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検索対象: 思想 2016年 第9号
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1. 思想 2016年 第9号

者はまずいない。 ところが科学の範疇に属さない人文学の中には「学問のための学間」を志向する分野が少なからずあって、 それらま、ゝ ~ 力なる公的大義にも奉仕しないがゆえに不要とされがちである。もちろん社会科学の中にも ( ある いは自然科学の中にも ) 即時的に役に立たない研究はいくらでもあるが、それでもいま存在意義が問われている のは明らかに文系の学問全体ではなく、その一部をなす人文学の諸分野なのだ。 人文学といえば、かっては「哲・史・文」という大きな枠組みがその骨格をなしていた。しかし大学ではこ の二〇年ばかりのあいだに文系学部の再編成が急速に進行し、「総合」「国際」「文化」「環境」「人間」等々の キーワードを順列組み合わせのように結合させた四文字学部が一気に増殖したため、伝統的な知の構造はいっ のまにか見えなくなってしまった。いかにも安直の感をまぬがれないこうした組織改革の濁流の中で、昔なが 葉 言らの構図に従。て「哲・史・文」の枠組みを内面化してきた多くの人文学者たちは、す「かり変貌した現代の 学間的風景の中で自分が占めるべき場所をあらためて定位する必要に迫られている。 想 このうち「哲」に関しては、生命倫理や宗教対立といったアクチュアルな諸問題が浮上しつつある今日、そ の重要性はさまざまな局面で再認識されつつある。また「史」についていえば、あらゆる領域には固有の歴史 があるので、歴史学は人文学の一分野というよりも、文理を問わず複数の学問に共通の認識方法としてとらえ たほうが正確だろう。つまり「哲」も「史」も、いわゆる文系の学間という枠におさまらず、人間の活動全般 に適用されうる普遍的な思考のフレームとして機能しているという意味では、おのずと社会的要請に応える側 面をもっている。では、残る「文」はどうだろうか。 自分自身の例をとってみると、私はフランス文学を専攻し、特に一九世紀のロートレアモンという異端詩人 を研究対象としてきた。しかしバルザックやユゴーのように広く読まれている大作家ならまだしも、文学史的 にはどう見てもマイナーな存在でしかないこの作家の作品をいくら詳細に分析してみたところで、現代世界の

2. 思想 2016年 第9号

は本質的な「退引」として、あるいは本質的な「退引」に従る〔 ph 「 er 〕ことは適切だと見做されています。その際、自 って明瞭に分節されるという試練を経る必要があるのです。 分たちも政治的なものを際立たせて語ることができるとい ここに言う退引は共同体の統一性、全体性、実効的な顕現と う要求を掲げる他の文のグループよりも当の種類は選好さ いったものの退引であるかもしれません。そのためには、も れているのです。他のグループというのは科学的 ( 政治学 ナラティヴ し改めて政治的なもの ( あるいは至高性 ) が以上のように「描的 ) 、叙述的 ( 政治学説史ないし政治史 ) 、誇示的 ( 政治的なもの き直される」ことを必要とするのだとすれば、それだけいっ の礼賛 ) 、等々 ( ・ : このように前提された哲学的なもの そう複雑な練り上げ作業が前提とされるでしよう。ですがい と政治的なものの合致によって、必然的に以下の原理が前 ずれにせよ前提となっているのは この点で我々の意図を提されています。すなわち、政治的なものが、規則に従っ 誤解しないでいただきたいのですが こうした問題系は政て、それ自体規則に則った文によって提示可能な一つの所 治的なものの根拠づけ ( あるいは新たな根拠づけ ) の問題系では 与として自らを際立たせて語る〔 phraser 〕ものとしては ( も ありえないということなのです。 はや ) 与えられないという原理です。しかしながら、また ならば必然的に、政治的なもの「そのもの」、その問題、 そのことが前提の一部をなしてもいるのですが、政治的な その要求などが出現するのはまさに政治的なものの退引から ものはそれでもなお自らを「委ねる」のです (ä) 。 だということになります。そしてまた、先ほど喚起したとお り、政治的なものは不可避的に哲学的なものとして出現する さしあたりここで用いられている語彙の違いにはあまり踏 のだということになります。この点に関して、去年リオター み込みませんが、それを考慮してもなお、この書き起こしに ルがセンターの歩みを改めて書き記した時のロ吻は示唆的では我々自身の姿が認められます。すなわち政治的なものは規 あったように田 5 われます。彼はこう言っていました。 定可能であり提示可能であるという特定の性質から引き退い ています。ただ政治的なものがそのように規定されなくなる ( センターの ) 開会の行為遂行文によって開かれた領野は同こと、それはまた同時に政治的なものの溶解や全面的な浸透 じく政治的でもあります。あの発言では、実際に哲学はでもありますが、政治的なものはこの未規定性において新た ( おのれの規則を目的として持っ言説として ) 言説、すなわち文に自らを委ね、一つの問いを、あるいは問いの輪郭を我々に 〔 phrase 〕の組み合わせの種類として位置づけられていたの手渡しています。こう言った方が良いでしようか。政治的な であり、この種類においては政治的なものを際立たせて語ものの退引はその閉域ミきミ〕に対応しているのだとーーそ

