水上 - みる会図書館


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1. 新潮 2017年1月号

という最終的な結論にいっか辿りつくだろう。 「業種 ? ああ、医療事務です。てか、水上さん遅いですね」 Yeah! 美希子はトイレの方をちらりと見て、これ見よがしに手首 をくの字型に突き出して時間を確認する。まあ、こういう日 もある。こういう美希子もいる。僕は救いを求めるような心 僕はまた涙を流している。美希子アサインのために水上が 用意した店は珍しく高層階で、タワービルの五十階にあるレ持で、美希子の背後の東京スカイツリーに目をやったが、特 に状況を打開できそうな話題は思いっかない。しばらくして ストランだった。当の水上はさっき口元を抑えながらトイレ に行ってしまい、僕は美希子と二人でテープルに座ってい水上がトイレから返ってくると、入れ違いに僕はトイレに立 った。狭い個室だがそのトイレの中には鏡があって、僕は自 る。美希子アサインもかれこれ三十人目になる。 涙を流し続ける僕を、胡乱な目で見ながらグラスを傾ける分の両目から流れる涙をじっと観察した。塩気のほとんどな い、真水みたいな涙。目尻にたまり、溢れたそれがきれいに 美希子に「泣き上戸なんだよ」と一応言い訳したが、反応は 「はあ」とつれない。今回の美希子は美希子史上、最もつれ頬を流れていく。自分の体から出ているが、まるで雨とか雪 みたいな自然現象の一つのようだ。見ている内に涙は止まっ ないタイプの女性だった。早く帰りたそうで、水上の端折り た。なんとなく再びスカイツリーを眺めながら席に戻ると美 すぎのきらいのある説明にも反応が薄かった。そりやそう だ。これまでの美希子が優しすぎ、付き合いが良すぎたの希子はもういなくなっていた。 水上は薄い笑みを浮かべて、首を小さく振る。説明されな だ。おまけに美希子アサインが始まった頃とは違い、原因不 くとも状況はわかる。反省会にしては少し早めだがワインが 明の疾患が僕も水上もぶり返している。女性にとっては「時 なくなるまで話でもするか、と水上が言って、僕は椅子に座 間の無駄」以外のなにものでもないだろう。 り、そうだな、と同意した。でもなんの話をする ? とは言え、僕まで席を立ってしまうのが失礼な気もしたの 「無駄な話をしよう」水上はワイングラスを傾け、右を向い で、ハンカチで目の下を抑えながら、 ( 0 「今日はお仕事だったの ? 」と話を振ってみたのだが、 「お前にそれ以外の話ができるのか ? 」僕が思ったままに言 「ええ、まあ」とやはりつれない。 「どういうお仕事 ? 」 「そうだな」水上はわずかに顎をあげ、右手で喉ぼとけのあ 「事務関係ですね」 たりを撫でた。水上の視線の先には赤く光る東京タワーがあ 「へえ、そうなんだ。業種は ? 」 うろん

