う強く勧めた。 もう居たたまれなくなってしまった。様を見つめた。 しゅうどう 進言を受けた小寺政職は、官兵衛を信俺にも官兵衛にも衆道の気はない。され信長様はじっと俺を見つめかえして、 長様のところに派遣することにしたのだ ど心と心は偬れあっているかのごとくで羽柴はいつだっていちばんよいものを攫 が、嬉しいことに官兵衛は信長様に直あった。 っていくなあ、とぼやいた。 接、接触する前に俺のところに通じてき いちばんよいものーーそれは、そうで おそらく俺は知恵深くして、己の慾を ( 0 抑えることのできる者、即ち俺と正反対あろう。圧切長谷部を与えたほどの男で 官兵衛の噂を耳にしていた俺は、即座の男に弱いのだ。半兵衛以来のことであある。信長様は勢いよく立ちあがると、 に信長様と会う段取りを付けてやったるが、官兵衛に夢中になってしまった。俺の背をぼんと叩いて、例によって畳を が、あえて信長様に会う前に俺のところ 小寺政職の使者として信長様に会った踏み鳴らして出ていった。 たけなか にやってきたのだ。俺と対面した官兵衛官兵衛は中国攻めに関する策を提言した俺には竹中半兵衛という懐刀がいる。 はロにすべきかどうかしばし逡巡して、 のだが、それが抽んでたもので、感心し銭金では購えぬ宝物のような男だ。 へしきりはせべ なぜか申し訳なさそうに呟いた。 た信長様は官兵衛に名刀、圧切長谷部を だが官兵衛もそれに比肩しうる卓抜な あが 信長様にお目通り致すのは、あく与えた。俺も喉から手がでるほどに圧切る力をもっている。たとえば英賀合戦で までも主君のこれからのためでございま長谷部が慾しいが、所詮は物にすぎぬ。 はわずか五百の兵で、その十倍の毛利軍 す。が、この官兵衛は、誰よりも羽柴秀兎にも角にも黒田官兵衛が慾しくてたまの五千の兵を相手に勝利した。 らなくなってしまった。 吉殿にお目にかかりたく馳せ参じました。 「五百対五千。信じ難いー はにか 「はい。本来ならば勝ち目はありますま 俺の眼前で含羞んでいる官兵衛から立密かに信長様にねだった。小寺政職が あかっき ち昇っていたのは信じ難い無私であっ従属した暁には、黒田官兵衛を俺にくいー た。好きな男に会いたい。即ち俺に会いれ、と。諸般の事情から、まともな数の と、官兵衛は他人事のように頷いた。 たい。会いたいからこそ主君と信長様軍勢さえ与えられずに中国経略、毛利攻されど ーーーと一呼吸おいて、相手は播磨 なだ 云々という理由を拵えてまでも会いにきめを請け負ったのだから、それくらいの灘を毛利水軍によって運ばれた兵である閤 た。他に一切の含みがないのである。 我儘はきいてもらいたいと真っ直ぐ信長ことから、長時間船に揺られていたこと わがまま ひけん さら
ものでよいから絵図になど記して、上様に聢とお伝えなさい 藤吉郎は信長と出会う。信祝言をあげ、足軽大将に取り ますように」 長は即座に名前を木下藤吉郎立てられる。藤吉郎は己の腹 こちくこいちろう 脳裏で鳰の海を描き、南湖西にある光秀の坂本城と、信長 と名乗るよう、命ずる。草履心として弟の小竹 ( 小一郎 ) あのうしゅう 様の安土山、そして湖北に出来上がるであろう俺の城を置い 取りとして召し抱えられた藤をむかえ、穴太衆を割普請で 吉郎は職務に励む。信長の側活用して清洲城の石垣を修繕。 てみる。なるほど東の方向を頭にして飛翔する鶴の姿が泛ん ひでよし にいるには心中で優位に立た信長の信を得て、秀吉という みの だ。間違いなく信長様もこの配置を気に入るだろう。 くすぐ ねば、と思う。「母」に対す名を授かる。