トよ、つこ、 この政治的なものというのは政治を指してはいませ ん。中国の歴代皇帝、べナンの国王、ルイ一四世、ドイツ社 こうした点を説明してもなお、数々の問いが残っているこ 会民主主義、等々にみられる政治のことではないのです ( 最 とは言うまでもありません。我々にとって主要な問いはこう 後の二つの例では、政治と政治的なものとは決して異質なものでは です。今日姿を見せ、支配的となっている政治的なものは ないのですが ) 。ここでもまた簡単に注意を促しておきましょ 我々がもし仮に素直にハイデガー主義者であるとするな う。思い起こしていただきたいのは何らかの教義ではありま せん。もっと単純なことで、明確な説明です。「開始」の中らば、技術と言ってもいいでしよう。ですが、今すぐに詳細 くつかの理由から我々は に立ち人ることはできませんが、い で、先ほど読んだ一節はこのように続いていました。 そう言わないほうが得策だと考えていますーー・いずれにせよ、 今日姿を見せ、支配的となっている政治的なものは、哲学的 そもそもこのような理由で、我々は政治的なものについ なものが、程度はともかく退引している結果なのではないで て語ることによって政治を指し示すのを回避したのです。 反対に、政治的なもの、ないしは政治的なものの本質につしようか。すなわち、哲学的なものが何らかの形で現実化 、ゝナは、我々にとっては哲学の ( こう言った方が ( ハイデガーが形而上学について語っている意味での現実化 ) した結 いてのカ よければ、形而上学の ) 政治的前提そのものにまで遡ってな果でもあるのではないでしようか。 このような問いは、すでに提起したのでそれ自体として改 されねばならないものです。すなわち本質というものの或 る政治的な規定にまで遡るということです。しかしそのよめて論じることはしませんが、哲学的なものと政治的なもの うに本質を規定するということは何らかの政治的な立場をが結合して閉域をなしているのではないかという疑念を含ん 退とるということではなく、政治的なものの措定そのものででいますーー結合した閉域といってもそれが唯一の閉域であ のす。ギリシアの都市国家から、近代において主体が政治的ることを意味しませんし、さらにはそこかしこに見られる単 なものの性質を定め ( そして政治的なものが主体の性質を定め ) 純な閉域だなどと言いたいわけでもありません。「閉域〔 clö・ 的るようにして展開してきたものまでを考えてみると良いで ture 〕」という語は「終焉Ⅱ目的日 n 〕」という語と同じく、 プログラム 斑しよう。言い換えれば、今なお思考しなくてはならないのまずはある計画の達成ならびにプログラミングによる拘束を 示しています。おそらく問うに値するのはこうした境界画定 は、思考による政治の新たな制度化 ( ないし教化 ) ではなく、 西洋的と呼ばれる思考の政治的な制度化Ⅱ創設なのでであり、克服しがたいその性質なのです。 ポジション ポジション オス 5 ) 。
「戦争する」 ( fa 一 re la guerre ) とは何を意味するのか。一見し 一戦争は国家と国家のあいだで起きる たところ、このド 司いに答えるのは「和平する」 ( fa 一 re la paix) とは何を意味するかを問うより単純である。戦争とはある事数々のテキストでルソーはまさに以下の二重の問いを立て 実の状態である。一方的で野蛮な暴力があるだけで、どんなていた。人は何をもって「真に」戦争と呼びうるのか。この 形にせよ戦争が存在するに十分である。ところが和平するに 問いに対する答えからいかなる紛争の形が導き出されるのか。 は、法秩序を確立し、当事国双方が受け人れ可能な協定とそ始めに『社会契約論』 ( 一七六二年 ) 第一編第四章のよく知られ の協定の保障を見出し、倫理的かっ政治的理性をはたらかせたテーゼを引いておこう。「戦争は人間と人間の関係ではな ることが前提条件になる。 くて、国家と国家の関係である。国家と国家の関係では、個 しかし、この単純に見える対立にはニュアンスをつける必人は、人間としてでも市民としてでもなく、ただ兵士として 要がある。あらゆる紛争、あらゆる暴力が「戦争」とは言え偶然にも敵同士になるのだ」 ( 3 ) 。さらに続けて、「それぞれ ないからだ。