3. 思想 2016年 第9号

本書に寄稿された論文がいかに多様なものであろうと、セ 本書はユルム街所在の「政治的なものに関する哲学的研究ンターの仕事がこのようなごく一般的な問題系の地平で、二 センター」 ( 1 ) の仕事をまとめた第一論集『政治的なものを賭つの主要な争点をめぐって位置付けられたことが以下でお分 かりいただけるだろう。すなわち、今日全体主義という概念 け直す』の続刊である。以下には一九八一ー一九八二年度に 行われた発表が採録されており、またそれらが契機となったを用いる際に可能な用法を厳密に定義しようという試みと、 プロトコル 現状では比較的問われたことのない、政治的なものの退引の 討議の議事録が付されている。当該年度の仕事は以下のよう 目ー . し という争点である。これらの争点はあくまで争点に過 な統制的言表のもとに位置づけられたものであった。 ぎない。 つまりそれによって定義されるのは何ら正統性とい 政治的なものの問いは、哲学的な問いとして把握され、そ。たものではなく、実際に開かれている研究が孕む危険なの してまた我々が暫定的に政治的なものの本質と名付けたもである。 趨のの観点から、何が社会的関係そのものを可能にするのか を問う必要性を露わにする。言い換えれば、社会的関係は の の 単純な関係として構成されるのではなく ( そのような関係は 決して与えられない ) 、政治的事象そのものの根源にある 的 治「緩み / 脱結合〔オミ〕」ないし「解離〔 d 。 ci ミぎ」の ような何かが当の社会的関係に巻き込まれているのではな いかと問う必要性が露わになるのである。 宇野重規「「政治」から「政治的なるもの」へ」、『政治哲学 へ , ー、現代フランスとの対話』東京大学出版会、二〇〇 四年、第三章。 柿並良佑「恐怖への誕生ーー同一化・退引・政治的なもの」、 『思想』第一〇六五号、二〇一三年一月。 緒言 一九八二年六月二一日 今日発言を求めたのは、ここ数年の「〔政治的なものに関す る哲学的研究〕センター」での作業を学術的に総決算したり総 Philippe Lacoue-Labarthe, Jean ・ Luc Nancy, ミ、 e ミ b ~ the P ミ c ミ . edited and translated by Simon Sparks, Rout ・ ledge, 1997 ( 「政治的なもの」に関する二人のテクストを編 訳した英語版独自の論集 ). 政治的なものの「退引」

