台湾ナショナリズム - みる会図書館


検索対象: 思想 2016年 第10号
30件見つかりました。

1. 思想 2016年 第10号

た。同じ時期に大陸籍の下級軍人が大量に退役して、社会階 ( それは「 4 心よる吸収」の過程でもあ。た ) したことの結果で 層の底辺に転落したことにより、エスニシティと階級の区分あり、古典帝国主義時代における周辺ナショナリズムが「中 が相互に交錯するようになり、台湾の社会構造は次第に変化 心への抵抗」として反システム運動という性格を備えていた し始めた (Gates 1981 ) 。一方で、台湾を本土とする中産階級こととは対照的である。 の勃興は、いわゆる「本省人」〔台湾省に本籍を置く者。日本統 治期以来の台湾居住者とその子孫〕が ( 民主化の名において ) 政治的 権力を要求するようになったばかりでなく、 エスニックな政ポスト冷戦期の米国新自由主義の覇権 ( 一九九〇 5 ニ〇〇四 ) 治的動員と台湾ナショナリズムの新しい波を引き起こすこと 一九九〇年代において、李登輝が総統 ( 在一九八八ー二〇〇 になった。他方では、エスニシティと階級が交錯することに〇 ) として政治上における受動的革命 ( pass 一 ve revolution) と実 より、社会は、植民地式構造を払拭しながら、統合と融合に用的ナショナリズム (pragmatic nationalism) を追求した。旧体 かかわる新局面に入り始めようとしていた。政治的次元にお制の外省人工リ トのリべラルな部分と民進党の代表するラ けるエスニシティの動員と、社会的次元における複数のエス ディカルな民主的 / ナショナリスト的勢力を前後して組み込 ニック・グループの融合という二つの過程は相互に矛盾するむことにより、李登輝は、「中華民国」の主権国家機構内部 と同時に絡み合っており、七〇年代中期以来、国民意識形成における政治的本土化を推進し、移行期正義の適用範囲を被 をめぐる極度に複雑で不安定な再編と厳しい葛藤を台湾政治害者補償に限定し、「台湾における中華民国」という折衷的 に生み出してきた。それから三〇年あまりを経てようやく、 な国家アイデンティティを確立するような、改良主義的な民 政治参加機構の統合をともなう民主化の進行と、一九四九年主化を進めることができた。さらに、民主化と国民形成とい 以降に大陸から新たに渡来した移民〔外省人〕が土着化する過 うプロジェクトを完結させるために、一九九九年にはドイツ 程とが相まって、国民意識をめぐる葛藤を次第に克服し、台人ジャーナリストのインタビューにおいて非公式に台湾独立 湾政治はようやく少しずつ安定化していくことになる。 を宣言し、台湾と中国の関係は「特殊な国と国の関係」であ 論冷戦期の後半に勃興した台湾ナショナリズムの波は七〇年ると主張した ( Wu2002 ) 。 黒代から八〇年代にかけての民主化運動に具現化され、この基経済戦略上では、拡大を続ける中国の巨大な吸引力に対抗 礎の上に民進党が構成された。総じて言えば、この過程は、 するために、経済ナショナリズムと重商主義を採用した。ま 台湾が資本主義世界システムの周辺から半周辺段階へと上昇ず自由化の名を借りて政商関係を再建し、大資本家からなる

