ならない。 以下の三種の意味に解釈されうることが明らかとなった。 政治的なものの止揚〔、ミ〕。これはヘーゲル的国家が 曰三種の意味が明晰に区別されると、それに応じてどのよ 政治的なもの自体を止揚する場合である ( この点はなお明確に うなものであればそれらを相互にーーあるいは少なくとも二 する必要があり、また、止揚は根本的に政治的なのではないかとい つずつーー結び付けられるのか、そしてそうした可能性によ 、つロ ドいの逆照射によって検証されねばならない ) 。 って何が争点となるのか、という問題が提起される。 ⑤政治的なものの二次的な次元への格下げ。これは政治的ロ我々は「退引」を第三の意味に解そうとした ( 実を言えば この語の哲学的用法を正当化できるのはそれだけである ) 。だがこ なものをプルジョアジーの政治的幻想へ還元するマルクスの 身振りを認める場合、またマルクスの内に ミシェル・アの意味自体、言い換えれば退引の特異な論理全体が政治的な ンリを経由してーー徹底的に政治より下部にある「個人の存ものに着目しつつ分節されることを求めている。この点は少 在論」を読み解く場合である ( この存在論はプロレタリア政治に なくとも二つの異なった仮説から始めることができる。 関するマルクスのその他のテクストと突き合わせて検討されるべき 我々の言う「退引」が、実際には政治的なものが世界的 であり、かっその際にはプロレタリア政治が単に戦略的な性質を有に支配する只中での、かっその時代おける、当の政治的なも するのかそうではないのかを問いに付すという課題が残されている。 の自体の退引に随伴するものであるという仮説。言い換えれ そしてまたマルクスの読解、その条件、そしてその道具立てという ば、「すべては政治的である」〔という言い方〕が、政治的なも 一般的な問題に従うべきものである ) 。 のの特殊性が消失しているのを覆い隠しているということで ハイデガーが言う意味での退引 ( 退去〔 E ミい ~ を ) 。これはある。その特殊性は政治的なものが分離された空間 ( あるいは 現前したものの隠蔽ないし霧散消滅としてのみ起こる現前化行為 ) であり、社会全体のその他の構成要素からははっきり の退引である ( これがアレーティアの構造ないし運動である ) 。か と区別される ( ただし見せかけではない ) ことを含意している。 この仮説に従うなら、退引によってこのような特殊性の輪郭 つ、デリダの用いた「退ー引」、つまり ( 牽引〔 z 〕と裂い目 〕を結び付ける ) 引きー直し〔 re ・ ( racemen ( 〕の価値を合わせが描き直されることになるだろうし、またその実効的な諸条 件を再度発明する必要もあるだろう ( それが例えばハンナ・ア てもっており、それによって退引には「新たな」切込みない し刻印が含意されるが、この切込みないし刻印は退引が生じレントの思考の一側面である ) 。 る当のものを切り抜く〔幻〕。 ⑤あるいは、退引は政治的なもの一般と連動して絶対的に これら三種の意味については以下の点を明確にしなければ作動する、言い換えれば存在ー神論に内在する政治的規定と
7 政治的なものの「退引」 〔訳者解題〕本稿はフランスの哲学者フィリップ・ラクー の編著として扱われているが、表紙ならびに扉ページには寄 ラヾルトとジャン 丿ュック・ナンシーが責任編集の任にあ稿者全員の名が挙げられているため、「共著」と記す方が正 たった論集、『政治的なものの退引』 ( ト e 、ミミをミミ . 確であろう。 また、ラク Galilée. 1983 ) から、ほとんど同じ題を持っ論考、久 Le 《 re ・ 日ラバルトとナンシーの「政治的なものの trait 》 du politique 》 ( ミ。を . 183 ー 200 ) を、末尾に付された「退引」」に加えて、論集全体の趣旨を説明する「緒言」 討議兌 D 一 scuss 一 on しも含めて全訳したものである。同書は、 ( 《 Avertissement 》 . ミ . p. 9 ) と、巻末に付された「補遺」 一屏ページをみるとタイトルの下に travaux du centre de re- Annexe 》 . ミ . pp. 201 ー 205 ) についても理解に資すると考 えて訳出した。 