4. 思想 2016年 第9号

をもたなければならない。 さもなければ、戦争を枠づけし、ず、防御的な段階にとどまる。彼は、ちょうど、ジャン あるいは限定するというすべての努力は単なる遊戯にすぎ ヌ・ダルクが宗教裁判で表明したのとまったく同じように 行動する。彼女はまったくパルチザンではなく、またイギ ず、現実的な敵対関係の勃発に対抗することはできないの である朝 ) 。 リスに対して正規的に戦った。彼女に、宗教裁判官が「お 前は、神がイギリスを憎んでいると主張しようとするの すでに述。へたように、非正規な闘争者としてのパルチザン か」という問いをーー神学的な罠を伴う問いをーー提起し がたんなる犯罪者ではなく、文字通り政治的闘争者として正 た時、彼女は次のように答えた。「神がイギリス人を愛す 統性を獲得するためには、他者のーーたとえば国外の革命勢るか憎むかについて、私は知らない。私はただ、イギリス 力など「強力な第三者」のーー承認と支持を必要とする。す 人はフランスから駆逐されねばならないということだけを なわち、おのれの「敵」の所在を明確にして「友」と連携せ 知っている」と。ナショナルな土地を防御するノーマルな パルチザンならば、すべてこのように答えるだろう。この ねはならない。「政治的なものの核心は、敵対関係そのもの ではなく、友と敵とを区別することであり、また両者を、す ように防御性を根本原則とすることによって、敵対関係を なわち友と敵とを前提とするのである」。古典的な戦争観根本的に制限することが生じた。現実の敵は、絶対的な敵 であると宣言されないし、さらに人類一般の敵であるとも 念の枠外にある非正規的戦闘としてのパルチザンが、戦争と その前提としての「敵」 ( とそして「友」 ) の概念にとって重要宣言されない朝。 めな間題を提起している所以はまさにここにあった。ではパル 求 。ハルチザンの敵はあくまでも「現実的な敵」であって、人 チザンにとって「敵」とは誰か。 を ス 類一般の敵のような「絶対的な敵」ーーしたがって殲滅の対 モ それゆえ 、パルチザンというものは現実の敵をもつが、 象となるような敵・、ーーではない。郷土とその「ラウム」に依 の このことは、。ハルチザンの拠して闘う。ハルチザンが新たな圏域秩序の形成にとって重要 地しかし絶対的な敵をもたない。 政治的な性格から生じてくる。敵対関係のもう一つの制限な意義をもっ理由もここにあった。 。。、ルチザ もとよりすでに述べたように、新たなラウム秩序の形成そ は、パルチザンの土地的な性格から生じてくる 新 のものが技術の発展と密接に関わっているとすれば、パルチ ンは、自己が土着的な関係を持つ一片の土地を防御する。 彼の根本的立場は、その戦術の高度の遊撃性にもかかわらザンもまた新たな技術に対応して新たな形をとることになる

5. 思想 2016年 第9号

ただいても、さほど益はないだろうと思います。 問する必要があるでしよう。例えばリオタールの『ポストモ 全体主義のこのような概念ないし記述を、我々は決して拒ダンの条件』を見てください。そこでは「可能な限り最も 否するものではありません。それどころか反対のことを考え遂行性の高い統一性を求める全体性」として複数の決定者に ているのであって、政治的たらんとする言説は大抵、全体主よって構想された「社会システム」が分析されています。そ 義現象の現実と本性を見極めようとしていないために、政治のようなシステムこそが押し付けることのできる新たな テロル 的なものの尸 司いに指一本触れることはありませんし、全体主「恐怖」についてリオタールが何と言っているかご覧くださ 義をーー話がここまで進んでいるのですからはっきり言うな い ( 8 ) 。言い換えれば、専門性と生産性という基準や、様々 ら、政治的なものを いわば新たな「根源悪」として「告な姿で隠密裏に再受肉した政治〔的身〕体がほば遍く支配して 発する」ことで満足している人々も同様です。しかしながら いる状況では、権力の場は相対的に安定して「十全に」占有 なおもそれを、まずは先ほど言及しておいた第一の概念と明され、 ( 仮に選挙・政治ゲームをスペクタクル化する技術のせいだ らかに異質であるという点において問い質すことが必要だと としても ) 「〔選挙で選ばれた〕政治家」には確固たる同質性がみ 思われます。とりわけ、またこれがほば我々の問いの現状なられ、 ( 経済ー文化的消費の次元においてのみだとしても ) 狂った のですが、以下の点について自問する必要があるだろうと思ようにコンセンサスが捏造され、心理状態を特権視するイデ います。 オロギーが瀰漫している ( が、強烈に効果を発揮している ) ので 一、まず、周知のとおり分析というものは当の分析対象にはないでしようか。要するにそれは一つの答え方、民主主義 対して遅れてやってくるわけなので、我々の分析もいまや歴ないし今日なおそう呼ばれている体制に内在する、「民主主 史的となった ( がまったくもって「過ぎ去った」わけではない ) 全義の危機」への答え方なのです。ですがそれは民主主義の復 体主義の諸種の形象には当てはまらないのではないか、さら興という仕儀にはならないでしよう。いわば危機の全体主義、 には根本的で荒々しい性格を示す初期の純粋な形象にも当て 一見すると脆弱なようですが最悪の力に変じかねない全体主 はまらないのではないか、と。したがってまた、 義です。だとすると次のようにも問わねばならないでしよう。 テクノロジ 二、全体主義のより狡猾な形態、ある種の科学技術と同様、 三、全体主義と民主主義という紋切り型で広範に流布して より「穏やかな」と呼ばれる形態がそれ以降、多かれ少なか いる対立は、たとえ正しく、両者の差異が顕著だとしても、 れ我々の知らないうちに、あるいは先ほどお話ししたように実はそれほど単純なものではありません。今日収容所はあり 目立たないままに根付いてしまったのではないかどうか、自ませんし、いかに「技術の進歩」が見られようとも、我らが

