精神分析 - みる会図書館


検索対象: 思想 2016年 第10号
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1. 思想 2016年 第10号

分析の終結について、初めて本格的に取り組んだこのテクる。つまり、フロイトが「最も要求水準が高い」というこの ストで、フロイトは分析の終結を三つの水準から、規定して終結は、去勢コンプレクスを経て形成された自らの両性性の いる。第一の水準、つまり臨床実践的な水準においては、患葛藤を完全に克服するということである。しかしフロイトは、 者が自分の症状、不安や制止を克服し、患者の中で抑圧され「女性性の拒否」とは、あらゆる心理学的な地層を越えた生 たものの意識化、内的抵抗の克服がなされたと分析家が判断物学的な「岩盤」であり、これに対して精神分析は何もでき したときが、分析の終結である。第二の水準はさらに野心的ないとその限界を告白している。 分析の終結を巡る議論の第一、第二の水準は現在の精神分 なもので、病的過程の再現の可能性を徹底的に取り除くだけ ではなく、患者の人格の最も深い部分に至るまでの変容が引 析でも妥当性を持つものだが、この第三の水準では、第一、 き起こされた場合が、分析の終結と呼ぶに値するとされる。第二の水準とは異質な論点が提示されている。このように分 このような地点まで分析を進めるためには、患者の病理が先析の終結を、両性性の克服に置く考えには、少なくとも二つ の問題がある。一つは、去勢コンプレクスから形成された幻 天的な体質よりも後天的な外傷によって引き起こされたもの であること、体質的な欲動強度がそれほど強くないこと、防想 ( およびこの幻想が患者の人格に及ばした影響 ) の解消を、分析 の終結とすることは、精神分析の行程を、結局はファルスを 衛の戦いの中で後天的に生じた自我変容が大きなものでない ことが、分析を終結にもたらすための好条件となる。そして巡る幻想を取り上げ、それを解消するというファルス的な円 分析においては、欲動がもはや自らの満足のために逸脱した環の中に閉じ込めてしまわないかということである。分析の 論方向を取らないように、患者の心的構造を変えるという「欲終結の間題に、両性性の問題が関わるとしても、それはフロ イトが述べたような中心的な問題としてではなく、あくまで 動の飼い馴らし」 ( d 一 e Bändigung des Triebes) が目指される。 最後に第三の水準というものをフロイトは提示する。それは二次的な問題としてであろう。むしろ、私たちの考えによれ フ 男性の受動的構えに対する抵抗と女性におけるべニス羨望は、この後に述。へるような欲動論の間題系こそが、分析の終 ン ( フロイトの言葉で言えば、「女性性の拒否」 ) の克服を、分析の最結と直接に関わってくるのである ( リ。もう一つは、ここで ム ク終的で決定的な終結とする考えであるⅱ ) 。フロイトによれフロイトは、自らの両性性の理論が、生物学的な「岩盤」を ースの生 ジば、男性の受動的構えに対する抵抗の克服とは、男性の中の持っことを述べているが、そもそもフロイトはフリ 女性性の抑圧を完全に解除することであり、女性のペニス羨物学主義と縁を切るために、男根期の去勢の威嚇という幻想 望の克服とは、女性の中の男性性の抑圧を解除することであから、自らの両性性理論を構成したのであった。したがって、