2. 新潮 2017年1月号

「違うの ? 単に一言、二言添えて、まだ一件も成約していない営業を後 「これは、君のために泣いてるんだ」 で個別に面談すればいいだろうと 0 省エネ対応で行くことに 「私のために ? 」 決める。十年以上やっていると自分なりのフォームができて 「そう、俺が今泣くのは、目の前の君だけのためだ」 くる。時々不思議に思うのは、各々別の人間であるのに、全 「そっか」 体として一年を振り返ってみると、僕の精神状態や振る舞い 「うん」 が如実に結果に反映しているということだった。もちろん結 「ねえ、私がとてもきれいだったときに、一度くらい寝てあ果が現れるまでのタイムラグはある。法人を相手にした商材 げたかったわ」 だから、短くて三か月、通常だと半年以上先にやった結果が 「気にしなくていいよ、そういう相手も今は多少はいるか返ってくるのだが、その結果をみると自分が何に集中し、ど ら。それに君とは、今からもっといいことをするんだ」 こをケアしたのかがはっきりと見て取れる。僕が管轄する人 間たちと一種のリンクで繋がって、何かを代行している。そ の人間たちに作用し、僕も作用をうけている。 オフィスのトイレにいて、仕事用の 0 で最近葵とやりと 葵からの返信はまだない。どうにも落ち着かなくて、また りしたメッセージを眺めている。僕から送った最後のメッセ僕は Facebook で葵の中の人になった。葵あてに水上からメ ージには、既読が付いたまま返信がない。 ッセージが来ていた。先日僕と神保町で飲んだ時、結局新た 昨夜、美希子の夢を見た。夢を見ること自体、久しぶりの な美希子をアサインできなかった水上は葵を誘っていた。美 ことだった。それが影響しているのか、僕は今朝から葵のこ希子として現れてから、再び葵に会うようになったことをて とをずっと考えている。だがいくら画面を見つめていても、 つきり水上も知っていると思っていたのだが、どうも知らさ 返信は来ない。あきらめて僕は隣に表示した営業進捗の資料れていないようだ。葵は水上の誘いを既読スル 1 している。 に目をやった。午後の会議で言うべきことを考えなければな 『君、今私にログインしてるでしょ ? 』 らない。新たな販路の開拓を始めて最初の半期が終わったと 突然、葵のタイムラインに文字が現れた。どうやら葵も僕 ころで重要なタイミングではある。しかし、単に「売らんか と同様に葵にログインしたようだ。 な」の意気込みだけを押し付けても、空気が悪くなるだけに 『相手してくれないからさみしくて』 終わる場合も多い。今日は部下に報告してもらった後に、簡 『今会議中で予定が調べらんなくて。後で予定伝えるから。 75 塔と重力

3. 新潮 2017年1月号

事も与えられず餓死する子供もいれば、臓器提供用に作られ た。多分俺は幸せだったんだろうね。でもーー」 娘の小学校の人学式の日のことだった。水上はピカピカの る子供もいる。吐き気ぐらいどうってことない。そう思うべ きだ」 ランドセルを背負った娘とともに川沿いの桜並木を一人目の 僕は頷いた。水上とはその意見は一致していた。突然の涙妻と肩を並べて歩いた。これから子供が通うことになる小学 もどうってことない。周りに人がいれば心配してくれたり、 校は、子供の脚でマンションから七分ほどの距離にあった。 気持ち悪がられたりするが、出るのが吐瀉物であるよりは随校門のすぐ上にも桜が咲いている。娘の一フンドセルよりは淡 分ましだろう。 いピンク色。小さな体には不釣り合いな大きさのピンク色の 「でもまったく吐き気がなくなった時期がある。二人目の妻ランドセルを背負った娘が学校の中に駆け込もうとする。水 が妊娠して結婚した当時だな。仕事も大変で、妻も別の事務上はこの時確かに幸福だった。だが突然、それはやってく 所で弁護士をしていて、交代で子供の面倒をみていた。必死る。水上は口元を抑え、校門の前で朝食べたものをすべて吐 く。目玉焼き、ソーセージ、納豆、白米、随分長い間忘れて だったよ。かなり夜泣きする子でね。それで、ある時ふと気 づいたんだ」 いた「あの吐き気」。射精と同じで、限界点を超えると、水 「もう随分吐いてない ? 」 上はそれを我慢できない。 「ごまかそうとはしたんだ。これは、『あの吐き気』じゃな 水上が頷く。「そう、もう随分吐いてないって。必死にな い。体調不良かなにかだ。あるいは悪い病気かもしれない。 ってやってきて、ふと気づけば、全然吐いていなかった。も 自分でもよくわからないが、俺は、『あの吐き気』よりも、 ちろん、酒を飲み過ぎて吐いたことはある。だが、なんとい 悪い病気を求めていた。娘の晴れの舞台だというのに、頭が うか、そういう吐き気とこれは違うものなんだ。わかるよ な ? 」 真っ白になって自分のことで頭がいつばいになった。それか 「よくわかる」 ら、それまで楽しんでいた家族での生活がひどく色あせてみ えるようになった。家族で飯を食っていても、いっ『あの吐 水上は親密な笑みを浮かべる。水上にしては珍しい表情。 「娘もそろそろ小学校で、独立して作った事務所もなんとか き気』がくるのか、びくびくしていた。何度も気のせいだと カ 思おうとしたんだ、だけどごまかし切れなかった。間違いな重 軌道に乗ってきた。二人目はなかなかできなかったけど、別 くこれは『あの吐き気』だった」 に焦るようなことでもないし、どうしても必要なわけでもな い。吐き気も五年以上鳴りを潜めていて、もう忘れかけてい

