こ 0 と聞こえるなかで揉み合っている。 特に、綱吉の家臣訪問に、幕府・家臣 じようろうおとしより そんな江戸に、紀州藩主吉宗が八代将吉宗は、大奥の女中、上﨟御年寄からともに莫大な費用を要した。 おすえ 軍として乗り込んで来て、幕府の財政難御末までを集めて、美形の者はすべて実影将軍によって多少盛り返したもの きようう おぎわらしげひで を解決するために、「享保の改革」の実家に帰し、醜女のみを大奥に留めた。その、勘定奉行荻原重秀が元禄から六代家 施を掲げた。 の理由として、 宣の時代まで実施した貨幣改鋳が、凄ま 江戸市民にとって、節倹 ( 節約・倹約 ) 「器量のよい者は、大奥から巷へ出てもじいインフレを招いていた。 ひめん 第一主義は、最も嫌う政策である。 袖を引かれるが、醜い女中どもは大奥か荻原は罷免され、新井白石が対策を講 江戸市民とは端から合い性が悪い。 ら放逐されれば、拾われないであろう。 じたが、七代幼将軍が没するまでは、ほ 尾張も黙っていられない。だが、天一故に、醜女のみ大奥に留めたのである」とんど改善が見られず、むしろ悪化のさ はんばく 坊及び用人たちが処断された直後だけ と言い渡した。吉宗の言葉に反駁するなかに吉宗が引き継いだのである。 に、吉宗の将軍就任への不満は胸の奥に者はいなかった。 元影将軍の大御所にとって、吉宗とい 呑み込まざるをえなかった。 吉宗の大奥改革は、宗家の中にどんなう人間はまだわからない。 吉宗の素行よりも、天一坊の取り巻き新風を吹き込むか、少なからぬ期待がも だが、将軍後継候補者の中で、最も信 が尾張の関係者だったことが弱味となったれた。 頼できたのは吉宗である。 たのである。 六代・七代の短命政権に代わった吉宗醜女だけを残したとする大奥の清掃 まな けんこう 七代幼将軍家継の治世は短かった。間 の軒昂たる意気は力強く感じられた。 は、誇張的な宣伝であったとしても、歴 ペあきふさあらいはくせき 部詮房と新井白石の補佐によって失政は この間、幕府の財政は厳しさが続いて代将軍の中で大奥の清掃をしたのは、吉 げつこういん なかったが、詮房は月光院との関係を疑いた。幕府の収入としては天領からの年宗が初めてである。 たい われ、悪評を払拭できなかった。 貢、貿易、鉱山収入と豊かであったが、 天一坊事件が片づいた後に、尾張の胎 どう かんえい だが、白石が将軍家継の代において完寛永末年 ( 一六四四 ) 頃から鉱山収入が動がないことは確かである。 成させた著作は不朽である。 なくなり、明暦三年 ( 一六五七 ) の「明 かって御一一一家第一位の尾州家と第一一位 将里父代と同時に白石と詮房の失脚は暦の大火」における復興事業に莫大な費の紀州家は、対抗関係を続けてきた。 まぬが げん 免れなかった。 用を投じて、五代綱吉の治世前半 ( 元同様に元影将軍は、尾張・紀州両家と 吉宗は、まず大奥から新政に手を染め禄 ) には、財政は悪化の一途をたどった。対立していた。 ろく しこめ ちまた 188
ない。 の一角に埋められた。同所にはいまも巨 京・堺の豪商たちは、足掛け七年にわ 大な塚が現存する。「耳塚」と呼ばれて 一一度の朝鮮出兵のあいだ。 いるが、実際は「鼻塚」である。 与一は京や堺の豪商たちとともに、秀たって秀吉の朝鮮出兵に協力させられた。 その挙げ句の頓死だ。 この野蛮きわまりない行状は、ルイ吉の求めに応じて朝鮮に何度か船を出し 朝鮮から兵を引き上げさせるための船 ス・フロイスら当時日本を訪れていた多た。 くの宣教師たちを驚愕させ、情報はただ兵や物資の運搬のためだ。戦地への航の準備に追われながら、割り切れぬ思い ちにヨ 1 ロッパ諸国に発信された。 海は危険が多く、与一も親しくなった優をかみしめていたのは与一ひとりではあ 秀な船乗りを何人も失った。報酬は出たるまい。 日本人は野蛮 さかいみなと 堺港で出船の手配を済ませ、一段落 というヨーロッパでの根強いイメージが、儲けを期待できるほどではない。 ついたのがようやく昨日。 は、おそらくここからはじまったもので南蛮貿易そのものは、相変わらずポル トガル船・スペイン船によって継続され久しぶりにゆっくりしようと思い、伊 あろう ( モンテスキューは『法の精神』 ( 一七四八年 ) のなかで「日本人は残虐ていた。