人 - みる会図書館


検索対象: 新潮 2017年1月号
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1. 新潮 2017年1月号

き、アメリカ軍の制服を着た女性が飛び出して、道路を渡っ た。その人は抵抗するどころか、手を将校の股間に伸ばして 上下に撫でてやっており、将校が唇を離して下のフロアに目 た先の植え込みで胃のなかのものを戻す様子でした。つづい て若い男性の軍人もふらっく足で出てきて、建物の陰に隠れ を戻したとき、曾根とわたしを見て、手招きました。 ると、やはり嘔吐する音が聞こえてきました。 わたしたちが前に進んだところで、その人が将校の顎を撫 扉の脇に立っ兵士たちは忍び笑いをしています。曾根は無 でて振り向かせました。曾根と将校は知り合いの様子です。 表情で扉からなかへ人り、わたしは後につづきました。体育将校はわたしを中学生くらいに見たのではないでしようか。 館のような広々とした内部には獣くささと血の匂いが満ちて不思議そうに視線を向ける彼に、その人は、新しい友だち、 います。暗い通路を進み、鉄製の階段をのぼり、通常の建物とわたしを紹介しました。将校はおおらかな笑顔で挨拶を し、分厚い手でわたしを引き寄せて、頬にキスをしました。 ならば三階程度の高さとなる明るく開けたフロアへ出まし た。そこは家畜を食肉にするための屠場の見学フロアでし そして下を見るようにと促すのです。 ( 0 ちょうどわたしの下を、大きな牛が作業着姿の人に引かれ 視線の先に、アメリカ軍の軍人が何人か立っており、下の て通ってゆくところでした。牛は前方の狭い通路に引き込ま フロアを緊張した面持ちで見つめている人もいれば、顔をそ れ、わたしのところからはよく見えませんでしたが、木枠ら むけてロや鼻を手でおおっている人もいます。一団に近づく しいもので首を固定されたようです。ゴム長をはいた白い帽 手前で、わたしたちはまた別の兵士にさえぎられ、簡単な身子とマスクをした人が、大きいハンマ 1 を持って歩み寄りま 体検査を受けました。 す。将校は、おいで、とわたしを見やすい場所に引き寄せま 一団の最前列にいる、なかで最も階級が高いと思われる恰した。例の人の隣となり、肩がくつつきました。その人がわ たしを見つめて、 幅のいい将校が、下のフロアに向かって突然拍手を送り、エ 「よく来たね」 クセレントと声を上げました。そのときわたしは将校の隣 に、あの人の姿を見いだしたのです。周りの学生たちのなか とささやく声は、優しく包み込む力があり、見知らぬ人と ではついぞ見かけたことのないアメリカンスタイルらしい洒場所のなかでざわっいていた心が落ち着くのを感じました。 落たシャッとズボンを身につけ、将校に肩を抱かれていまし 「あの牛が、きみの両親だと思って見るんだ」 その人が恐ろしい言葉をさらりと口にして間もなく、白い た。興奮した面持ちの将校は、太い腕のなかにすつぼりと収 まっている相手を抱きすくめ、血走った目でキスをしまし帽子とマスクをした人がハンマーを振り上げて、首が固定さ