cherches philosophiques sur le politique と記されていると エコールノルマルスュペリウール おり、 リのユルム通りにある高等師範学校に設置され この論集の元となった議論が行われた時期については「緒 た「政治的なものに関する哲学的研究センター」の成果をま言」に書かれているが、収録された各論考の冒頭には日付も とめたものであり、同じく二人が編集した『政治的なものを 明示されているのでタイトルと併せてここに記しておく。 賭けなおす』 ( R 0 ミ、 le 、 0 ミミ . Galilée. 1981 ) の続編にあた ラバルトとナンシ る。文献目録などではしばしばラクー 一九八一年一二月七日 政治的なものの「退引」 フィリップ・ラク 1 一フバルト ジャンⅡリュック・ナンシ 1 訳Ⅱ柿並良佑
は本質的な「退引」として、あるいは本質的な「退引」に従る〔 ph 「 er 〕ことは適切だと見做されています。その際、自 って明瞭に分節されるという試練を経る必要があるのです。 分たちも政治的なものを際立たせて語ることができるとい ここに言う退引は共同体の統一性、全体性、実効的な顕現と う要求を掲げる他の文のグループよりも当の種類は選好さ いったものの退引であるかもしれません。そのためには、も れているのです。他のグループというのは科学的 ( 政治学 ナラティヴ し改めて政治的なもの ( あるいは至高性 ) が以上のように「描的 ) 、叙述的 ( 政治学説史ないし政治史 ) 、誇示的 ( 政治的なもの き直される」ことを必要とするのだとすれば、それだけいっ の礼賛 ) 、等々 ( ・ : このように前提された哲学的なもの そう複雑な練り上げ作業が前提とされるでしよう。ですがい と政治的なものの合致によって、必然的に以下の原理が前 ずれにせよ前提となっているのは この点で我々の意図を提されています。すなわち、政治的なものが、規則に従っ 誤解しないでいただきたいのですが こうした問題系は政て、それ自体規則に則った文によって提示可能な一つの所 治的なものの根拠づけ ( あるいは新たな根拠づけ ) の問題系では 与として自らを際立たせて語る〔 phraser 〕ものとしては ( も ありえないということなのです。 はや ) 与えられないという原理です。しかしながら、また ならば必然的に、政治的なもの「そのもの」、その問題、 そのことが前提の一部をなしてもいるのですが、政治的な その要求などが出現するのはまさに政治的なものの退引から ものはそれでもなお自らを「委ねる」のです (ä) 。 だということになります。そしてまた、先ほど喚起したとお り、政治的なものは不可避的に哲学的なものとして出現する さしあたりここで用いられている語彙の違いにはあまり踏 のだということになります。この点に関して、去年リオター み込みませんが、それを考慮してもなお、この書き起こしに ルがセンターの歩みを改めて書き記した時のロ吻は示唆的では我々自身の姿が認められます。すなわち政治的なものは規 あったように田 5 われます。彼はこう言っていました。 定可能であり提示可能であるという特定の性質から引き退い ています。ただ政治的なものがそのように規定されなくなる ( センターの ) 開会の行為遂行文によって開かれた領野は同こと、それはまた同時に政治的なものの溶解や全面的な浸透 じく政治的でもあります。あの発言では、実際に哲学はでもありますが、政治的なものはこの未規定性において新た ( おのれの規則を目的として持っ言説として ) 言説、すなわち文に自らを委ね、一つの問いを、あるいは問いの輪郭を我々に 〔 phrase 〕の組み合わせの種類として位置づけられていたの手渡しています。こう言った方が良いでしようか。政治的な であり、この種類においては政治的なものを際立たせて語ものの退引はその閉域ミきミ〕に対応しているのだとーーそ
