「渡利の作品は全て芦田との共同執筆だった。メジャーにな我慢の限界に達した芦田が渡利に『すべてを公表する』と宣 る前、渡利は推理作家を目指し原稿を書いてはいたようだが、言したから、今回の奇禍に遭うことになってしまった」 文才がまったく無かった。三日月出版に持ち込みに行った時私はさくらんぼのタルトを味わいつつ、小倉に尋ねる。 に芦田と出会ったんだ。編集者の芦田もまた推理作家になる「結局、芦田が青葉会を招集したのは何故ですか ? 作家同 夢を捨てきれすにいて、渡利を利用して自分の作品を世に広士で仲が悪いのは見え見えだし、メンバ ーの中には揉めてい めることはできないかと考えた。渡利には文才が無かったもる張本人の渡利もいます。いまさら文学サロンぶらなくて のの、物語の創作能力は高かった。そこでストーリ ーを渡利も」 が担当、文章を芦田が書くようになった。僕も楓ちゃんと同「三日月出版の同僚に事情聴取したんだが、どうやら芦田は 様ミステリファンだ。 / 彼らの過去の作品を殆ど読んでいたけ今回で最後にしようと考えていたようだ。青葉会のメンバー ど、これが結構な名作揃いでね。渡利はご存知の通りルックは知らなかったようだが」 ーには電話かメールで伝えれば良 スは良いし、抜群に人たらしだった。一方の芦田はあんな外それぐらいなら、メンバ 見だし、性格はどちらかというと内向的。だから表に出るのかったものを。 は渡利の役目で、彼の名義であっという間に作品が売れてし「これは推測だが、芦田は青葉会を理由に渡利を呼び出して、 まったんだな。印税は折半していたらしいが , 冷静に話し合おうとしたんじゃないのかな。芦田は『事なか 今宮は死囚に関する話題以外に興味が無いのか、タルトをれ主義』だったようだから」 ひたすら貪り、紅茶を啜っている。そして私に「紅茶、おか今宮は二杯目の紅茶を飲み干した。 わり」とマグカツ。フを突き出した。私はしぶしぶ席を立って 「ふん。そんなの端からうまく行かないのは目に見えている 紅茶を淹れてやる。 だろう。渡利にだけ分があり過ぎる。最初から二人名義で公 「ところが、ここへ来て芦田の心境に変化が生まれる。彼に表すれば良かったんだ。芦田は災いの種を自ら蒔いたに過ぎ も『表に出たい』『脚光を浴びたい』『自分で物語を創作したん。結局は自分も、ストーリ ーの創作は渡利に任せていたん い』という欲が出て来た。当然渡利は拒否。自らの栄華の半だからな」 分が水の泡になってしまうからね。更に、渡利が自分名義の「相変わらす、君のポスは辛辣だね」 印税を折半しなくなった。額を誤魔化して芦田に渡していた 小倉は私に笑いかける。確かに辛辣だが正論だ。 んだ。それが芦田にバレて、二人の仲は次第にこじれて行く。 しかし渡利が芦田を殺害してしまったら、もう作品を生み 269 恙なき遺体
雨期のアユタヤ遺跡にて。隣国 ミャンマーの攻撃によって多くは 破壊されつつも、今もなおその麗 しい姿を残すストゥーパは、観る 者の心を捕らえて放さないのです。 らいついていた。ドクターとアシスタント達の内臓や脳味噌を切り取るよりも痛々しかった 手さばきは鮮やかで、同時に 3 体が次々とその 不思議なことに、自殺者と見られる 2 人の死 内容物を露わにされる。感電死が 2 体、銃によ に顔は思いのほか穏やかで、不意打ちの感電死 る自殺とおばしき御遺体が 2 体、病死が 1 体 らしき 2 人の顔は痛みに歪んでいるように見え 「幸い今日は、死後間もない御遺体ばかりで、 腐乱死体がないけれど、臭いが身体中に染みつ 不意に Dr. Pa 三 a 一が私の名前を呼んだかと思 いて離れないこともあるのーと言いながら、 うと、肥大した心臓を手渡された。もちろん手 術ガウンや手袋などで感染予防はしているもの Dr. Pa 三 ai が解剖所見を人体図に記入する の、まさか内臓に触れられるとは思ってもみな 仰向けで亡くなっていた御遺体は、背中側に 赤紫の死斑が、うつ伏せで亡くなっていた御遺かった。ずしりと重くのしかかる脳味噌を手に トラマの台 体は、胸側に死斑が浮かび上がっている循環した時は、ある種の恍惚感を覚えた。。 