み人れることも何となくはばかられたが、しかし特に宇都宮終わりー 、とべッドに倒れ込むように、いつの間にか離婚す に行く用事など発生しなかった。伊知子に会いたいとか居場ることが決まった、とたとえばそんな説明ではどうだろう 、刀 所を知りたいとかまったく思わなかったと言えばたぶんそれ は嘘だが、結局一度も会わず、居場所を知ろうとしなかった そ、そ、そんな抽象的な説明があるか ! と宇都宮の伊知 ことは、だんだんと会いたいと思わなかったことと同じよう子のお父さんは言った。二つめの、そ、と、そんな、のあい なことになっていく。 だはたつぶり五秒くらいの間があって、目を大きく開き、ロ 私たちにも別れた理由らしきものはあったが、それは理由 元と頬をわずかに震わせるお父さんの顔つきを見て、私は怒 とは呼べないような形のものだった。別れる間際のある期間 る気持ちはわかる、もっともだ、と田 5 った。私は自分の両親 は、その理由を探してはそこに不足しているものを補おう、 をそんなふうに怒鳴らせたりしなかった。いや、怒ったり怒 そして完全な理由を仕上げようと、ふたりで穏やかにあるい 鳴ったりしていたのかもしれないが、私は聞こうとしなかっ は時に激しく言葉と考えを交わし、あるいは時にそれを気づ た。伊知子のお父さんと対しながら、極端な場面ではこんな かれまいと隠した。そのやりとりの間に生じる複雑さや、わ漫画のような口ごもり方を人は実際にするものなのだな、な かりやすい軋轢の発生こそが、離婚の理由として説明しやすどとも思ってもいた。説明すると嘘くさいものほど、直面し そうではあったが、私たちにとってそれは理由なんてもので た時のリアリティーや感動はでかいものだ。お父さんがあん はなくて、むしろ離婚の障害と言う方がまだいくらか近かっ なに感情を露わにしたのはあの時くらいだった。ふだんは穏 た。周囲の家族や友人たちにはそんなやりとりの説明しかし やかで、ヘらへらとだじゃれやらくだらない冗談を口にして なかったしできなかった。周囲にもまた、理由や経緯を言葉は自分で笑っているような人だったのに、そ、そ、そんな怒 にすれば私たちは必ず誤り、その誤りを訂正しようとしてま りを露わにするなんて ! た誤った。いつまでもそんな言い草を続けるうちに、ある者 それでたとえば私は、江古田から西武池袋線で池袋、池袋 はもうわかったからいい、と諦め、またある者らは、わかり から新宿に出て小田急に乗り換え、豪徳寺駅の二階のホーム やすい理由を求めあれこれ勝手に推測した。我がことのよう に降り、階下の改札を出る。駅周辺の店などは多少当時と変ち に腹を立て、その後疎遠になった者もいた。結局これと指し わっているが、駅から元住むア。ハートの方へと進む道のりな女 々 示せる理由が私たちには見つからず、夫婦らしい生活を続ら駅前に出た瞬間から思い描けた。 け、夫婦らしい会話をしているうちに次第次第に話がややこ 伊知子が今も東京で暮らしている可能性だってもちろんあ しい場所に人り込み、進むも戻るもできなくなって、この話 って、それならばある日街なかでばったり遭遇する可能性だ
息子とは会っていない。柳さんを取材に訪 れたフリーライターの木下青年は、 現実と虚構の などへの寄付が趣味の頭でつかちで、当初 杉田俊介 は柳さんに慇懃無礼な態度も取っていた 隙間を押し開く が、雑誌の廃刊や同棲中の彼女に愛想をつ かされたことで、自らが住居を失い、柳さ 『野良ビトたちの燃え上がる肖像』ー木村友祐 んに助けを求めて、野宿者コミュニティに 仲間人りする。 これだ。この時代の文学はこれだ。真夜るなど、地べたから、小さく弱いものの側やがて河川敷はあたかもコルタサル「南 中に読みはじめ、群衆の気配と炎の熱が、 から現実の矛盾を見つめてきた人である。部高速道路」のように、あらゆる被排除者 夢の中へまでも押し寄せてきた。周縁や最だがそれだけではない。 たちが寄り集まって、半ば非現実的なメル 底辺の現実が文学を切迫させ、小説が未来弧間川 ( 多摩川 ) 河川敷の野宿者コミュ ティングスポットになっていく。