2. 思想 2016年 第10号

でもあるトム・ネアン (Tom Nairn) は、「スコットランドとヨ パ」 (Nairn 1974 ) という論文において、ゲルナー (Ernest Ge 一一 ner ) の産業化にかかわる理論を敷衍しながら ( 1 ) 、周辺に おけるナショナリズムはグロ ーバルな資本主義の「不均等複 合発展」 (uneven and combined development) の産物であるとマ 資本の不均等発展と台湾ナショナリズム ルクス主義政治経済学の角度から論じた。資本主義的産業化 周辺ナショナリズムにかかわるネアンの論は、複数の帝国 をめぐる時間的な差異が地理上の中心 ( 先進地域 ) と周辺 ( 後進の狭間における台湾ナショナリズムと国民国家の勃興・発 地域 ) という二元的な構造をつくりだし、中心地域が優勢な展・形成について、マクロでダイナミックな理解の枠組みを 政治経済力を用いて後進地域を支配し、搾取し、同時にその提供している。近代資本主義の不均等複合発展という政治地 発展を阻害する。これがすなわち、周辺に対する中心の帝国理学的な軌跡に着目するならば、資本主義 / 帝国主義による 主義である。低度の発展という条件のもとで周辺の新興。フル支配の三段階に分けて近代台湾の形成過程を考えることがで ジョアジーが中心の帝国主義に抵抗し、自身の階級的利益をきる。曰日本という公式の帝国ま rma 一 em 三 re ) による植民統 擁護するためには、人民の名において自分たち自身の社会の治期 ( 古典帝国主義時代 ) 、ロ冷戦期における米国の非公式帝国 群衆の力を動員するほかに選択肢はなか「た。しかしながら、 (info 「 mal empire or imperium) の支配期、曰ポスト冷戦期の新 群衆動員のためにはポピ、リスト的であり、またネイティヴ自由主義のもとでの米国覇権期、四中国の勃興以後の新帝国 イスト的でもある文化動員に訴え、「ネーション」を引き合主義の時代。台湾における国民国家形成の起源は、古典帝国 いにださねばならなかった。これが周辺におけるナショナリ 主義の時期に胎動し、その後、冷戦と新自由主義の時期に形 ズムの起源である。資本主義の不均等発展により引き起こさ作られ、中国への従属を深める過程を経て、三・一八運動に れた周辺ナショナリズムは、資本主義的産業化の波と同様に、おいてついにその現代的相貌をあらわすことになった。 西欧から中欧、東欧、南欧、北欧、ケルト辺境たるアイルラ ンドなどへ波頭を広げ、さらに日本、世界のその他の地域に まで拡散して、同心円的な政治地理学的軌跡を産み出した。 日本植民統治期 ( 古典帝国主義の時代 ) 周辺地域のナショナリズムとは、世界システム論者であるア 日本におけるナショナリズムの出現は一八六〇年代である。 リギ (Giovanni Arrighi) 、ホプキンス (Terence K. Hopkins) 、ウ当初は、西洋の資本ー帝国主義の東アジアへの拡張に対して オーラースティン (lmmanuel Wallerstein) らの論じる反システ ム運動 (antisystemic movements) の一形態であった。