してみると、「戦争する」とは正確に何を意味の国家が敵とすることができるのは、他の諸国家だけであっ するかを知らなければならない。戦争はいかなる目的のもとて、人間を敵とすることはできない」。 に行われるのか。戦争に勝っとはどういうことか。無限に戦 ルソーは『社会契約論』ではこのテーゼを論証しておらず、 争を繰り返さないために戦争するにはどうすればいいのか。 他の二つの著作で議論を展開している。その一つはよく知ら これらの問いはこんにち焦眉の急である。昨年一一月末にれた『人間不平等起源論』 ( 一七五五年 ) であり、もう一つはあ まり知られていない。二つ目の著作は、これまで不完全な る共同通信が行った世論調査によれば、日本人の八〇パーセン トがイスラム過激派のテロが日本でも起こりうると答えて 別々の断片として知られていたが、最近の草稿研究によって お る ( 1 ) 。アメリカで最初に「テロとの戦争」 (war on Terror) と首尾一貫した一つの全体として確定された。ルソーが『戦争 想 思呼ばれた「非対称的戦争」にかかわる間題が、い まフランス法諸原理』のタイトルで出版を計画していた著作の人念に準 政で、世界中で大きな議論を呼んでいる。テロとの闘いを軽々備された草稿がそれである〔 1 〕。その批評校訂版は、注解っ いことではない。戦争とき共著として二〇〇八年に刊行されている ( 4 ) 。 一しく「戦争」と呼ぶのはどうでも、 いう語の選択はテロとの闘いの様態をどう考えるかに関わっ 『戦争法諸原理』はのつけから戦争の起源について問いか てくる ( 2 ) 。 、いかなる理由で人類の歴史に登場し ける。戦争はいっから たのか。この問いは、ルソーが根本的な誤りと見なすホップ
についての間いかけを妨げる理由はおそらくここにはまったくない してそれゆえに、何から出発して、何に対して、あるいはま でしよう ) 。 た何に沿ってこの閉域は自らを描き出しているのか、という 二、根拠づけと主体のモティーフに対立する形で ( あるいは、 尸いの開始に対応しているのだと。この閉域は単に何らかの 政治的でないもの〔 du non ・ politique 〕「に対して」描き出されるランシェールの分析のことを考えているわけですが、「階級」の同 一性のように何らかの同一性のもとへの引き受け〔 assomption 〕とい のではありません。言い換えれば、例えば国家との関連で うモティーフに対立して ) 、有限性のモティーフがあります。 「社会」を指し示すだけでは十分ではありません。〔ビエー 少なくとも、ここでは何度も繰り返しそれを導入してきまし ル・〕クラストルの分析が提起した難しい問題や〔 8 〕、 ールがまさにこの場で注意を喚起した、「政治的社会」とした。その際には時に政治的全体性の〈理念〉という文脈を踏ま えた上でのもつばら象徴的ないし統整的な観点を採ることも ての「市民社会」の第一の定義のことを考えてみるだけでも あれば、 ( ジャコプ・ロゴザンスキが部分的に採用したものです でしよう信 ) 。反対に、リオタールも述。へているように、 が ) ミシェル・アンリの『マルクス』の観点を採ることもあ 閉域は「何ものか」に開かれており、その「何ものか」とい りました。後者は個人と「数多くいる一人一人〔 nombreux うのは「政治的なもの」 あるいは「政治的なものの本 un 〕」の観点です。ですが、ご覧いただいたとおり、根拠 でもあるのでしようが、それは技術ー社会的なもの 質」 づけという身振りをこのように回避できるということは確か の中における政治的なものの全面的完成からは引き退いてい ではありません。そしてまた我々が知っていると想定されて ることでしよ、つ。 いるような「自由」民主主義とは別のものを考えることがで いくつかの規 この「何ものか」というのはそれでもなお、 定可能な特徴を示しており、最後に我々は手短にそれを枚挙きるようになるのかどうかも確実ではないのだと付け加えて おきましよう。それゆえ有限性のモティーフは、それが規定 退しておくことにしましよう。 の される真の場所として、関係の問いを必然的に伴うように思 一、政治的なものの形而上学的な根拠づけから逃れる〔 se の も dérober 〕という要求。