2. 新潮 2017年1月号

も、考えようによっては安売りなのだと思います。「芸術」 まけに僕はとにかくこの人のおかげで非常に人間改造をされ を「資本」の側に売り渡したなどと言いたがる人だって、き てしまったんだけれども、僕は前は自分一人で静かに本を読 っといたように思うのです。 / でも、谷川さんは、平っちゃ んでいるとかね、静かに思索に耽る、あるいはモーツアルト らみたいに見えます。 ( 中略 ) 私の知ってる安売り王という を聴くというのが僕の生活の基本で、それを楽しんでいたわ のは、ひとりは橋本治くんで、もうひとりは吉本隆明さんで け。それが今、うちには熊のようなロシア人が一人いて」、 す〉 その母親と八畳間で同居を始め、佐野の息子の友達、そのイ 佐野洋子と佐々木幹郎の対談では「サノ・ヨーコと谷川レ タリア人のフィアンセまで常に出人りしていて、「だからも ノン」の日常が俎上に上っている。佐野の友人とせいぜい一 う雰囲気が全然変わってしまいましたね」と谷川がユーモア 時間しか一緒に過ごせないで「石みたいになって気分が落ち まじりに嘆いてみせている。佐野は「それが人の暮らしって 込んでゆく」谷川をいかに「真人間」にしようとしてきた いうものですよ ( 笑 ) 」。さらに、「この人にはモ一フルっても か。谷川もどれだけ健気に努力してそれに応えたか。佐野の のがないと思うんですよね。「非常識」っていうのは「常識」 話は本当に面白い。佐々木は、「父の威厳とかあるいは葬式があって「非」なんですよね、だけどこの人は「無常識」」。 まで全部を足で踏み潰してから、父あるいは父の死そのもの 「子供のときに親から甘やかされて保護されてきて、あとは を突き放す距離の取り方で、情を見せる、ものすごい人間く 世間がこの人を甘やかした」と手厳しい。それでも谷川は最 ささ。あの詩の、ああいう踏み潰し方を、谷川さんはいまま後に、「こんなにつまり俺の本質を突いて批評してくれた人 で詩の中でやったことがなかった」。佐野との「戦争」は大はいない」。「それだけの批評家を身近に置いているっていう 変だが谷川の作品は力強くなり、「底ができてきた感じがす のは大変な贅沢ですよね、本当に」 ( 『ほんとのこと言えば ? 』 ) る」。「読者をどんどん裏切っているでしよう。もの書きで、 佐野は九六年の離婚後、『女に』の増刷を許さず ( 佐野が一一 こんな老い方をする人は珍しいと思う」と評価している。洋〇一〇年に没した後、復刊 ) 、自身の著作物から谷川の痕跡を 子夫人の胸元には全長十センチを超えるほど巨大なトカゲの かなり消しているから、そんな一時期があったことをすでに プローチ。「五月のトカゲ」のイメージの元は、もしかする人々は忘れているかもしれない。それでも、佐野と人籍した とこれだったのか。 のとほぼ同じ九〇年六月号の「現代詩手帖」に発表された 先に挙げた、佐野と谷川による公開対談の記録からも、夫「世間知ラズ」をなかったことにするわけにはいかない。 妻のにぎやかな生活がリアルに伝わる。徹三亡き後、「ひど いときにはうちの回りに五台外車がガガガッと駐車してい て、みたいなそういう生活になっちゃったわけですよね。お 自分のつまさきがいやに遠くに見える 五本の指が五人の見ず知らずの他人のように

3. 新潮 2017年1月号

終腕時計を見ていた。彼が勝手に決めた時間が過ぎた後もしばらく憂鬱な気分が残った。 京都の祖父母の家に預けられた夏の最後はさらに暇を持て余していた。知人はいないし、祖父母は 頭が旧かった。蚊に刺されるだけで、祖父の後妻で、血のつながらない祖母から、「嫁入り前の娘が 蚊に喰われるなんて何ですか」と訳のわからない小言を言われた。昼前から家を飛び出して古都見物 をしたが、お寺を巡るなどという高尚な趣味はすぐに飽きてしまい、若者がいる辺りをうろついた。 祖父の家が左京区のノートルダム女子大のすぐ近くだったから京都大学からも比較的近い。 あるタ暮時、京大の付近の広場で若者たちが集まっていた。女子も混ざっている。行進しているの ではなく輪を描いており、腕を伸ばしてその輪を大きくしたり、腕を上げて小さくしたりしながら、 「〇〇打倒」などとスローガンを叫んでいる。お祭りのように楽しげに、いつまでも同じことをくり 返している。私は夏の空がどんどんと暗くなっていく中、放心したように彼らを見ていた。絶対にあ の輪に人れることはないだろう : 。人はさまざまな理由で人の輪に人ることができない。人りたく ない人も沢山いる。日本に育っていても多分あの輪に入りたいとは思わなかっただろう。それでい て、取り返しがっかない時が流れてしまい、自分は同い年ぐらいなのにああいう輪には人ることがで きなくなってしまったーーぼんやり見ているうちに不覚にも涙が出てきたのには自分でも驚いた。 京大の近くで一人の京大生から声をかけられたのは翌日である。私は素直に笑みこぼれた。ハイス クールを卒業した後、日本人の大学院留学生が多いポストンに二年間住んだので、頭脳優秀だという 自負がある男の人には慣れていた。紅茶を前にいつもより饒舌になっていた私を彼は遮った。 「あなたは、日本人じゃあないみたいですね」 はっとした。 「人の目を見て話す」 客観的な観察を述べただけではないだろう。少し好意をもっていることを婉曲に表そうとしたのだ ということはわかった。諸々の一一一口葉が喉元までのぼってきたが、飲みこんだ。今味わっているこの束 〃 5 「ナンパされた」話