信長は美濃を平 たけなかはんべえ それにしても信長様を擽ることにかけては俺以上の半兵衛 る想いなら優位に立てると思定。秀吉は竹中半兵衛と会 きつの である。たいしたものだと見つめると、素知らぬ顔で半兵衛 い、吉乃を信長に紹介する。 い、信長ではなく秀吉につく ちょう 信長の寵を受けた吉乃は長子ことを条件に口説き落とす。 は続けた。 きみようまる ねね 奇妙丸を産む。寧々と会い羽柴と改姓した秀吉に、信長 「今浜改め長浜は、国友とごく間近でございます。それも念 ″一目立ち〃した藤吉郎は、 は北近江三郡を任せた。 頭におありと見ましたが」 あいまい 曖昧に頷いておく。まさにその通りだ。いまさら山落に鉄 うんぬん 砲云々で近づく気になれないのだ。狡いと後ろ指をさされよ「城下は人にあふれ、活気に満ち、一息に膨らむことでしょ うが、本音で出自を隠したい。多少鉄砲の値が張ろうが、国う」 友の鉄砲鍛冶たちを傘下におさめたい。俺の顔色を見抜いた港を一一つ拵えること、石垣の一方を湖面に没するようにつ 半兵衛は、すっと話を変える。 くって城内まで船で入ることが出来るようにすること等々、 「そもそも小谷の城下町はあまりに寂しい。地勢もあって、 額を突き合わせて鳰の海を最大限に生かす方策と、都のよう 拡がりをもてぬのは慥かですが、寂しすぎます。ゆえに今浜、な規模は無理にしても城下は碁盤の目に区画を整理すること いや長浜を大きく盛んにするために、城下にては年貢や諸役などを決めて、即座に長浜の築城に取りかかった。 の免除を」 後の話だが、年貢や諸役の免除が効きすぎて、長浜城下に 「それだ。俺も戦より銭を大切にしようと思っていたところあまりに人が集中しすぎて逆に問題がでてきた。そこで年貢 だ」 諸役に関して方針を変えて人口流入を抑制しようとしたのだ たし くにと、も ずる みつひで しか うか 前回まてのあらすし とうきちろうのぶなが きのした ごばん はしば 232
噤まぬと、素っ首を落としてくれるぞ ! 」秀吉もおかしそうに笑った。 える秘法は、今度会うた時に教えて進ぜ 信長はいっ着替えたのか、一枚胴の南「違いまする ! 火が燃え移っておりまよう」 ビ ドがいとう 蛮具足を身に付け、深紅の天鵞絨の外套するー 信長は火焔の中で立ち上がる。 を羽織っている。それを撥ね除け、佩い家康が叫ぶ。 「それともうひとつ。天下人など、つま そうさんさもじ ていた宗一一一左文字を鞘から抜く。 外套の端に移った火があっという間にらぬ。風の吹く野で、何も考えずに鷹を 「あっ ! 」 信長の全身を包んでいた。 放していた方がよほど面白いわ。余に 家康は短く叫ぶ。 「これしきの火がいかがした。大事ない」も、やっと、それがわかった。さて、猿。 愛刀を抜いた信長の右手が燭台に当た信長は火燼の中で冷ややかに笑う。 帰るぞー ろう って倒れてしまったからである。床に「いやいや、右府様。これはよくありま信長の肩から燃えさかる鷹がふわりと そく 燭が転がり、広がっていた深紅の外套のせぬぞ。金華山も燃えておりまする」 離れ、信じ難いほどゆっくりと飛んでい 端に火が燃え移るが、信長は気づいてい秀吉が刀を収め、信長の全身に取り憑 きびす ない。 く火燼を払おうとする。 踵を返した信長は大股でそれを追う。 「右府様、太閤となりました秀吉の首その途端、火が秀吉の具足にも飛び移「右府様、すぐに参りまする。ところで、 は、さほど簡単には落とせませぬぞ」 り、みるみるうちに火燼に包まれた。 家康殿。余が滅した後、空位であった征 きんだみ ざま なぜか秀吉も金陀美の当世具足を身に 「あ 5 あ、余計なことをして、この様か。