3. 思想 2016年 第10号

政商集団を組織して、いわばこれを「台湾における中華民奇美グループの許文龍、大陸グループの殷琪、長栄グループ 国」の民族資本家階級に変換しようとした。その上で、「急の張栄発など親民進党的な資本家が含まれる。 がず忍耐強く ( 戒急用忍 ) 」という保守的な政策を掲げて、台 全体として言えば、中華民国と台湾の領土を同一視する折 湾の資本が中国に流出するのを抑止するために、中国におけ衷主義的な台湾ナショナリズムがこの時期に次第に台頭し、 る投資を制限した。さらに、「南進」政策を通じて、中国の民主化と本土化の切実な追求こそが台湾における支配的な政 代わりに東南アジアに台湾資本を導こうとした。台湾資本の治意識型態となった。さらに重要なことは、この時期の台湾 進出の方向性を統制する試みに加えて、〔アジア太平政治における三人の重要な競争相手、すなわち李登輝と許信 洋経済協力〕や〔世界貿易機関〕のような多国間の枠組み良と陳水扁が、いずれもなんらかのやり方において、新自由 をめぐる活動の統制を通じて中国を牽制し、グロ ーヾル化の主義のロジックを利用して台湾ナショナリズムの階級的基盤 趨勢を反中国の方向に押し返そうとした。 を再構築し、新興の台湾国民国家と資本を結合させようとし 李登輝が上からの受動的革命を遂行しようとしていたのと たことである。このようにナショナリストが新自由主義を流 ほぼ同じ時期に、民進党主席許信良は『新興民族』 ( 一九九五用した政策のために、台湾ナショナリズムの社会的基盤はこ 年 ) を出版し、台湾資本が「大胆に西進し、中国を経略すべ の時期において明確に右寄りに移動した趨勢を見出すことが できる。 き」ことを主張した。この提案は大胆にも自由帝国主義 ( = b ・ eral 一 mper 一 a = sm ) を視野に人れたものであり、李登輝による制 限にもかかわらず中国に進出した台湾資本を新自由主義のロ ジックにしたがって国家主導下の資本輸出へと吸収・再編成中国の勃興と新帝国主義の時代三〇〇五↓ し、そのことを通じて中国支配を目指すものだった。民進党 二〇〇〇年代初めにに加盟して以来の中国の勃興は、 のリーダーとして李登輝の後を継いで総統に就任した陳水扁一九九〇年代の冷戦終結期に米国が中国を新自由主義的でグ ( 在二〇〇〇ー二〇〇八 ) もまた、中国への資本流出を抑制しょ ーバルな経済秩序に組み込み、飼い慣らそうとする試みが うとしたものの、議会における少数派体制ゆえに国家能力失敗したことによるところが大き 、。ほば同じ時期、米国の (state capac 一 ( y ) が格段に低下していたこともあって、効果は国力はイラク戦争の泥沼化と二〇〇八年のグロ ーバルな経済 なかった。陳水扁はまた、李登輝と同様、政商、民族資産階危機〔リーマン ・ショック〕の発生により明確に衰退した。国家 級を「国政顧問団」として組織しようとした。その中には、情報委員会が二〇一二年に出版した『世界情勢二〇三〇』 ロ

4. 思想 2016年 第10号

もれてしまったカトリック文化が持っ不平等の原理が、従来ビ・カトリシズム」というよりも、比較的表立ってカトリッ のライシテが持っていた平等の理念を侵食しつつある逆説に クとの調和を唱えることのできる「カト・ライシテ」である 注意を促す。「ゾンビ・カトリシズム」という言葉に込めらと指摘する論者もいる (Totec. 20 こ ) 。もっとも、のちに見る れているのは、今日のフランスの教条的 ( さらには排外的 ) な ように、現代のケベックには、フランス流のライシテ教条主 ライシテ原理主義は、一見カトリックの対極にあるようでい義の直輸人であるような主張も存在している。その一方で、 て、無意識の領域では実はカトリックの不平等主義に突き動「カト・ライシテ」に連なるとは言えない宗教的・民族的・ かされているという含意である。 文化的マイノリティの人権保障に力を注ぐライシテのあり方 二〇世紀後半のケベックにおいて注目すべきことのひとつも存在している。 は、カトリックという形而上学的な参照枠組みの消失が、ナ いずれにせよ、ケベックのナショナリズムは、一九六〇年 ショナリズムという代替イデオロギーの発生へとつながった代の「静かな革命」を経ることで、「フランス系カナダ人の ことである。ケベックの社会学者ギー ロシェは、早くも一 エスニック・ナショナリズム」から「ケベック人のシヴィッ 九七〇年代初頭の段階で次のように指摘している。「宗教的ク・ナショナリズム」へと移行した ( 伊達、二〇一五二二八 ) 。 衝動の重要な部分が今日ではその最も広い意味における政治それまではカトリックという宗教とフランス語という言語が の領域に投人されている。政治的行動がカトリック的行動に フランス系カナダ人を結びつけていたが、ケベック人を構成 置き換わったのだ」 ( G. Rocher. 197L 366 ) 。 この一節から窺えする要素から宗教が抜け落ち、その一方でフランス語による るのは、カトリックという宗教に注がれていた信仰のエネル社会統合の重点化がはかられた ( 一九七七年のフランス語憲章 ) 。 ギーが、ケベックのナショナリズムという新たな対象に転用ケベック州政府がフランス語を州内の唯一の公用語としたこ されるようになったということである。 とは、カナダ連邦政府の主導する二言語多文化主義に対抗す ところで、ケベックのカトリックは、もはや宗教的信仰やる意志が込められていた。大枠としては、このような社会の 礼拝の実践の対象としての社会的な力は失っているとしても、脱宗教化および連邦政府の多文化主義へ応答が、ケベックに 今でも多くのケベック人が文化や伝統の面ではカトリックでおいてライシテおよび間文化主義が登場してきたことの背景 この点にある。 あることを自認している (Mager et cantin dir.. 2010 ) 。 から言えば、現代ケベックのライシテを特徴づけているのは、 無意識の領域でカトリック的な原理が機能している「ゾン