4. 新潮 2017年1月号

ああ、と葵は反射的に答えようとする。その表情がわずか いていないかもしれないけど、結構いると思います。地下鉄 に陰ったことに僕は気づいた。 で物乞いしている人もイスラム系がほとんどだったような気 カー 「私体調悪くて、あの時間ホテルで寝てたんだけどね。テロ 「移民政策がうまくいっていないのかな」 って言っても局所的なものだったから、街中が騒然ってわけ でもなかったかな。皆心配してくれはしたんだけど」 「どうなんでしよう ? 毎朝地下鉄の外の階段を降りて行く そうか、あのとき葵は。ハリにいたのか。こんな風に再会し とね、頭にスカーフを巻いた女の人が、赤ちゃんを抱いて物 なければ、僕にとって葵は博多に行ったきりの人だった。話乞いしてて。『ポンジュール・マダム』『ポンジュール・ムツ しているうちにこの三か月の空白が急速に埋まっていく。同 シュ』って、耳についちゃって離れない。東京には物乞いす 時に、その空白の間に一人で思い返していた、葵との親密だ る人全然いないですよね」 った時間の記憶が味気ないものになったような気がする。尻 「東京ではホームレスも食べ物に困んないらしいからね」 切れトンボの終わり方は、あれはあれで余韻があってよかっ そうなの ? と小さく言って、葵は白ワインで喉を湿らせ 「シャルリ 1 ・ 葵は仕事半分、休暇半分で。ハリに行っていたらしい。会社 エブド事件ってあったじゃないですか ? イ から経費は出ていない。それでも葵は、趣味と仕事が一致し スラム教をコケにするような風刺画を載せていた。ハリの新聞 ている幸福を味わったようだ。仕事先の洋服メーカーでフラ社が襲撃されて、十万人を超える人がデモに集まったってい ンス人女性と意気投合し、ランチした後でショップを見て回うやつ。その事件が起きた日に、確かフランスの作家がイス る。英語にも堪能な同年輩の彼女のおかげで、夜遊びをする ラム教を揶揄した本を出したってちょっと話題になってた。 私は。ハリにお客さんとして行っただけだからよくわからない こともできたらしい。。ハリジェンヌに連れられてナイトスポ けど、ギクシャクしてるのかなあ、やつば ットを訪れる葵を想像し、勝手に興奮していた。僕のしよう もない退廃嗜好など、人り込む余地は無いように思えた。テ 葵は生ハムをフォークで突っつき、また白ワインを含む。 口に巻き込まれなかったのは何よりだ。 グラスをテープルに置きながら、あれ、十万じゃなくて百万 「。ハリってイスラム系の人が多くいるの ? 」と水上が葵に聞だっけ ? とつぶやいて眉をひそめる。その様子を眺めなが ら、いい女だな、と僕は今更ながら思った。他の男に向かっ 「どうかな ? 私には中東の人と東南アジアの人の区別がっ て敬語混じりで話す様に、妙に興奮を煽られる。