国家から を更新する。文学にはまだこんなことが可ニティ。周囲にはタワービルが乱立し、大の独立を宣言し、機動隊と衝突するコミュ 能だったのか。たとえば星野智幸氏は、日型ショッピングモールや日本初のゲーテッ ニティなども出てくる。二年後の東京世界 本の文学はなぜ政治的主題を否認し回避しドタウンも完成している。世の貧困や社会スポーツ祭典 ( 作品の現在時は二〇一八年 ) たがるのか、という「その理由を追究する的排除は日毎に悪化し、河川敷へ様々なタに向けた再開発と美化運動、テロリスト対 ことも含めてより意識的に政治を書く」タイプの人々が流人する。若者、被害者策の警備強化、景気が悪い発言を犯罪とし イプの小説を「新しい政治小説」と名づけの女性、高齢の父親を介護する男性、母娘て取り締まる「不景気煽動罪」の準備な たが ( 『星野智幸コレクション「』「あの二人連れ、外国人労働者、難民 : : : 。近ど、圧倒的な暴力の予兆が高まり、煮詰め とがきし、木村氏の決定的な飛躍作として隣住民とのトラブルも増え、野宿者排除とられていく。コミュニティ内部にも分断や の本作もまた「新しい政治小説」と言え浄化運動が展開されていく。監視カメラが亀裂が生じ、日本人を特権視する一部の若 る。 置かれ、自警団が暴力を振るい、猫が虐待者たちは、外国人を目の敵にし、ロヒンギ 巻末の取材協力者や参考文献のリストをされ、ドローンが飛び、鉄条網が敷かれ、 ャ ( ミャンマーの中でもごくごく少数派のイス 見ても、木村氏が野宿者の現場に足を運ん食糧不足が深刻になる。 ラム教徒のこと ) のリハドに対する偏見や で想像力を練り上げてきたことがわかる。 現在六一一一歳の柳さんは、野宿者歴二〇年差別を振りまいていく。 木村氏は元々、近隣の野良猫たちを見守る以上。深夜に空き缶集めをしながら、オス木下は自発的に見回りや声かけをはじ 活動をライフスタイルに組み込んだり、東猫のムスビと共に暮らしている。青森の三め、次第に信頼を得て、取りまとめ役を任 京へテロトピアや路上文学賞にコミットす戸出身で、二〇代で離婚し、それ以来妻やされるまでになる。しかし、その時、つい
では〈世代〉的ですらない。詩的な修辞がすべての切実さか ネルヴァルや宮沢賢治を研究しながら大学の教壇に立ってい ら等距離に遠ざかっているからだ。どの詩人がどの場所に佇 た人沢は谷川の意見にある程度同意しつつ、七〇年代半ばか っても詩的な修辞は切実さの中心から等距離に隔たってみえ ら「むしろ赤狩りのようにして、前衛的な冒険が目の敵にさ るのだ〉。 れるようになってきた。わりに短絡的になっているとも言え る。 ( 中略 ) ニュ ー・ミュージックやフォークからもいろいろ 吉本は鈴木志郎康、天沢退一一郎らを論じながら、さだまさ しや小椋佳による流行歌の歌詞も引き合いに出している。吉 「新しい感性」が育ってきていると思うし、これから五年ぐ 本が問題にしている〈切実さ〉については様々に解釈が可能 らい経っと、「ちょっとやさしくて」「ちょっと悲しくて」 だが、少なくともそれは個別的になり、他人や社会全体と共 「ちょっとはみ出して」、結局うんと保守的で、本当にはみだ 有できる切実さではなくなったということだろう。谷川の母した者には残酷で : : : といった、そういうものが本流になっ てしまうのかもしれませんね」と、予見している。 ( 谷川の対 親の介護についての切実さも、この時点では個人的な切実さ 談集『ものみな光る』八二年、青土社に収録 ) だった。吉本の論考は、日本が欧米並みの物質的豊かさを伴 う大衆消費社会に突人した現実を背景としたもので、「大衆」 七〇年代後半になっても充実した詩集が生まれてはいた。 七六年だけでも中村稔『羽虫の飛ぶ風景』、吉岡実『サフラ という概念が成立しなくなった時代においては、個別的で些 細な差異の中に美しく巧みな表現で効果を狙うーーすなわち ン摘み』、天澤退二郎の『 les ぎ visib 一 es ーー目に見えぬもの たち』と『〈宮澤賢治〉論』、平出隆『旅籠屋』、稲川方人 修辞的にしか詩を書けない時代になったことを告げている。 