2. 思想 2016年 第10号

124 本号の執筆者 長尾真 ( ながおまこと ) 一九三六年生。京都大学大学院工駒込武 ( こまごめたけし ) 一九六二年生。東京大学大学院教 学研究科電子工学専攻修士課程修了 ( 博士 ) 。京都大学名誉 育学研究科博士課程修了 ( 博士 ) 。京都大学。教育史、台湾 教授。情報工学。 史、キリスト教史。 『情報を読む力、学問する心』 ( ミネルヴァ書房 ) 、『「わかる」 『世界史のなかの台湾植民地支配』 ( 岩波書店 ) 、『帝国と学 とは何か』 ( 岩波新書 ) 校』 ( 共編、昭和堂 ) 伊達聖伸 ( だてきょのぶ ) 一九七五年生。フランス ・リール十川幸司 ( とがわこうじ ) 一九五九年生。山口大学医学部卒 第三大学博士課程修了 ( Ph. D ) 。上智大学。宗教学、フラン 業。十川精神分析オフィス。精神分析、精神医学。 ス語圏地域研究。 『来るべき精神分析のプログラム』 ( 講談社 ) 、『精神分析』 ( 岩 『ライシテ、道徳、宗教学』 ( 勁草書房 ) 、フェルナン・デュ 波書店 ) モン『記憶の未来』 ( 白水社 ) 西平直 ( にしびらただし ) 一九五七年生。東京大学大学院教 苅谷千尋 ( かりやちひろ ) 一九七六年生。立命館大学大学院 育学研究科博士課程修了 ( 博士 ) 。京都大学。教育人間学、 政策科学研究科博士後期課程修了 ( 博士 ) 。立命館大学。政 死生学、日本思想。 治思想史。 『無心のダイナミズム』 ( 岩波書店 ) 、『世阿弥の稽古哲学』 ( 東 ークの帝国論」 ( 『イギリス哲学研究』第三六 京大学出版会 ) 号 ) 若松英輔 ( わかまっえいすけ ) 一九六八年生。慶應義塾大学文 学部卒業。近代日本精神史。 『井筒俊彦』 ( 慶應義塾大学出版会 ) 、『吉満義彦』 ( 岩波書店 ) 呉叡人 ( ごえいじん ) 一九六二年生。シカゴ大学政治学研究 科 ( 博士 ) 。中央研究院台湾史研究所 ( 台湾 ) 。比較政治史、 政治理論、台湾政治思想。 『受困的思想』 ( 台北〕衛城出版 ) 、ベネディクト・アンダー ソン『想像的共同體 ( 新版 ) 』 ( 台北〕時報出版 ) ドマンド・

3. 思想 2016年 第10号

0 十川幸司 両性性の理論がいまだに極めて曖味模糊としておしている。しかし強迫神経症については、最終的に「不明な り、欲動論との繋がりを見いだせていないことは、 点が多く」、「不確実な仮説や証明できない推論で終わってい 精神分析にとって、重大な支障と感じざるを得な る」と告白している ( 1 ) 。精神分析理論の展開にとって、「最 も興味深く、最も実り豊かな疾患」と彼が呼んだ強迫神経症 『文化の中の居心地の悪さ』 ( 一九三〇年 ) の治療経験は、フロイトの理論体系に根本的な変更を迫るこ とになり、フロイトは自らの理論の大幅な拡張を行っている。 ドーラ論を一九〇五年に上梓したフロイトは、一九〇七年この理論的拡張の中でも重要なのは、肛門欲動論の臨床への に「鼠男」の分析治療を行い、その経験に基づいて、強迫神本格的な導人であり、この構想がこれまでのフロイトの理論 く。フロイトのヒステリ 経症の理論を洗練させてい ーへの関に加わることによって、精神分析は『ヒステリー研究』の頃 、いは、ドーラ論でほば終わっているのに対し、強迫神経症へと比。へ、その地勢を大きく変えることになる。 の関心は、きわめて初期 ( 一八九五年頃 ) から、『制止、症状、 前稿 ( 本誌二〇一五年第一号 ) では、私たちは情動反転という 不安』 ( 一九二六年 ) で暫定的結論を得るまで、三〇年以上に亘 ヒステリー固有の現象を解明することによって、ヒステリー っている。フロイトはヒステリ ーの治療経験を通じて、そのという疾患の背景に倒錯の問題系が横たわっていることを論 病因から抑圧のメカニズムに至るまで基本的な点をほば解明じたが、本稿では強迫神経症を俎上に挙げ、その理論化の過 ジ 1 クムント・フロイト論 第三章ヒステリーから強迫神経症へ