5. 新潮 2017年1月号

湧いたので、ちょっといい ? と聞いて、ノート O を手に クをたどっていくと、書き込みをほとんどしていない人たち 持った。そこには葵の書き込みもあった。出張の稟議申請が のページにも最初に「生まれました」がある。誰しも生まれ 理不尽な理由で却下されたこと、僕と会ったこと 1 ー知人と ることは避けられない。それから、その人の性格や趣味・嗜 表現されていた 。ハリで起こったテロ事件について、中好によって行動はばらけ、毎日のように書き込みをする人、 東では日常茶飯事だと主張する戦地からのツィートを紹介し ほとんどしない人、やたらに食べた料理ばかりあげる人、芸 たニュースを張り付け、「どう考えればいいのかわからない」 能スキャンダルに食いつく人、政治ネタに突っ込みを人れ続 というコメント。葵が書いたもののはずだが、どこか違和感ける人、子供の成長を喜ぶ人、様々いるが、これらの行きっ があった。葵らしくないというか、何か要素が足りない気が く先は、間に何が挟まっていようが現時点では死だ。それら した。スナップ写真や、ニュースのリンク、それに対するコ 人々の様々な投稿にいいね ! ボタンがついていて、そのボタ メント、葵を形作る性格的な因子、それらの複合として現れ ンを押すと、いいね ! の数が増えていく。賛意が多いと承認 る雰囲気、画像や文字情報で形作られる Facebook 上のそれ欲求が満たされる。見ていくと近頃葵はあまりいいね ! をし は葵のようで葵ではない。これが自分が発信する文字情報だ ていなくて、最後にいいね ! をしたのは、一月前の投稿だっ けだとそんなことは思わないのかもしれないが、多様な情報た。葵よりも年下の二十五歳男性。会社の後輩らしく、壮行 がある分、物足りなさが募る。それらの情報は蚕の吐き出す会の際の写真が投稿され、その下にはメッセージもある。 糸のように繭を作って、一緒にノートを覗く僕と葵はそ 「いっか葵さんみたいな嫁さんをゲットします」と書かれた の中にいるみたいだ。薄暗い部屋で、ノート O の青い光そのメッセージに葵はいいね ! している。その後、葵とその が、薄いプランケットで半分体を隠した葵の滑らかな肌を照男とのやり取りをたどっていると、その男の葵に対する好意 が明らかだった。それを見ている内に僕は興奮してきて、太 らしている。葵はプランケット越しに僕の太ももに頭をもた げ、僕は葵の頭を撫でながら、葵がこれまで書き込んだ内容ももにかかっているプランケットを取って、性器を葵の口元 をスクロールし続けた。最初の書き込みとして「生まれまし にもっていくと、葵は少しだけ躊躇してから、それを口に含 た」がある。これはアカウントを作ってプロフィールを人力んだ。僕は彼女の熱い舌を感じながら、葵のアカウントを探 すると自動で書き込まれるもので、赤ちゃんマークの下に、 索し続けた。メッセージボックスを見てもいいか聞いたら、 葵の生年月日が記されている。僕の「生まれました」は葵の いいよと言うので開いてみた。複数人で行うグループメッセ 九年前だ。葵には友達が 320 人登録されていて、そのリン ージ、中学・高校の友人たちとのやりとり、男性からの誘

6. 新潮 2017年1月号

まれたのだ、千佐ちゃんのお父さんは誰なのかと訊いた。 芝浦というやつだけ。授業をさぼったら、すぐにわかってし 「政夫さんとは別の人や。千佐子が三歳のときに死にはっ まうねん。こんな女臭い教室に人れるかっちゅうて、芝浦は た。千佐子はそのお父さんとそっくりや。作り笑いした顔が講義を受けるのを放棄してしまいよった。そやから、いまは 生き写しやったから、びつくりしたわ」 生物学概論の講義に出てる男子学生はぼくだけ。八木沼先生 伸仁は再び視線を足元に向けて考え込み、くすっと笑っ は教室に人ってくるたびに、ぼくを見て『頑張ってるなあ』 て、 って笑うねん」 「タネおばちゃんはのんびりしてるから、先のことはあんま 伸仁の言葉に、房江は笑いながら、 り考えへんのやなあ。相手の男が奥さんと別れへんかったら 「ノブはその授業の放棄は考えてないんか ? 」 どうなるのかなんて心配はせえへんねん。男が私を好きかど と訊いた。 うか。それしかないねん」 「八木沼先生は、蜘蛛の研究では日本でも有数の学者やね と言った。 ん。いまは女郎蜘蛛の一生についての講義がつづいてるけ 房江は、自分が気づかないうちに、伸仁がいつのまにか酸ど、それがおもしろいねん。女郎蜘蛛には女郎蜘蛛の生き方 いも甘いもわかるようになっていたことに驚きと幾分かの頼がある。女郎蜘蛛だけの苦労がある。女郎蜘蛛だけの摂理も もしさを感じた。 ルールもある。女郎蜘蛛には女郎蜘蛛の事情がある。ドプ板 「大学には、きれいな女の子もぎようさんいてるのん ? 」 の下の巣からちらっと流し目を送って『寄ってらっしゃい と房江は訊いてみた。 よ』と客を引いてるだけやないねん」 「うちの大学は、女子学生の数と比例すると、きれいな子が 房江は女郎蜘蛛が流し目で媚を込めて『寄ってらっしゃい 多いと思うな。、 CQ 、 O 、 Q とランク分けしていったら、 よ』と客を引いている姿を想像して声をあげて笑った。 が五人。とのあいだが十人。が二十人。 o が三十 「蜘蛛の一生を聞いてると、いろんな人間が、いろんな生き 人。も三十人という割合かな。ほかの大学と比べても、き方をするのは当たり前やなあって納得してしまうねん。な れいな子が多いそうや。ぼくは中学も高校も男子ばっかり あ、お母ちゃん、蜘蛛ってこの地球上に何種類いてると思 で、おんなじ年頃の女の子に慣れてないから、最初は緊張し う ? 日本だけで一三〇〇種。世界中に三五〇〇種や。三五 て、ろくにロもきかれへんかった。土曜日の一時限目は生物〇〇通りの蜘蛛の、それぞれの生態が、いまのこの瞬間も営 学概論や。教養課程の選択科目やから、受講生は二十人くら まれてるねん。一匹一匹に命がある。生きてる。なんか気が い。そのうちの十八人が女子学生や。男はぼくともうひとり 遠くなりそうやろ ? 」