夷大将軍の職に誰か就いたであろうか ? 」 ばりんうしろだ 纏い、後光のような馬藺後立てが付いたされど、大して熱くはない。ほれ、家康秀吉も、火焔の中から問う。 いちごひと 兜を被っている。そして、愛刀の一期一殿もこっちへ」 「 : : : それがしが : : : 将軍職に就きまし 振を抜いて構えた。 秀吉は手招きするが、家康は無一言で首てござりまする」 ふたもと を横に振る。火焔に包まれた二人と二本家康は眩しげに眼を細めながら答える。 「あ ! 家康が必死で一一人を制止する の鷹を、ただ眩しげに見つめていた。 ・ : あははは、そうであろうと 「血相を変えてどうした、元康いつも「ふふ、金華も燃えたということは、そ思うておったわ。余が生きている頃か の戯れではないか」 ろそろ戻らねばならぬということか。こら、なりたそうであったからな。して、 信長が冷笑まじりに言う。 奴は余の案内役だからな。灰にならぬう太政大臣には、誰か上りつめたか ? 」 「慌てすぎじゃ、家康殿」 ちに戻らねばならぬ。元康、肩に鷹を据その問いには、家康も黙り込む。 さや まぶ 426
勝家が俺を下賤の者扱いするのであるほどに思い知らされている。実力がないるのに、真正面しか見えないのを一本 る。もちろん俺は下賤の出だ。間違いなければ、権威というものは、やがては風気と勘違いしている阿房な馬である。戦 もろ い。けれど出自を云々するとしたら、俺化するのである。脆く崩れ去るのだ。 い方に出自云々で無意味な差を付けよう だって勝家だって信長様だって、先祖の勝家は、要は俺が伸張してきたのが気とする勝家のごとき腐った頭の持ち主と たど 先祖の先祖を辿っていけば皆、五十歩百に喰わないのだ。慥かに勇猛果敢で鳴らは一緒にやっていけない。いかように信 歩ではないか。先に運よく旨い汁を吸っした勝家であるが、所詮は戦莫迦。しか長様に叱責されようとも、この一線は譲 て肥え太っておいて、その汁を運悪く吸も戦をさせると俺のほうが巧かったりすれない。 だから援軍を命じられはしたが、俺は えずに痩せ細っていた者を偉そうに睥睨るのだからたまらないとは思う。 するのは理不尽である。 が、信長様のように度量の大きな人間勝家という人物と衝突し、見切り、信長 けつまく 俺が信長様に仕えるのは、じつは信長は、諸々を平然と俺にまかせる。中国経様に無断で北国軍援勢から穴を捲り、居 城長浜に戻ってしまったのである。信長 様は口先では俺の出自を揶揄し小莫迦に略も、まさにそれである。 するのだが、その心根では、諸々どうで 四方に敵を抱えて毛利攻めに集中でき様は俺を手打ちにするつもりだったよう もよいと思っているからだ。 ないならば、あれこれ器用におさめる俺だ。が、本音でぶつかることにしている 家柄だのなんだのは、信長様にとってにもっとも対処の難しい中国経略をまかので、遣り取りのうちに俺の気持ちを悟 たまたま幸運であったことの残滓にすぎせ、それどころか必要となればこうしてってもらえた。 信長様には、勝家がどのような男か、 ず、その者の素のカこそがすべてである呼びもどして加賀攻めに加える。 こっちが と悟っているからだ。 このような無理を強いられる俺はたまこのように言っておいた。 ったものではないが、信長様は俺にそれ頃合いをみて、ぼんと調子よく打てば、 天下を目指すとは、じつはそういうこ となのだ。 をこなす力があるということを疑わな忘れたころにぎこちなくぼんと打ち返し てきます。その打ち返す間が、じつに間 このあたりがわからずに、将軍であるい。ならば俺はそれに応えよう。 とかの過去の蓄財のごとき権威に頼りき勝家は有能ではあるが、自ら遮眼革を延びしていて耐えられませぬ。拍子が合閤 り、縋った者の末路は、俺自身が鬱にな装着して、哀れなほどに視界を遮られてわぬもの、いかんともしがたいと存じま りふじん ざんし こばか へいげい 号ロ