器の停止により、血流が止まると、重力に従っ本に書かれていた、「内臓を美しいーと感じる気 持ちが手に取るように理解できた瞬間だった て、血液は下方に下がり、死斑を表出させるのだ スポンジのようにふわふわの肺も、小さな腎臓 自らに銃弾を放って亡くなった男性の 1 人は、 肝臓癌を患っていたというこめかみには銃創 も、透き通った腸管も、全て愛おしく、人体の があり、解剖した脳には弾丸が埋め込まれてい 精密さと圧倒的な美しさに魅入られてしまった た。もう 1 人の自殺者は、統合失調症を患って その一方で、このように精巧に作られた人体 いたとのこと、胸部に銃口を密着させる形で発も、つかの間の借り物なのだと改めて実感した。 砲された形跡があり、弾は男性の心臓を貫通し 誰もが死にゆくために生まれては来るものの、 て、背中側に抜けていた。すでに白濁した角膜与えられた内臓を大切に使わせていただこうと に注射器をプスリと刺し、体液を採取する様は、思えたことが、何よりも大きな収穫だった 221
落に獲物を降ろしに来るはすだ」 「ねえ、隆観さま。 したいここでどうしようって言うんだ 首名の肩越しの向こうでは、先ほどの子どもたちが身を寄「タ刻まで、薩麻君を待ちます。それがわたしの務めですか せ合い こちらを興味深そうに眺めている。 よし、と隆観は小さくうなすいた。 首を傾げた日抓に、隆観は手短に自分が薩摩国内を歩き回 夕刻に福志麻呂が戻ってくるのであれば、明日の朝には国っている理由を説いた。 衙に戻ることが出来る。それまでは道を行く隼人に声をかけ、その途端、日抓は大きな目をきよとんと見開いた。「なん 旧事の聞ぎ取りを行なえばいいのだ。 だ、そんなことだったのかい と呟くや、背負っていた荷物 日本の南端という地域性ゆえであろう。この三月の間に隼を肩から下ろし始めた。 人から採取した逸話類は、畿内のそれとは異なる独特なもの ロ紐を解いて取り出したのは、膝に載るほど小さな琴だ。 ばかりだった。一方で隼人の喜怒哀楽を歌い込んだ隼人歌は、粗末な琴柱を手際よく立て、日抓は長い指でいきなり、ばら 京の畿内隼人が歌うそれと歌詞は同じだが、節回しがまったん、と弦を弾いた。 く異なり、別の歌のようにしか感じられない。 「それなら、まずはおいらに聞けばいいのに。これでも隼人 これまで隆観に歌や逸話を聞かせてくれたのは、みな大人歌には詳しいんだよ」 の隼人ばかりだった。ならば今、興味深げにこちらをうかが 言いながら日抓はもう一度、ばらん、と琴を掻き鳴らした。 っている子どもたちからは、また別の話が聞けるのではない いつの間にか傍まで来ていた子どもたちが、い ささか調子は 、 0 カ すれなその音にきやははと声を上げた。 「では、ここで待たせてもらいます」 「隼人歌なら、あちこちで幾度も聞いているから結構ですよ。 隼人は用心深い。集落に人ることが許されるのは、よほど どうせ海の魚や、山の木々の様子を歌ったものばかりでしょ 彼らから信頼された者だけだ。 道脇の石に腰かけた隆観を、首名はしばらくの間、表情の隆観の言葉を聞くや、日抓のロ許に薄い笑みがじんわりと ない顔で見つめていた。だがやがて無言でこちらに背を向け浮かんだ。水に落とした一点の墨汁にも似た、妙に小暗い笑 ると、訛りの強い言葉で子どもたちを叱りつけ、のっそりと いであった。 家の中に入っていった。 「ああ、やつばりそうなんだ。いったいどこの隼人に聞いた ら」 206
者よ、 隣の今宮はまたしても見取り図に興味がない ようで、腕組みをしたまま口をへの字に結んでいる。あくま 入室して来た飯星の顔色は、先ほど会った時よりも一層悪 でも、遺体の検分を優先しているのだろう。 く目はうつろで、更に老けた印象だ。返答の声が小さく、何 部屋割りは、竹の間が梅本清香、梅の間が梅本遼司、桃のを言っているのか分からない。 間が渡利、桐の間が涼風で、松の間が空室。芦田の部屋の両「あなたが芦田さんの第一発見者ですね。その時の状況を詳 隣は梅本遼司と渡利だったようだ。