4. 思想 2016年 第10号

ある ( 9 ) 。 シストが去勢という事実に対して取る態度と結びつけている ところで、フロイトはエデイプスコンプレクスの運命を論 ( 「フェティシズム」 ( 一九二七年 ) ) 。フェティシストは、フェテ じた翌年に、去勢の脅威を引き受けることが困難な人は去勢 イシュを用い、去勢の知覚の事実を知りつつも、それを認め という事実にどう対処するのだろうかという。 題こ関心を持ようとはしない。去勢の現実に対するこのような分裂した態 つようになる。「幼児期の性器的編成」 ( 一九二三年 ) では、「ペ度を、フロイトは否認という機制の名のもとに再定義してい る。『性理論三篇』 ( 一九〇五年 ) において、フェティシズムと ニスの欠如」という観察事実を否認 ( ver 一 eugnung ) するとい う防衛手段に初めて言及している。さらに「解剖学的な性差 いう倒錯は、性目標倒錯の中でも、マージナルな一形態に過 の若干の心的帰結」 ( 一九二五年 ) では、この否認という防衛過ぎなかった。しかし、去勢コンプレクスの問題系が理論体系 程をより詳細に記述している。「 ( 否認という過程は、 ) 子供の心 の前景に突出することによって、フェティシズムは一挙にフ 的生活にとっては稀でも、さほど危険でもないが、大人におロイト理論の中心的位置を占めることになる。フェティシュ いては精神病を引き起こしかねないものである。女の子は自はペニスの代替物であり、性差を否認する印でもある。また 分が去勢されているという事実を拒み、ペニスを持っている性差の否認は、世代形成の拒否の表現でもある。このように という確信が強まり、その後、あたかも男性であるかのよう フェティシズムは、ファルス中心主義的なメカニズムに基づ に振る舞うことがある」 ( 強調引用者 ) ( 当。フロイトがここで く倒錯であり、フロイトの倒錯論の一つのプロトタイプをな 精神病について言及しているのは、このほば同じ時期に、神している。私たちがこれまで見てきたのは、ヒステリー 経症と精神病において現実の認識がどのように違うかという 性性ー去勢コンプレクスーフェティシズムという連接をなし 問題を検討していたからである ( 「神経症と精神病における現実ている、ファルスを中心とした倒錯論の成立過程である。 の喪失」 ( 一九二四年 ) ) 。内界と外界の間に葛藤が生じた場合、 さて、強迫神経症の議論に人る前に、私たちはこの両性性 神経症においては、自我は内界 ( エス ) を抑圧するのに対し、 の問題がフロイトの理論の中でどのような運命を経ることに 精神病においては、外界から撤退し、現実を別の代替物で置なったかという点を、とりあえず最後まで追っておこう。両 日、フロイトの き換えようとする。このような精神病における「現実の喪性性の問題は、二〇年代後半からしばらくの門 失」という事態を、この論考ではフロイトは否認という機制論考の中では論じられなくなるが、最晩年の「終わりのある で捉えている。 分析と終わりのない分析」 ( 一九三七年 ) において、あらためて しかしそのわずか二年後に、フロイトは否認を、フェティ両性性の問題が浮上している。

5. 思想 2016年 第10号

受動性への転換に関しては、いっそう緻密な研究が必要であ反転現象としてではなく、倒錯としてのマゾヒズムを理論的 ると強調した後に、サディズムからマゾヒズムの変換を次の に論じるためには、死の欲動という新たな概念が必要となっ てくるのである。その点については、後の章で取り扱うこと ような三段階に分節化する ) 。 にするが、ここではこれまでの議論をもとに、一具体例を検 、曰サディズムは対象としての他人に対する暴力やカの行使討することにしよう。 である。 Ⅳ強迫神経症からマゾヒズムへ ロこの対象が自分自身に置き代えられ、能動的な欲動目標 は受動的な欲動目標へと転換される。 患者は二十代前半の男性である。中学校時代より、学 曰能動から受動への目標転換の過程で、新たな他者が、暴校で緊張する、会話の間を苦しく感じるなどの対人恐怖症状 があった。高校に人るといっそう症状に苦しむようになり、 力あるいはカの行使の主体を引き受ける。 高校二年の頃に休学し、その後退学してしまう。高校をやめ フロイトはサディズムからマゾヒズムへの転換過程を三段てからはコンビニでバイトをするが、対人関係で苦痛を感じ 階に分節化した後に、マゾヒズムにおいてはこの転換過程がることが多く、仕事は長続きしなかった。彼は、高校時代か 曰の段階まで到達するが、強迫神経症においては、ロの段階ら数カ所の精神科クリニックでカウンセリングや投薬を受け までしか進まない、 とその違いを明確化している。つまり強ていたが、症状に改善が見られないために、精神分析治療を 迫神経症に見られる自罰は、攻撃性の自分自身への方向転換始めることになった。 分析治療の最初の期間、彼は緊張が高く、自由連想ができ に過ぎず、 ( 自分ではない ) 別の他者から処罰を加えられるこ とを望むといったマゾヒズム的な受動性は見られないのであなかった。彼の症状はよく聞くと、いわゆる対人恐怖症とは る。フロイトはこの事態をギリシア語の文法構造との類比か異なっていた。彼は文字通り、他人を怖がっていたのである。 ら、マゾヒズムでは能動態が受動態に変換されるが、強迫神また彼は、「死」とか「精神病」という「不吉な」言葉が浮 かぶと、その言葉を頭の中の「黒板消し」で何度も消そうと 経症では能動態から中動態へと変換されると説明してい る ) 。したがって、強迫神経症において生じるマゾヒズムするという強迫症状があった。二、三カ月ほど分析を続けて いるうちに、彼は私を怖いとは思わなくなり、それとともに、 は、能動態の転換の過程で生じているマゾヒズムであり、そ こには本来の意味でのマゾヒズムはない朝 ) 。サディズムのひどく横柄な態度を見せるようになった。その頃、彼は「こ