7. 新潮 2017年1月号

しばらく前のことである。珍しく人前で話し、疲れを取るため馴染みの鍼師に治療してもらったそ の帰りであった。渋谷駅を降り混雑したホームを歩いていると、あのう、あのう、ちょっと失礼しま すが、と男の人が声をかけてきた。人の群れに合わせて歩きながら、隣りから顔を覗きこんでいる。 私の顔を写真で知っている読者からごくたまだが声をかけられるので、そのうちの一人だと思い、私 は心して感じよく徴笑み、はあ、と彼の次の言葉を待って歩き続けた。するとその言葉は予期しない ものであった。「どこかで一杯飲みませんか」。五十がらみの、紺の背広姿の、見るからサラリーマン といった人である。「けどどう見てもサラリーマンタイプやなあ」「さうかて、それに違ひないねんも ん」ーーという『細雪』の冒頭の章にある姉妹のせりふが頭に浮かぶ。 彼の目に映ったであろう自分の姿を私は頭に描いた。ふつう鍼に通う時は化粧もせず、。ハンツ姿に 平たい靴なのに、その日は、人前で話したので、剥げてきたとはいえ化粧は残っているはずだし、ス カートにヒールのあるプーツといういで立ちである。なるほど、少しは身なりにかまえば、まだこう いうことがあるのか。さきほど治療してもらった鍼師は私と同い年の女の人である。次に治療に人っ た時にこのことを報告したら、ヤッタア、美苗さん、おめでとう、と我がことのように喜んでくれる であろう。いいですよ、と私は答えていた。もう夜も更けている。家に戻ったところで仕事ができる 時間ではなく、いつもの通り、 YouTube を観ながら飲んだり歌ったりして寝るだけであった。 ええつ、と相手は少し驚いた風である。電車で斜め向かいの席に座っていた、決心して声をかけた がまさか承諾してもらえるとは思わなかった、という言葉に続けて、色々お世辞を言ってくれる。私 は、いえいえ、と涼しい顔を見せ、実は聞き耳を立てながら歩いた。二人で並んで地上に出たのは、 〃 2