それにしても一九六〇年から七八年、高度成長期を経てわず『償われた者の伝記のために』。七七年になると茨木のり子 か十八年で日本は大きく変わった。二〇一六年の十八年前と 『自分の感受性くらい』、高橋順子『海まで』と女性詩人も記 いえば一九九八年だが、その間の変化からは想像できないほ憶に残る代表作を出している。が、谷川が「鳥羽」を書いた ど、六〇年代からの変化は大きか 0 た。「修辞的な現在」と後、七〇年代に人っていち早く感じていたのは、吉本が指摘 いう言葉はさっそく文学の読者の間で流行語になる。 したように、時代の変容に伴って生じ始めた、「読者にとっ駿 谷川は八〇年、人沢康夫と現代詩をめぐる話をしている。 て、詩はどの程度、必要なものであるのか」という問題だっ谷 谷川が「ぼくは現代詩の世界があまりに専門的になっていく たのかもしれない。「鳥羽」に書かれた家族の幸福、「母を売 のには反対なのね。学問が今非常に専門分化しているけれ りに」に書かれた家族の困難。谷川の詩に世間の現実は遅れ授 熱 ど、そういうふうになっちゃ困る ( 中略 ) われわれの世界と てついてきた。ある意味において、「修辞的な現在」にもっ 情 非常に近い言語学の世界でも一所懸命読むんだけどわけが分とも苛立っていた詩人は谷川俊太郎だった。『夜中に台所で かんないのね」。対して東大仏文学科在学中から創作を始め、 ぼくはきみに話しかけたかった』収録の「干潟にて」で、す
っそ天井に張りついていてくれればわかりやすいけれど、振ずで、私は何度か、伊知子にその木の名前を訊ね、教えても らったこともあった。 り返って天井を見上げてもそこには誰もいない。 ここはたしかに江古田駅から徒歩七分の、二〇一六年に私 木の名前を応える伊知子の顔を思い浮かべても、その顔は がひとりで暮らすア。ハートの室内に違いなかった。当たり前ぼやけてうまく像を結ばず、言葉も何も、聞き取れない。だ だ。しかし、余計な家具や装飾品がなく、なるべく必要最低から木の名前もわからないが、木のぼやけた色味や葉の形、 限のものだけで構成された部屋は、シンプルな部屋を好んだ 高さなどは目に浮かぶ。 伊知子の好みを反映した世田谷のア。ハートと似ていた。模様 ア。ハートの私たちの部屋は、一階の角の一〇三号室だっ 替えも、家具の買い替えも、この八年間でほとんどしていな た。帰り着き、部屋の扉に着くまでには、同じ一階の一〇 い。八年前にこの部屋に住みはじめた時に、私が必要最低限 一、一〇二号室のことが、そして建物の脇の、私たちはまず のものしか用意しなかったからそうなっただけだ。 ふだん使うことのない鉄製の階段を上った二階にある三部屋 小田急線は高架だから、豪徳寺駅のホームは駅の二階にあ のことが、少しだけ気になるものだった。とりわけ、隣室で った。階段を降り、改札を通って駅を出ると東急世田谷線の ある一〇二号室と私たちの真上の二〇三号室は、壁や天井か 踏切があった。小田急の高架と地上の世田谷線は上下で十字 ら時折届く声や足音、物音を通じて身近に感じもしていた に交差していて、踏切の横には世田谷線の山下という駅があ が、他の部屋の人も含めて住人同士の交流は少なく、私は通 った。両脇に緑の多い、のどかな雰囲気で左右にのびる線路路や人口で出くわすと挨拶ぐらいはもちろんしたけれど、ど を見ながら踏切をわたって、線路沿いの道から住宅街のなか の部屋に誰が住んでいるかもはっきりわからなかった。上の に人っていき、しばらく行ったところに私たちの住むア。ハー 部屋も、横の部屋も、一度か一一度、住人が変わった。 トはあった。一年間の同棲のあとで籍を人れ、離婚するま アパートの人口は建物の脇にあった。門扉の先に波形プラ で、全部で四年間そこで暮らした。隣には古い一軒家があっ スチックの簡単な雨除け屋根のついたコンクリ敷きのエント て、前庭に大きな木が生えていた。