表象 ( 呈示ミミ 3 一 len 〕 ) することができると想定される、自己みせる太陽王の超越的で栄光に輝く至高性は、ただ。フルジョ への関係である。このような関係は例えば、ルフォールにとア権力、商品経済、近代国家、等々の確立に巻き込まれ、隷 って政治的なものの定義、および「社会的なもののそれ自体属するという形でしか決して生じなかったということでし への顕現」としての政治的なものをめぐる彼の問題意識の根た〔 7 〕ーー同様のことは適宜変更を加えた上で、より古代的 底にある。 な至高性についても言わなければならないかもしれません。 以上の三つの規定が、バタイユが至高性〔主権〕と呼んだもその上この観点からすると、ポリスについて、ローマの創設 ンナ・ のの内でその他の規定と結集するということはありうるでしについて、何が起こり、何が起こらなかったのか、ハ よう。そしてもしこの至高性という語が政治的なものの本質アレントに問、 尋ねてみる必要もあるでしよう。同様に、 に関わる規定を取りまとめているのだとすれば ( その際政治的我々の一人が昨年話題にしたヘーゲルの「君主」は、政治的 なものは、単にその名に値する国家に要求される特徴ではないどこ なものの哲学的根拠づけの極地において、決して生じなかっ ろか、むしろ政治的なものによってすべての人がそれぞれ差し向け た竈場を持たなかった〕至高性へと向かって極限まで張りつめ られる至上の目的Ⅱ終焉と見做されている ) 、その場合、政治的たカ ( とこのカの断絶 ) について証言するものです ( リ。またそ なものの退引は至高性の退引に他ならないのです。 の至高性の「来る。へき」場所はまさにそれが生じなかったた それはともかく、このような退引によって何かが現れる、 めに謎めいたままであり、究極的には固有化しえないままな あるいは何かが解放されるのです。少なくとも我々は、どう のです。またルフォールが示しているような民主主義の本質 ノスタルジー やら引き退いたらしい何かを郷愁に駆られて慨嘆せよとい もまた、同様の「非ー場〔 non-lieu 〕」ないし「非ー生起〔 non ・ っ規則に従って考えようとはしていません ( 「大いなる失敗」と avoir-lieu 〕」を伴わずにはいません。 退 いう審判に同意しておきます ) 。この退引が政治的なものの争点 これまで述べてきたことからは決して、生じなかったもの のを新たなものとして描き直す〔、 e ・ぎ ce 、〕ことを可能にし、さを引き起こす〔場を与える〕ことが目下肝心なのだ、といっこ もらには要求するはずだという仮定のもとに間いを立てている ことにはなりません。仮にそう考えるとしたら、あたかも政 的のです ( リ。 治的なものを引き退いた状態から抜け出させることができる 斑そしてまずは、引き退いた何かはおそらく実際には決してかのように ( あるいは政治的なものの退引が単なる隠遁・引退・退 生じなかったということが出発点です。他ならぬバタイユが却〔 retraite 〕に過ぎないかのように ) 考えていることになります。 示したのは、万人に対して皆に共通する至高性を現前させて退引から「抜け出す」必要はなく、政治的なものがおそらく
凵他方では、理論的なものと実践的なものの対立はそれ自ときものがある。現存在は根源的に拡張されており、そのよ 体が脱構築されるべきだという言表にはさほど困難もなく同うな拡張の内にこそ歴史と空間性は根源を持っている。ラク 意していただけるだろう。しかしその脱構築においては、 ラバルトはそうした解離と Se 一 bsthe 一 t 、すなわち自己性 「単に理論的」ではないことが ( もしそれが理論的でなければなそのものの構造を関連させる。またスーレーズはジャネ、フ らないとした場合に ) 最も固有な争点となっている。そのよう ロイト、ベルクソンの内に「解離した」ものとしての実効的 な脱構築がなされるなら、ある仕事が可能になるはずである。なものというモティーフを等しく見出す。そこから「統一の それは例えば、政治からの離脱の実効性でもなく戦闘的行動幽霊」の問題が出てくる。すなわち社会的紐帯それ自体の のそれでもないような何らかの実効性に則ったセンターの仕本質が既に、あたかも解離が存在しないかのように振る舞う 事のようなものになろう。何らかの実効性、以上からすれば、 ことに存している。他方でスーレーズは解離概念の臨床に関 退引と一貫する実効性に則って : わる起源についても注意を喚起している。 二、政治的なもの 。。、トリス・ロローの指摘によれば、プ ラトンでは政治的なものは神の問題の退引において生じてお 討議は解離、政治的なもの、全体主義という三つのモティ り、また政治的なものはそれ自体が退引した状態にあり、制 ーフをめぐって行われた。 度、政体、民主主義等々によって隠蔽されている。スーレー 一、解離 . ジャック・デリダはハイデガーにみられる現存ズは次のような区別を提案する。もし政治的なものドを li ・ 在 CD ミもの存在論的構造において解離が果たす役割を強調 ( 一 que 〕が以上のように何らかの退引の内で標的となっている する。 