桜の間で乱闘があったとしくお聞かせ願えますか」 しても、涼風が宿泊した桐の間までは聞こえて来ないだろう。 船岡が問うと、飯星は声を震わせながらやっとのことで答 「紛失している旅館の備品があるかどうか、紅葉旅館仲居頭える。 の飯星澄子に現場を確認してもらいました。失くなっていた「今朝の六時十五分頃でしようか。梅本様 : : : 、ああ、ご主 のは延長コ】ドだそうですー 人の梅本遼司様の方です。梅本様からのご依頼で、芦田様が 「延長コード、ですか」 起きていらっしやるか確認に行って欲しいと : 今宮が珍しく興味を示したものだから、船岡は嬉しそうに、「何故、梅本さんはあなたに頼んだのでしようか。芦田さん 「そうなんです。昨日の昼過ぎに、芦田太一の希望で貸し出とお約束でも ? 」 したとのことで。パソコンを使おうにも、コンセントまで遠飯星はゆっくりと頷いた。 かったみたいですな。バッテリの充電が切れており、コード 「梅本様と芦田様は散歩のご予定があるとのことで前日に伺 レスで使用できなかったようです っておりました。午前六時に玄関前のロビーで待ち合わせと 「ーーなるほど のことでしたが、芦田様がお見えにならず : : : 。芦田様は時 今宮は頷くと再び黙り込んでしまった。何か思い当ったの 間に正確な方でしたので『これはおかしい』と梅本様がお思 だろうか。本当は訊いてみたいところだが、考え事をしてい いになったようで、私にお部屋まで行って欲しいと : る時に話しかけると不機嫌になるので、ここはそっとしておこで私が芦田様のお部屋に参りまして、ノックしたのですが こ一つ。 お返事が無く : 鍵が開いておりましたので、おかしいな 船岡がシャツを捲って自らの腕時計を確認する。 と思いながら室内に入りました所、お部屋の中が荒らされて 「それでは最初に、飯星澄子から呼びましようか」 おり、芦田様が布団の上で仰向けにお倒れでした。お顔が土 船岡の仕切りで事情聴取が始まった。彼の声だけがやたら色でしたので『これはもういけない』と思ったのですが、ど 242
文はやりたし 第 2 回司法解剖 中谷美紀 女優。 T B S 系日曜よる 9 時ロ Q 2 4 6 ~ 華麗なる事 件簿 ~ 」に出演中。 http://www.mikinakatani.com ドラマ「 IQ246 」にて、誰よりも死体を験よ」と、続ける表情には、強く朗らかに見え 愛する監察医を演じるにあたり、タイ中央法医る人柄とは裏腹な繊細さが見え隠れしていた 学研究所の監察医、 Dr. Pa 三 a 一よりお許しをい オフィスから一一枚の扉を隔てた向こう側に ただき、司法解剖を見学する機会を得た。 6 台の解剖台が据えられ、すでに 5 名の御遺体 ハンコクの中心部から車で分ほど、お堀に が横たわっていた。最も奧の女性はすでに着衣 囲まれた広大な敷地に聳えるタマサート大学に を脱がされ、 3 人一組となったチームによって て、監察室のオフィスを訪れると、チーフ監察頭部と胸部を同時に切り開かれていた。思わず 医の Dr. Pa 三 ai が厚みのあるポプスタイルの閉ロして目を逸らしてはみたものの、その過程 髪の毛を揺らしながら颯爽と姿を現した。恐ら を見ずしてはわざわざタイを訪れたことが徒労 に終わってしまう。恐る恐る覗いて見ると、瞬 く私より三つ四つ若い Dr. Pa 三 a 一は、およそ人 の死にかかわる仕事を毎日しているとは思えぬ く間に頭部の皮膚が剥ぎ取られ、頭蓋骨が露わ ほど、明るく闊達な女性である。医療に携わる になり、電気ノコギリのけたたましい響きがそ 方法はい くらでもあろうに、 Dr. Pa 三 ai はなぜれに続いた。なんと、頭蓋骨を切り取り、脳味 監察医を志したのだろうか ? 噌を取り出しているのであった。時を同じくし 「アメリカでの研修医時代に、当直を経験して、て、黄色い脂肪がたつぶりとついた胸部から腹 その時、心臓発作の患者が救急で運ばれて来た部にかけての肉が切り開かれ、肋骨がペンチで のだけれど、私は彼を救えなかったの」と告白切り取られて行く肺、心臓、胃などといった する口調は、最初の自己紹介のそれと全く変わ内臓が、部位ごとに分けられ、体内に溜まった らず、事実を淡々と述べる。しかし、「できる大量の血液がホースの水で洗い流される 限りのことは全てしたわ。でも、患者は息を引 気絶するのではないかという心配は杞憂に過 き取ったの。それは決して忘れられない苦い経ぎず、目の前で繰り広げられる光景に夢中で食 220
