がんって下 ( 半身 ) の病気なんで。すか」と言ったら、ちょっと慌てたんです味方するじゃないですか今のテレビ界は よけいそうだけど。 「他の病気だったら良かったのにな」と言っ よ。役に立ってたんだと嬉しかったんだけ てましたよ。 ど。じゃ、あと一年居ようと思って、その若月それだけその脚本が面白かった。 鎌田俺、輸血じゃないかと思ってるんだ、 一年にどうやって独立しようか、どうやっ 鎌田気に入ったんだと思う。すごくエッ 手術する時の。あの頃、まだ輸血の中に肝て言おうかというのがしんどかった。 チなんだけど ( 笑 ) 。 炎ウイルスが入ってるとか騒がれてなかっ 桂それで何と言ったんですか ? 岩田ファーストシーンは、女の子とべッ たからね。 鎌田お金、定期的に貰っていたんですよ ドインしてると、そこに女の子の彼氏が 若月本人は言ってましたよ、「死ぬほど十分のお金を。「要りませんから、一本い 帰ってきたんで慌てて窓から逃げる。裸で
細かい日常会話がすごく役に立ったんじゃ ないですか 若月じゃあ、井手さんの映画あまり観て 鎌田シナリオ研究所 ( 現・シナリオ講座 ) 鎌田いやほんとに。一緒に飯食って聞く の卒業作品。たった一本書いたやつ。それなかった ? も不思議なアレで、教室で卒業パーティが鎌田中高生の時は西部劇とかギャング映話がすごく役に立ったな。 桂チラッと言うことが捨て台詞とか あった後、みんなと一緒に新宿へ飲みに行画とかのアメリカ映画しか観てなかった。 こうと出たんですよ。今でも覚えているん桂井手さん、授業で、「日本映画で一番他人の映画の悪口とか。それが僕には役に だけど、新宿駅の通路を歩いている時、「作っまらないのは、子供が海に行って必ず叫立った。 ぶ、おかあーさーん。バカみたいーって。 鎌田最大は歌舞伎を観せてもらったこと。 品を事務局に戻って置いてくる」と言って、 ・ : そういうの勉強になりましたよ。「衣 ( 井手さん ) 歌舞伎好きだったから。演目 引き返して置いてきた。「井手先生に見せ てくれ」と。それが縁だからね。普通飲み笠貞之助 ( 監督 ) の映画って国定教科書よ、選んでくれて、金払ってくれて、飯代払っ 明治時代の」。なるほどと思ってね。そん てくれて、横で解説してくれた。「これ、 に行く時には、そのまま行っちゃうよね な感じで井手さんに言われた警句が身に江戸時代の現代劇なんだよ。古典として観 若月研究所では井手さんの授業を受けて なったんです。 たんですか ? るな。今の現代劇に直すと、こうなる」と一 かそ、つい、つ話を聞きながら。 鎌田弟子になってみたら、感性が似てた。 鎌田毎週いらしてましたからね。 桂井手さんだけですよ、毎週毎週来てた生活に対する感性とか仕事に対する姿勢と桂鎌田さんのことは気に入ってたらしい のは。 かが本屋に行ってやたら無駄な本買う人んだ。歌舞伎観に行って一緒に幕ノ内弁当 食べたって : ・ でね。一週間か十日、机に置いてあって、 鎌田その頃、井手先生の弟子が独立した んですよ。で、弟子にお金をあげてた。こ全部俺にくれる。自分のシナリオもくれた鎌田歌舞伎観に行ったほうが、頭脳の 僕は ストレスの解消になると : から先生何も持ってないですよ。何も取っ れ、俺にとって肝心なことで、先生がそれ 頭休めるためにストリップ行っちゃったけ をポロッと言った。それを人くらい生徒ておかないそれだけは真似できない。 ど ( 笑 ) 。井手さん、それが歌舞伎だった がいて誰も覚えてないんだけど、俺だけ覚若月井手さんに東芝日曜劇場の生原稿も らったから、未だに置いてありますよ んですよ。 ( 日劇 ) ミュージックホールに えてた。大学出て何かで食わなきゃいけな も行った。宝塚にも初めて行った。 いんで。 ( シナリオ作家が ) 憧れの商売で桂僕は白坂 ( 依志夫 ) さんの弟子でもあっ も何でもなかった。それで覚えていて ( 作たけど、白坂さんは、一緒に遊んだり、「あ若月井手さん宝塚好きだったから。 の映画面白いですよ」というと一緒に連れ鎌田僕、ミュージックホールは好きだっ 品を ) 置きにいったんだと思うんだよね。 たから、後で自分でも行きましたけどね。 て行ってくれてまた観たけど、そういうこ とは井手さんとは全然なかったですけどね。宝塚を観せてもらったんですよ ② 一わ