敵と交わることのない後軍にまわす算段人、強かに考慮して勝算ありとみて信長 さらに、もうひとつ。またもや、まさばかりをする勝家になど関わり合っては様から離叛したのである。 まつながひさびで にまたもやであるが、松永久秀が信長様おられぬというのが本音だ。 信貴山城攻略は難儀を極めたが、筒井 じゅんけい を裏切ったのである。上杉謙信、そして叱責の場で俺は信長様に率直な言葉で順慶の謀略により端緒がひらけ、いよい しぎさん 本願寺と通じて信貴山城に籠もって反旗松永久秀についての気持ちをぶつけた。 よ松永久秀の命脈も尽きようというとき ひるがえ のぶただ を翻したのだ。俺の北国戦線離脱は、結果、俺は織田信忠を総大将とする松永に、信長様は俺を通して使者を立てた。 ひらぐも じつは松永久秀の謀叛が理由の七割方を久秀討伐に加えられた。 信長様が俺に託した伝言だが、平蜘蛛 さくまのぶもり 占めていたといってもよいくらいであっ俺の他に光秀、丹羽長秀、佐久間信盛の釜を献上しさえすれば救命するーーと こ 0 らの軍勢が合わさって、その数は四万いう至極簡単なものだった。周囲は、唖 かなさき ぜん 金ヶ崎の陣から撤退する信長様を守り超。対して信貴山城に籠城する松永久秀然とした。なにせ以前の謀叛のときは刀 通して京まで送り届けてくれたのは、即の軍勢は八千ほどにすぎぬが、これだけと脇差で許し、こんどは茶釜で許すとい ち信長様の命を存えさせたのは、松永久の大軍勢を差し向けるということは、信うのである。 しんがり 秀である。殿軍を命じられた俺の肩に手長様もいざ松永久秀と戦うとなると侮り が、松永久秀は、平蜘蛛のような下手 をおいて、死ぬなと囁きかけてくれた御がたしと思い詰めているということであ物はもう流行らぬがゆえ、垢抜けぬと笑 った。 方である。 われるのがおちだから手をだすなーーーと 俺と同じ下賤の出でありながら、すべ もはや風の冷たい季節である。現時点信長様に伝えろと使者に返し、信貴山城 ての権威を嘲笑うかのように手玉にとつでも本願寺顕如からの援軍は当然のことの天主にて自爆した。生まれるのが早す さきがけ みじん た稀有な男である。信長様に対してさえとして、毛利輝元までもが信貴山城に援ぎた魁は、己を木っ端微塵にして果て も、こうして幾度も平然と裏切って柔ら軍を差し向けるとの報があり、松永久秀た。 かな笑みを泛べる男である。 この世のすべてを嘲笑うかの松永久秀 が籠城したままこの冬を越してしまえ 俺は松永久秀の生き様を見極めたい。 ば、上杉謙信が南下、俺たちの軍勢の背の最期を見届けた俺は、その足で中国経 ひめじ おそ 俺に手柄を立てられるのを畏れて、直接後を突くこととなる。松永久秀という老略の拠点である姫路城にもどった。板葺 けう ながら もの したた げて いたぶ つつい 244