6. 思想 2016年 第10号

そこには理論的には生物学的な基盤を持たない。 もしそこに棄することにより、強迫神経症に関する研究は長い中断を余 「岩盤」というような強い抵抗があったとしても、それは生儀なくされる。このような状況にあったフロイトを再び、強 物学的な根拠を持つものではなく、 一つの強固な抵抗に過ぎ迫神経症の解明へと向かわせたのが、一九〇七年一〇月から ないのである。このような抵抗に、生物学的基盤を見てしま約九カ月半に渡って行われた「鼠男」との分析治療であった。 う点に、当時のフロイトの分析技法の限界を読み取ることも 「鼠男」は、当時としては、極めて稀な症状を持った強迫 できるだろ、つ ( リ。 神経症の症例である。「鼠男」の診断や治療については、す でに多くの論者が異議を唱えている信 ) 。しかしフロイトが Ⅱ両性性の理論から欲動論へ この特殊例から強迫神経症の普遍的構造を取りだす方法は鮮 最初に述べたように、フロイトの強迫神経症に対する関心やかであり、さらにその作業の中で、自らの理論を大きく拡 はきわめて初期に始まっている。すでに「防衛ー神経精神大していく構想力には目を見張るものがある。「鼠男」の分 症」 ( 一八八四年 ) において、彼は強迫神経症の病理を、心的領析以前冫 ~ こま、フロイトの理論には、「肛門性」という概念の 域に留まる表象の病理であり、その防衛機制を「情動と表象具体的位置づけはともかく、憎しみや攻撃性についての考察 の分離と、それにともなう表象間の誤った結合」にあると先さえなかったことを考えてみれば、「鼠男」が精神分析理論 駆的な見解を示している。そして、その誘因に関しては、二 に及ばした影響の大きさがよくわかる。私たちは、これまで 年後の「防衛ー神経精神症再論」において、ヒステリーが性の議論の流れの中で、「鼠男」との治療が、フロイトにどの 的な受動的体験に起因するのに対し、強迫神経症はヒステリ ような理論の変更をもたらしたのかということをここで捉え ー性の素地の上に、能動的体験が加わることによって生じる直してみようと思う。まず、その前に、フロイト自身が、 と推定し、強迫神経症の主症状である強迫的表象は「変化を「膨大でびどく扱いづらい」 ( ュングへの手紙 ) と嘆いたこの症 被って、抑圧から再び回帰した非難で、快を伴って行われた例の概要を、私たちの議論に必要な点だけ、簡潔に取りだし ておこう。 子供時代の性的な行為に常に関係している」と論じてい る (2)0 このような誘因に関する議論の土台となっているの エルンスト・ランツアー ( 「鼠男」 ) は、幼少期から強迫観念 は性的誘惑説であり、ヒステリ ーの「受動」、強迫神経症のに悩まされていたが、大学を出て兵役中に、奇妙な強迫観念 「能動」という考えは、誘惑に対する患者の態度を意味して に苦しむことになる。その原因となったのは、彼が兵役訓練 いる。しかし、この翌年に性的誘惑説をフロイトが完全に放を受けていたときに、鼻眼鏡をなくすというエピソードから