第集ツナリオ作家尹手俊 ロロ目師「井手俊郎」を語る一 「さりげないけど、上手い人」 圧出席者』鎌田敏夫桂千穂岩田元喜若月ュウ陽 あってね ラピュタ阿佐ヶ谷で「溌刺たる昭和の女た ち脚本家井手俊郎のめくばせ」のタイ桂大それたこと言ったもんですね トルで井手俊郎脚本映画の特集上映が行わ れている。井手俊郎氏とはどのようなシナ鎌田僕は弟子になる前は師匠の作品、『警 リオ作家であったのか、シナリオの師とし察日記」とか「青い山脈」くらいは観てた て、親交のあった四氏に集まっていただき、 けど、他はほとんど観てなかった。だから、 語り合ってもらった。 師匠の作品を観て尊敬して弟子になりたい とかそういうんじゃなかったんです。 桂僕は正式の弟子じゃないんですよね。 ① ただ、井手さんがすごく目をかけてくだ 編集部まず、どのようなかたちで皆さん さった。シナリオ作協のシナリオ研究所に が井手先生と出会われたのか、からお話し 行ってた時、変な質問ばっかりしてた。井 いただけますか ? 手さんそれを喜んでくれて、「あんた、生一 鎌田その前に、桂さんと会ったら言お、つ意気ねえ」なんて。その後も、全然芽が出 と思ってたことがあって。井手さんが亡く ない間、国際文化会館で何回も御馳走して一 くれたり、いろいろ良くしてくださった。 なった後だと思うんだけど、桂さんが何か どうしてこんなに良くしてもらえるんだろ に書かれたか、どこかで言われたんだか、 、つ A 」 「井手さんは死んでから偉くなる人だ」と 桂生きてる時から、偉いと思っていたの鎌田桂さんのことを面白がってた。 若月俺が桂さんの紹介で、日活ロマンポ ルノ一緒に書いてデビューして、仕事があ 鎌田それ、すごく嬉しかった。 桂そんなひどいことを ? んまりないんで桂さんの手伝いしながら、 鎌田いや、ひどくない。聞いて、お礼を桂さんが井手さんの処へ行く時、一緒に行 言いたかったんですよ。ほんとに、死んでくといろんな話してくれるでしよ。鎌田さ んの話もよくするんですよ。鎌田さんはシ から偉くなる人ですよ。生前に話されたこ ナリオを一本ポンと置いていった。それか とが、「あっ、ああいうことだったんだ」と 後になって分かってくることか、いつばい ら弟子になったとーーーそういう話してまし
電信柱かなんかに掴まって。それを井手さ画を ) もってらしたんでしよ。 よ、そのときに、師匠の妹さんから手紙を いただいて、こちらも出したりしてたんだ んは誉めてたんですよ。若いんだからこ若月そう、ハヤカワミステリー ういうシーンを書かなきゃいけないよと鎌田今観ても面白いですよ。この前、こ けど、「字が兄とすごく似てる」と言われて、 不思議だったけど、嬉しかった。 の原作をドラマでやらないかと言われて、 鎌田新婚の頃に、近くで太鼓の練習をし映画をもう一回観たんだけど、これ ( 映画 ) 岩田 ( 銀座に ) 並木座っていう名画座が ているのがいて、しよっちゅうそれを聞き あって、あそこのポスターも一時期書いて の方を原作にした方がいいんじゃないかと、 て。 ながらエッチしてたから、今でも太鼓の音プロデューサーに言ったくらい が聞こえてきただけで、立ってくる ( 勃起 桂あの映画館、井手さんが金子さんなん する ) とか かとお作りになったんじゃないですか ? 若月当時としてはね。 岩田みんなでお金を出しあったとか 桂あの頃、ロマンポルノなんてなかった。編集部先ほど、無駄な本をいつばい買っ 鎌田藤本さんも出したんじゃないかな。 鎌田児玉進さんが監督だったんだけど、 たという話がありましたが、どういう本で 師匠はもともと映画館主なんですよ。