を逆転させる。行為主体ではなく行為の質こそが、その行為するには破るだけで十分であるような羊皮紙に書かれた文 書では決してない。それは一般意志のなかに書かれている が正当か正当でないかを決定する。国家が、自己保存の要請 のであって、この契約を無効にするのが容易でないのはそ からではなく、自己の安寧と栄光の増大を満足させるために 戦争するとき、その国家は現実のところ盗賊集団となんら変 のためである。 G も . 78 ) わるところがない。 しかし、ルソーが戦争法にもたらしたもっとも独創的な点究極のところ、戦争とは、攻撃された国の人民に新しい社 は、戦争法の効力についての彼の考え方である。一見したと会契約を提起するか、少なくとも現行の社会契約への愛着を ころ、戦争法がどのようにして強制的拘束力をもつのかは分断つよう厳しく迫ることに存する ( リ。政治体は、その成員 からない。『戦争法諸原理』の始めのほうで、ルソーは「万が政治体の存続を望み、それを存続させようとする意志を共 民法 (droit des gens) 」 ( のちにべンサムによって「国際法」と呼び有するかぎりにおいてのみ存在し、「生きる」。ルソーはこの かえられた ) がまったく理論的な理想論であって、現実には効テーゼを究極の点まで押し進める。彼は「政治体」と「国 力をもたないと書く。「制裁措置がないため、これらの法律家」の概念を特定の方向で分離するからである。彼にとって、 一定の人口は「一般意志」をもっときから政治的存在となる。 は自然法よりなお弱い幻想にすぎない」 G も . 70 ) 。 しかしながら、逆説的にも、ルソーにとって戦争法は幻想ルソーは複数のテキストで、ポーランド人とユダヤ人が当時 論 ではない。彼はこう考える。国家の「生命」は社会契約によおかれた状況に関心を寄せている。これら二つの民族は、そ 戦 って構成される。したがって「主権者に対し戦争することは、れぞれ政治体として略奪と物質的支配とその国家機構の破壊 る 〔政治体の根幹をなす〕公共の約束事 ( c 。 nven ( 一 on publique) を攻撃に抵抗し、ユダヤ人の場合は領土の喪失と離散に抵抗してき することだ」〔 3 〕 ( PDG も . (1) 。そこから、一つの政治体を攻撃たので「政治体」であり、今も「政治体」であり続ける。な 想 思し、弱め、場合によっては「殺す」こと、したがって戦争にぜなら、彼らを「政治体」としてまとめる「社会契約」が生 きているからだ ( リ。 政勝っことは何を意味するかが演繹される。 一つは、 敵の政治体に対する戦争には二つの帰結しかない。 政治体の生命の原理、こう一言ってよければ国家の心臓は社敵国の社会契約を破壊しようとする意志が効を奏する場合で 会契約であって、社会契約を傷つけるや否や、たちまち政ある。その場合、敗戦国の市民たちは政治体としての存在を 治体は死に、倒れ、解体する。けれどもこの契約は、破壊死守することを断念する。この仮説のもとにルソーは、「国