5. 思想 2016年 第10号

53 黒潮論 義の知的伝統の中であえてナショナリズム・民族間題に正面 もうびとっ注意を要するのが、「本土 (native) 」「本土主義 から取り組もうとしたニュ ・レフトの系譜に連なるものと (nativism) 」である。この言葉は、台湾とは別に「本土」と いえる。なかでもベネディクト・アンダーソンは重要な師で呼ぶ地域をもっ外来政権 ( 清帝国、日本帝国、中華民国 ) が台 あり、公私にわたる対話相手でもあった。対話の軌跡の一部湾を統治してきた事実を前提としながら、これを克服しよう は、著者による『想像の共同体』中文版 ( 一九九九年初版、二とする志向をあらわす。自分たちの生活する場所が「本土」 〇一〇年新版 ) の序文や、昨年末のアンダーソン逝去に際しであることを自明の前提とする人びとは、「本土」について て記した追悼文からうかがわれる ( 『日本台湾学会ニュースレ る必要を感じない。他方、たとえば沖縄のように歴史的に ター』第三〇号に抄訳を掲載 ) 。本稿の初出である『照破』に 「 ( 日本 ) 本土」中心主義に脅かされてきた地域において、こ も、アンダーソンへの献辞が記されている。 れを反転させて「沖縄を本土とする政策」について語るなら 訳語の選択について、若干の補足をしておきたい。原著に ば、それは現状へのプロテストとなる。台湾本土主義につい おける「民族 ( nat 一 on ) 」は「ネーション」、「民族主義 ( nat 一 on ・ ても同様である。訳文では文脈に応じて「台湾を本土とす alism) 」は「ナショナリズム」、「民族国家 (nation-state) 」は る」というように一一 = ロ葉を補った。もっとも、著者自ら本土主 「国民国家」と訳した。「民族」という一一 = ロ葉は、中文でも日文義にネイティビズムという徴妙なニュアンスの訳語をあてて でも、言語や文化の共通性、あるいは血縁的紐帯にかかわる いるように、それが本質主義的な文化動員に転化することへ 意味合いに解されがちである。これに対して、著者は、文化の警戒心もうかがわせる。 的本質主義や種族的排他主義に対して明確に批判的なスタン およそ一半世紀近くにもわたる時空を射程に収めた本稿に スを保持している。それでも「民族」という用語を用いるのおいて、著者は日本帝国統治下における左翼的伝統ーー日本 は、民主・自決への志向を紐帯とする市民的ナショナリズム ではほとんど知られることのない、夭逝した詩人の作品を含 の方向にこの言葉を読み替えながら、「台湾民族」を歴史的めてーーをあらためて召喚する一方、一九九〇年代に「本土 に定位しようとする戦略によるものと思われる。ただし、日 化」を推進した李登輝政権の社会的基盤は右寄りであり、そ 文では「民族」を言語・文化の共有や血のつながりという観の提唱するナショナリズムは「実用的」「折衷的」性格が強 点から解釈する磁場が依然として強いことに鑑みて、「ネー かったと批判的に論じている。その上で、グロ ーヾルヒの昂 ション」という訳語を用いた。日本植民地支配下に左派政治進した二一世紀において新自由主義的秩序に代わって新帝国 運動を領導した連温卿からの引用部分については、史料用語主義の時代が出現し、これに抵抗しようとする台湾市民社会 として「民族」をそのまま用いた。 の意思が「左翼的なナショナリズム」の勃興を促したと解釈