7. 思想 2016年 第10号

120 かちて始覚・本覚の二義となすと同時に、始覚と本覚とは、 法身仏を「霊体」と呼ぶのは当時、仏教界で常識的に行わ 全く合一の者なりとす。これに依りてその本覚の何たるをれたことではなかった。むしろ「霊」の文字は仏教界では、 問えば、即ち前の法身にして、霊体なり、世界の大精神な ここで述べられているような積極的な表現ではなかった。 りとす。法身仏、即ち霊体、世界の大精神は、総合的にこ 先の一節がある『仏教統一論』の第三部は一九〇五 ( 明治 れを見れば、大日如来の如く一仏なりというべきも、分析三八 ) 年に刊行されている。「霊体」という表現を村上は、お 的にこれを見れば、万有の無限量なると共に、仏陀もまたそらくキリスト者の著作から援用している。それが内村であ けだ 無限量なりというに至れるは、蓋し必然の理数にあらざるることは論証できないが、序章で見たように、 この頃すでに か。この思想は、大乗仏教中『大乗起信論』を本となし、植村正久をはじめとした複数のキリスト者が「霊体」「霊覚」 天台・華厳の説を経て密教に至り大いに発達せる者なりとあるいは霊性といって「霊」の術語を用いている。 い、つべし ( リ。 ここで霊体を「世界の大精神」と呼びなおしているところ には、先に見たラゲ訳における「精神」を思わせる。一九〇 まず村上は、大乗仏教に連なる諸派は皆、開祖仏陀と不可一年に刊行された、この本の第一部の序文で彼は、「余はた 分に存在している法身仏の存在を認めているところでつなが といキリスト教の説なるも敢えて排すべからざるものとな っているのではないかと問いかける。さらに彼は、仏陀は覚す」信 ) と述。へ、さらにこう続けている。 者の異名であるように「覚」そのものの体現者であるという。 ここでの「覚」の語感は、これまで見てきた「霊」に近い キリスト教の如きはもとより排す、へきものにあらず、彼も 始覚と本覚をめぐる論議は、そのまま霊性の実在をめぐる議我が大乗仏教海の或る点を取りて、人生を救済するものな 論の歴史であるとも言える。『大乗起信論』では究極の覚は れば、或る点までは、吾人提携する所なくんばある。へから 「究竟覚」と記されている。村上はそれを受け、「究竟覚」がず。キリスト教尚以て排すべからざれば、仏教中の宗派中 始覚と本覚という二つの道に分かれたのだから、存在するの に於て、焉んぞ排すべきものあらん ( 当。 は視座の違いであって、本源的には一なるものであるという。 さらに彼は、法身とは畢竟、絶対の「覚」の異名にほかなら ここに述。へられているように彼は、宗教の差異を超えて絶 ない。それは「霊体」あるいは「世界の大精神」とも呼ぶべ対者が顕現する様相の変遷を探求した。三身仏、あるいは四 きものであるともいう。 身仏など、実在的には一なる仏が、さまざまな姿をもってこ