新宿 すか ? 週刊誌に「児玉元帥の孫がピンク映画撮っ 文化も昔、館主だった。戦争中にソウルで一 た」と書かれてましたよ。試写会で観た時鎌田建築の本とか美術はもともと好き も博多でも館主やってたって言ってました。 だったから に、誰も笑わないし面白くなかったんだけ そこのポスターは自分で書いてたって。 ど、新宿の昭和館とか三番館に観に行った若月美術やってたと言ってました。 岩田並木座のポスターを盗まれたと嬉し ら、みんな笑ってて、すごく面白かった。 岩田商業デザイン。千葉工専 ( 現・千葉そうに言ってましたよ。あと、館主時代の こと喋ってて、お客さんは楽しみに来てる やつばり、ああいうもの試写で観ちゃいけ大学 ) の商業デザイン科を卒業したとか ないなと から、話の途中から観ても面白い映画を書 鎌田それで、「婦人画報』に勤めてた。 かなきゃいけない、みたいなことを。 桂監督に対する眼の厳しさってすごかっ その頃、「婦人画報』は一番シャープな宣 たですね。成瀬巳喜男のことを「あの教養 伝部だったらしいんですよ。絵も好きだっ 桂あの頃はね、途中からは入っても良 のない田舎じじい」って。びつくりしちゃっ た。そこにいたから字がすごく綺麗。弟子かった。僕、映画というのは途中からは入 るものだと思ってた。 になった頃、清書しろと言われて、一回で た。「「女の中にいる他人』「あのラストは 何だ」ってね。 首になった。師匠の方がはるかに字が綺麗鎌田当時はちょうど始まる時間なんかに 鎌田でも、あの映画、師匠は好きでしたよ。 行ってないからね だったから ( 笑 ) 。ただ、嬉しかったのは、 桂そう、好きだから近親憎悪みたいなの何年か前に、師匠の生誕 100 年のイベン があって。あれ、井手さんがどこからか ( 企 トが、師匠の故郷 ( 唐津 ) であったんです
それが発端でお岩さんの話になるんだけど、 うよ」と言われた。お互いに気を使わない 教養のための歌舞伎じゃなくエンターティ 「それなんだよって。これ、まさに隣に のが、一番いい。それを分かってくれる人メントとしての歌舞伎なんだよ」というこ 越してきた人に惚れちゃう話。凄いなと でした。弟子なら、「注げ」って言うのが とを、「照明、衣裳、全部含めてお客さん 若月そういう比喩とかよく言ってたね。 普通じゃない。 が楽しむためのものなんだよ」と 桂この頃のシナリオライター、弟子がい 桂そういうの好きな人いるよ 鎌田現場の人はみんなそうでしようね。 るとしても、そんなこと考えもしないで若月そのへんの呼吸って難しい 伝記を読むと、ジョン・フォードだってす しようねえ。だから育たないんですよ 編集部仕事はすっと同じ処 ( 国際文化会 ごく謙虚な人だって。映画からすると、威 岩田ポロッと言うんですね。 館 ) だったんですか ? 張ってるみたいに思うじゃないですか。ほ 桂それが役に立つんですよ。そういうこ鎌田いや、その前は、都内のホテルを転々 んとは内気で謙虚な人だったって。 と言われても頭に染みない人もいるけど。 としていて。ホテル無宿だって言ってまし桂威張る人ってダメなんですねえ : ・ 鎌田聞くほうの感性もあるから。でも。 た。それも、凄く勉強になった。東京に住 俺ほとんど毎日一緒に飯食ってたでしよ。 んでて東京のホテルに行くなんて、まず頭 ⑩ 師匠と飯食うのって難しいんですよ。気を になかったから。いろんなホテルに通わせ 使ってもいけない。師匠も弟子に気を使わ てもらった。最後が六本木の国際文化会館編集部今日、井手先生から学んだものを れたら鬱陶しい。ホテルのレストランで でした。 お聞きしたかったんですけど、お話をお、つ一 喰ってて、師匠と同じものを毎度注文する かがいすると、先生の存在自体が学ぶべき と、軽蔑される。遠慮して師匠より安いも もののよ、つです。言葉でレクチャーされた ⑨ の頼んだら、これも芸がない。