4. 新潮 2017年1月号

しまうものはしようがない。その夜、僕は葵に『また会えな 「田辺がさっきから黙っている」 いかな』と >-a — z でメッセージを送ったが、なかなか既読 気づくと、水上は少し前から僕の様子を窺っていたよう がっかない。 だ。水上の唇には乾いた赤ワインが黒くこびりついている。 「さてはお前また美希子のことを考えているな」 僕の所属する会社の設立は、ライブドアの社長が偽計取引 葵が瞼を細めて僕の方を向いた。顎先を上げたこの仕草 で逮捕されるより前のことだ。—e が盛り上がっていた時期 は、二人で食事をしていた頃に何度か見たことがある。店に で、株式を上場することは日本社会において「よきこと」と 来て早々にではなく、例えば一度トイレに立って、化粧を直 されていた。経営者が株を簿価の数百倍に釣り上げて売り抜 してきた後にこんな表情をしていた。 ける、そういうゴールも認められていた。ライブドアショッ 「そうなの ? 」 ク以前は、キャッチーな業種に発展性のあるストーリーを貼 「そうだよ」水上が勝手に代弁する。「こうやって黙りこん り付けさえすれば、信じがたい株価が付いた。売り上げ五億 でいる時、いつも美希子のことを考えているんだ。『忘れら にも満たない新興企業に百億を優に超える時価総額が付けら れないのね。可哀そうに』って言ってやって。そしたらこい れ、その大株主が巨額の現金を市場から抜く。その後で株価 っ興奮するから」 が急激に落ちる。そのまま低空飛行を続ける企業が大半だ 「バカじゃん」と言って葵は笑ったが、仕事の電話がかかっ が、上場後に別のヒットを生み出して徐々に回復するところ てきた水上が再び席を立っと、僕の耳元で「忘れられないの もある。それにしたって、上場時の株価に戻ればかなり頑張 ね。可哀そうに」と囁いた。それから葵は僕の勃起した股間 った方だ。 に手をやり、先つぼを撫でまわした。ノースリープのワンピ ライブドア事件で皆が学んだのは、あまり目立ちすぎると ースの袖からすらりと伸びる腕の先の葵の手に、僕は自分の 狙い撃ちにされる、ということだった。以降に出てきた経営 手を重ねたが、 「やめてくださいね」と敬語に戻った葵に手を取られ、自分者は、徹底的に「悪目立ち」を避ける傾向にある。「ビジネ スの成功談」を語らず、「いかにユーザーのことを考えてい の膝に戻された。 カ るか」を暑苦しいほどに主張する。そうするうちに社会で重 別れる段になると僕は自分から水上を二軒目に誘い、 は、「ビジネスとしての成功」よりも「ユ 1 ザーエクスペリ塔 の前で葵と別れた。このまま水上と消えられるとかなわない エンスの向上」を目指すことの方が「よきこと」とされるよ と思った。男の嫉妬は見苦しいとわかっていつつも、感じて