6. 思想 2016年 第9号

124 ぐれた活動に感動し、その代行的意義に対して感謝の意を表業としてのアスリート・モデルは、スポーツ選手やアーティ リート・モデレよ、 すことがある。活動支援業としてのアス ストに対して、人々の活動を喚起するように働きかけるだろ 人々を「活動としての善き生」へと導く際に、そのような う。エンターティンメント化されたスポーツや芸術に政府が 「善き生」を実現した他者を称賛する心性を生み出すだろう。 介人する必要はないが、政府が市場で自活できないスポーツ 人は、自分ができたかもしれない経験を、他者によって実現選手やアーティストを支援する際の方針は、例えば市民のた してもらうことによって自己が生きる意義を受けとる。自分めの講習会や市民参加型のインタラクティヴ・アートを奨励 の理想や夢が他者によって実現されることは、自己にとってするなど、人々の活動を促すものでなければならない。 「善き生」の一部となる。それゆえ政府は、プロであれアマ 活動を支援するという点では、市民の討議参加も、このモ であれ、スポーツ選手やアーティストの活動を支援することデルによって位置づけることができる。討議とは、たんに各 で、活動における人々の自己実現を代行することができる。 人の理性的自律や集合的な熟議判断の調達のために必要なの アスリート・モデルは、活動の支援と代行という二つの面をではない。討議は、そこに参加する者たちが、自身の振る舞 もっている。アス リート・モデルは、一方では人々の活動欲 いや存在の性格を、人前で顕わにすることがそれ自体として を刺激して活動としての善き生を送るように支援するが、他意義深いとみなしうるがゆえに、必要とされる。討議とは、 方ではスポーツ選手やアーティストの活動を支援することで、 いわば舞台上の演技であり、参加することそれ自体によって 人々の自己実現を代行する。 生を充足させる活動の一つである。こうした活動的生の観点 むろん、スポーツ選手やアーティストが人々の夢や理想をからすれば、例えば学校のカフェテリアに、勝海舟のような 代行的に実現したからといって、人々は自身の活動への誘因座談の名手の栄養摂取事例を示すことも一案であるかもしれ を与えられないかもしれない。人々はたんに、舞台の周囲に ない。あるいは、カフェテリアにある仕掛けを作って、テー 座す観客であることに満足するかもしれない。 スポーツや音プルに討議するためのテーマ素材をいくつか用意するという 楽・絵画などのビジネスは、それがお客をもてなす接待業方法もある。ただしこの方法は、他者へのあこがれを媒介に ( エンターティンメント ) に終わるとすれば、アス リート・モデして自身の能力を引き出すのではない。望ましい方法は、勝 ルとは言えない。アス リート・モデルは、人々が他者の活動海舟やキケロなどの栄養摂取事例を、カフェテリアに提示す を鏡として、「活動としての善き生」を願望し、実現するこることであろう。このような仕方で、生徒たちは卓越した討 とを求めている。この理念に照らすなら、活動の代行・支援議者にあこがれを抱くとともに、そのような存在になるため