例えば主体における超越的あるいは超われるのです。 三、我々にとって、いわゆる「関係の問い」は主要な問題 的越論的根拠づけを逃れるという要求です。この点については 攻リオタールがルフォールに対して問いを投げかけることがでであり続けています。おそらくこの問いはそれ自体が、政治 きました〔 9 〕 ( ハンナ・アレントが用いている意味での「根拠づけ的なものの本質の問いなのです。さらに言えば、この問いが 〔 fondement 〕」と「創設〔 fonda ( 一 on 〕」の間になされて然るべき区別センターの仕事のほとんど至る所に顔を覗かせているのは特 リペラル
筆す。へきことです。このことは我々自身がその問いを強調し係に従 0 て生じるのでしようか。そしてまたこの関係は ていたということとはまた別の話です ( 関係の間いは例えば、 一一一一口語活動、芸術、死、エロティシズムへの関係において リオタールがルフォールの内に看取した「我々という前提」に関し政治的なものに関して何を明らかにすることができるのでし て、あるいはランシェールにとっては〔労働者〕階級について一般的 ようか。もう一度言いますが、ここで我々は一群の間いを指 に言える唯一の賓辞・ーー「ある他者の場所に〔その代わりに〕いるこし示しているにすぎません。例えば同一性の社会的構成とし の内に、あるいはさらにスーレーズが改めて取り上げたての ( かっ社会的「同一性」の構成としての ) 同一化の問い、ある 「母」の問題の内に介人してきます ) 。一般的に言えば、この問 さらに いは「根源的」ないし原ー根源的な社会性の間い いは一つの主題のようにーー実を言えば、今なおほとんど主は原ー社会性の問いです。この原ー社会性において、あるい 題化されていない主題です、仮に完全に主題化されることが はそれに従って政治的なものの退引が丸ごと争点となるので ありうるとして、の話ですがーーー執拗に現れてくるのだと述す ( この問いはベルクソンからフロイト、フッサール、ヾ ノタ , 4 ュ、 べることができます。その主題とは緩み / 脱結合〔ミ守ぎ己おそらくはその他幾人かを経由して ( イデガーとレヴィナスへと至 ないし解離〔き c という主題であり、それゆえ我々が る、いわば現代の思考全体にとっての激しい強迫観念であり躓きの 名付けたもう一つの問題を参照するよう促す主題です。すな場所であり続けていることに注意を喚起しておかなくてはなりませ わち、 ん ) 。それゆえにいわゆる母の問いは我々にとってまずは母 四、母の問題。リオタールにとってもスーレーズにとって的な退引の問い 退引としての母の問い 母の退引の間い リスク も、これは「危険を孕んだ」名称です。ですが少なくとも今なのです。 のところはこの名称を用いておきましよう。そしてまずは何五、最後に、こうした特徴がいずれも政治的なものの特殊 よりもある問いの指標として用いておきます。我々はこの問性を参照するよう促すものだとしても・ーー〔ドゥニ・〕カンプ いをフロイトから受け取り、そしてまた実際にフロイト自身シュネルとの議論を継続してみるならーー我々が参照してい の言葉遣いでそれを論じています。これは同一化の問題であるのは経験的なものの特殊性では決してありません。たしか って、この問題はまたミメーシスの問題系全般に関係させるに政治的なものは経験的なものを通して自らに注意を引きっ ことができますし、かっそうしなければなりません。すなわけることもあるかもしれませんが、しかし我々が参照してい ち、フロイトによると「他人に対する最初の態度決定〔 s ミ・るのは以下のような「事実」、「哲学的事実」 ( 哲学的ー政治的 ファクトウム・ラティオニス き、ミ e 〕」〔リである同一化は、いかにして、どのような関理性の一種の理性の事実 ) なのです。すなわち、少なくとも アルシ