駅から歩いて我がア。ハー ランスがあり、そこには全戸の郵便受けがあって、その奥か トに辿り着くその手前で目に人るのは道にもはみ出したその ら折り返すように一一階にのぼる階段の下が狭い自転車置き場 大きな木で、今となっては何の木だかわからないが、年中葉になっていた。私と伊知子が兼用で乗っていた安物の自転車 つばが緑色だったからたぶん常緑種で、伊知子ならそうい もそこに置いていた。プロック塀を隔てて、横はあの大きな う、毎日目に入るけど名前がわからない、みたいなことを放木の庭で、時々その家のおばさんが庭の手人れをしているの っておかない。だから伊知子はあの木の名前を知っていたは を見た。庭には大きな木以外にも植物が多く、コンテナのよ
生まれ変わったら一度は相撲取りになってみたいし、新潮社の人社試験で書いた作文も相撲の立ち 合いについてだったし ( 落ちたけど ) 、人生で初めて文学賞に応募した作品も相撲小説だった私が今 気になっているのは、相撲の本場所での応援が、コンサートのアンコールみたいに変化してきたこと である。「豪、栄、道 ! 」とか「稀勢、の、里 ! 」といったリズムで力士の名を呼びながら手拍子を 打つのだ。このような応援の仕方はこれまでの大相撲の歴史には存在せず、相撲の応援といえば、ひ いきの力士の名を館内によく響かせる声で叫ぶのが名物だった。声援は、集団ではなく個人単位だっ ( 0 数年前から沸き起こった相撲プームとともにこの応援は発生し、広まっていき、定着しつつある。 私みたいなそれ以前からの相撲ファンはたいてい眉を顰めているが、また、力士からも立ち合い前に は集中が削がれるので静かにしてほしいとのお願いがあったりしているが、それはそれとして、時代 とともに応援のスタイルなどその競技の文化が変化するのはありうることだろう。 でも、変化には理由がある。私はそこが気になる。 毎場所、毎日、テレビの放映で手拍子を聞いているうち、私は何かに感触が似ているなと思った。 やがて、はたと気づいた。サッカーの日本代表の試合後などに、渋谷のスクランプル交差点で見られ るハイタッチである。私はあれを見るたびに、公共空間でも弾けてよいというお祭り騒ぎを、日本の 人たちはすさまじく渇望しているんだなと感じる。そして、寂しいんだな、とも。 ひとことで言えば、一体感に飢えているのだろう。一体感に飢えているのは、日常が孤独だからだ ろう。つまり居場所がないのだ。あるいは、所属する場はあっても、そこに過不足なく自分が収まっ ていると思えないのだ。浮いている、外れている、はみ出している、蚊帳の外、いてもいなくても同 じ、存在感がない、微妙に無視されている、つきあいは表面的で理解し合っているとは言いがたい。 そんな疎外感を常日頃からどこかに抱えている。 だから非日常の場で、日常とはまったく違う人とのつながりを求めたくなる。力関係や利害関係か 734
ロロ ロロ ー塔と重力ー 二十年前の震災で生き埋めになった男に「人 類の未来」と「たた一人の女性への思慕」が憑 依する。新鋭が全想像力を賭けた超飛翔作ー 検間所幻想 高村薫 孤独な守衛の男は、夢想の世界に住んでいる。 「かいふづ・たちのいた夏、 - 特別原稿 ' - ・阿 ' - ・ - - ・ - ・部。。和ー重 新字 円城塔 インテリジェンス 謎の文字四四巻を作った遣唐使、その外交術。 ヂンパされた」話特別原稿一水村美苗 111 老冲乃花日 荒木経惟 117 瞬の共同性を生きる特別原稿星野智幸 133 街々、女たち 滝ロ悠生 ー女を泊めてから、別れた妻、向う意識の宛先。 目次 上田岳弘 1 ' 41 89 ノ