7. 思想 2016年 第9号

化された社会に生まれる現実なのである。 るか、併合されるかのどちらかでなければならない」とある ルソーによれば、政治権力の力に依拠し法によって保障さ (PDG. p. 76 ) 。そこからルソーは、国家間には「相互の破壊 れたこの全面的領有は、必然的に諸民族のあいだに潜在的戦へと向かう一般的関係」がある、と結論する ( 9 ) DG も . 78 ) 。 ルソーに先行する哲学者とルソーより後代の哲学者が、領 争状態をつくり出す。ある民族が共通の土地を私的に領有し 始めるとき、他のす。へての民族は領有権を奪われる脅威にさ土化と政治の制度化と生き残りのための闘いとの密接な関係 らされる。この領有権剥奪 (expropriation) にあらがうためにを理解させてくれる。マキアベリは『君主論』 ( 一五一一三年 ) の 第二六章で、著書の主目的を強調する。マキアベリがイタリ は、逆向きの領有化プロセスで対抗するしかない。 アを・一つの国家に統一できる君主の到来を弁護するのは、イ ただ一つの社会〔政治社会〕の成立が、いかにして他のすべタリアのまわりの複数の大国が、権力を国家に集中させた結 ての社会の成立を必要不可避なものにしたか、結束したカ果、イタリア人民の安全と生存そのものを脅かす簒奪者にな に立ち向かうためには、いかにして自分たちも結束しなける臨界量と政治的組織力に達しているからというのである。 ハンナ・アーレントは『全体主 同様に二〇世紀になって、 ればならなかったが容易に理解できる。社会〔国家〕の数が 義の起源』 ( 一九五一年 ) で、第二次世界大戦のとき、無国籍者 増え急速に拡大していくと、やがて地球の全表面がおおい 尽くされてしまい、世界のどんな片隅にも、拘束から解放が要求することができたかもしれない権利がす。へて破壊され たと指摘する。とくにユダヤ人は、一定の領土内に主権を行 されるところはもうどこにも見出せなくなってしまう ( 7 ) 。 戦 使する国家の力によって自分たちの権利を保障させることが る 国家によって領有されてない非国家的「外部」がす。へて消できなかったために、すべての権利を破壊されたというので お 滅するとき、自分の生存権を確保するためには、個人であれある朝。 想 こうしたルソー的分析によって近代史のもう一つの側面に 思集団であれす。へて、既存の政治社会に進んで合体するか、新 攻たに別の政治社会を構築するかのどちらかを選択しなければ光があてられる。植民地化が帝国主義的「併合」の現象だ。 一ならない ( 8 ) 。『戦争法諸原理』には、「最初の社会〔政治社会〕たとすれば、脱植民地化は国家なき社会が植民地化される以 が形成されるとそこから必然的に他のすべての社会が形成さ前の原初の形に戻ることではない。脱植民地化は、ルソーの 言葉を借りれば、国家形態を「模倣」するプロセスであり れる。最初に形成された社会の一部になるか、またはそれに 抵抗して結束しなければならない。最初にできた社会を真似 ( 初めは解放軍という国家組織の萌芽を通して ) 、植民地化された