本書に寄稿された論文がいかに多様なものであろうと、セ 本書はユルム街所在の「政治的なものに関する哲学的研究ンターの仕事がこのようなごく一般的な問題系の地平で、二 センター」 ( 1 ) の仕事をまとめた第一論集『政治的なものを賭つの主要な争点をめぐって位置付けられたことが以下でお分 かりいただけるだろう。すなわち、今日全体主義という概念 け直す』の続刊である。以下には一九八一ー一九八二年度に 行われた発表が採録されており、またそれらが契機となったを用いる際に可能な用法を厳密に定義しようという試みと、 プロトコル 現状では比較的問われたことのない、政治的なものの退引の 討議の議事録が付されている。当該年度の仕事は以下のよう 目ー . し という争点である。これらの争点はあくまで争点に過 な統制的言表のもとに位置づけられたものであった。 ぎない。 つまりそれによって定義されるのは何ら正統性とい 政治的なものの問いは、哲学的な問いとして把握され、そ。たものではなく、実際に開かれている研究が孕む危険なの してまた我々が暫定的に政治的なものの本質と名付けたもである。 趨のの観点から、何が社会的関係そのものを可能にするのか を問う必要性を露わにする。言い換えれば、社会的関係は の の 単純な関係として構成されるのではなく ( そのような関係は 決して与えられない ) 、政治的事象そのものの根源にある 的 治「緩み / 脱結合〔オミ〕」ないし「解離〔 d 。 ci ミぎ」の ような何かが当の社会的関係に巻き込まれているのではな いかと問う必要性が露わになるのである。 宇野重規「「政治」から「政治的なるもの」へ」、『政治哲学 へ , ー、現代フランスとの対話』東京大学出版会、二〇〇 四年、第三章。 柿並良佑「恐怖への誕生ーー同一化・退引・政治的なもの」、 『思想』第一〇六五号、二〇一三年一月。 緒言 一九八二年六月二一日 今日発言を求めたのは、ここ数年の「〔政治的なものに関す る哲学的研究〕センター」での作業を学術的に総決算したり総 Philippe Lacoue-Labarthe, Jean ・ Luc Nancy, ミ、 e ミ b ~ the P ミ c ミ . edited and translated by Simon Sparks, Rout ・ ledge, 1997 ( 「政治的なもの」に関する二人のテクストを編 訳した英語版独自の論集 ). 政治的なものの「退引」
しき類の作業は経験的な調査にも、ただびたすら「哲学内部た。 的な」分析にも任せることはできない。政治的なものは間違終盤に差し掛かると討議は再び「事実的なもの」の問いを いなく数々の事実を提示する。だが政治的なものの問いを提めぐるものとなった。アラン・ダヴィッド祠〕はべンヤミン 起することは、そのような事実が引き起こした分析を分析すによる年代記記録者と歴史家の区別を用いることができない るということである。そしてまた事実に関する ( 政治的、イデかどうかを問うた元〕。メシアの時代はす。へての事実が勘定 オロギー的、哲学的等々の ) 言説を脱構築することである。例できるようになる時なら到来することもあろう。だがナンシ ーは異議を唱え、メシアの観念は全事実の収集という観念に えば「アテネの」民主主義に関する言説が挙げられる。 ジョルジ、日アルチ、ール・ゴルトシ、ミット二九二八ー、先行すると言い、加えて、事実的なものに関する真の間いは、 ドイツ出身の作家。カフカなどを仏訳している〕はハイデガーの例えば今日の様々な「民主主義」によって匿われている「巧 ナチ加担、および同質性と労働に関するユンガーの考え方妙な全体主義」のような、前代未聞の事実の出現 ( と認知 ) に あるのではないかという点を問題にした。 ( 『労働者』参照信〕 ) の影響について発言したが、ラクー ルトはそこからユンガーの「形而上学的な」考え方に対して 補遺 ハイデガーが意図的にとった距離を喚起した ( 『存在の司 以上の最後の会期の議事録に一九八二年三月一五日の会期 の寄与』参照〔リ ) 。またデリダはハイデガーにとって、少な くとも三三年の委細を極めた宣一言を超えて、労働が、「労働」の準備のための回状の文面、またその回状が発端となった議 という哲学的なものが ( マルクスにおいて本質的な役割を果たし論の要約を付け加えておく。 ているように ) 存在論的かっ形而上学的な既定の一つであるこ ーマニズムについての書簡』 三月一五日の ) 討議の際に話の流れで、我々が政治 退とをはっきりと指摘した ( 特に『ヒ、 のを参照〔〕 ) 。