6. 思想 2016年 第10号

における第一代の左翼運動家であり思想家でもある連温卿は、 後進地域が反応する、典型的な「反帝」周辺ナショナリズム であった。しかし、すぐにそれは防衛的な拡張主義に転化し戦後に完成した『台湾政治運動史』という手稿の中で次のよ うに指摘している。「台湾文化協会は、少数の資産階級と少 た。矢内原忠雄は『帝国主義下の台湾』において、次のよう に明確に論じている。一八九〇年代における日本資本主義は数の所謂新興知識階級の一部分から成り、労働者や農民はい 依然として低度の発展段階にあり、領土拡張は主に地政学的まだ加人していなかった」。台湾議会請願運動は、「台湾民族 ロジックで、国家が主導したものであった。したがって、日の資産階級が、台湾民族の名義において進行した運動」〔傍点 清戦争による台湾獲得についても、「早熟の帝国主義、帝国は呉による〕であり、階級的な制限を受けてはいたものの、 主義前期、政治的軍事的行動による帝国主義時代の開展と見「反日本帝国主義という意図から、無意識の内に統一的な行 るべき性質を有する。いはば非帝国主義国の帝国主義的実践動を起こし」、そのことによって台湾一般大衆の民族意識を であった」 ( 矢内原 1988 ロ 929 」〕 (0)0 日清戦争後、日本は正式喚起した ( 4 ) 。 一九二五年以後、左翼運動が勃興した。これは、台湾史上 に一九世紀後期の古典帝国主義陣営に加人することになっ における左翼台湾ナショナリズムの最初の波頭であった。庶 た ( 2 ) 。一九二〇年代に興起した、第一波の台湾ナショナリ ズムは、後発的な日本帝国主義への対抗という形式において、農〔サトウキビ生産に従事する農民〕を中心とする台湾左翼運動 の勃興は、それまで不利益を受け続けてきた庶農が、米作に 古典帝国主義に間接的に対応したものとみることができる。 従事する農民の利益が上昇したことを見聞きしてよりよい生 活への期待を高めたために、日本の糖業資本を相手として展 一九ニ〇年代における台湾ナショナリズムの勃興 開した反作用の表現であった。一九二六年から二七年にかけ て台湾民族運動は左右に分裂した。これは、日本および世界 『台湾青年』の創刊 ( 一九二〇年 ) 、台湾文化協会の成立 ( 一 九二一年 ) 、台湾議会設置請願運動の開始 ( 一九二三年 ) は、総における左翼運動のイデオロギー的な影響に加えて、日本統 じて言えば、日本による植民地統治前期の制度的な差別 ( 筆治下台湾における米・糖相剋という構造的な要因を反映して いた。というのは、米を内地に移出する権利を獲得した土着 論者はかって「知的か吸収」と表現したことがある ) 、台湾の社会 黒統合、第一次世界大戦以来の世界的な民族自決主義思潮の影地主資産階級は自分たちと利益の一致する日本内地の米穀業 響の産物である ( 3 ) 。この第一波の主要なリーダーは、若林者と同盟を結び、日本資本が利益を壟断する糖業資本と対立 正丈 0983 ) の述べる「台湾土着地主資産階級」である。台湾したからである。糖業の内部には日本資本が現地の庶農を圧