は、戦争末期の一九四四年から敗戦後の一九四八年頃までの混 乱期である。四方田大彦が、「彼女は「永遠の処女」というニ ックネームを与えられ、が提唱する民主主義啓蒙映画、 すなわち「アイデア映画」の女神に近い存在となった。その美 しさは正義の美しさであり、個人主義と自由の美しさであっ た。スターとしての原節子の神話化が完璧なものとなったのは 一九四九年である」 ( 『日本の女優』二〇〇〇年六月、岩波書店 ) と 指摘するように、敗戦後の原節子はの占領政策を体現す る存在だった。だが、彼女自身は「『わが青春に悔いなし』の 撮影が終って、『かけ出し時代』まで十カ月間遊びました。こ の時期が私にとって経済的にも精神的にも苦しんだ頂点です」 ( 「私の歴史 4 いつまでたってもラブシーンは苦手の私」、『映画ファ ン』一九五三年二月号 ) などと回顧し、当時の私生活について多 くを語ろうとはしていない。 ここに紹介する「手帖抄」は、そんな彼女が『想苑』 ( 一九 四六年一一月号 ) という雑誌に発表した随筆である。これまで の原節子研究において一度も紹介されたことがないことから、 新資料と考えられる。当時の原節子は東宝に所属していたが、 従業員組合が烈しい政治闘争に突人したことで、それに反対す る俳優陣が「十人の旗の会」を結成してゼネストへの反対声明 ( 一九四六年一一月一三日 ) を出し、東宝を離れる事態になって いる。自分ひとりの仕事で多くの親族を養い、買い出しにも出 かけて戦後の食糧難を凌いでいた原節子にとって、それは身を 切るような決断だったはずである。「手帖抄」は、そうした状 況にあった彼女が新聞社や出版社の思惑とは無関係に、自分の 思いだけを綴った貴重な記録である。 2 雑誌『想苑』について 「手帖抄」が掲載された『想苑』は、一九四六年に福岡県久留 米市の金文堂出版部 ( 戦前、九州はもとより中国・四国地方、朝鮮 半島、満洲に幅広いネットワークを広げ、一九三六年六月には東京の 神田錦町に東京出張所を構えるほどの勢力を誇っていた ) が発行した 季刊雑誌である。 原節子の随筆「手帖抄」が所収された第一一輯の執筆陣をみる と、武者小路実篤「二人の男」、中川一政「大人の内容」、花柳 章太郎「田之助一枚絵」、羽仁説子「人民戦線世話人会のこ と」、吉田絃二郎「武蔵野にて」、村岡花子「人生競技」、丸山 豊「地球」など、各界で活躍する著名人への依頼原稿が数多く 掲載されている。だが、それ以上に注目したいのは、原節子の 文章を挟み込むようにして古海卓一一、原田種夫、東潤、火野葦 平が随筆や小説を書いていることである。彼らは第一一期『九州 文学』同人であると同時に、戦争末期に結成された西部軍管区 報道部の中心メンバーとして戦意高揚を促すための宣伝活動を 行った人々である。そして、この報道部に劇作家の高田保とと もに東京組として加わっていたのが、原節子を映画界に導き、 ときには映画監督として、ときにはプロデューサーとして絶大 な影響力を持ち続けた義兄・熊谷久虎なのである。 熊谷久虎は、一九四〇年に予備役海軍大将・末次信正を塾頭 として創設された思想団体・スメラ学塾に加わって国粋的な思 想を強め、ユダヤ人謀略説を唱えるとともに、スメラ学塾の芸説 術部門で活動した人物である。 一九四一年一〇月、原節子をキャストに加えて『指導物語』
「ああ、こんにちは。思っていたよりはやく原発がわかりま れた声をだした。 「わかったわ。始のいうとおり、病院を移ることにする」 したよ。検査技師のおかげなんだけど」 歩の目から驚きの光は消えていた。 脳外科の部長室をひとりで訪ねた始を見るなり、荒木医師 始は黙ったまま歩の右手を握った。姉の手を握るのは小学は快活な声をだした。 「添島さんスポーツなさってますかって、質問をしたんです 校の低学年のころ以来だった。手は冷たくも温かくもなく、 乾いていた。始の手は握りかえされなかった。 よ、検査技師がね」 部長室に人ってきた始に椅子を指し示しながら、座るのも 医療タクシーに歩を乗せ、その隣にポストンバッグを置い またずに荒木医師は話を始めた。検査技師は薄いプルーの検 てから、自分は助手席にのった。一時間以上をかけて病院に 着いたとき、タクシーを降りた歩は不安げな顔でおおきな病査服を着た歩の右大腿部のふくらみに気がついたのだとい 院のビルを見あげた。 