8. 新潮 2017年1月号

わたしはうずくまり、騒然とした周囲の様子をただよそごと り、使いで来たと言いました。 に感じていました。 ええ、いまそこに寝ている曾根です。同級生がはやし立て あの場の出来事が報道されることはありませんでした。豚 た通り、顔だちは美しく整い、装いはスマートで、表情や仕 の頭も臓物も当時は人手が難しくなく、発煙筒を爆弾らしく 種に甘さや隙は少しもなく、仕事のできる精悍な印象を受け 加工するのも簡単だったろうし、日々起きていたデモ現場で ました。けれど、例の人が刻みつけた面影があまりにも強 のいたずら騒ぎなどニュースの価値もないと思われたのでし く、わたしは落胆し、ろくに口をきけずにいたのです。 曾根もまた失望のあらわな、疑い深げな表情を浮かべてい わたしはあの人のことばかりを考えつづけ、デモではな ました。のちに彼が打ち明けたところでは、あの人がわざわ 、大学の授業に出るようになりました。わたしの名前や学ざ指名した人物が、見た目は悪くなくとも、地方出身の平凡 部を聞き出した人の訪れを期待していたのです。 な女子学生でしかなく、わざわざ迎えに立つほどではないと 出会いから一一週間後、午前の授業を終えて昼食を済ませて 田 5 ったとのことでした。 いたとき、同級生から、男の人があなたを捜している、と言 彼は当時外務省に勤め、アメリカ軍との折衝に携わってい われました。さらに複数の同級生が、わたしへの伝一言を頼ま ました。このあと話す、わたしたち三人が過ごす時間を確保 れていました。しびれるくらいかっこいい人、周りでは全然するために退職する前のことです。わたしは促されて彼の車 見かけない素敵な男性、などと同級生たちの軽薄な感想を耳に乗りました。どこへ行くとも告げられず、わたしも無用な にして、わたしは動悸がするのをおぼえ、指定された図書館ことに思えて何も聞きませんでした。到着したのは公営の屠 裏の、ふだんは人けのない中庭へ急ぎました。 場でした。 楡の大きな木の下に置かれたべンチに腰掛けた人影に気づ 曾根は、駐車場に車を止めて、倉庫風の建物へ向かって一 き、わたしは歩をゆるめました。会いたいと思っていたこと人で歩いていきます。わたしはほかにどんな車が止まってい を、相手に悟られるのも、わたし自身が認めることも癪でし るかを確かめる余裕もなく、彼を追いかけました。建物の鉄 た。むしろ相手を問い詰め、暴行と言ってよい行為を謝罪さ製の壁の一部が扉になっており、その人口になぜかアメリカ せるつもりで進んでいったところ、べンチに腰掛けていたの軍の兵士二名が立っていました。曾根は兵士に話しかけ、わ は、髪をきれいに刈った背広姿の男性でした。彼は気がつい たしのほうを簡単に指し示します。兵士たちはうなずき、わ まさお て立ち上がり、わたしの名前を確認して、曾根雅雄と名乗たしたちを通そうとしました。すると向こうから先に扉が開 じよう 3 似ペインレス

9. 新潮 2017年1月号

するのか。敵対者を勝手に想像して不安に震え、不安を払う建物の陰に回ったところで、コンクリートの壁に押しつけら側 れました。胸も腰もびったりと添うほどに身を寄せられ、抵 ために排他的となり、ついには相手を先に叩きつぶそうとま 抗の余裕もなく、その人に唇を重ねられ、舌で歯を押し開か でするのはなぜなのか。その答えを、彼が突きつけている。 いま逃げれば、わたしは軽蔑さえおぼえていた人々と同じに れて、縮んでいた舌をからめ取られました。同時にその人 は、薄手の。ハンタロンをはいていたわたしの股間に手を差し なる。だったらいっそこの場で死んだほうがましかもしれな 人れ、指を突き上げてきました。すべてが瞬時のことだった い : : : 明確な言葉にして意識できたのは落ち着いてからで、 そのときは目の前に立つ人の存在に呑まれ、生死を委ねる想ためにからだは無防備に開かれていて、悲鳴ひとつ出せず、 いで立ち尽くしていたのです。 目を見張ったわたしの前に、艶のある美しい目が笑みをたた えて存在していました。 その人がわたしを振り向きました。一秒にも満たない時間 に、多くのものが見えました。手足の長い、なで肩の、ほっ 「どこで会える」 いまがどんな時でどこにいるのかも忘れるほどの、恋人の そりとした体型で、スリムなジーンズは締まった腰にびたり ささやきにも似た甘く潤んだ声でした。混乱のあまり何も言 と合い、長袖シャツのまくりあげた袖から出る腕は色が白 、男か女かすぐには見分けられませんでした。髪を肩まで えずにいると、思いがけないほど深く彼の指が人ってくるの 伸ばし、顔は小さく、鼻は高く、頬から顎にかけては滑らか を意識しました。喉から小さく声が上がり、からだを押しつ に流れて先がとがっている。細く鋭い眉の下でこちらを見つ けられて逃げることもできず、むしろ相手の肩に手を置いて 身を支えたほどでした。 めているのは、起き抜けのような眠そうな目であり、また、 「大学生か」 酔っているのかと疑うほど艶のある目でした。その目が柔ら 問われて、うなずくのが精一杯でした。ふたたび彼がわた かい笑みを浮かべたとき、わたしは唐突にではあるけれど、 確かに自分の女としての部分が捕らえられたのを感じまし しの唇と舌を吸い、わたしは無心に彼の感触を受け止めてい こ 0 ました。さらに指の存在を深い場所に感じ、わたしは息をつ すごい量の煙が出はじめた筒を、その人は豚の開かれたロ まらせながら、問われるままに大学名と学年と学部、自分の に突っ込み、わたしに向かって走ってきました。身をすくめ名前を答えていたのです。押しつけられていた圧力が消え、 る間もなく、腰を抱かれ、後方へ運ばれるのに合わせて、わ からだの内側に人っていると錯覚した指も離れて、目の前で その人が人波のなかに消えていくのを茫然と見送ったあと、 たしもしぜんと足を運び、混雑する人々のあいだを抜けて、