Mitsein 、共ー存在 ( ないし共同存在 ) 〔 l'étre-avec ()u en- のだとすれば、政治 ()a を一三 que 〕は「す。へては政治的である」 semb 一 e ) 〕が決して政治的とは考えられていないにもかかわら という状態だということになろうし、一つの政治は : アジャンスマンプリコラージュ ずである。ここで解離に関する一連の述語、すなわち気散じ案配、工作、制度となる ( もしそうだとすれば一 66 政治 とは「政治」という類の中の一種ではないことになろう ) 。そこ / 散逸〔 ze ) ミミ〕、分散〔 ze 、も一ミ e 、ミを等々が争点となっ ている。こうした語には否定的な響きがあるかもしれないが、でデリダは、政治的なものが政治的である何らかのものの本 否定的に捉えるべきではない。むしろ Zer- という接頭辞は質として理解されるべきだと補足する。そしてカンプシュネ フランス語における「脱〔 dis 〕」に倣って理解すべきである。 ルが、政治は制度的規定を受けている ( し、必ずしも本質を持 すなわち現存在の根源的な拡ー張 / 弛ー緩〔 d 一 s ・ ( ens 一 on 〕のごたない ) と反論するのと同様、デリダはまさに一定の意味の
筆す。へきことです。このことは我々自身がその問いを強調し係に従 0 て生じるのでしようか。そしてまたこの関係は ていたということとはまた別の話です ( 関係の間いは例えば、 一一一一口語活動、芸術、死、エロティシズムへの関係において リオタールがルフォールの内に看取した「我々という前提」に関し政治的なものに関して何を明らかにすることができるのでし て、あるいはランシェールにとっては〔労働者〕階級について一般的 ようか。もう一度言いますが、ここで我々は一群の間いを指 に言える唯一の賓辞・ーー「ある他者の場所に〔その代わりに〕いるこし示しているにすぎません。例えば同一性の社会的構成とし の内に、あるいはさらにスーレーズが改めて取り上げたての ( かっ社会的「同一性」の構成としての ) 同一化の問い、ある 「母」の問題の内に介人してきます ) 。一般的に言えば、この問 さらに いは「根源的」ないし原ー根源的な社会性の間い いは一つの主題のようにーー実を言えば、今なおほとんど主は原ー社会性の問いです。この原ー社会性において、あるい 題化されていない主題です、仮に完全に主題化されることが はそれに従って政治的なものの退引が丸ごと争点となるので ありうるとして、の話ですがーーー執拗に現れてくるのだと述す ( この問いはベルクソンからフロイト、フッサール、ヾ ノタ , 4 ュ、 べることができます。その主題とは緩み / 脱結合〔ミ守ぎ己おそらくはその他幾人かを経由して ( イデガーとレヴィナスへと至 ないし解離〔き c という主題であり、それゆえ我々が る、いわば現代の思考全体にとっての激しい強迫観念であり躓きの 名付けたもう一つの問題を参照するよう促す主題です。すな場所であり続けていることに注意を喚起しておかなくてはなりませ わち、 ん ) 。それゆえにいわゆる母の問いは我々にとってまずは母 四、母の問題。リオタールにとってもスーレーズにとって的な退引の問い 退引としての母の問い 母の退引の間い リスク も、これは「危険を孕んだ」名称です。ですが少なくとも今なのです。 のところはこの名称を用いておきましよう。そしてまずは何五、最後に、こうした特徴がいずれも政治的なものの特殊 よりもある問いの指標として用いておきます。我々はこの問性を参照するよう促すものだとしても・ーー〔ドゥニ・〕カンプ いをフロイトから受け取り、そしてまた実際にフロイト自身シュネルとの議論を継続してみるならーー我々が参照してい の言葉遣いでそれを論じています。これは同一化の問題であるのは経験的なものの特殊性では決してありません。たしか って、この問題はまたミメーシスの問題系全般に関係させるに政治的なものは経験的なものを通して自らに注意を引きっ ことができますし、かっそうしなければなりません。すなわけることもあるかもしれませんが、しかし我々が参照してい ち、フロイトによると「他人に対する最初の態度決定〔 s ミ・るのは以下のような「事実」、「哲学的事実」 ( 哲学的ー政治的 ファクトウム・ラティオニス き、ミ e 〕」〔リである同一化は、いかにして、どのような関理性の一種の理性の事実 ) なのです。すなわち、少なくとも アルシ