「フェンシングとか、なさいますか ? 」 「だいじようぶ。この病院の先生なら、最小限の負担で治し てくれるから : : : いや負担といってもお金のことじゃない 特にスポーツはしていません、通勤に自転車を漕いでます よ、手術の負担のことだよ」 けれど、と歩は答えた。検査技師は淡々と「そうですか」と 始は冗談まじりに補足しようとして、うまくいかなかっ 言った。 た。歩はうん、と小さく呟いた。 右大腿部があきらかに左大腿部とちがう。右のほうがはる 荒木医師は名医という雰囲気を身にまとった人ではなかっ かに太い。フェンシングの選手ならありうる非対称だが、ふ だん自転車を漕いでいるとしたらこのアンバランスはおかし た。枝留中学で技術家庭を教えていた滝田先生にどこか似て い。そう考えた検査技師は、歩の右大腿部の検査を追 いる。滝田先生は中国戦線にいたことがあり、生徒を叱ると 加したほうがよいと判断し、荒木医師に了解をとった。 き、「おまえらは脳天破裂か」と大声で言った。それでもた いていは機嫌よく、怒鳴ったあともケロリと笑顔になるタイ 検査の結果、歩の右大腿部を太く見せているものが 内部にあり、それが肉腫であり、不明だった原発部位だとわ プだった。眉が濃く、頭頂部がやや薄く、指先は意外なほど かった。 繊細にみえた。荒木医師も、やや前のめりになるような勢い ちいさく貧乏ゆすりをしながら話していた荒木医師は、そ があって、話に虚飾がなく、折々に惜しみない笑顔を見せ れをびたりと止めると、机の右端にあるスイッチを押して、 る。名医として気を遣う必要を感じない人だった。声がよく の 光 通るところも滝田先生に似ていた。白衣は清潔だったが、つ始に画像を見せた。 「添島さんの癌は軟部肉腫というもので、日本人ではめずら ま先の縫い目が破れたサンダルをおかまいなしに履いてい ( 0 しい癌です。年間を通じても数百人いるかどうか。筋肉や ノーテンファイラー
くれた。「原発がわからないんですよね」と繰りかえし、「と いいように浅く、ちいさく、丸めて理解するようだった。登 りあえず」脳腫瘍に放射線を当てる、とだけ簡単に説明して 代子の根拠のない楽観性が、しばしば眞一一郎をいらだたせ、 ときには一枝や智世にまで侮られる理由になっていたが、楽いた内科医は、担当の脳外科医の話を聞きたいと始が言って も、「相談しながらやっていますから」といってことばを濁 観的であることは、登代子自身よりも添島家のほうを救って いるのかもしれなかった。はるか遠くの西の空に黒い雲が見すばかりだった。転院があまりにもスムースに運んだことに も、始はかえって不信感を抱いた。 え、雷鳴がひとっ聞こえただけで、眞二郎は雨戸をしめよう とする。まだこんなに日がさしてるんだからと言いながら 主治医にとってこの転院は、渡りに船だったのではないか 登代子は庭におりてジロに声をかけ、ゆっくりプラシをかけ と始は疑った。しかし、いざ何枚ものレントゲンフィルムの てやる。雨が降りはじめ、風がつよくなるまでは、できるだ人った重い封筒を受け取ると、このまま原発部位がわからな け窓やドアは開けておきたいーーそうおもうのが登代子だっ いこともあるのだろうか、と突然不安に襲われた。歩は転院 た。すべて閉めてしまったら、添島家に閉じこめられ、光も を納得している様子だったが、上司に紹介された病院から移 ることには申し訳なさを感じているようだった。「始がどう 失われ、ここから出られなくなる、とでもいうように。 しかし今回の歩の人院については、登代子はどうしても楽してもそういうのなら、そうしてもいいけど」と歩は最初、 観できない様子だった。電話をかけるたび、日増しに声が沈消極的な反応だった。 「だって姉さん、命にかかわる問題なんだよ」 んでゆくのがわかった。 そう言った始は、歩の目に小さな驚きの光がさすのを見 始を乗せた小田急の車両は、ターミナルの新宿駅が近づく とおおきなカープを描きながらスピードを落としてゆく。車た。