8. 思想 2016年 第10号

〇頁」の形で巻数と頁数を示した。なお、訳文には引用に際し て、若干の訂正を加えた箇所もある。 ) Sigmund Freud. ミミミ 0 ミ」、 . GW- XIV. S. 142 ( 『制止、症状、不安』大宮勘一郎・加藤敏訳、⑩四 〇頁 ) 。 ( 2 ) 一九〇一年八月七日、フリース宛ての手紙。この中の「次 の仕事」とは、『性理論三篇』を指している。 ( 3 ) 『性理論三篇』の一九一五年版における追加の注で、フロ イトは男性性と女性性という概念が、あるときは能動的と受動 的、あるときは生物学的な意味で、あるときは社会学的な意味 で用いられることを暫定的に区別している。 ( 4 ) Sigmund Freud. „Hysterische Phantasien und ihre Bezie- hung zur Bisexaulität". GW-VII. S. 197 ー 199 ( 「ヒステリー空想、 ならびに両性性に対するその関係」道籏泰三訳、⑨二四八ー二 五〇頁 ) 。 ( 5 ) フロイトはファルス ( 男根 ) という用語をあまり用いない。 それは男根期 ( ファルス期 ) を示すさいに限定されている。また、 ここでのファルスとは、もちろんラカンの一 = ロ、つよ、つなシニフィ アンとしてのファルスではない。本論は、あくまでフロイトの 理論それ自体の内部に留まり、フロイト理論の新たな可能性を 探究する試みである。 ( 6 ) より正確に述べるなら、まずは肛門期という前性器的体制 が想定され ( 一九一三年 ) 、次にロ唇期の発見 ( 一九一五年 ) 、そ して最後に男根期、性器期という段階が想定され ( 一九二三年 ) 、 フロイトのリビド ーの発達理論は体系化されている。このよう に体系化されることにより、幼児の多形倒錯という多方向への リビドーの拡散という現象は、発達に応じてペニスというべク トルのもとに収斂を示すと考えられるようになる。 ( 7 ) 去勢コンプレクスという概念が普及するとともに、この概 念が離乳、糞便、出産など、分離を示す事象に比喩的に広く拡 張され用いられていることに、フロイト自身は危惧の念を覚え ている ( 「ある五歳男児の恐怖症の分析」、一九二三年の追加箇 所、⑩七頁 ) 。去勢コンプレクスという概念は、ペニスの喪失 と結びついた心的効果という意味に限定して用いるべきだとフ ロイトは述。へている。 ( 8 ) かって陽性と陰性のエデイプスコンプレクスと呼ばれたも のは、岩波版の『フロイト全集』では表と裏のエデイプスコン プレクスと訳されている。私たちは、写真のポジ、ネガの意味 を含んだ、岩波版の訳語に従うことにする。 ( 9 ) 自分の中の二つの性が、両親という二つの性を求めるゆえ に四つとなる。しかし、両性性を程度の問題と考えるならば、 多くの中間形態があり、四つと言うのは正確ではない。 ) Sigmund Freud. „Einige psychische FoIgen des anato- mischen Geschlechtsunterschieds". GW-XIV. S. 25 ( 「解剖学的 な性差の若干の心的帰結」大宮勘一郎訳、⑩二〇八頁 ) 。 ) これは最初フェレンツイが提起した基準である。この第三 フェレン ス、アドラ の水準の終結を論じるさいに、フリー ツイなどの名前が出てくることからもわかるように、 この論文 はフロイトの自己分析的性格を持っている。 ( ) 分析の終結という大きな問題については、」 別の機会に改め て論じたい。私たちの生を規定している欲動のあり方を、言葉 によってどう変えるかということが問われるのが精神分析とい う実践であるならば、必然的に分析の終結の問題と欲動の問題

9. 思想 2016年 第10号

79 ジークムント・フロイト論 じている。「鼠男」の症例分析においては、これ以上の詳細ているが、フロイトがこの症例分析の記述で主眼に置いたの な記述はないが、「鼠男」の分析経験の理論的総括とも言えは、症例の全体像を捉えることではなく、患者の幼児期神経 る「強迫神経症の素因」では、肛門性愛的欲動とサディズム症を、成人になった現在の時点から捉え直すということであ 的欲動 ( 幻 ) が支配する前性器的編成という一つの段階が想定った。フロイトは「狼男」の幼年期を、姉からの誘惑、およ されることになる。そして、フロイトは、強迫神経症の病理び原光景を目撃した第一期、不安夢を見て性格変化を起こし を前性器的編成 ( 肛「小ハ期 ) ~ の退行 2 と結論づけるた第二期、動物に対する恐怖症を感じた第三期、そして第四 のである。フロイトがヒステリーを論じるさいに、そこに性期の九歳過ぎに至るまでの強迫神経症の時代に分けているが、 ここで取り上げるのは、「狼男」の強迫神経症時代、つまり 器的編成の前段階への退行という観点はない。一方、強 迫神経症では、この肛門サディズム期への退行こそが本質的第二期と第四期のフロイトの記述と考察である。フロイ トが症例「鼠男」で行った考察は、主として肛門性愛の能動 な病理であり、この退行によって生じる攻撃性が強迫神経症 的な面であったが、症例「狼男」では、その受動的な面が、 の諸症状を生み出しているとフロイトは論じている ( 幻 ) 。 このように「鼠男」という強迫神経症者の肛門性愛は、一詳細かっ緻密に論じられることになる。 貫して能動性と受動性という対立項の、能動性との関係にお症例「狼男」の、中心となっているエピソードは、患者が いて論じられている。しかしフロイトが、この症例分析の中四歳のときに見た、胡桃の木に登った六、七匹の狼たちの夢 で「肛門性愛には受動的な流れがある」と示唆しているようである。フロイトはこの夢から、狼男が一歳半のときに、両 に、肛門性愛には能動、受動の両方の側面がある。この「受親の後背位性交を目撃した経験を再構成する ( この構成が、分 析理論の中で最もきわどいものであることをフロイトも認めてい 動的な流れ」は、フロイトが「鼠男」の三年後に出会ったも る ) 。後背位からの性交は、父の性器も母の性器も「狼男」 つ一人の「強迫神経症者」との分析治療において前景に出る ことになる。 が見ることを可能にし、彼に去勢不安と肛門領域の興奮をも たらした、とフロイトは想定する。第二期では、去勢不安か Ⅲ「鼠男」から「狼男」へ ら肛門サディズムへの退行が起き、第三期では父に対する恐 フロイトが一九一〇年から約四年半、治療を行った「狼怖が動物への不安と置換される。そして第四期は、聖書の影 。、ンケイエフ ) には、躁うつ病、妄想性精神病、響下での去勢不安の克服の時期だが、「狼男」はキリストへ 男」 ( セルゲイ・ノ 境界例、強迫神経症の残遺状態など、様々な診断がつけられ同一化し、父親 ( 神 ) を冒漬しつつも、その反動形成として宗