メス刃を新しく交換し、有鉤ピンセットと共に今宮に手渡 「おい、梨木。また『痩せたい』とか、くだらねえこと考え ているんしゃないだろうな」 す。今宮はすぐに胸腹部の切開に人った。 今宮に見抜かれた。さすが、鋭い男である。 鎖骨下を > 字に切開した後、その真ん中から恥骨まで一直 へそ 「どうして痩せたがるんだろうな。今がちょうどいいのに、線に切開する。この時、臍の左側を迂回させる。一般に〈 >- それ以上痩せたら、骨と皮しか無くなるじゃないか。身長百字切開〉と呼ばれ、納棺時に着物を着せた際、切開痕が見え 六十センチに体重四十七キロだろう ? 」 ないように配慮されている。 何故この男は私の身長と体重を知っているのだ。私が慌て私もメスを握り、今宮が切開した部分から皮膚を剥がして て「セクハラですよ」と騒ぐと、今宮は「何だ。適当に言っゆく。前面も皮下脂肪が多く、臍の部分で厚みが五センチも たのに当たったのかーとしれっとしたものである。 ある。皮下、脂肪織内に出血は見られない。 「とにかくダイエットなんかしたら栄養失調で死ぬそ。おま「吉田さん、次は胸腹部の内景所見を言います。胸部の皮膚 せつ力いーくり え、一人暮らしだろうが。孤独死して俺に解剖されたいのを切開剥離すると、胸部の皮下及び脂肪織内には著変を認め カ 腹部も同様」 「嫌です」 今宮が流暢に内景所見を述べてゆく。吉田も寸分の遅れな 「そう思うんなら、つまらん考えは捨てるんだな。よし、 く所見をパソコン画面に入力する。船岡が「厳さん、すげえ つも通り切開していくそ。メスの刃を替えてくれ なあ。俺には無理だと呟いた。 だいきようきんしようよう 背中を切開したメスはまったく切れなくなっている。骨と皮膚を剥がした後は筋肉を剥離してゆく。大胸筋、、 きん 脂肪のせいだ。時代劇に限らす、刃物を振り回して何人も斬筋などを剥がしつつ、筋肉内に出血がないか、肋骨骨折の有 り捨ててゆくシーンを見ると、「そろそろ切れなくなる頃無などを確認する。心臓マッサージがおこなわれた場合、左 だ」と思うのは職業病だ。 側を中心に肋骨骨折を認めることが多いのだが、遺体は病院 昔のメスは、刃と柄が全てステンレス製で一続きになって搬送されておらす医療行為を受けていないので、肋骨骨折は 体 いるのが普通だったが、最近は柄がプラスチックかステンレ無し ス製で、メス刃だけ交換できるようになっている。ちなみに今宮は小倉と船岡を手招きし、自らの手元を指差す。 恙 我々が今使用しているのは、柄が。フラスチック製の大振りの 「出血は無いし、肋骨骨折も無し 物で、外科用のメスとは全く違う。 小倉は「確かに、と頷いた。船岡は自らの手帳にメモをし がん ちこっ
「だが、兄はしばらく意識を取り戻さぬのであろう ? 」 今すぐ、あなたさまにこの家の当主となって頂きた 「だからこそ考証さまにお願いしているのです。今はお家の いのです」 危機。殿の身代わりとなってお家を御守りください。気がっ 言われて、ますます混乱した。 くまででよいのです。たぶん二、三日の間かと」 「馬鹿な。この家の当主は兄の上野介ではないか」 小林の目がじっと考証を見つめた。 「殿はさきほど江戸城において浅野内匠頭に斬られました」 いったいどうやって ? 」 「身代わりと言ってもな : 小林が唇を引き結んだ。 「殿と考証さまはご兄弟でござるゆえ、姿形がよう似ており 「 : : : なに」 「頭を斬られ、しばらく意識は戻らないであろうというのがます。髪を整え着物を換えれば瓜二つとなりましよう。考証 さまにおいては城に登り、殿と入れ替わった後に、先ほどの 御典医、栗崎道有さまのお診たてにございます」 言を述べて頂きたいのです。つまり逃げてはおらぬ、と」 「兄が斬られたのか ? なぜだ ! 