始はしまったとおもったが、いったん口から出たものは 窓には背の高いビルが目につくようになる。やがて長い踏切とりかえすことができない。 「わたし、死ぬのかな」 越しの左手向こう側に、大きな病院が見えてくる。これまで 始はぎこちなくても仕方ないとおもいながら笑顔をつく 何度となく横を通りすぎていたのに、ここが病院だと気づい り、歩の目をまっすぐに見た。始はいちど息をのむようにし たのは歩が人院してからだった。歩の病室があるあたりを見 あげても、どの窓かはわからない。始は主治医の荒木医師の て、なるべく静かに、ゆっくりと声をだした。 「手術を受けるのはたいへんかもしれないけど、治すために 説明を聞くために、二十分後にはこのビルのなかにいるはず 一につ ( 0 する手術だからね。心配いらないよ 歩は始に横顔を見せるようにして黙った。考えに集中する 歩の原発部位は、ひょんなことから判明した。 歩の上司の紹介で最初に人院した大学病院の主治医は、始とき、脇に視線をそらすのが歩の癖だった。 歩はいつもの姉の顔にもどって始の顔を見ると、低いかす の要請にしたがって、検査結果の一式をあっさりと用意して
が後に高井夫人となる中村輝子さんであった。それは偶然 坂本さんが定年退職してから、私は高井さんと年越しの の出来事なのだが不思議な因縁だとは強く思っている。 忘年会を開く計画を立てた。 一九七〇年代、私は上智大学で精神医学と犯罪心理学の 男だけの飲み会ではなく、夫妻で開く会にする。坂本邸 講座を引き受けながら、小説を書いていた。と、一九七七 に近い荒木町の料亭西宮で開くと定めた。一度集会を定め 年の秋、ソ連作家同盟の招待で日本文芸家協会の代表とし ると毎年同じ時期に再会するというのは、石地の会以来の て、高井有一と西尾幹二と私の三人がロシア旅行をするこ 習慣になっていたようだ。毎年真冬の会は真夏の会の続き とになった。道中は、モスクワ、レニングラード、ヤスナ でもあると、みなさんが感じていたと、これは私の推測で ある。 ヤ・ポリャーナ、ヤルタ、グルジャなどを、ひと月かけて 旅するものだった。三人とも酒飲みであることは一致した ところが、高井さんの体調がすぐれず、人退院が繰り返 が、性格も趣味もそれぞれ違っていた。西尾さんは『ソ連され、病院に見舞いに行って会うだけになり、会う機会も 知識人』という本を書くのだと、各地の共産党員との談論 少なくなっていた。 をノートにとっていたが、高井さんはそんな場合でも平気 この最近の取り込みのさなかで、高井さんと会った二回 で居眠りをしていた。私はモスクワやレニング一フードの交 の記憶が、ふと思い出された。 響楽団を楽しみにしていたのに、彼は音楽会を嫌い、ホテ ひとつは、見舞いに行った病院での会話。各自、文学を ルで早寝をしていた。 胎動させていた若き日の思い出話、つぎに、二〇〇〇年ご 一九八〇年代、私は大学教授をやめて筆一本で生活する ろ、高井さんが文芸家協会理事長であったころの昔話、と ことにした。一九八五年ごろのある日、高井さんから葉書 くに江藤淳さんの思い出話であった。 が来た。「このたび、共同通信を退職し中村輝子と結婚し もうひとつは、この七月四日、坂本邸の飲み会である。 ました」とあった。祝意を電話で伝え、同時に新婦が私の ここ二年ほど、西宮の会ができなかった、その代りにと開 知っている記者だったとも知った。 かれた一夜であった。高井さんは終始にこやかではあった 話が前後するが、一九八〇年代初頭のころ、「新潮」の が寡黙であった。お酒もあまり進まなかった。宴が果てよ 編集長坂本忠雄氏夫妻、高井有一、高橋昌男、笠原淳など うとした時、高井さんは輝子さんに、グラスに赤ワインを が新潟の石地海水浴場で数日泳ぐ集いを始めたので、私は ついでくれと笑顔で頼んだ。それを飲みながら、目を細め 喜んでこの盛夏の集いに参加した。この石地の会は、その たときの暖かい表情を、私は決して忘れないだろう。 後十数年も規則正しく開かれた。 243 高井有一さんを悼む