かといって ということではないんですね ? あまり高いもの頼んだら配慮がない。でも、編集部井手先生が映画館の館主をされて鎌田「中年女のセリフが書けないね」と 師匠が安いもの頼んだ時に「ステーキ ! ーっ いたということは、その後シナリオ作家と 言われたくらいで ( 笑 ) 。 て ( 笑 ) 、驚かすために。こっちも脚本家してやっていく上で凄く大きかったので桂ラピュタ阿佐ヶ谷でやる井手さんの映 になろうとしているんだから、個性を出さ 画を観に行ってほしいんです。何本か観れ ないと、甘く見られてしまう。一緒に飲み桂それは凄く大きいですよ ば、映画のシナリオってこういうふうに書 に行った時も、気を使って ( 盃に ) 注がれ編集部お客さんの目で : ・ くんだと分かると思うんだけどね。 るの、師匠嫌いなんですよ。先生なんだか鎌田そうです。 鎌田さりげないけど上手い人 ら、弟子がお酌するのは当然なんだけど。 岩田自分も歌舞伎に連れて行ってもらっ 桂それは蓄積ですよね。教養が広かった。 そのうちに、「一本ずつ頼んで勝手に飲も たんですけど、「芸術としての歌舞伎とか だから何も観ないで何も読まないでさりげ
ソッ・ノフ ? 写ーー 円 れ 左から岩月ユウ陽氏、岩田元喜氏、桂千穂氏、鎌田敏夫氏。 ( 自由が丘・小樽食堂花火にて ) 【出席者プロフィール】 鎌田敏夫 ( かまたとしお ) 徳島県出身。主なテレピ作品に「俺たちの旅」「金 曜日の妻たちへ」「男女 7 人夏物語」「男女 7 人 秋物語」三ューヨーク恋物語」「四歳のクリス マス」 ( 第回向田邦子賞 ) 「逃ける女」、主な映 画作品「戦国自衛隊」「刑事珍道中」「探偵物語」 「里見八犬伝」「いこかもどろか」「天と地と」など。 桂千穂 ( かつらちほ ) 岐阜県出身。第幻回新人シナリオ・コンクール に「血と薔薇は暗闇のうた」入選。主な映画作 品に、「薔薇の標的」「白鳥の歌なんか聞こえない」 「黒薔薇夫人」「暴行切り裂きジャック」「 10 ハウス」「蔵の中」「俗物図鑑」「幻魔大戦」「廃 市」「ふたり」など多数。 岩田元喜 ( いわたもとよし ) 山形県出身。雑誌記者、フリーライターを経て、 2 時問ドラマ「緋牡円マンション」 ( フジテレビ ) で脚本家デビュー。主な脚本作品Ⅱ映画「育子 からの手紙』「かかしの旅」、テレビドラマ「鍵師」 シリーズ、「水戸黄門」など。その他、ドキュメ ント映像作品の構成脚本やコミック脚本なども。 若月ュウ陽 ( わかっきゅうひ ) 北海道・小樽市出身。ミュージシャンを経て、 国内外を放浪後、日活ロマンポルノ「アクメ記 念日」で、桂千穂氏と共作でデビュー。映画、 テレビの脚本、小説などを執筆。その傍ら、自 由が丘で居酒屋「小樽食堂花火」を経営。現在 に至る。 若月越路吹雪と一緒に旅行行ったってい うんだからね 鎌田コーチャン〈越路吹雪〉を囲む会っ てありましたからね。金子 ( 正旦 ) さんと ・・と か、淀川 ( 長治 ) さんとか : 若月 ( 岩田氏に ) あんたは何で井手さん のところに ? 岩田月刊シナリオ誌に出た「シナリオ実 践塾講師・井手俊郎毎週金曜日」とい う広告を見て 鎌田国際文化会館でやってたやつね 岩田先生も七十過ぎてて、「海峡』書き 終った頃に。そこへ行ったのが最初です。一 鎌田僕も一回行きました。来て話をして くれと言われて。 岩田桂さんも来てくださった。そこへ週 一回行ったときに、お話を聞いて。 若月俺、その後だからね。一番遅い。行っ たら弟子三十人くらいいて、毎週十人くら い来てた。井手さんの話聞くのもために なったけど、終った後、ワイワイ飲みに行 く。文化会館からタクシーのほうまで歩い て話するのが、大した話じゃないんだけど、 優しさと意地悪が同居していて、ザクッと 来ることも言われる。桂さんの紹介で俺、 入ったけど、桂さんが、俺のことミュージ シャンやってたと言ったと思う。歩いてい 0