」 「しかし、わしが江戸城に人ることなど、できるのか ? そ 「何やら遺恨を覚えたとのこと : : : 」 れに、城内で床についている兄はどうするのだ」 小林が面を伏せた。 「饗応のための道具類と偽って、城に長持を運び込みます。 「さもあろうな : : : 」 。その長持の 考証は息を吐いた。兄のあの気質である。いじめられた誰当家は饗応の役を仰せつかっていますゆえ : 考証とて、金をせび中にお忍びください。機を見てそこから抜けだし、蘇鉄の間 かが耐えきれなくなっても無理はな、。 るという目的がなければ気の済むまで殴り続けたいほどであに入って頂けば、あとはこちらでうまくやりますゆえ : る。 「待て。このようなことが露呈すれば危ないのではないか ? 」 考証は野性的な直感を覚えて言った。 「だが小林殿。わしが当主になるとはどういうことなのだ」 「実は : ・ : 。殿は、浅野に襲われた際、逃げて背中を斬られ「そうなるでしような。入れ替わりが見つかれば、当家はい たようなのでございます。武士にとっては恥辱の極み。このっさい知らぬ存ぜぬとさせていただきますゆえ、考証さまは ようなことがあれば、当家に対してどういうお咎めの沙汰がその場でご自害ください」 下されるかわかりませぬ。ならばいっそ、こちらから『勅使「ふ、ふざけるな ! わしは知らぬ。出て行くそ ! 」 饗応のための茶器を守るため、懐に茶器を抱いており、斬ら考証は憤然と立ち上がったが、その刹那思った。 もしかしてこれは自分を出すための芝居ではないのか、と。 れた』と言うのです」 350
いるようなものではないか」 「もし : : : もし、身代わりになるとして兄の葬儀はどうする 「いえ、必ずしも仇討ちがあるとは限りません。取りつぶさのじゃ ? れたとはいえ、赤穂家にはお家再興の目もまだありましよう。「世に知られては成りませぬ。殿は今、物置小屋の大瓶の中 風向きがかわり、義周さまが安全だと思われるときまで、少で塩漬けとなっておられます」 しの間身代わりでいてくださればい、 しのです。ほとぼりがさ「なんと。塩漬けとは : めれば、あとは隠居されたということで義周さまに家督を譲「お会いになられますか ? 0 、、 られれば、あとは自由の身。そのあとは考証さまに戻られ、 遊んで暮らされても何も申しませぬ 考証は慌てて首を振った。執念深い兄ゆえ、会ったら祟ら 「すっとではないのだな ? れるかもしれない。 考証は念を押した。 「赤穂の仇討ちか : 「はい。一「三年のうちには目処も立ちましよう。どうです、考証はつぶやいた。よってたかって斬られたら、さそかし それまで殿さま暮らしをなされては : 酒も飯も贅沢です痛いことだろう。額を少し斬られただけでも肝をつぶしたの 言われて考証は屋敷を見まわした。謹慎の沙汰とは言え、 「小林。護衛はしてくれるのであろうな」 このような贅沢なところで暮らせるならば気分もよかろう。 上杉家が請け合ってくれております。それに当家に すでに老齢に達し、放浪の寒風も応えている。 は清水一学という剣の達人もおりますゆえ」 14 0 0 円十税 三角みづ紀詩集 14 。。円 + 税文月悠光詩集 よいひかり わたしたちの猫 花が枯れる。その姿を見つめようとする詩人の姿 最も強い輪郭を描く「恋」の軌道を、やわらかに、 はどこか、大切な人の最期に寄り添おうとするの 霧にけぶるように、文月さんは描き出している にも似ている 若松英輔 雨宮まみ ナナロク社 東京都品川区旗の台 4-6-27 Tel(Fax) : 03-5749-4976 ( 4977 ) WWW. nanarokusha.com 365 身代わり忠臣蔵