5. 新潮 2017年1月号

だけしておいた水上からメッセージが来た。弁護士になった ブッキングしてしまうほど、水上の合コンのアサイン能力は 水上は、起業・開業カテゴリの一人だ。 高かったのだ。渋谷のセンター街を抜けた所にある、七階す 『久しぶり、というか大学以来だな。今東京にいるの ? 』 べてがそれなりにお洒落な居酒屋の人っているビル。それが 『おお ! 久しぶり。東京にいるよ。水上は元気なの ? 』 彼の好んで使う場所だった。そのビルの別々のフロアで一日 『久しぶりに飲みに行くか』 に三件の合コンをしたこともあった。スタート時間をそれぞ という簡潔な流れで、月内に飲みに行くことになった。 れ十七時、十九時、二十一時とずらし、一つ終わるごとにエ 考えてみれば、この時こんな風に応じなければ、水上の レベーターを降りて外で解散し、また戻って来て別の階の店 「美希子アサイン」が始まることもなかったのだ。 に人る。そんなことを三回やって、終了したのは日付が変わ る直前だった。それから反省会と称してラーメンを食べに行 水上と知り合った当時、僕にはどの集団にも馴染みきれな き、残った面子は水上の部屋に流れ、雑魚寝して始発を待っ ( 0 いところがあって、お客さんのように浮いたキャラクターで いることが多かった。僕の見るところ水上は、そんな僕と同 合コンが女性と懇意になるための手段であるならば、当時 類の一人だった。「結局お前がどこでも浮いて見えるのは、 の水上は初心を忘れ、手段そのものが目的化していた。ある 0 か 10 0 かでしか物事を見ていないからだ。全部思い通り いは、水上はそもそも女性と仲良くなりたいのではなく、性 になるか、完全にどうでもいいか。だから他人に興味が向か衝動を種にしてどれだけいびつな合コンができ得るのか、そ ないし、溶け込めない。異常にプライドが高いんだよ」ちょ の限界に挑戦していたようにも見えた。もしかしたら執拗に っとした共通点もあって水上とはよく話すようになり、ある続く「美希子アサイン」もその延長線上の試みなのかもしれ 時、そんなことを言われた。その台詞は心中で僕が水上を評ない。 していた内容に似ていたように思う。 当時の僕は水上と極力ィープンであろうとした。とはいえ 水上弘史は僕の知る中で最も女好きの男だ。水上は何か精彼のようにたくさんの女性と知り合う能力も熱意も持ち合わ 神に問題を抱えているに違いない、そう心配してしまうほ せていなかったが、ネタがなくて困っていると言われれば、 ど、学生時代の彼はひっきりなしに女性との出会いの機会を携帯電話を取り出して登録してある女性に連絡を取った。水重 求め続けた。「俺そっち参加できないから、悪いけどお前行 上以外から誘われた合コンで空いている枠があれば、必ず彼塔 ってくれない ? 」と急遽頼まれることもあった。度々ダブル を誘うようにした。僕なりの公平感に従ったギブアンドティ〃

6. 新潮 2017年1月号

ばれているはずだから、君がやってきたことなんて鼻で笑う耐えることができる、と頭の中で繰り返しながらセックスす レベルのものに感じると思う」 れば大抵は落ち着く。さっそくそれをやろうと思い、葵に電 「そういう職業についているの ? 」 話を掛けたが出なかった。代わりにすぐでメッセー 「職業か、趣味か。それはわからないけど」と言いながら、 ジが来た 僕はふっと、いっかの美希子との会話を思い出した。そし 『今会議中だから、また後で電話する。ゴメンね』 メッセージを返そうかどうか考えながら、電気ケトルでイ て、この十分生きた人間を殺して回るのが人間のやるべき最 ンスタントコーヒーを淹れる。もう少し舌のレベルを落とし 後の仕事になるのではないかと思った。 てから、ネスプレッソに戻すつもりだ。 僕は桃香に \--a — Z のメッセージを打って、会えないか聞 翌日、地震で埋まった時のフラッシュバックが本格的にあ いてみた。十六時から一時間半なら会えるが、その代わり国 った。水上が書いて寄こしたものに影響されてか、瓦礫に埋 まりながら、僕はその状況から逃避し、多くの人の人生を勝立まで来てくれとのことだった。国立まで行き僕はセックス をした。口には出さなかったが、君が欲しい、君だけが欲し 手に想像していた。実際に埋まっていた十七歳の時、本当に そんなことがあったのだろうか ? 思い起こそうとしてみて い、君さえいてくれれば他になにもいらない、この無為の塊 のような世界で君さえいてくれれば僕は何にでも耐えること も、途切れ途切れの記憶は主に苦しみだけで構成されてい ができる、と思いながら抱いた。長年の経験から編み出した て、現実逃避はしていたはずだが、余白のようなものがぼっ かり空いているように感じられるだけだ。別の誰かを小窓と対処法。桃香は避妊を求めないが妊娠すると平気で出産しょ うとするとても先進的な考えを持っているので、僕はいつも して世界を覗く ? 変な表現だが、何かしつくりくるものが ある。 のごとくコンドームをつけた。 桃香から与えられた一時間半はあわただしく過ぎた。その 左足の甲にかすかな痛みが残っている。でもこれは幻覚 ためか、まだ僕は落ち着かなかった。それで水上に電話をす だ。あれから二十年以上経っている。ここは安全な東京のマ ると、大きな仕事がちょうど片付いたところらしく、今から ンションで、僕は十七歳ではなく一二十八歳で、フラッシュバ カ 会えるとのことだった。ところでお前どこにいるんだ ? と重 ックで動した時の対処法だって知っている。君が欲しい、 君だけが欲しい、君さえいてくれれば他に何もいらない、こ水上が聞いてくる。僕はちょうど駅前にいて、駅舎に大きく塔 の無為の塊のような世界で君さえいてくれれば僕は何にでも駅名が書いてあった。