7. 思想 2016年 第10号

地」 ( ( r = emma ) という根源的な政治難局を生み出すと論じてというナショナリスティックな抵抗を台湾において容易に誘 いる。私たちは、民主主義と民族自決と経済のグロ ーヾル化発しがちである。というのは、極度に非民主的な専制構造と、 という、三つの目標を同時に追求することはできない。なぜ台湾に対する露骨な領土的野心は、国民国家としての台湾に ならま、グロ ーヾル化を継続的に追求するには、国民国家とおける民主的な制度と根本的に両立しえないものだからであ 民主主義を捨てなくてはならない。民主主義を維持し深化さ る。したがって、ヒマワリ運動において明白に表明されたよ せるためには、国民国家とグロ ーバルな経済統合のどちらか うな、市民的ナショナリズムの新しい波は、新自由主義に抵 を選ばなくてはならない。国民国家と民族自決を保っために抗するグロ ーバルな運動の、台湾におけるローカルな現象型 は、民主主義の深化とグロ ーヾル化の深化のどちらかを選ば態としてみることができる。 なくてはならない。しかしながら、グロ ーヾル化と民主主義 ヾレ , こと関 の深化は両立しない、なぜならば、世界各地の巨大な多様性階級二番目の体系的要因も、資本主義グロー と多元性が地球規模での民主的な統治を実際的に不可能とす連している。経済学者スティグリツツ (Joseph stiglitz) の著名 ヾレレ凵よ るからである。言葉を換えれは、私たちがいったんグロー な比喩が明らかに示しているように、資本のグロー ル化を選択するならば非民主的な形式の国民国家のもとで生冨の集中を加速し、国民のあいだの貧富の格差を日増しに大 ーセントの きざるをえないということになる。ロドリックは自らの立場きなものとし、「九九パーセントの貧窮者と一。 を明らかにする。 富裕者」という極端な階級分化を生み出すことになる ( s ( 一・ glitz 201D 。グロ ーヾル化に内在する「三者択一の窮地」が 民主主義と民族自決が、高度のグロ ーヾル化に勝利すべきナショナリズムという形式でローカルな抵抗を誘発しがちな である。民主主義は、社会制度を擁護する権利を持つ。そものだとすれば、「九九パーセント対一。 セント」とい、つ の上で、この権利がグロ ーバル経済の要求と衝突する時に階級構造は、ローカルなナショナリズムによる抵抗に対して、 グロ 譲歩すべきは後者である。 (Rodrik 201L xviii-xix) ーヾル化の被害者、すなわち中・下層階級という社会的 基盤を提供することになる。 馬英九政権と海峡を越えた政商集団が台湾にもたらそうと したグロ ーヾル化モデル、すなわち、中国との経済統合を経社会三番目の体系的で、また構造的な要因は、台湾の国 由して世界経済に進人するというモデルは、「中国台湾」民国家形成に固有の型態から生まれた社会の自主性である。

8. 思想 2016年 第10号

では親中的な馬英九政権を無力な状態に追い込み、他方では 資本と帝国の挟み撃ちのもとで、台湾はあたかも出口のな独立を志向する民進党に准与党的体制を組織させた。かくし い籠の中の鳥のようだった。帝国の狭間に生まれたばかりのて、二〇一四年末には台湾の政治風景はすっかり変容した。 新興国民国家は、従属化と解体の危機にさらされていた。現地政学についていえば、この新しい運動の波は、中国による 実があまりにも厳しいために、米国と中国の構造的衝突に言台湾併合のスケジ、ールを遅らせたばかりでなく、同時に、 及してきた現実主義者ミアシャイマ—(JohnMeasheimer) です東アジアの政局に対して微妙に潜在的な影響を及ばすことに よっこ 0 ら「さらば、台湾」 (Measheimer 2014 ) と言う。へき時だと公一一一一口 台湾市民社会が資本と帝国の侵人に抵抗し、台湾人民の自 し、悲嘆にくれる状況となっていた。 決を要求する新しい波は、明確に市民的ナショナリズム (civ- ic nationalism) という特質を備えていた。この市民的ナショナ 「敗者」の逆襲 リズムの社会的基盤も、前段階における資産階級から政治的 スペクトルにおける左に実質的に移動した。この市民的で、 しかるに、新興の台湾国民国家は、結局のところは解体し なかったし、今も解体してはいない。二〇〇八年に陳雲林としかも左翼的な台湾ナショナリズムの勃興という新しい波は、 いう中国特使の「黒船来航」が野イチゴ学生運動〔中国特使訪三つの体系的要因から解釈できる。最初の二つの要素は、ネ 問にかかわる過剰警備・集会規制に対して数千人の学生が座り込みアンが述。へるところの「資本の不均等発展」の現代的型態、 ーヾル化にかかわっており、三番目 を展開〕を触発して以来、資本と帝国の侵人は、その後に続すなわち新自由主義グロ く六年間のあいだに、台湾市民社会による抵抗運動の波を次の要因は台湾に固有な国民国家形成の軌跡にかかわっている。 から次へと引き起こすことになった。こうした運動により蓄 国民国家と民主最初の体系的要因は、新自由主義グロー 積されたエネルギーは、二〇一四年の春に連続的に発生した ド大学にいた経済学 ヾル化に内在する矛盾である。 運動において忽然として現前した。まず三月にヒマワリ運動 論が生じ、四月に反核運動がこれにすぐ続いた。二〇一四年春者ロドリック ( Dan 一 Rodrik) は、二〇一一年に出版してすぐに ーヾル化にかかわる古典的批判の地位を占めることにな 黒の劇的な運動は、単にサービス貿易協定の批准や第四原発のグロ ヾル化の逆説』 ( T G 、ミ、 ~ ミ 40 し った傑作『グロー 建設をストップさせることに成功したばかりではない。 ーヾル化は世界経済にかかわる「三者択一の窮 月の総選挙において国民党に決定的な敗北をもたらし、一方の中で、グロ (Krauss 年 Bradsher 2015 ) 。 ノ、