くらまやま あいよう ひでよし 鞍馬山という愛鷹を載せた秀吉である。 秀吉は己の両手でロを塞ぐ。 野へお供するのは無理かとー 「猿、呼び名など、どうでもよいわ。差それを見て、信長と家康は思わず笑っ「何を弱気なことを申しておる。こうし てしまう。 て、余と元気に話をしているではない 出口を挟むな , 懐かしい会話だった。 か。大丈夫だ」 信長に命じられ、秀吉は頭を掻く。 家康は抵抗もなくそれを受け入れてい 「されど : : : 」 「はい。猿めは少し黙っておりまする」 「そなたは余の跡を取り、天下人になっ 「信長殿、いったい、いかがなされましる。 たか ? 」 いや、違う ! これは夢だ : ・ たそうではないか。そんな弱腰では、す 蒲団の上で胡座をかき、家康は普通に熱で浮かされたせいで、夢を見ているのぐに足をすくわれるぞー 問いかける。 信長の冷笑に、秀吉が横槍を入れる。 のうり 「ふふ、そなたがしょぼくれていると聞 もう一人の己が脳裡でそう叫ぶ。 「右府様の跡を嗣ぎ、天下を取ったの あづち よく見れば、信長は安土城で最後に会は、この猿めにどざりまする。しかも、 き、少し、からこうてやろうと思うてな。 たい った頃の姿だったが、秀吉は明らかに太天下人ではなく、この世に一一人とおらぬ なんだ、自慢の鷹もおらぬのか。見よ、 こう 金華は腕に据えぬでも、自然にわが肩へ閤になってからの姿である。秀吉が可愛太閤秀吉にござりまする」 ふしみ だぼら 留まるようになった。どうだ、羨ましいがっていた鞍馬山は、伏見城で飼ってい「猿、駄法螺を吹くな」 た蒼鷹だった。 「まことにござりまする、右府様。そう であろう」 「あ、はい : ・ それがしもさような仕 その姿で一一人が同じ席にいるはずもなだよな、家康殿」 ゆが 込みをしたいと思うておりました」 く、時が歪んでいるとしか考えられない。 「いい加減にせぬと怒るぞ。太閤などと しかし、それでも家康は眼前の光景という位があるはずもなかろう。くだらぬ」 家康は自然に答える。 「家康殿、この間から、ずっとこうなの 横合いから、我慢できずに秀吉が口を会話を自然に受け入れていた。 挟む。 「元康、これから一緒に鷹野へ出よう。 だ。そなたから太閤の意味を説明してく 「ほら、それがしの鞍馬も肩でおとなし鷹をな、肩に留めておく秘法を教えてやれぬかな。それがしが右府様のど遺志を からい ろう 継ぎ、唐入りまで行う天下人になったと くするようになった。いいだろう」 「猿 ! 」 信長はいつもの冷ややかな笑顔で言う。いうことをー 「あ、相済みませぬ。言わ、ざる ! 」 「それがしは病いで軆が動きませぬ。鷹「唐入り、だと ? ・ : 猿、今すぐ口を あぐら うらや ふさ 424
あてがい あった。 励ましもしない。気張れ頑張れとも言わ安堵、および新知行の宛行があった。朝 おお ふさ 長浜に移ってから、三成だけでなく大ない。ま、誰だって塞ぎたくなることは倉の一族衆ではない前波吉継に越前をま たによしつぐかたぎりかつもとさだたか わきざかやす 谷吉継、片桐且元と貞隆の兄弟、脇坂安あるからーーと頷いて黙って俺の話を聞かせたのは、景鏡らよりも一年ほど早く はる ぬき 治といった抽んでた者たちを長浜城に迎いてくれる。 から信長様に降っていたからである。加 え入れることができた。決して城に居着 たったこれだけのことで気が晴れて、 えて義景に切腹を迫って己が生き延びた いていられるような情況ではなかったの誰よりも精力的に駆けまわることができ景鏡に対して信長様はあまりよい感情を さまよ だが、折々に有能な者たちを求めて彷徨るようになるのだから、じつに単純な仕持っていないのである。 った甲斐があったというものである。 組みで俺は動いているような気もする。 が、そういったことを差し措いて、あ かいじゅう さて、俺の領地における門徒衆の懐柔えて越前に朝倉残党を温存した理由は、 はそれなりに功を奏して沈静していた 一向一揆対策であった。 