によって生じるものであろう、そしてその時かの超越はもは いは特殊な他性の次元としての政治的なものそれ自体なので や一切の他性を容れず生活の全領域に浸透してくるのだ、と。しよう。そのような他性は一体何によってできているのでし もちろんここでは二八〕四三年にマルクスが民主主義を定義 ようか。今度もまた図式的に述べてみましよう。 した時の定式を暗に参照してみたのです〔 5 〕。そしてまさに 一、物質的で拘束力のある力としての権力と、超越として この定式を考えながら、先に我々はサルトルがマルクス主義の権威の連接によって。あるいはバタイユの一言葉を借りるな について「現代の乗り越え不可能な地平」と言った例の言葉ら 0 、国家の「同質的」権力と、「聖なるもの」の「異質 の意味を曲げたのでした。 的」な権威の連接 ( 一時的に、ファシズムに見られるその再活性 それゆえ、退引はまずは超越ないし他性の退引として現れ イにバタイユが魅せられることはあり得た ) 。この連接は失われ るのです。それは〈神〉であれ、〈人間〉であれ、〈歴史〉であれ、ているだけでなく、なおもバタイユが言っているように、軍 我々が再び何らかの超越に訴える必要がある、ということで事的ー宗教的体制の実現は全て「巨大な挫折」にしか至らな ないのは明らかです。まさにそうした超越こそが全体主義をかった。 生み出した、あるいはそれらの内に全体主義は拠って立っ場二、共同体と、現世にあってはその共同体の持っ性質であ 所を見出し、さらにそうした超越を共同ー生活の全面的内在るような不死性との関係によって先の他性はできている。な 性へと変じたのです。 おこの不死性はもう一つの世界での個々人のそれではなく、 ただこの点について言いますと、退引の問題は引き退いた ハンナ・アレントが例えば『活動的生』で書いている意味で 超越を「取り戻す」ことではなく、退引を通じていかにして理解できる。「ギリシア人にとってポリスとは ローマ人 「政治的超越」の概念の意味をずらし、練り上げ直し、改めにとってのレス・ププリカと同様ーー、まず個人の生の空し て争点とせねばならなくなるのか、ということなのです。超さと儚さに対する保証、死すべき人間に不死性を約束するよ 越という観念そのもの ( あるいはこう言った方が曖味さが減るな う定められた空間であった」〔 6 〕。この不死性こそが、別の形 ら、他性の観念 ) のこれほどまでの変容を考慮した上で、我々ではあるが、まずはフイヒテからハイデガーに至るまで、民 が政治的なものの「本質」と言った時に問題となるのは、ま族〔 volk 〕の要素の内に、次いで、諸民族〔 Vö一 ker 〕を超えた共 さしく政治的なものの超越と他性なのです。だからこそそれ産主義的な〈人類〉の内に再び姿を現していたのである。 は何ら経験的なものではありえないのです。 三、共同体のそれ自体への関係によって。それは、共同体 それゆえ、引き退いていくのは特殊な次元としての、あるが自らを現前させ、自らに対してその共同ー存在そのものを
本書に寄稿された論文がいかに多様なものであろうと、セ 本書はユルム街所在の「政治的なものに関する哲学的研究ンターの仕事がこのようなごく一般的な問題系の地平で、二 センター」 ( 1 ) の仕事をまとめた第一論集『政治的なものを賭つの主要な争点をめぐって位置付けられたことが以下でお分 かりいただけるだろう。すなわち、今日全体主義という概念 け直す』の続刊である。以下には一九八一ー一九八二年度に 行われた発表が採録されており、またそれらが契機となったを用いる際に可能な用法を厳密に定義しようという試みと、 プロトコル 現状では比較的問われたことのない、政治的なものの退引の 討議の議事録が付されている。当該年度の仕事は以下のよう 目ー . し という争点である。これらの争点はあくまで争点に過 な統制的言表のもとに位置づけられたものであった。 ぎない。 つまりそれによって定義されるのは何ら正統性とい 政治的なものの問いは、哲学的な問いとして把握され、そ。たものではなく、実際に開かれている研究が孕む危険なの してまた我々が暫定的に政治的なものの本質と名付けたもである。 趨のの観点から、何が社会的関係そのものを可能にするのか を問う必要性を露わにする。言い換えれば、社会的関係は の の 単純な関係として構成されるのではなく ( そのような関係は 決して与えられない ) 、政治的事象そのものの根源にある 的 治「緩み / 脱結合〔オミ〕」ないし「解離〔 d 。 