7. 新潮 2017年1月号

るかなどという話は聞いたことがなかった。弁護士になった 「小説 ? 作家になるってこと ? 」 と聞いても、なるほどね、としか思わないが、それにしても 「いや、そういうんじゃなくてさ。単に小説を書いている。 卒業して早々に結婚し、娘が二人もいるというのは予想外だ 俺の書くものは、なんというか、商業出版の限界を突破して っ ( 。 いるしな」 「まあ、俺も予想外だったよー僕の所感を伝えると、水上は 「なんだよ、それー相変わらず水上は独自の指針を貫いてい 笑いながらそう言った。「なんだろうね ? 最初に人った事るようだ。 務所の仕事が大変だったんで、気付いたらそういう流れにな 水上と別れた時にはもう終電は終わっていた。また連絡す ってたって感じだな。まあ、いいもんだよ、結婚も。一度く るよ、と言って水上はタクシーに乗り込んだ。一人になった らいはやっといた方がいいよお前も」 僕はしばらく辺りを散歩した。中央通りには酔客が大勢い 「避けてるわけではないんだけどね」 て、常夜灯が明々と点いていた。アルコールで火照った体に 「どうかな ? 無意識の内につてこともある」水上はジント 当たる冷気が気持ち良い。それにしても同じ十五年でも随分 ニックのグラスを傾けた。水上の背後の窓には、向かいのビ と違う過ごし方をしたものだ。あの水上に子供が二人もいる ルの屋上が見えた。最上階が斜めに切り込まれて、空に向か とは。僕は飲んでいる最中に何度となく思ったことを反芻し って尖った形をしたビル。暗くなり始めた街に、外階段の橙 た。と同時に、水上といる時には浮かんでこなかった学生の 色の灯りが滲んでいる。 頃の記憶が、一人歩きをする頭に次から次へと湧いて出た。 水上の話を聞くだけではなく、僕もまたこの十五年間にあ ったことを話した。大学卒業後フリーターとして二年間をだ 「今から死ぬから見ていてくれ」と言って、当時一一十二歳だ らだらと過ごしてから、知人の紹介で起業して間もない会社った水上は僕の目の前で大量の錠剤を飲んだ。彼のア。ハート に人った。一昨年その会社が株式公開し、もうじき株のロッ でのことだ。あの白い薬が何だったのか、僕は今でもよく知 クアップ期間が明ける。それでまとまった金が人ったら仕事らない。水上がどこまで本気で死ぬつもりなのかはわからな は辞めるかもしれない。しかし辞めて何をするのかといえ かったが、止めても無駄であることはわかった。おそらく僕 ば、何も思いっかない。 が見ていなくとも水上はそれを実行するだろう。そんな気が重 「小説でも書いてみたらどうだ ? 俺は余った時間は酒を飲した。薬を飲み下し、五分もすると水上の目から生気が抜塔 むか小説を書くことにしているよ」 け、顔がすっと青ざめてから昏睡状態になった。このまま放