たけだ とおとうみ が、あれよあれよという間に、越前が隣 即ち、武田氏の美濃、遠江への動き かが きっきん 前述のとおり、東奔西走の日々であ国である加賀と同様、門徒が支配する一 に対応することが信長様の喫緊の課題で る。ますます忙しく、慌ただしく、いよ揆持ちの国と化してしまった。越前にはあり、さらには二度攻撃してことごとく 嶽んがんじ よしざき れんによ いよ長浜の城でのんびり構えている暇な本願寺の八世蓮如がひらいた吉崎道場が敗退し、尋常でない痛手を信長様に与え かけら ど欠片もなくなってきた。羽柴改名の折あって、加賀と並んで北陸ではもっともてきた長島の一向一揆もゆるがせにでき の、あの憂鬱に沈んでなにも愉しめない真宗門徒の力が絶大な土地であったのだ。ず、越前に兵力を割くことがなかなかに くら あさくら 冥い境地が俺の心の奥底に潜んでいるこ越前朝倉氏を滅ぼしてから信長様が越難しい情況だったのだ。 とを自覚しているから、あの鬱々が表に前支配のためにつくりあげた体制は、己滅ぼされる前の朝倉氏は一向一揆の門 貌をださぬよう注意深く己の心を見つめの譜代の部将、たとえば丹羽長秀を据え徒たちに迎合とまではいわぬにせよ、巧 るようにしている。 るといったことをせずに、あえて朝倉旧みに歩調を合わせて領国経営を行ってき まえばよしつぐ 気持ちが沈んで、これはやばなことと臣の前波吉継を越前の守護代に任ずると たので、朝倉残党を一揆勢の抑えに使う すが よしかげ 相成りそうだというときは、小一郎に縋いう遣り口であった。義景の首をもってことにしたのは理に適っていた。 かげあきら ることにしている。小一郎は別段、俺をきて信長様に降った朝倉景鏡らには本領加えて、さしあたり越前の門徒たちは かお にわながひで 236
露骨に信長様に楯突いてきたからである。て慥かに十月十日ほど前にその女を抱いた直後と同様に、いつだってぎゅっと握 中国地方の大半、即ち山陰、山陽十箇ていたので、なんとなく言い負かされてってくれたものだ。 国と九州、四国の一部をも領有する一大しまったというのが本音だ。 抱きあげてやって、長浜城内から鳰の 勢力の毛利輝元が信長様に対する明確な 当初は猿のように赤らんだ生き物と対海に沈むタ陽を見るのが大好きだった。 敵として立ちふさがってきたのは、京をすることに強いぎこちなさ、いや嫌悪にいつも機嫌のよい子であったが、妙にし あしかがよしあき 追われた足利義昭を迎え、本願寺に兵糧近いものを覚えたが、俺も猿ではないかんみりした顔をするのである。静まるの きづがわ こら 等の支援をはじめたことによる。木津川と思い直し、諸々の負の感情を怺えて差である。こんなに幼くても物の哀れを看 河口の戦いでは、織田の水軍は毛利水軍しだした俺の塩嘗め指を、秀勝がそのち取するのかと感に堪えぬ思いであった。 に完膚なきまで叩きのめされ、いや沈めいさなちいさな手でぎゅっと握ってきた その死を知らされたときは、なぜか笑 られてしまった。本願寺は最強にして最瞬間、蕩けてしまった。もはや胤のことみが泛んだ。 悪の敵であるが、その背後に対毛利までなど、どうでもよくなってしまった。 そうか、と頷いて、ロをすぼめて、黙 をも勘案せねばならなくなったのだ。 舞いあがった俺は城下の者たちに祭り りこんだ。それだけである。 こでらよしたか くろだかんべえ ここから先をはじめる前に、ちいさなを執り行えと砂金を振る舞ったほどであ 小寺孝隆ーー後の通称、黒田官兵衛は 声でひとつだけーーー。 る。この砂金を元手にして長浜八幡宮で播磨三大城郭のひとっとして知られる御 きようげん まトもと 俺の子が死んだ。 