が〔政治と宗教の二つの権力の間の分裂という〕悪とその治療薬 (lemaletlereméde) をよく認識しえた唯一の人である、彼は ワシの双頭を再び一つにし、すべてを政治的統一へ連れ戻すこ とをあえて唱えた。この統一がないかぎり、国家も政府も決し てよく組織されることはないであろう」。〕 ( 引 ) ミ . や 469. 〔同前、一九二頁。「呪いにかかっている 人々」とは、排他的で不寛容な宗教の信者を指すと考えられる。 ルソーは、「それぞれの市民をして自分の義務を愛さしめるよ うな宗教を市民がもっことは、国家にとって実に重要なことで ある」と言うが、市民宗教は、「主権者がその項目を決める。へ き、純粋に市民的な信仰告白」であって、「それは厳密な宗教 の教理ではなく、それなくしてはよき市民、忠実な臣民たりえ ぬ、社交性の感情 (sentiments de sociabilité) 」として定義さ れる。市民宗教の唯一の「否定的教理」は「不寛容」であると して、ルソーは次のように言う。「〔ロックのように〕市民的不 寛容と神学的不寛容とを区別する人々は、私の意見では間違っ ている。この二つの不寛容は分けることができない。呪われて いる、とわれわれが信じる人々とともに平和に暮らすことは、 できない。彼らを愛することは、彼らを罰する神を憎むことに なるだろう。彼らを正気につれ戻すか、迫害するかが絶対に必 要である。宗教的不寛容が認められているところではどこでも、 それが〔結婚など〕市民的生活に何らかの影響を与えずにはおか ない。「 : : : 」排他的な国民宗教が存在せず、もはや存在しえな い今となっては、市民の義務に反するものを何も含まぬかぎり、 他の宗教にたいして寛容であるようなす。へての宗教にたいして、 寛容であるべきだ。しかし、「教会の外に救いなし」と叫ぶ者 があれば、誰でも、国家から追放される。へきである。そういう 不寛容な教理は、神政政府の下でのみ通用するが、それ以外の ところでは有害である」 ( 『社会契約論』前掲、一九二ー一九四 訳注 〔 1 〕『社会契約論』ジ、ネーヴ草稿と同じ一七五五年夏から五 六年春の間に執筆されたとされる。 〔 2 〕 jus bellum 、、、 s bello は「開戦法規 / 交戦法規」と 訳されることもある。 〔 3 〕同じことをルソーは「戦争の目的と効果は敵国の consti- tu ( 一 on ( 国制 ) を変更させることにある」 ( PDG. p. 79 ) と表現して いる。ルソーの戦争論の慧眼な読者である憲法学の長谷部恭男 は constitution を「憲法」の意味に読みかえ、「戦争とは主権 に対する攻撃であり、社会契約に対する攻撃である」、「戦争と は国家と国家の間に発生するものであり、敵国の憲法に対する 攻撃という形をとる」と一一 = ロう ( 『憲法とは何か』岩波新書、二〇 〇六年、三九ー四〇頁 ) 。日本近現代史の加藤陽子は、戦争の 、つろこ 目的は相手国の憲法を変えることにあるという「目から鱗」の 長谷部版ルソー ・テーゼを使って、太平洋戦争におけるアメリ 力の最終目的が天皇制を柱とする日本の「国体」を破壊するこ とにあり、なぜ戦勝国が敗戦国の憲法を書きかえるという事態 が起ったかを説明している ( 『それでも、日本人は「戦争」を選 んだ』朝日出版社、二〇〇九年、四〇ー四六頁 ) 。 〔 4 〕 Michaél Prazan, トミミミ s. き e 、」、ミ き ~ 、 j 恩 0 ミ se. Seuil. 2002. Cf. M. Prazan. 公 Des Japonais n0 104. 」 uillet ・ aoüt 2002.