しかしながらゴルトシュミ ットは三三年のハイ的なものの退引と呼んだものの「定義」と争点をより一層は つきりさせる必要性が明らかになったのは偶然ではない。 もデガーの政治演説がまさしく労働の主題系を展開しているこ 一フヾレ、「 の表現はセンターの仕事を規定するにあたって主要な役割を 的とに注意を促す。また他方でユンガーが、ラクー 斑とナンシーが提示し、現代社会において次第に見事なほど分果たしている。ということはつまり、この表現はなおも練り かりやすく見て取れるようにな。てきた「巧妙な全体主義」上げられる。へきだということである。討議によ 0 て、ざ。と というものに注意深い分析を向ける人物であったことを示し勘案したところでは「政治的なものの退引」が ( 少なくとも ) プロトコル
アリストテレス以来、人間たちの共存〔étre ・ ensemble 〕、つま題はスーレーズにとって、例えばホッ。フズによる「死すべき ゾーオン . ポリティコン り政治的動物が生理的、肉体的欲求といった事実的な所与神」〔リというリヴァイアサンの定義を思い起こさせるもので に起因するのではなく、もう一つ別の所与、倫理的かつ「評ある。他方では特に、バタイユを経由して ( 至高性ⅱ主権、民 パルタージュ 価基準を示す」言葉一般の共有という所与に起因するので主主義について ) 「それは決して起こらなかった」という点が す。この事実は、経験的な事実性というものが存在する限り、強調されたことが、スーレーズにとっては『人間不平等起源 そのような事実性の内に位置付けられることに抵抗するもの 論』の冒頭でのルソーの身振りを思わせるものであった。 です。別の言い方をすれば、我々の関心を占めているのはこ ナンシーはカント的な「統整的理念」という主題系を援用 の「事実」の超過〔ミ斗ミ〕なのです。ただそれだけが政治的することで最初の解答を素描した。決して起こらなかったも ポリティコンゾーエ 動物の生を規定することのできる「良く生きること」に のとはおそらく「政治的理性」を制御するものでもある。 含まれる、「生きること」 そして単に社会的な「共に生ずれにせよ、起こらなかったものの代わりに実際に起こった きること」 に対する過剰です。結局それはここに言う ものについて問題は立てられたままであり、そのため哲学的 「良く」ということ どれだけ欲求を組織化し諸力を調整伝統が政治的なものの「範例」として温存してきたものの歴 この点についてデリ したとしても「そのうえさらに」があるということー・ーです。史的実効性を疑うことは避けられない。 そのような「良く」というものをたしかに我々は道徳の重圧ダは、何かが起こるというのはどういうことなのか、という で押しつぶすことは決してありませんが、今日なお規定され原則的な問題へと話をつないでいく。統整的理念、約束、約 ていないそのような「良く」こそが退引の内に留まっており、束に関わる遂行的発話、それは一つの出来事である。たとえ またその退引が問いを委ね、あるいは問いを解き放っている「そのこと」が唯一つの文の内にしか現れなかったとしても、 退のです。 そのことについて話すのを止めていない以上、それは一つの の 出来事である。言い換えれは、「起こること」の様態を、行 の 為遂行的一一 = ロ表に関わるすべての領域で明確にすることが不可 学 / 的討議の第一部はフィリップ・スーレーズによる指摘で始め欠である。おそらくはラカンにおける「約束の図式」につい 女られた。スーレーズはラクー 日ラバルトとナンシーによる発てスーレーズが喚起した点信〕、あるいはスュザンヌ・アレ 表と政治哲学の古典的テクストの関係を問うものであった。 ン二九二〇ー二〇〇一、小説家・詩人〕が援用した「事後性の っ ~ すなわち「この世界における不死性」朝というアレント的主論理」を超えたところでそうする必要がある。何らかの過去