9. 思想 2016年 第10号

〔訳者解題〕著者の呉叡人氏は中央研究院台湾史研究所副研本の読者向けに補足が必要と判断した部分について〔〕を付 究員。台湾大学政治系卒業、シカゴ大学で政治学博士の学位して補ったことを含めて、訳稿について著書自身による確認 を取得。かって本誌に「賤民宣言ーー或いは、台湾悲劇の道を経ている。 表題の「黒潮」は、二〇一四年春のヒマワリ運動で台北の 徳的な意義」 ( 『思想』第一〇三七号 ) を寄稿したことがある。 近年における日文の論稿として、「台湾ポストコロニアルテ街頭を呑み尽くした五〇万近い人びとの流れをあらわす隠喩 ーゼ—APartisanView( 『ワセダアジアレビ、ー』第一八号 ) である。同時に、反権力の政治的象徴でもあり、台湾の歴史 を東アジア史、世界史との相関関係において把握しようとす など」がある。 る立脚点をも示す。 本稿の初出は、ヒマワリ運動にかかわる論文集 ( 林秀幸・ 本稿は、ヒマワリ運動の経過を微視的に追ったものではな 呉叡人主編《照破 , ーー太陽花運動的振幅、縦深與視域》左岸文化、 く、この運動の深層に横たわる国家と社会の関係構造を長期 二〇一六年 ) である。のちに、著者の単著 ( 呉叡人《受困的思想 台湾重返世界》衛城出版、 = 〇一「年 ) に再録された。翻訳的視野から検証したも 0 である。「資本 0 不均等発展」「買弁 にあたっては中文版をベースとしなからも、著者自身による資本」などオーソドクスなマルクス主義史学を思わせる用語 英文版 ( 未発表 ) を参照して補訂した部分もある。その他、日を用いているものの、著者の立ち位置は、むしろマルクス主 黒潮論 台湾ナショナリズムとヒマワリ運動の歴史的・政治経済的分析 呉叡人 訳Ⅱ駒込武

10. 思想 2016年 第10号

田想 思想の言葉 『第九報告書』 ( 1783 年 ) をめぐって 工ドマンド・ノヾークと帝国の言語 その誕生と試練 ( 上 ) ケベックにおける間文化主義的なライシテ 黒潮論 ーー第 3 章内村鑑三と日本的霊性一一 霊性論 ーーー井筒俊彦『意識の形而上学』を介して ( 中 ) 西田哲学と『大乗起信論』・ 第 3 章ヒステリーから強迫神経症へ ジークムント・フロイト論 台湾ナショナリズムとヒマワリ運動の歴史的・政治経済的分析 2016. 10 ・・長尾 No. 1 1 10 真 ( 2 ) ・・伊達聖伸 ( 6 ) ・・苅谷千尋 ( 29 ) ・・呉叡人 ( 52 ) ・・十川幸司 ( 70 ) ・・西平直 ( 90 ) ・・若松英輔 ( 112 )