8. 新潮 2017年1月号

水上と田中が知り合いであると知った時にも思ったが、世 『笑』 の中は案外狭い。特に水上みたいに活発な男が媒介すると、 『笑』 こういう偶然は倍増するようだ。葵も歴代の美希子と同様 『でもまあ、それ抜きにしても久しぶりに会いたいな。予定 に、詳細を聞かされずに来たようだった。彼女と知り合いで は合わせるよ』 あることを告げると、水上は興味深そうに口をすぼめたが、 葵が 0 のスタンプ。お返しに水上から 0 のスタンプ。 「美希子アサイン」のルールに則って僕らの関係については その後具体的な段取りを決めるやり取りが続く。 何も聞こうとしなかった。葵は最初、僕に対して他人行儀な 態度を貫いていた。呆れて怒っているのかもしれない。 「ねえ、美希子って誰なの ? 」 「俺も水上に振り回されてまして。今日は、何て聞いて来た 僕もだんだんわからなくなってきている。そうこうしてい の ? 」 ると水上が戻って来た。 水上がトイレに立った機会に隣に移って訊ねると、 「何の話 ? 」 「何も聞いてないよ。ただ美希子を探してるって」 水上は僕を横目で見ながら、葵にそう尋ねる。 葵は以前会っていた時のような空気でそう答えゞ Ph 。 ne6s 「美希子って誰 ? って聞いてた」 を取り出して上のやり取りを見せてくれた。 「ああ、それね。美希子とは、失われた可能性の象徴だよ。 いや、厳密に言うと失われた可能性なんてものは、この世に 『今度飲みに行かない ? 俺の友達で美希子を探しているや ないんだけどね。でも田辺氏はあると思ってる。諦めが悪い んだ」 つがいるんだ』これが最初の水上からのメッセージ。 『美希子って誰ですか ? 』と葵は返している。当然の反応 「ちょっと何言ってるのかわかんない。ねえ、君にはわかる こ 0 の ? 水上さんって、いきなりトップギアで話し始めるか 『それはその時伝えるよ』 ら」 『いくら何でも誘い方が雑じゃないですか ? 』 「こいつに聞いたって無駄だよ。いつも淫らな想像と美希子 カ 『よかったら今度飲みに行きませんか ? 僕の友達で美希子のことで頭がいつばいで、人の話の半分も真面目に聞いてい重 を探している男性がおりまして』 ないから。それよりもさ、。ハリに行ってたんでしょ ? テロ塔 『いや、口調の問題ではなく』 があった時に。大丈夫だったの ? 」

9. 新潮 2017年1月号

る。それから、これまでの動作を巻き戻すみたいに一 Phone6 を くなっていて、夢で見たように、僕が彼女のいまわの際にい 僕に返して、グラスを手に取り、ジントニックを一口含んだ。 られるわけでもない。これまで僕の発した約束の言葉のほと 「お前の子供の名前、これでもう決まったみたいなもんだな」 んどは嘘か、よく言って無意味な戯言で、僕にできることは エリックのことはネットを通じてしか知らないが、もしこ きわめて限定されている。それでもかすかな手ごたえが確か んな風に知ることになるのが身近な誰かの死だったとして に残っているから、異常にプライドの高い僕は守れもしない も、おそらく僕は泣くことができないだろう。多少驚きはす約束をいつまでも忘れられない。 るかもしれない。だが、きっと薄情な僕はその死も全体の中 ただ厳密に、エリックの最後の言葉を見習って実感を言う にすぐ溶け込ませてしまう。 とすれば、僕は美希子を愛してはいなかったし、これまでに お婆さんになった美希子を夢で見て以来、生き埋めのフラ 他の誰かを真剣に愛したこともない。 ッシュ・ハックは起こらなくなっていた。夢の中でした話はた それはさておき、僕は名前を考えなければならない。父親 わいないものだったが、老いた美希子が経験したかもしれな の義務として、男女両方最低でも三つずつ提案しろと葵に言 いくだらないことや誇らしいこと、後悔していること、やり われている。葵の胎内で細胞分裂を続ける、まだ性別もはっ きれない思い、それらすべてが彼女の口調や仕草に滲み出て きりしない生命のための名前。生まれてくる子供にとってど いるようだった。僕が点滴に混ぜた薬が効き始めると、美希んな人生が望ましいのだろう ? たかだか名前だが、考える 子の目は開かなくなった。突然出る涙も、美希子の夢から覚 うちそんな思いが巡る。どんな風に生まれてくるかもわから めた朝に大量に出て、それからばたりと症状が出なくなった。 ない。健康でも病気がちでも、美しくても醜くても、頭が良 「子供が小学校に上がるまでだ。それまでは別の誰かがお前 くても鈍くても、生まれてくることが決まった以上、多くの の代わりに泣いている」 ことは望まない。初期値としてまずはすべてを受け人れるし 水上が経験者らしく言う。わけのわからない話だが、担が かない。それでも最後には本人が、一生のうちに起きること れているかどうかは時が経てばわかる。 の幾らかに愛着を感じ、またこの世に生まれ直してもいいか 時間、今のところ操作のしようのないもの。いずれそれすなと思えるような一生を過ごせればいい。少しでもその助け ら操作できるようになる、そんなことを商業出版の限界を超になるような、そんな名前が付けられればいい。 えた水上の小説の中で座標を自称する男が匂わせていた。だ O 出 1614400 ー 6 01 が所詮それも水上の作った与太話だ。美希子はずっと前に亡 ( 了 )