は本質的な「退引」として、あるいは本質的な「退引」に従る〔 ph 「 er 〕ことは適切だと見做されています。その際、自 って明瞭に分節されるという試練を経る必要があるのです。 分たちも政治的なものを際立たせて語ることができるとい ここに言う退引は共同体の統一性、全体性、実効的な顕現と う要求を掲げる他の文のグループよりも当の種類は選好さ いったものの退引であるかもしれません。そのためには、も れているのです。他のグループというのは科学的 ( 政治学 ナラティヴ し改めて政治的なもの ( あるいは至高性 ) が以上のように「描的 ) 、叙述的 ( 政治学説史ないし政治史 ) 、誇示的 ( 政治的なもの き直される」ことを必要とするのだとすれば、それだけいっ の礼賛 ) 、等々 ( ・ : このように前提された哲学的なもの そう複雑な練り上げ作業が前提とされるでしよう。ですがい と政治的なものの合致によって、必然的に以下の原理が前 ずれにせよ前提となっているのは この点で我々の意図を提されています。すなわち、政治的なものが、規則に従っ 誤解しないでいただきたいのですが こうした問題系は政て、それ自体規則に則った文によって提示可能な一つの所 治的なものの根拠づけ ( あるいは新たな根拠づけ ) の問題系では 与として自らを際立たせて語る〔 phraser 〕ものとしては ( も ありえないということなのです。 はや ) 与えられないという原理です。しかしながら、また ならば必然的に、政治的なもの「そのもの」、その問題、 そのことが前提の一部をなしてもいるのですが、政治的な その要求などが出現するのはまさに政治的なものの退引から ものはそれでもなお自らを「委ねる」のです (ä) 。 だということになります。そしてまた、先ほど喚起したとお り、政治的なものは不可避的に哲学的なものとして出現する さしあたりここで用いられている語彙の違いにはあまり踏 のだということになります。この点に関して、去年リオター み込みませんが、それを考慮してもなお、この書き起こしに ルがセンターの歩みを改めて書き記した時のロ吻は示唆的では我々自身の姿が認められます。すなわち政治的なものは規 あったように田 5 われます。彼はこう言っていました。 定可能であり提示可能であるという特定の性質から引き退い ています。ただ政治的なものがそのように規定されなくなる ( センターの ) 開会の行為遂行文によって開かれた領野は同こと、それはまた同時に政治的なものの溶解や全面的な浸透 じく政治的でもあります。あの発言では、実際に哲学はでもありますが、政治的なものはこの未規定性において新た ( おのれの規則を目的として持っ言説として ) 言説、すなわち文に自らを委ね、一つの問いを、あるいは問いの輪郭を我々に 〔 phrase 〕の組み合わせの種類として位置づけられていたの手渡しています。こう言った方が良いでしようか。政治的な であり、この種類においては政治的なものを際立たせて語ものの退引はその閉域ミきミ〕に対応しているのだとーーそ
産業と現代技術の世界全体は人間の業以外の何物でもあ真に答えるかたちで安定した圏域秩序を形成して初めて、人 りません。新たな、形成されつつある大圏域は人間の計画 間は新たな「平和」をーー・これまた歴史的一回的なかたちで と管理を手がかりにその基準を見いだすでしよう。 正確に 見いだすことができる。多元的な大圏域の均衡こそはそ 言えば、この計画と管理とは、人間が人間に対して目的を うした新たな方向を指し示すものであった。パルチザンとい 持って組織し、産業化された地域の住民大衆にその存在の う現象もそうした圏域秩序の出現との関連で位置づけられて 理性的確実性を保障する、完全雇用、通貨安定と拡大され いるのである。 た消費の自由をもってすることです。新たなラウムがそう パルチザンと新たな圏域秩序 した要求に応じた内在的手段を見いだしてはじめて、新た パルチザンの理論 ( 一九六三年 ) な大圏域の均衡はうまく機能することになるでしよう。そ のとき諸国民と諸民族は産業発展の只中で自己に忠実に自 パルチザンとヨーロッパ公法 己主張する手段を得ると同時に、他方ではその相貌を失う ミットによれば、。ハルチザンの最初の登場は、「スペ ことになることが分かるでしよう、というのも彼らは技術イン人民が一八〇八年から一八一三年までの間において外国 化された大地の神々に自分たちの人間的な個性を犠牲としの征服者の軍隊に対して行ったゲリラ戦争」にまでさかのば て捧げることになるからです。そうなれば、新たな大圏域る。