8. 思想 2016年 第9号

まだ完全に破壊されない世界史的要素としての大地の究極ザンは、盗人や海賊と同じように非政治的なものヘ のポストの一つである訂 ) 。 こでいわれるごとくーー刑事犯的なものへ下降しないため この政治的承認の様式を必要とするのである。かなり 海洋国家イギリスはナポレオンの大陸国家フランスに対す長期的に、非正規的なものは、正規的なものによって自己 る戦争においてパルチザンを利用したが、これはあくまでも を正当化しなければならない。そしてそのためには、非正 非正規的な闘争者の一時的な利用にとどまった。海上の非正 規的なものには二つの可能性だけが許されている。すなわ 規な闘争者としての官許海賊がイギリスの海洋支配圏拡大に ち既存の正規的なものから承認してもらうか、あるいは自 奉仕したように、。 ( ルチザンも海洋国家イギリスの大陸国家己の力によって新しい正規性を作り上げるかである。この フランスとの闘争に利用されたのである ( 。だが、海上の ことは厳しい二者択一である。 非正規な闘争者である海賊とは異なり、 一片の土地、一定の 郷土に対する侵略や占領に対して非正規な闘争を挑むことに 郷土を敵から防衛するために非正規な方法で戦うパルチザ 。ハルチザンの本質はある。こうしたパルチザンの「土地的性ンが、その非正規性、非合法性ゆえにたんなる犯罪者の地位 格」は、非正規の戦闘性とそれに伴う「高度の遊撃性」にもに貶められないためには、何らかのかたちで自らの政治的性 かかわらず、彼らの闘争を「基本的に防御的」なものとする。格を証明しなければならない。自らの闘争の「正統性」を証 陸地における一定の領域をめぐる対立、領土をめぐる敵対関明せねばならない。そのためには、新たな「正統性」を自ら 係を前提とするパルチザンが圏域秩序とその変容にとって重の手でつくり出すか、あるいは既存の政治勢力から「正統 要である理由もここにあった ) 。 性」を調達するか、いずれかしか方法はない。政治的闘争者 しかしながら、自らの郷土を敵から防衛するために非正規としての。ハルチザンが何らかのかたちで国際政治との連繋を 的に闘争するパルチザンは、やはりなお何らかのかたちでの必要とすること、その連携の相手次第では。 ( ルチザンのおか 「正統性」、他者による政治的承認を必要とする。 れた立場を微妙なものとすることは、すでにナポレオン戦争 時代の海洋国家イギリスによるスペインのパルチザン支持の 強力な第三者は、兵器、弾薬、金銭、物的援助手段、あ内に示されている。非正規・非合法な方法で戦うパルチザン らゆる種類の薬品を提供するだけではない。彼は政治的承の連繋の相手が多くの場合に世界革命を推進する「革命的闘 認の様式をも調達する。そして非正規的に闘争するパルチ争者」である理由も 、。ハルチザンのおかれた政治的状況から

9. 思想 2016年 第9号

ス・メディア、新聞、ラジオ、テレビの宣伝の大スターと であろう。「パルチザンは、自己が機械化される程度に応じ て自己の土地を失い、そして自己の闘争のために必要な技術してのみ顧慮されていた有名な宇宙飛行士は、その際宇宙 工業的手段への依存を増大する。それとともに、」 禾害関係あ海賊へと、おそらく、さらにはいっそう宇宙パルチザンへ と変わるチャンスをもつのである ( 。 る第三者の権力も増大し、それゆえ、結局その権力は巨大な 規模に達する。われわれが今日の。ハルチザン主義をこれまで 考察してきたす。へての局面は、その結果、一切を支配する技新たな科学技術に依拠した宇宙。ハルチザンの出現というシ ュミットの予想はいささか空想的に思われるかもしれない。 術的な局面の中に没人するように見える」。それでは、 「これまでパルチザンを生んできた人間類型が、技術工業的だが、核兵器だけでなく毒ガスや生物兵器なども含めた大量 環境に適合することに、新しい手段を利用することに、環境破壊・大量殺戮のための技術の進展、宇宙空間ならぬ仮想空 間としてのサイバー空間の拡大と、それにともなう様々のテ に適合した新しい種類の。ハルチザンすなわち工業パルチザン になることに成功したあかっきにはどうであろうか ? 」 ) 。 ロや破壊活動の可能性の拡大などを考え合わせるならば、非 正規な闘争者としての。ハルチザンというシュ ミットの問題提 新たな技術的局面に適応した新しい種類の。ハルチザンは、 「世界史に新しい種類の空間取得をともなった新しい章をつ起は今日なおその意義を失っていないといえるだろう。 け加えることができるだろう」。かくして問題は「惑星的次 たか、シュミットにとって問題は。ハルチザンやテロルの技 元」へと拡大することになるかもしれない。 術的可能性の問題にとどまらない。大量破壊や絶減のための 技術の進展は、人間とその敵対関係のありかたそのものに深 刻な影響を及ばすことになる。 今日の東西間の対立において、特に無限に大きな新しい 空間をめぐる巨大な競争において、たとえ、とにかく、ど 超在来型の武器は超在来型の人間を想定する。遥かな将 んなに小さく見えようとも、地球上の政治権力が何よりも 一番重要である。表面上は非常に小さくなったこの大地を来の要請としてではなく、むしろすでに存在する現実とし て超在来型の人間を前提しているのである。それゆえに、 支配するもののみが、これらの新しい分野を取得し利用す るだろう。したがってこの無限の領域もまた、潜在的な闘究極的な危険は、絶減手段が存在するということでも、人 間の内には邪悪さが予め想定されているということでもな 争空間ーーしかもこの大地における支配をめぐる闘争の潜 これまではマ 。究極的な危険は道徳的な強制から逃れ得ないことであ 在的な闘争空間ーー以外の何ものでもない。