お主は『どのようにとがめられてもかまわぬ』と言ったので「浅野殿。しつかりなされい これではまるで子供では あろう ? 今日のこの大事な日をなんと心得る。むしろ切腹ないか」 させてもらえるなど、、 こ公儀の温情なのだそ。しかと心得庄田が苦虫を噛みつぶしたような顔をする。 よ 「しかし。しかし、あまりにも無念 : 「切腹となれば話が違う。何が温情よ。上様は乱心されたの 「吉良殿はもういかぬようじゃ 多門はささやいた。そうでも言わぬと、覚悟が決まらぬだ ろう。 「馬鹿者 ! 」 耐えきれず多門が横から内匠頭を殴りつけた。 「当たり前よ。渾身の一撃ゆえな」 「な、何を : 内匠頭が少し自信を取り戻したように言った。 「乱心しているのは貴様しゃ。武士の情けよ、今の言葉は忘 「ふん、吉良が死んだか。それはよかった」 れてやるゆえ、すぐに腹を切れ」 口元にふと笑みが浮かぶ。 「すぐにだと ? 今日の今日、腹を切れというのか e: 」 「さよう。だからお主も覚悟を決めよ。遺恨は見事晴らした 「それも上様の御沙汰である。早く支度いたせ」 のだ」 多門が最後は慰めるように言った。多門は一人奮闘し、若庄田が毅然と言った。 年寄たちと話し合って老中柳沢吉保にかけあってもらったの 「まあ、これでわしが腹を切らされようとも負けはない」 だが、柳沢は「もう決まったことだ」と、綱吉へ取次ぎもせ内匠頭は挑むように言った。 す、即日切腹の沙汰が内匠頭に下ったのである。 「切腹の御沙汰、ありがたく頂戴致しまする 「待て。待ってくれ。そんなに急に腹を切ることがあるの 「よし。では支度を調えるー カ ? ・ 庄田は言って部屋を出た。多門はその場に残り、内匠頭を 「いかにも。武士は常に戦場にあるものよ」 慰めようとした。 多門が論すように言った。 「浅野殿、こたびのことは : 「死ぬのか、わしが。今日、これから : : : 」 「貴様、先ほどわしを殴ったな」 内匠頭は先ほどまでの元気を急に失ったかと思うと、今度内匠頭が多門をにらみつけた。 はいきなり泣き出した。 「馬鹿者 ! 上様が乱心などと言えば、お主どころか、一族 3 60
うです。吉良殿は遺恨というのに何か心当たりはありますか大久保は射貫くような目で考証を見つめて続けた。 な」 「吉良殿は背中に傷を負うていらっしやる。それはつまり 「さて : 逃げたと一一 = ロうことでござりましようか ? 考証は言葉を濁した。遺恨はあるに決まっているが、内容 ついに来た、と考証は思った。ここをうまく切り抜ければ、 についてはわからない。ただし遺恨があれば、吉良家にもお務めはもはや終わったようなものである。 咎めがあろうから、ここは否定すべぎだ。褒美の金十枚もか胸を張ると、背中がズキンと痛んだ。思えば清水が斬って かっている。 くれたおかげで真に迫る芝居がでぎる。 「とんとわかりませぬ。あれだけ丁寧に指南しましたのに、 「逃げてなどおりませぬう ! 」 何を逆恨みされたのか : : : 。厳しくは言いましたが、それも考証は気合いを込めた。 これも勅使さまの前で粗相をせぬため。もしかすると浅野は 「あのときは饗応で使うことになっていた茶器を懐に抱いて 乱心したのかもしれませぬなあ」 おり、それをかばうため後ろを向いたのでございます。それ 考証はしおらしく言った。兄が悪者にならぬためには、精もこれも勅使さま、ひいては上様のため。襲われたゆえ、大 一杯、被害を受けた者のふりをするしかない。 切な儀式で使う茶器を死ぬ気で守ろうと致しました。守るこ 「今日の勅使さまのご馳走がうまくいっているかどうか、今とが私にとって何より大事な戦だったのでございます。断じ はそれだけが心配でございます て逃げてはおりませぬ」 「なるほど。もっともでござる。ご心配されずとも、他のご 「ほう、茶器を 高家の協力の下に、伊達殿が見事にご接待なされております「いかにも。それを守り抜けたゆえ、背中の傷など痛くとも るそ」 何ともありませぬ 「それはよかった。それさえ成れば、この吉良上野介、もは 「ふむ : : : 」 や命もいりませぬ」 大久保の顔がゆるんだ。話を信じてくれたらしい 言ううちに、考証はだんだん調子に乗ってきた。放浪を繰「ところで吉良殿。腹は減りませぬか り返す中で見てきた全国各地の村歌舞伎や、祭りで催される「腹 : : : 。そうですな」 芝居なども思い出す。 言われて考証は気づいた。今日はろくなものを食べていな 「見上げた覚悟でござる。ただし : 357 身代わり忠臣蔵