「この戦争において、初めてその人民ーー市民以前の、 が真中に内容として受け人れるのは技術ばかりではなく、 工業化以前の、在来型の軍隊以前の人民ーーが、フランス革 その宗教と人種、文化と言語に基づいて、そして自らの国命の経験から生まれた、よく組織された正規の軍隊と衝突し 民的遺産の生き生きとしたカに基づいてその発展に協力すた。それによって戦争の新しい空間 ( Raum ) が開かれ、戦争 る人間の精神的実体でもあることが明らかになるでしょ 遂行の新しい概念が開発され、戦争と政治についての新しい 理論が発生したのである」。 まさに。ハルチザンは、イギリスの海への決断に伴う圏域秩 産業と技術発展の果てに、人間は新たな圏域秩序を見出す序の転換をへて、海と陸との対立の最初の焦点となったナポ ことになるだろう。それはおそらく、イギリスの海への決断レオン戦争の時点に、在来型の正規軍に対するいわば工業化 から始まった不可逆的で一回的な歩みがもたらす新たな問い 以前の人民の非正規的闘争として始まったのである。ヨーロ かけに対する応答となるであろう。そうした歴史的な課題に ノ主権国家の体系が国民国家の体系として完成される過程
110 対概念は不介人である。けれども立ち人って検討してみると、介人は、往々にして。ハターナルな要素とそれ以外の要素を混 自覚的な選好形成や選択を支援したり、あるいはそのための 合している。かりにもし政府の介入が、もつばら人々の自己 討議空間を提供したりする政府介入は、いわゆるパターナリ 判断力を介助するのみで、それ以外の温情的な要素を一切も ズムではない。・ドウウォーキン [Dworkin 1972 】 69. 77 ー 78 」たないとしよう。しかしそれでも問題は残る。人々は例えば、 の定義では、。、 ノターナリズムとは、ある善を意図している人タバコをめぐって自律的な判断に到達するとしても、自らの たちによって、それ自体としては認識されていない善を達成「意志の弱さ」を克服できず、結果として禁煙したい人も喫 するために強制手段を用いることである。この定義に従えば、煙しつづける結果になるかもしれない。自律的判断力を鍛え 人々が自分たちにとってなにが善いのかを知らない場合、あても意志を鍛えなければ、各人は自身の厚生水準を高めるこ るいは、善いものをどのように達成するかを知らない場合に、 とはできない。以下に検討するように、。、 ノターナリズムを避 ハターナルな介人は正統化される。ところが人々の意志の弱 ける政府介人を展望する立場、すなわち、主体化型リべラリ さを調整するための介人は、。、 ノターナリズムではない。その ズムや熟議民主主義の理想は、いずれも問題を抱えている。 ような介人は、自分の判断を他者の判断に代替するのではな これらはいずれも、高次のリバタリアン・ ハターナリズムに く、自分の判断そのものを促進したり養成したりするものだ よって、包摂ないし補完される可能性がある。まず主体性を からである「 Ros ( b 三一 2005 】 384 」。それゆえ保険制度の導人や促す「主体化型のリべラリズム」から検討してみよう。 熟議を促す制度の提供は、パターナリズムではないというこ 例えばオランダでは現在、 リバタリアン ハターナリズム とになる。 の発想に導かれて、乳がん検診が行われている。政府 ( 厚生 むろん具体的な場面では、。、 ノターナルな介人とパターナル省 ) はその際、乳がん検診を促すために、五〇歳から六九歳 ではない介人を区別することは難しい。例えば意志の弱さをまでの女性にパンフレットを送り、検診を受けたおよそ九 克服するために、タバコの広告を制約するという介人は、一九・五 % の女性は乳がんにかかっていないという結果を伝え 方では、タバコの広告に煽られるべきではないという他者のている。ところが実態を調。へた報告によると、一〇年間で乳 判断を優先するものであるが、他方では、過剰な広告を減らがんによる死から救うことができたのは二〇〇〇人中一人に すことで、人々の自律的で冷静な判断を促すことにも資する。すぎず、二〇〇〇人中一〇人は不必要にがんであると診断さ こうした介人は、各人の判断を政府の判断に代替すると同時れ、胸の一部を切除されたり放射線治療を受けたりしたとい に、各人の自律的な判断を支援し促進する。このように政府 う。また二〇〇〇人中二〇〇人は、がんの可能性があると誤