10. 思想 2016年 第9号

しき類の作業は経験的な調査にも、ただびたすら「哲学内部た。 的な」分析にも任せることはできない。政治的なものは間違終盤に差し掛かると討議は再び「事実的なもの」の問いを いなく数々の事実を提示する。だが政治的なものの問いを提めぐるものとなった。アラン・ダヴィッド祠〕はべンヤミン 起することは、そのような事実が引き起こした分析を分析すによる年代記記録者と歴史家の区別を用いることができない るということである。そしてまた事実に関する ( 政治的、イデかどうかを問うた元〕。メシアの時代はす。へての事実が勘定 オロギー的、哲学的等々の ) 言説を脱構築することである。例できるようになる時なら到来することもあろう。だがナンシ ーは異議を唱え、メシアの観念は全事実の収集という観念に えば「アテネの」民主主義に関する言説が挙げられる。 ジョルジ、日アルチ、ール・ゴルトシ、ミット二九二八ー、先行すると言い、加えて、事実的なものに関する真の間いは、 ドイツ出身の作家。カフカなどを仏訳している〕はハイデガーの例えば今日の様々な「民主主義」によって匿われている「巧 ナチ加担、および同質性と労働に関するユンガーの考え方妙な全体主義」のような、前代未聞の事実の出現 ( と認知 ) に あるのではないかという点を問題にした。 ( 『労働者』参照信〕 ) の影響について発言したが、ラクー ルトはそこからユンガーの「形而上学的な」考え方に対して 補遺 ハイデガーが意図的にとった距離を喚起した ( 『存在の司 以上の最後の会期の議事録に一九八二年三月一五日の会期 の寄与』参照〔リ ) 。またデリダはハイデガーにとって、少な くとも三三年の委細を極めた宣一言を超えて、労働が、「労働」の準備のための回状の文面、またその回状が発端となった議 という哲学的なものが ( マルクスにおいて本質的な役割を果たし論の要約を付け加えておく。 ているように ) 存在論的かっ形而上学的な既定の一つであるこ ーマニズムについての書簡』 三月一五日の ) 討議の際に話の流れで、我々が政治 退とをはっきりと指摘した ( 特に『ヒ、 のを参照〔〕 ) 。しかしながらゴルトシュミ ットは三三年のハイ的なものの退引と呼んだものの「定義」と争点をより一層は つきりさせる必要性が明らかになったのは偶然ではない。 もデガーの政治演説がまさしく労働の主題系を展開しているこ 一フヾレ、「 の表現はセンターの仕事を規定するにあたって主要な役割を 的とに注意を促す。また他方でユンガーが、ラクー 斑とナンシーが提示し、現代社会において次第に見事なほど分果たしている。ということはつまり、この表現はなおも練り かりやすく見て取れるようにな。てきた「巧妙な全体主義」上げられる。へきだということである。討議によ 0 て、ざ。と というものに注意深い分析を向ける人物であったことを示し勘案したところでは「政治的なものの退引」が ( 少なくとも ) プロトコル