は四日間、十一一台の山車にて稚児狂言が着城の城主、小寺政職に仕えていた。 つぶさ 信長様から中国経略を命じられてか興行される盛大な祭りが始まった。 官兵衛は信長様の戦いを悉に知り、と ら、三箇月ほど後であった。三歳だった。 祭りその他、自ら己を追い込んでいっ りわけ長篠合戦をとことん詳細に解き明 さんざん子胤がないと吹聴しておいたような気がしないでもないが、血のつかしたらしく、その鉄砲の用い方やあえ て、どういうことかと問い詰められかねながりは証しようがないにせよ、俺の子て粗末に見えるように拵えた馬防柵によ ぬが、本音を言おう。 として育てれば、俺の子だ。そう割り切って武田の騎馬軍団を誘いこんだこと 俺の実子かどうかは判然としない。生ることができた。実際、秀勝は俺によく等々、天下を求め、統べる才ありと感じ んだ女が俺の子だと言い張るので、そし懐いた。六本目の指が大好きで、生まれ入って、小寺政職に信長様に従属するよ なっ とろ しおな ひでかっ ちゃく 240
のは相当な難事である。大枚はたいて購もそも信長様に先陣を仰せつかるという 小六らの尾張衆、半兵衛らの美濃衆、そ みやペけいじゅん 入したものが、苦笑いするしかない代物こと、小一郎の器を信長様も認めてくれして浅井攻略以降の宮部継潤ら近江衆、 あかほろ くろほろ なら だったりすることがままあるのは世の常たということである。 そして信長様の赤母衣衆、黒母衣衆に倣 兎にも角にも半兵衛にも言えないようって拵えたまだ十代はかりの子飼いの黄 その一方で、値段相応とはよくいったなことや、不平不満や悩み事などの情け母衣衆と、俺の家臣団もそれなりにかた もので、家臣に有為な者を揃えるには拠ない相談事等々、小一郎だから打ち明けちが整ってきた。小姓のなかにも見込み はしば かとうきょまさふくしま 点と財力が必須である。そのための長浜られるのであり、羽柴改姓のときのようのある奴が幾人かいる。加藤清正、福島 うつうつ まさのり よしあき 築城であり、鳰の海の海運であると言いに心が鬱々として晴れぬときに、小一郎正則、加藤嘉明といったところである ひょうひょう 切ってもいいくらいだ。 が飄々とした顔つきで俺を支えてくれが、この者たちは俺と同様、下賤の出で せがれ 俺は人に恵まれている。美濃攻めではるようになっていた。 ある。たとえば福島正則は桶屋の倅であ ころく 小六が滅私といってよい下支えをしてく ただ、山深い女ばかりが働いていた鍛る。だからこそ大切にしている。身内同 れた。浅井攻略においては半兵衛が調略冶場にいたころもそうであった と当様に扱っているということだ。 にわかじこ の要となってくれて、そのおかげで長浜人が苦笑まじりに言うのだが、夜になる信長様に倣ってはじめた俄仕込みの鷹 かん に城を築くことができたのである。 と女共からさんざんのし掛かられていた狩りの帰りであった。喉がからからで観 すぎはらいえつぐ ころくろうあさのなが のんじ 加えて杉原家次、杉原小六郎、浅野長ときも、そしてある程度、女を選べるよ音寺という寺に寄って茶を所望したのだ まさ きのしたいえさだ ぬる あふ 政、そして長浜城代に任じた木下家定とうになって意外な好色ぶりを発揮するよが、まずは大きな茶碗に温めの茶が溢れ いった俺の数少ない一門衆が、それぞれうになった昨今でも、俺と同様、女が一んばかりになみなみと注がれて供され はら 少ない禄高しか与えていないにもかかわ切孕まぬのである。 た。作法もなにもあったものではない とら・ さいづちあたま らず、誠心誠意働いてくれているのだ。 