与一ら日本の商人は、かれらが年と宗二に声をかけた。が、その後もな な民族である [ と、嫌悪もあらわにして運んできた品を港で買いつけ、国内に流んのかんのと後始末に追われて、昨夜も りざや 通させることで利鞘を得る商売形態だ。結局休むひまがなかった。 いる ) 。 人情の機微を察することに長けた往年直接船を出して買いつける場合と比べれ考えてみれば、十日ばかりろくに寝て いない。 の秀吉であれば、この程度の事態を予測ば、当然ながら、はるかに利は薄い。 えらい疲れた顔してはりますけど できなかったはずはない、と思うのだが 日本船による南海貿易をのぞむ与一ら 日本の商人にたいして、秀吉は朱印状の 秀吉の死を待ちかねたように、朝鮮か発行をちらっかせながら、たくみに協力さっき宗二にそう訊かれたが、気が緩 んだことで疲れが顔に出たのだろう。 を求めた。 らの撤兵が決まる。 このいくさが終わったら、おぬし浮かない顔の理由はそれだけではなか 天下人・秀吉逝去の情報が当面伏せら しんぼう った。 れたのは、停戦・講和の交渉を少しでもらのもうけ放題。もう少しの辛抱じゃて。 有利にすすめるためであった。 天下人・秀吉にそう言われては仕方が与一は窓の外に目をやり、庭の青葉に とんし 引 3 風神雷神
まぶしく照り返す陽光に眼を細めた。 評価は地に落ちた。さらに、秀吉の死ののことであった。 秀吉の姿が脳裏を横切る。 事実が公になれば民衆のこころが豊臣宗豊臣政権に忠誠を誓った者たちは、秀 与一は父に連れられて一度、秀吉に拝家から離れるのは避けがたい。 吉の死後わずか二年で一一派に分裂。雌雄 えっ 謁したことがある。個人的な好悪はとも もとより国内にはさまざまな不満がくを決することになったわけだ。 とくがわいえやす かく、あの赤ら顔の小柄な″猿のような〃すぶり、暴発の火種はあちこちに転がっ東軍率いるは徳川家康。秀吉が死にさ 老人が天下を治めていたことは間違いなている。 いして豊臣政権のあとを託した五大老の かなめいし い。 秀吉の死で要石がなくなった。 一人だ。 盗賊が横行し、海賊が跳梁跋扈する戦規律が緩み、ばらばらになる。 一方の西軍の中心は石田三成。こちら 国乱世が長くつづいた。 その結果は。 は、朝鮮出兵はじめ秀吉の意向を忠実に いくさが打ち続く世の中では、まっと たぶん、またいくさになる。 推進してきた有能な官僚型人物である。 うな商売は成立しづらい。中国の上質な与一は背後の一一人に気づかれぬよう、 が、それゆえ武将としてはスケールの点 生糸や金襴緞子といった高級絹織物、伊窓の外に顔をむけて、そっとため息をつで見劣りするのは否めない。結局、西国 もうりてるもと 年が描く見事な扇絵、宗一一が調達する高いた。 の雄・毛利輝元が西軍の名目上の盟主と 価な紙製品が求められるのも、世の中が してかつぎだされた。 治まったからこそだ。 戦いは、実質上、 朝鮮への出兵をふくめて、秀吉には民 六平家納経修理 センス 衆のこころをむ不思議な感覚があった。 家康派 ( 東軍 ) 対反家康派 ( 西軍 ) こんにち天下が無事治まっているの慶長五年 ( 一六〇〇年 ) 九月十五日 - 。 せきはら は、良くも悪くも秀吉個人に対する民衆岐阜関が原で″天下分け目の戦い〃が というべきものであった。 の絶大な人気に負うていたところがある。行われた。 全国から武将たちが手勢を率いて関が だが、一一度の朝鮮出兵が膨大な戦費と東軍七万五千、西軍八万。 原に続々と集結。 兵力をむだに費やすだけの結果に終わっ これだけの数の軍勢がひとっ場所で相二陣にわかれ、睨みあう両軍のあいだ せんたん たことで、武将たちのあいだでの秀吉の見えるのは、日本の合戦史上、はじめてに戦端がひらかれたのは午前八時頃であ ばっこ はい まみ あい にら いしだみつなり 314