の影に隠れ、ほとんど注目されてこなかった。 盟・交渉・条約などを含む」 ( 第四編第九章「結論」 ) 。 ところが近年、「戦争は社会状態から生まれるということ」 私はルソー学者の永見文雄とともに二〇一二年のルソー生 と「戦争状態について」の二つの草稿が、『戦争法の諸原理』誕三〇〇年記念シンポジウムを準備する過程で、憲法学者の としてルソーが構想していた著作の一部をなすまとまった論長谷部恭男がっとにルソーの戦争論の今日性を指摘している 考であることがプリュノ・ベルナルディとガプリエラ・シル のを知り、ぜびこのテーマをシンポジウムで取り上げようと ヴェストリーニの草稿研究で明らかになり、その批評校訂版思った。同氏は英訳版の「戦争状態論」に依拠してではある が二〇〇八年にパリ のヴラン書店からプレーズ・ が、『憲法と平和を問いなおす』 ( ちくま新書、二〇〇四年 ) の ら四人のルソー研究者の解説論文を付して出版された ( 2 ) 。 第七章「ホップスを読むルソー」と『憲法とは何か』 ( 岩波新 『戦争法諸原理』 PrinciPes d き g ミ、、 e という表書、二〇〇六年 ) の第二章で実に的確にルソーの戦争論の要 題は、『社会契約論』 ( 一七六二年 ) の副題「国制法諸原理」諦をまとめている ( 4 ) 。 ホッブズは自然状態を「万人の万人に対するたえざる闘 PrinciPes du 、 0 ト 0 新ミ、 e ( 3 ) とシンメトリックな対称をな す。『社会契約論』が人民の一般意志の表現である法によっ争」として描き、絶対的主権国家のみが人間間の戦争状態に て統治される共和国の形態を論じた理論書だとすれば、『戦終止符を打っことができるとしたが、ルソーはそれを逆転さ 争法諸原理』は「戦争」の定義から始め、主権国家間の関係せ、戦争の原因は自然状態にあるのではなく、主権国家の登 を「戦争状態 (étatdeguerre) 」として分析し、戦争を抑止場こそが国家間関係を戦争状態におくとした。戦争は国家と 争 戦 しうる平和の条件を原理的に考察した未完の書である。 国家の間に起こるのであって、人間と人間の間に起こるので る 事実、ルソーは『社会契約論』の第三編第一五章の注で、 はない。戦争は敵国を成り立たせている国制 (constitution) を お 「私はこの書物の続編において、対外関係を論じるとき国家破壊することが目的であって、人間を一人も殺すことなくそ 想 間連合 ( confédérat 一 on ) に触れることになるだろう」と「続の目的を達成することができる。 編」を予告しており、巻末でははっきりと「戦争法諸原理」 二〇一二年九月に中央大学と日仏会館の共催で開いたシン 政 を中核とする国家間関係論のプランを述。へている。 ポジウム「ルソーと近代ーー・ルソーの回帰・ルソーへの回 の 「国制法 ( dro 一 ( を一三 que ) の真の諸原理を確定し、それに基帰」でルソーの戦争論を担当してもらう。へくフランスから招 レ ハコフェンである。こ づいて国家の創設に努力したあとで、残された仕事は国家を聘したのが、本論文の著者プレーズ・ その対外的諸関係によって支えることである。この問題は、 の時のバコフェン報告「ルソー、戦争に関する政治的理論」 万民法、貿易、戦争法 ( dro 一 ( de la guerre) と征服、公法、同は、永見・三浦・川出編『ルソーと近代』 ( 風行社、二〇一四
家は、たった一人の人間も死ぬことなく、殺されることがあのは、敗者は勝者をたえず反乱とゲリラの脅威にさらすから りうる」と書く (PDG. p. (1) 。つまり、敗戦国の成員は新しである ( ルソーは『ポーランド統治論』で「小さな戦争」について い社会契約を採択するか、敵国の社会契約に隷属するかのど語。ている ) 。『社会契約論』第一編第四章にあるように、「正 ちらかを選ぶことになる 0 。もう一つは、戦勝国 ( ないし自しい君主は、敵国において、公共に属する財産はすべて没収 らを戦勝国と見なす国 ) がその政治的目的を達することができするが、個人の生命と財産は尊重する。