10. 思想 2016年 第10号

教的な強迫的儀式を繰り返すようになる。 である。しかし「狼男」において顕著なのは母への同一化で 強迫神経症のメカニズムを、肛門サディズムへの退行と考ある。フロイトの説明によれば、原光景の場面で、「狼男」 えるのは、「鼠男」の分析でも「狼男」の分析でも同じであが母の立場に身を置くことは恐怖でもあったが、一方で彼は、 る。しかし、フロイトが「鼠男」においては、もつばら肛門 母が父とこのような関係を結んでいることには妬みを感じて 性愛の能動性に焦点を当てているのに対し、「狼男」にはそ いた ( 裏エデイプス状況 ) 。「狼男」は腸の障害のために、便に の受動性な側面を強調している。このような違いは、「狼男」血が混ざることがあった。このことは原光景のさいの母親の と「鼠男」の病理が異なっていることに加え、「狼男」の分特異な姿勢と母親が時々口にする出血 ( 生理 ) へと連想がつな 析の方が、人格のより深い層まで達していることが関係してがり、母への同一化は決定的なものとなる。この同一化によ いる。フロイトは初期の「防衛ー神経精神症再論」から『制 って、「狼男」の肛門性愛は受動性を帯びたものになる。と 止、症状、不安』に至るまで、強迫神経症の最下層において いうのも、フロイトによれば、「女性 ( 母 ) との同一化を示し、 は、極めて早期に形成されたヒステリー的な素地があると繰男性 ( 父 ) に対する受動的な同性愛的態度を示すことができる り返し述。へている。そして「狼男」においては、分析は早期器官は、肛門域」 ( だからである。この観点から、フロイト のヒステリー的素地にまで到達していて元 ) 、その地点では、原光景における肛門性愛の受動的側面の特徴を、三つ取 「狼男」の男性性、女性性の間題 ( 両性性の問題系 ) が問いとし り出している。第一に、「狼男」にとって、肛門はペニスを て浮かび上がっているのである。「狼男」においては、強い受け人れ、性的満足を得る受動的な器官である。第二に、原 去勢不安のために、女性性が優位になっている症例だが、フ光景の幻想の中では、肛門と膣の場所的混同が生じている。 ロイトは、この症例からどのように肛門性愛の受動的側面を フロイトはこの混同を「幼児の性理論」の一つである排泄腔 引き出しているか、簡単に見ておこう。 理論から説明している。幼児は解剖学的な知識の欠如のため、 「狼男」の分析で中心となる主題は、原光景の幻想であり、 肛門と膣の区別を知らない。「狼男」も同様に、肛門を性交 「狼男」は、その場面における父と母それぞれに同一化しての器官とみなし、そこから子供が生まれると考えている。そ いる。父への同一化は、乳母がしやがんでお尻を突きだして第三に、原光景における肛門性愛はマゾヒズム的な性質 し、床の掃除をしているときに、「狼男」は興奮して床に放を持つ。肛門欲動とは、必ずしもサディズム的なものではな 尿したというエピソードに読み取れる。乳母は原光景におけ く、サディズムは自らへと反転し、容易にマゾヒズムに変化 る母の代理であり、「狼男」は父に同一化して、放尿したのする。『性理論三編』で、目標倒錯の一類型として提示され