どうやら血筋の問題らしく、兄弟揃っが、稚児としてはやや薹が立った才槌頭 こいちろう が、誰よりも小一郎である。近頃、戦て子胤がないということで、一緒に遊んの寺小姓は、俺の渇きを見抜いていたの いせながしま の才をも発揮しはじめたのだ。伊勢長島だあとなど、お互いに暗黙のうちに溜息である。 の戦いにおいては、信長様の本隊の先陣まじりに頷きあうことが幾度かあった。 俺は大きな茶碗の中で揺れる淡い緑色 を務めてその役目を立派に果たした。そ 一門衆のことはこれくらいにしよう。 の海を一暼し、ぐいと口をつけた。薄め みの こだね いちべっ おわり 234
り、殺した者、合わせて四万にも及んだ。の首も見飽きた。まったくどれほどの数 先陣を切ったのは俺と光秀の軍勢であ これがどういうことかというと、実際の蛆の餌を用意してやったことであろ おうさっ る。三角関係の縺れで乱れに乱れているに府中の市街は、首のない屍骸で足の踏う。この一揆勢鏖殺により、もはや朝倉 門徒共である。撃破するのは、じつにみ場がなく、荷車などを地面に這わせての残党に越前をまかせる理由もなくなっ たやす しばたかついえ 容易いことであり、これがあの一揆衆か掻き集めるようにして屍体をひとところた。信長様は越前を柴田勝家その他に与 と拍子抜けするほどであった。 に集めはしたが、それでも歩くのに苦労えた。 はこぼ 俺と光秀は競い合うようにして破竹のするほどだった。首を落とす刀は刃毀れ 勢いで無数といってよい砦、そして城をと血脂ですぐに切れなくなって、致し方 のこぎり 攻め落とし、府中を占拠した。逃げ惑うなしと鋸のように前後に押し引きして 一揆の軍勢は徹底した包囲網により、結じわじわと首を落とすので、喉を裂くま翌年七月中旬、信長様から中国経略を 局は俺と光秀が固める府中に向かうしかでは当然ながら、烈しい悲鳴をあげる。 まかされ、西国出陣の準備をはじめた。 ただ なく、この日の有様を信長様は京に残し耳鳴りがするほどであった。秋風が吹き大役ではあるが、只ならぬ役目を与えら むらいさだかっ てきた村井貞勝に以下のように書き送っはじめてはいたが、数日もすると焼くのれたものだと、暑さのせいで額に滲んだ ている。ーー案のごとく五百三百ずつ逃が間に合わぬままに放置されて山なした汗を手の甲で拭いつつ、じつは小さく途 げかかり候を、府中町にて千五百ほど屍骸が腐って青黒くなり、やがて倍ほど方に暮れた。 はりま 首をきり、そのほか近辺にて都合一一千余にも膨らみはじめ、下手につつけば裂け播磨から西は信長様の威力も届かない しようき おうと きり候。府中の町は屍骸ばかりにて一円た肉の奥から嘔吐を催す瘴気が放たれ、 のである。じつに心細い。しかも諸情況 とてつ あき所なく候。見せたく候。 それは目にもひどく沁みて、誰もが申しからすると、途轍もない難事であるにも しばたた 翌日も、二千を超える首が本陣に届合わせたかのように屡叩きながら涙を流かかわらず西国に専念していられるかど き、さらに翌日も五、六百ほど持ち込ましていた。 うかは微妙なところで、中途半端で煮え れた。山中谷間ありとあらゆる場所に隠命じただけで実際にこの手で首を落と切らぬまま、長浜と西国その他、行った れている一揆勢を狩りだして、もはや勘したわけではないが、俺の人殺しの数はり来たり出向いたりを強いられる嫌な予 もうりてるもと 定もまともにできぬほどだが、生け捕これにて一気に膨らみ、もはや女や子供感がするのだ。それもこれも毛利輝元が ( 0 そうろう もっ しがい うじ 238