つまり、自分の権利 ない場合である。その場合は、軍事的勝利によって略奪、領を基礎づける権利を尊重するのである」信 ) 。非戦闘員である 土の荒廃、奴隷化が行われても、戦争に勝ったとは見なされ民間人の権利と安全を尊重して初めて、交戦国は、戦闘が終 ない。たとえ休戦協定が結ばれても、敗戦国の政治体は「生ったあとの自らの正当性の基礎を確保できる。自らの権威を き」続ける。社会契約は、政治体の成員の意志のなかに現実失墜させるような仕方で戦争する国は、自分の力を強めたっ 的に存在するかぎり、抵抗し続けるのである。 もりで自分の力を弱めるのである。戦争における正義の要請 以上のような戦争に内在する限界についてのルソーの概念は、したがって、契約による義務や道徳上の義務ではなく、 は、抽象的で観念的に見えるかもしれないが、歴史の泡沫現国制法 ( dro 一 ( politique) に内在する諸原理に根ざす実践的心遣 象にとらわれないかぎり、現実に行われ観察される戦争の冷 いに基礎をおいている。戦争における規範的諸原理を尊重す 静な分析によく耐えるものである。ユダヤ人とポーランド人る義務は、自らの権威を失うまいとする心遣い、さらには敗 の例は、他にも多くの例があるが、人類の歴史はうまく終ら戦国の住民の賛同を得ようとする心遣いにもとづく。戦闘に なかった戦争、勝利できず永遠に繰り返される戦争の連続で勝っか負けるのは軍人の運命だが、戦争の帰趨を現実に決定 あることを具体的に示している。軍事的勝利が一見したとこするのは国民の意志なのだから。 ろ決定的勝利に見えようとも、歴史において何びとっ解決せ 『戦争法諸原理』の草稿は次のテーゼで終る。軍事的に勝 ず、歴史はたえず敗れた戦闘を数十年後、時には数世紀後に利したあと、勝者は敗者にその自由な同意なしに自らの法を 繰り返すことに驚く者がいれば、その者は戦争の本質をまっ押しつけるが、それは現実には他の手段による戦争の継続で たく理解しておらず、暴力による征服と真の権力掌握を取りある。ルソーは、古代スパルタにおいて、国の支配者である 違えている。 エフォロイたちが奴隷たちに対してふるった権力について語 軍事力の優位だけにもとづく勝利は真の勝利ではなく、し っている。支配者が被征服者にふるう権力は征服にもとづく とい、つ たがって戦勝国に戦勝国としての権利を付与しない。 もので、その結果は潜在的な永続的戦争状態でしかない。
年 ) に西川純子訳で収録されている。したがって、、ハコフェン るかに現実主義的なルソーの戦争論の核がここにある。 の来日は二度目であり、本稿は同じテーマを扱いながらその 「人は一国の市民になってはじめて人間になる」 ( 『社会契約 後半は、来日の二カ月前二〇一五年一一月一三日のパリ同時論』ジ、ネーヴ草稿 ) 。しかし同時に、「人は市民にな「ては テロを受けて、ルソーの戦争論が「テロとの闘い」という一一じめて兵士になる」 ( 『戦争法諸原理』 ) 。カントは「世界共和 一世紀の「非対称的戦争」にも適用できるかどうかという私国」 ( we 一 ( re を b = k ) を究極の目標としつつも現実的次善の策と のアナクロニックな問いに対する真摯な応答になっている。 して平和のための国家連合 ( v 三 kerbund ) を提唱したが、戦争 ルソーは「戦争は国家と国家の間で起こる」とするから、国の起源が主権国家の登場にあるとすれば、戦争をなくすには 家ならざるテロ組織との闘いにルソーの戦争論を援用した議究極のところ国家の廃棄しかない。 これが、ルソーの戦争論 論は私の知るかぎり皆無である。ルソーの戦争論は日本の憲の論理的帰結である。 法間題にとってだけでなく、二一世紀の対テロ戦争というア コレクション ( 1 ) 「抜粋」以下の四点は白水社のルソー クチュアルな問題にも光を投げるのではないか。 『文明』三〇一二年 ) に宮治弘之訳で収められている。編 シンポジウムには 私たちはまた二〇一三年一月にルソー 者・川出良枝の解説と合わせ参照されたい。 