ci ミぎ」の ような何かが当の社会的関係に巻き込まれているのではな いかと問う必要性が露わになるのである。 宇野重規「「政治」から「政治的なるもの」へ」、『政治哲学 へ , ー、現代フランスとの対話』東京大学出版会、二〇〇 四年、第三章。 柿並良佑「恐怖への誕生ーー同一化・退引・政治的なもの」、 『思想』第一〇六五号、二〇一三年一月。 緒言 一九八二年六月二一日 今日発言を求めたのは、ここ数年の「〔政治的なものに関す る哲学的研究〕センター」での作業を学術的に総決算したり総 Philippe Lacoue-Labarthe, Jean ・ Luc Nancy, ミ、 e ミ b ~ the P ミ c ミ . edited and translated by Simon Sparks, Rout ・ ledge, 1997 ( 「政治的なもの」に関する二人のテクストを編 訳した英語版独自の論集 ). 政治的なものの「退引」
2016 no. 1109 石井洋ニ郎思想の言葉 P. ラクー = ラバルト 政治的なものの「退引」 J. = しナンシー B. バコフェンルソーの政治思想 における戦争論 牧野雅彦新たな大地のノモスを求めて 梅田百合香ホッブズとセルデン 橋本努リバタリアン・パターナリズム批判 1 岩波書店
いくのです。この錯綜した 警察は至るところにいる政治的警察といったものではありま性」のような何かが引き退いて トクヴィルが描き ( 経済ー社会ー技術ー文化的 ) 集合体が何に対応しているのか、 せん。だからといって今日の民主主義が、 出した民主主義と同じであるということにはなりません。そそれをハンナ・アレントの記述から借用した三つの特徴によ してもしトクヴィルの民主主義の内に古典的全体主義が胚胎って経済的な見地から規定することができます。 アニマル・ラボレンス 一、「労働する動物の勝利」、すなわち労働者ないし生産者 していたとするなら、今日の民主主義から別の何かが、前代 として定義された人間の勝利 ( 9 ) 。 未聞の全体主義がじわじわと生まれてきてなどいないと言う ことがどうしてできるでしようか。少なくともこれが提起さ 二、社会的なもの〔 le き c ミ〕、社会そのもの ( ゲマインシャフ トと区別されたゲゼルシャフト ) によって「公共空間」が規定さ れている間いであり、そのために全体主義という概念を ( も つ一度言いますが、ある程度まで読み込んだ場合に ) 一般化するこれたり覆い尽くされたりする点。この社会的なものとは、言 とはさほど無分別なことだとは思えないのです。 い換えれば端的な生や生計に応じて統御された共同ー生活な いし相互依存のことであり、そうしたものは公的、政治的な 「退引」の問題 目的それ自体に応じて統御されているのではない。 このように仮定してみると、残っているのは第三の門 三、権力から区別される要素としての権威の喪失。この権 ーマ ) の超越 すなわち「退引〔 retrait 〕」の間い です。ですが、既にお気づ威はある創設行為 ( アレントにとってのモデルはロ きのよ、つこ、 この問いは多くの点で今まで述べてきたことに的性格に関わるものであり、その喪失は自由の喪失にも比肩 含まれています。ですからいくつかの点は繰り返しにならざする (2) 。 我々にとって、これらの特徴は先に言及したばかりの「前 にるをえないでしよう。 褪退引を話題にすることで言いたか「たのは、手短に、また代未聞の全体主義」に関する問題の輪郭を描き出しています。 この全体主義に対してはもはや「古典的全体主義」への批判 のちょっと挑発的な言い方をしますが、私が以下で近代都市と で済ませることはできません。こう言って ( あるいは言い直し も呼ぶものの中で ( あるいはそこから ) 何かが引き退いていくとい マキャヴェリ的て ) みましよう。今一度ルフォールとリオタールの用語を借 的うことです。もはや国家とさえ呼べない りて言うと、もし古典的全体主義が超越の体内化と現前化に 斑な意味においても、おそらくはヘーゲル的な意味においても そうは呼べないーー複雑にして巨大な集合体が構成される際よって生じるとすれば ( ナチズムにおける芸術作品、スターリニ に、まさしく都市のような何ものか、あるいは都市の「都市ズムにおける歴史の理性 ) 、前代未聞の全体主義は超越の解消