10. 新潮 2017年1月号

している、秋ロの晴れた日の服装をした人たち。全然めかし つけ ? うち、母親と、妹と三人暮らしで、片親で。でも女 こむこともなく、何か寝間着のような格好で歩いている人も 三人昔からほんと仲がよくって : いる。年配の婦人たち、そして老人も多かった。どういうわ あっちに自転車停めてあるんで、じゃ、と言って他の女た けか、女性ばかりが目についた。何人かのグループの人、ひ ちに混ざって広場を歩いて去っていくオノの後ろ姿を見送 ースのスニー とりの人。みな私には知れない予定や、事情や、気分を持ち る。オノは、ゆうべ履いていたのと同じコンバ ながら、どこかからどこかへと歩いていた。ここで、どんな カーを履いていた。たとえばそれが、昨日見たのと違う、ピ 体型の、どんな服装の人を、探せばいいのか。わかっている ンクの、私が伊知子にもらったようなのと同じ、ピンクのコ のは年齢だけで、しかし、今年で三十四歳という年齢は、見ンバ ースではないだろうか、と思いながら、その後ろ姿を見 てもわかるものではなく、顔も、服装も、今や体型も、わか てみる。違う。けれど、違うと思ったそのことよりも、ピン らないのであり、といって、かっては伊知子のことを遠くか クの、自分の靴ではないかと思ったそのことの方だけが残っ ら見分けるのに、顔とか、服装とか、体型で見分けていたの て、数年後、あるいは十数年後になって、よく見ると、私が ではないような気もして、もっと予感とか気配とかで見つけ履いていたのと同じところに穴が空いていて、同じところに ていた気がして、伊知子も遠くから私のことをそうやって見同じ汚れがあって、一歩歩くごとに靴底の踵から中敷がのぞ つけて、人ごみのなかを、互いに発見しながら人を掻き分け いている。ばかばかと。あれは私の履いていた、伊知子にも 掻き分け、だんだんと近づいていく。その途中で、ふたりと らった靴だと思うオノの後ろ姿を、思い出したりすることが も、顔が笑ってきて、声などないのだけれど、会話をしてい あるのではないだろうか。その頃伊知子はどのくらい虚ろ るみたいな、その近づいていく時間を支えていたものは、や に、今とくらべてどのくらいいないことに近くなっているの つばり顔とか体型とかではなく、一緒に過ごした時間や、こ れからも一緒に過ごすはずの自分たちの先にあった時間だっ たろうか。その先にのびていた時間をなくしたことで、私は 伊知子をなくしたのだろうか。 そもそも、宇都宮にいるかどうかもわかんないわけですよ ね、と隣にいたオノが言った。というかそもそも探し出して 会いたいわけではないんですよね ? 私、今日うちの夕飯っ くんないといけないんで、そろそろ帰りますね。言いました 文学会議 ス ク ッ 文豪のクロ 1 ンを作ろうと ス する、小説家で科学者の レセサル・アイラ 〈私〉ーー。奔放なウィットと 潮柳原孝敦〔訳〕 想像力の炸裂する、アルゼン 慚◎定価 ( 本体 1700 円 + 税 ) チン作家による衝撃の 2 篇。 新潮社 乃 9 街々、女たち