来られなかった指導的ルソー研究者。フリュノ・ベルナルディ ( 2 ) Jean-Jacques Rousseau. P ミ号 d き を招聘し、来日講演集を『ジャンⅡ ジャック・ルソーの政治 ミ、、 e ミ Ecrits s ミ、 P 暑ト e éミ e ド . B. Bachofen et C. 哲学』 ( 勁草書房、二〇一四年 ) として上梓したが、そこにもべ Spector (dir. ). B. Bernardi et G. Silvestrini ( éd. ). paris, ルナルディの「『戦争法の諸原理』と政治体の二重の本性」 Vrin. 2008. この著作の翻訳は永見文雄と三浦の共訳で勁 という画期的論考を古城毅・川出良枝訳で収録している。自 草書房から刊行する予定だが、『戦争法諸原理』のみの翻訳 然状態から社会状態に移行した人間集団は原初の社会契約に はすでに坂倉裕治訳『人間不平等起源論付「戦争法原 よって自らを一つの政治体 ( corps を一三 que ) として構築し国 理」』 ( 講談社学術文庫、二〇一六年六月刊 ) に収められている。 家の主権者となる。しかし、民主的共和国といえども、国家 ( 3 ) 岩波文庫版『社会契約論』 ( 初版一九五四年 ) のように、 間に社会契約が存在せず自然状態にとどまる国家間関係にお 副題の Principes du droit politique を「政治的権利の諸原 いては、主権を防衛するため武力を装えたパワー (puis- 理」と訳すのは重大な誤訳で、単数形の droit politique は sance ) たらざるを得ない。 これが人民主権と対外主権と二つ 「ポリスの法」すなわち「国法」ないし「国制法」と訳す の顔をもっ主権のパラドクスである。柄谷行人が注目した のが正しい。 「世界共和国」を統整的理念として掲げるカントよりも、は ( 4 ) 詳しくは訳注〔 3 〕を参照。
ルソーの政治思想における戦争論 〔 5 〕アウグステイヌスに始まるキリスト教的正戦論をさす。戦 争観は歴史的に中世の「正戦論」から近代の「無差別戦争観」、 さらに第一次大戦後の「戦争の違法化」へと進む。戦争の違法 化では国際連盟規約、一九二八年の不戦条約 ( ケロッグⅱプリ アン条約 ) 、国連憲章がメルクマールとされる。 〔 6 〕フランス政府は「イスラム国」を国家として認めない ため、そのアラビア語表記の頭文字をとって Daech と呼んで 〔 7 〕ホッブズ『リヴァイアサン 1 』水田洋訳、岩波文庫、一九 五四年、一九四頁以下。 ハコフェンは「ホッブズのシステム」を、国家の絶対的主 権者が教会の長を兼ねる「皇帝教皇主義 ( césaro も a 三 sme ) 」と して捉えている。 〔 9 〕一 a 一 c 一 té ( 非宗教性、政教分離 ) とは、国教を禁止して公共空 間を脱宗教化し、私的空間における信教の自由と宗教の共存を 保障するフランスの共和国原理。ジョン・ ロックは敬虔なプロ テスタントだったが、ラテン語で発表した匿名の『寛容につい ての書簡』 ( 一六八九年 ) で、国家と教会の役割を峻別し、良心 の自由を守るため国家が信仰の問題に干渉しないようにさせる 政教分離論を展開した。 〕「喜ばしき情念」 (passions joyeuses) と「悲しき情念」 (pas ・ sions tristes) の対比は、スビノザが『エチカ』で展開した情念 論に由来する。「愛」は前者に、「憎しみ」は後者に属する。 トリオティズムとナショナリズムの違いとして、ドゴールの 「。、トリオティズムは自国を愛することであり、ナショナリズ ムは他国を憎むことである」や、ロマン・ガリの「パトリオテ イズムは同胞への愛であり、ナショナリズムは他者への憎しみ である」がよく引かれる。 〔Ⅱ〕原文は le mal est dans le reméde で、 chercher le reméde dans 一 ema 一 méme ( 病そのもののなかに治療法を求める〕 OCI 19 ) 、 tirer du mal méme le reméde( 病そのものから治療薬を 引き出す〕 OC III 288 ) というルソーがよく使う表現を逆にし ている。