10. 新潮 2017年1月号

これらは瀕死の脳が見せた幻影に違いない。しかし、それ インスタントコーヒーを淹れようと思い、電気ケトルで湯 ほどまでに苦しめられている以上、田辺には唯物論的な世界を沸かす。一時期はネスプレッソばかり飲んでいたのだが、 を絶対とする義理などないのだった。この時の田辺には、時今はカプセルを切らせている。いずれ高いカプセルコーヒー 間軸を飛び越えた未来の世界さえ幻視することができた。ずに戻れば「お、美味いぞ」と感じるだろう。味覚とは要は落 っと先、死ぬことを忘れた人類が退屈を極めて行うこと。例差なのだ。ネスプレッソに慣れた舌がインスタントコーヒー えば、人間そっくりの人工生命体が歩き回っている弾力のあ を飲むと、「お、これはこれで悪くないやんけ」となったり る大地が、溶け合って一つの個になった人類であるというするものだ。住む場所も同様で、会社まで徒歩五分のここで じみた未来像。そんな肉の塊になった人類の夢想するこ の生活にも慣れてしまうと、それはそれで物足りなく感じ と。太陽の核融合を加速させて太陽系を丸ごと黄金にする、 る。スマホや文庫片手に電車に乗る時間だって、よい気分転 大がかりな錬金術。たとえ瓦礫から出られたとしても辿り着換になっていたのだと思う。 くことのできない、ずっと先の世界。そこで生きる者たちに インスタントコーヒーをテープルに置いて、僕は水上が 田辺は羨望を覚えたかもしれない。残念なことに、生き埋め Facebook に投稿した小説もどきを読み直した。僕用に書か になって数時間で失神した頃か、あるいは救出されて病院で れた文章なのだそうだが、なんのことはない、一つは主人公 昏睡する内にか、数々の小窓や未来を垣間見た田辺の記憶は が「田辺」で、明らかに僕がモデルになっている。もう一つ 砕け、霧散してしまった。 は、巨大な塔が見える場所で二人の男が意図を汲みづらい対 生き埋めのことを回顧する田辺は、「これまで当たり前に話を延々続けるもの。両方にいいね ! が一つずつついてい 受け人れてきた人生が、嘘つばちなように感じた」とも語 る。アメリカ西海岸に住むエリック・ポーデンなるアカウン トからだ。 る。生き埋めの最中に、田辺は「田辺」から遊離し、始まり も途中も終わりも糸玉みたいに一塊りになった、そのほっれ の部分を確かに見たのだろう。しかし助け出された田辺は、 昨晩も新宿で水上と落ち合い、二人して酩酊するほど飲ん 「田辺」としての小窓に再び同化した人生を送らざるを得な だ。話すことも尽きて黙ったままウイスキーのロックをちび カ ちび飲んでいると、水上が脈絡なく「その通りだよ、田辺。重 我々は巨大なシステムの一部であり、それと同時にどうしょ塔 うもなく個人だ」と言いだした。その発言がどこにつながっ