政治体の衰弱を救う治療薬は「社会的情念」だが、不 寛容な宗教の場合は治療薬のなかにファナティズムという悪が 潜むという意味に解する。 Blaise Bachofen. 久 Que fait-on quand on fait la guerre 7 La guerre au prisme de la pensée politique de Rousseau 》 Copyright ◎ 2016 by Blaise Bach0fen Reprinted by permission Of the lecturer
適用されたことがあるかは疑わしく、また古代・中世以来の六一年 ) でルソーははっきりこう書いている。「確固たる原初 ッパの君 「正戦論」を無視することは問題である。「正しい戦争」あるの権利までさかのばることができるならば、ヨーロ いは「正しい大義のための戦争」に関する古代と中世の概念主のうち、自分が所有しているものをす。へて返却しなくても こ亠よ、こ , レゝこンユ ミットがヴェルサイユ条約に触れて正し済むような者はびとりもいないだろう」元 ) 。また『社会契約 く指摘するように、多くの問題がある。独仏の両交戦国には論』第一編第九章には、「土地の公けによる領有 (possession アルザスⅡロレーヌの帰属を主張する同等の理由があったの publique) は、少なくとも外国人にとっては決して正当なもの に、敗戦国を「犯罪者扱いする」のは単なる報復にすぎない。 ではない」とある。交戦国が帝国主義的征服の野望から戦 しかし、この例を拡大適用して、戦争の通常かつ「正常争するとき ( それが多くの戦争の動因である ) 、交戦国は相手を な」状態を考えることができるだろうか。シュミット、ヴァ対等な「アルター・エゴ」と見なすことはできない。戦争当 ッテル、さらに遡ってグロテイウスの誤りは、戦争を「正常事国は定義により非合法な法外な要求をしているからである。 な」何ものか、法によって「正常化された」状況として考え諸国家が平等だとしても、それは権利主体として平等なの たことではなかろうか。 ではなく、武力と不平等への欲望において平等であるにすぎ ルソーによれば、ヴァッテルの先駆者たるグロテイウスのない。交戦国間の平等と不平等のこの側面は、とくに「非合 うちに彼が読みとった近代戦争法は、一つの欺瞞である ( 『戦法戦闘員」との戦争において、「正しい」戦争のやり方があ 犇争法諸原理』冒頭のグロテイウス批判を見よ ) 。交戦国間に真のるのかという難しい問いに貴重な照明を与えてくれる。 戦 平等などありえない。 これは複数の意味に理解しなければな 『戦争法諸原理』でルソーは、政治体がもっ公 puissance 》 る らない。 もし戦争が純然たる自衛戦争ならば、交戦国の一方の概念の相対性を強調する。一国の「パワー」は領土の広が お りや人口規模や軍事力といった量的要素によってのみ定義さ のみが「正しい大義」のために戦っていると考えられる。も 想 思し戦争が領土紛争に決着をつけるためならば、交戦国は悪意れるのではない。本質的役割を果たすのは、政治体の成員が 政と不正義において平等であり、戦争は「一方も他方も不正共有する決意の強さである。 一な」戦争になる。あらゆる領土の占有はルソーによれはもと もと簒奪であってみれば、領土の占有は遠い過去に始まる終政治体には情念はない、理性以外に国家理性は存在しない、 と数多くの著者があえて述。へてきた。反対に、社会の本質 りなき復讐の論理を生み出すだけで、領土の正しい分割は不 はその成員の活動のなかにあるのであって、運動のない国 可能である。『サン日ピエール師の永久平和論抜粋』 ( 一七
「戦争する」 ( fa 一 re la guerre ) とは何を意味するのか。一見し 一戦争は国家と国家のあいだで起きる たところ、このド 司いに答えるのは「和平する」 ( fa 一 re la paix) とは何を意味するかを問うより単純である。戦争とはある事数々のテキストでルソーはまさに以下の二重の問いを立て 実の状態である。一方的で野蛮な暴力があるだけで、どんなていた。人は何をもって「真に」戦争と呼びうるのか。この 形にせよ戦争が存在するに十分である。ところが和平するに 問いに対する答えからいかなる紛争の形が導き出されるのか。 は、法秩序を確立し、当事国双方が受け人れ可能な協定とそ始めに『社会契約論』 ( 一七六二年 ) 第一編第四章のよく知られ の協定の保障を見出し、倫理的かっ政治的理性をはたらかせたテーゼを引いておこう。「戦争は人間と人間の関係ではな ることが前提条件になる。 くて、国家と国家の関係である。国家と国家の関係では、個 しかし、この単純に見える対立にはニュアンスをつける必人は、人間としてでも市民としてでもなく、ただ兵士として 要がある。あらゆる紛争、あらゆる暴力が「戦争」とは言え偶然にも敵同士になるのだ」 ( 3 ) 。さらに続けて、「それぞれ ないからだ。してみると、「戦争する」とは正確に何を意味の国家が敵とすることができるのは、他の諸国家だけであっ するかを知らなければならない。戦争はいかなる目的のもとて、人間を敵とすることはできない」。 に行われるのか。戦争に勝っとはどういうことか。無限に戦 ルソーは『社会契約論』ではこのテーゼを論証しておらず、 争を繰り返さないために戦争するにはどうすればいいのか。 他の二つの著作で議論を展開している。その一つはよく知ら これらの問いはこんにち焦眉の急である。昨年一一月末にれた『人間不平等起源論』 ( 一七五五年 ) であり、もう一つはあ まり知られていない。二つ目の著作は、これまで不完全な る共同通信が行った世論調査によれば、日本人の八〇パーセン トがイスラム過激派のテロが日本でも起こりうると答えて 別々の断片として知られていたが、最近の草稿研究によって お る ( 1 ) 。アメリカで最初に「テロとの戦争」 (war on Terror) と首尾一貫した一つの全体として確定された。ルソーが『戦争 想 思呼ばれた「非対称的戦争」にかかわる間題が、い まフランス法諸原理』のタイトルで出版を計画していた著作の人念に準 政で、世界中で大きな議論を呼んでいる。テロとの闘いを軽々備された草稿がそれである〔 1 〕。その批評校訂版は、注解っ いことではない。戦争とき共著として二〇〇八年に刊行されている ( 4 ) 。 一しく「戦争」と呼ぶのはどうでも、 いう語の選択はテロとの闘いの様態をどう考えるかに関わっ 『戦争法諸原理』はのつけから戦争の起源について問いか てくる ( 2 ) 。 、いかなる理由で人類の歴史に登場し ける。戦争はいっから たのか。この問いは、ルソーが根本的な誤りと見なすホップ
〔訳者解題〕ここに訳出したのは、二〇一六年一月一五日にや『エミ ール』第五編の末尾などに素描されているのみで、 東京恵比寿の日仏会館ホールで行われたプレーズ・ ノ まとまった著述としてはサン日ビエール師の『永久平和論』 ( 一七一三年 ) の「抜粋」とその「批判」があり、他に「戦争 = ン Blaise Bachofen の講演久 Que fait-on quand on fait la は社会状態から生まれるということ」や「戦争と戦争状態に guerre 7 La guerre au prisme de la pensee politique de Rousseau 》「戦争するとは何をすることか ? ルソーの政ついて」などの断片が残されているのみだった ( 1 ) 。生前に 治思想における戦争論」の原稿である。プレーズ・ ノ 刊行されたのは『サン日ピエール師の永久平和論抜粋』 ( 一七 ンは一九六七年生まれ、 パリ高等師範学校 Z (-n) 出身の哲六一年 ) のみだが、この書で展開される平和のための国家連 学アグレジェ ( 哲学教授有資格者 ) で、 リ近郊のセルジー 合 (confédération) のアイデアは、ルソーの共和国論を媒介に ポントワーズ大学法学部准教授。政治哲学・法哲学を専門としてカントの『永遠平和のために』 ( 一七九五年 ) にヒントを カントとつづ し、主著は博士論文のト C ミ d ミ一 e ミ 4 05S ミド与えたと思われる。サンⅡビエール、ルソー くヨーロツ。ハの永久平和論の系譜は、つとに中江兆民が『三 critique des ミ s ト 0 = es. Paris. Payot. 282 である。 日ジャック・ルソー ( 一七一二ー一七七八 ) に戦争論酔人経綸問答』 ( 一八八七年 ) で「洋学紳士」に語らせている があることは知られていたが、『社会契約論』第一編第四章ところだが、日本ではルソーの戦争論はカントの永久平和論 ルソ 1 の政治田 5 想における戦争論 戦争するとは何をすることか ? プレーズ・バコフェン 訳ⅱ三浦信孝
うる選択肢を採用する「最適化」の立場である。ところが限同時に、これらの一部の能力しか用いないという意味で「倹 定合理性学派は、このような「諸制約のもとでの最適化」も約」的なものであると考える。高速かっ倹約的な理性に基づ また、人間を超えた神 ( dem 。 n ) の能力を想定しているのであく 選択は、例えば「単純な経験則に従え」といった、さまざ り、限定合理性とは呼びえないと批判する。例えばチェス・ まな実践的発見法を用いたものであり、適応のための道具箱 ゲームにおける一手は、決して論理的に最適化できるものでを用いているとみなされる。このような選択は、理性を十分 はない。そこには最適化以外の戦略が働いているのであり、 に用いていないという意味では非合理的であるが、実際の社 「よい一手」は最適化以外の合理性を必要としている。限定会において「遺伝子その他の単位を再生産するための最適な 合理性とは、問題が複雑すぎて最適化できない場合に、人々行動」にかなっているという進化論的な意味においては、合 が参照する知識や、選択に要する時間、あるいは計算能力に理的なものとみなしうる「 G 一 gerenzer 2002 」。人は十分な時間 て、いっそう現実的な実践知を想定する立場である。例をかけて最適な行動を合理的に計算するよりも、その都度の えば人々は、実際に情報を集める能力があるとしても、最大状況に応じて高速かっ倹約的な選択を繰り返し、その過程で 限に情報を集めようとはしないかもしれない。最大限に時間適応判断のための「道具箱」を豊かにしていくほうが、進化 を費やそうとはしないかもしれない。あるいは自分の計算処論的に合理的である。限定合理性学派は、経験則や直観など 批理能力を最大限に用いようとはしないかもしれない。人々はの「認知的近道 ( 。。 gn 一 ( 一 v 。会。「 ( 。 u ( ) 」を用いた手。取り早い 。ム具体的ないくつかの条件に照らして、「これで満足した」と意思決定が、進化論的・適応的な価値をもっことを強調す いえる水準で情報収集を終え、計算をやめるだろう。他方でる ( 7 ) 。そのような意思決定のための発見法は簡素かもしれ ナ 一人々は、適応のための一定の戦略を立てたり、実践知としてないが、社会の進化論的な発展をもたらすためにはよいはず タ のカンやコツを用いたり、あるいは一式の行動規範に従ったであり、そうでなければ社会の進化は不可能であったにちが いない。限定合理性学派からすれば、リバタリアン・ ンりすることで、合理的な選択を導くことができる。そこには ア ションを無 「心理的 ( 感情的 ) なもっともらしさ」の基準が介在している。 ナリズムが採用する最適化原理は政策のイノベー タ 限定合理性学派は、このような選択の性質を、最適化原理と視しており、進化論的にみて非合理的ということになる ( 8 ) 。 例えば、貯蓄率を高めるための介人や、不健康な食事を避 区別して「満足化原理」と呼んでいる。 加えて限定合理性学派は、選択の合理性というものが、情けるための介人は、かえって個人の判断力を幼児化し、社会 報探索や計算処理、あるいは決断において「高速」であるとの進化をはばむかもしれない。合理的とみなしうる選択は試