にモン・サン・ミッシェル寺院が類例とてきた紙屋だ。表具師を兼ね、店の主はこんできた。ところが。 「よう来てくれはりました」 代々「紙師」を名乗っている。 して思い浮かぶくらいだ。 到着を告げると、宗一一が待ち兼ねてい 一口に紙といっても用途は千差万別、 景観としては無類。 たように飛び出してきた。しばらく見な 一方で、奉納品の保管場所としてはい種類はさまざまなら、値段も。ヒンきり ちょうけい ぶしようひげ だ。長兄が店を継いだあと、次男坊としいあいだに頬がこけ、珍しい不精髭、そ ささかやっかいな場所である。 時間とともに潮鎖びた貴重な奉納品のて比較的自由のきく宗一一は、たんに紙のれ以上に神経質になっている様子だ。 数々を、磨き、研ぎ、あるいは新たな紐卸販売だけではなく、紙について何でも「まあ、見ておくれやすー 相談を受けてアドバイスを与えるコンサ手を取らんばかりにして、神社の一隅 で綴じ直す。 ものがものだけに失敗は許されない。 ルタント業、さらには適切な業者を紹介にもうけられた作業場へと伊年を案内し こ 0 全国各地からさまざまな分野の職人たする仲介業まで商いのはばを広げた。 ちが呼ばれた。 もともと人好きのする宗二の性格とも「本格的に修理が必要なんは、ひとまず そのなかに紙屋宗二が含まれていたのあいまって、最近では京や堺の町人・商この三巻ー 人たちからばかりではなく、公卿・武家そういって、作業台の上の経典巻物三 には理由がある。 奉納品のなかに、ひときわ異彩を放つ大名など身分の貴賤を問わず、さまざま巻を指し示した。 だいせんはっそう 品があった。 な人々から種々多様な依頼が宗一一のもと題箋、発装には金銀透かし金具をあし じくばな たいらのきよもり らい、軸端は水晶。見事なっくりだ。さ 平清盛が自ら筆を取り、手ずから奉に舞い込むようになっていた。 京で一番の経師屋、紙のことなら何ですがは、平安時代の装飾技術の集大成と 納したと伝えられる法華経経典一式だ。 うた 謳われるだけのことはある。それにして 金銀の金具をあしらった豪奢な銅製のも承ります。 経箱をひらいてたしかめると、やはり一 その謳文句を聞きつけた福島公が宗一一もーー いた ずいぶんな傷み具合である。 に声をかけてきた、というわけだ。 部に潮による腐食がみとめられた。 宗一一は眉を寄せ、経典の表に指をそっ 経典と武具を同列に扱うわけにはいか昨今、飛ぶ鳥を落とす勢いの福島公か ない。 らの依頼だ。紙職人としての自負も自信とはしらせながら、早口に説明した。 ようよう こうぞがんび 宗一一の家は、ふるくから京で紙を扱っもある。宗一一は意気揚々と安芸国に乗り「料紙は鳥子紙ーー楮と雁皮の皮をまぜ わけ けきよう かんや うたい きようじ きせん ひょうぐし 0 とりのこ 318
宗二の声に、伊年ははっと我に返った。す。それから、もう一つ」 のひどく高価な磁器の面を見ているよう 一瞬、自分がどこにいるのかわからな表紙の装丁には薄絹が使われていた。 な気分にもなる。 しばたた かった。目を瞬いて、あたりを見まわ紙ではなく薄絹に描かれていたから、絵経典づくりに携わった者たちは、清盛 ちり す。 が消えてしまったのではないか、と宗一一を含め、皆とっくに死んで塵になってい 「えろう熱心に見てはりましたけどは自分の推理を述べた。 る。ただこの経典だけがこうしていまも 宗一一はその後もなお紙独自の優れた点残って、見る者を魅了する。 遠慮がちにたずねる宗一一をぼんやり眺についてあれこれ語っていたが、伊年は たしかに、狩野派や土佐派が描く今様 めているうちに、思い出した。 途中から話を聞いていなかった。 の絵とはまるでちがう。 平清盛が厳島神社に奉納した装飾経経典に目が吸い寄せられる。 一一 = ロうならば、いまを生きている者の目 典、全三十一一一巻。 表紙と見返し部分に、それぞれ絵もしを楽しませるためだけに描かれた絵では 修繕の必要な三巻を除けば、経典の表くは装飾が描かれている。平安時代の絵ない。絵を描いた者たちは、未だ存在し 紙・見返しに描かれた絵はいずれも四百師たちが、四百年以上も前に描いたものない誰か、いっかこの絵を見るであろう 年前に描かれたとは思えないほど色鮮やだ。 誰かの目を確信しているようだ : かな原形を留めていた。 はじめて見たとき、伊年は息ができな伊年は、自分でも不思議なほど経典絵 「紙ちゅうもんは本来、保管状態さえよくなった。 に魅了された。 ければ、四百年が五百年でもこのとおり 形や色のあいだから音が聞こえた。 こんな機会はめったにあるものではな 丈夫なもんどしてな。千年はもつ、言う次の瞬間″ここではないどこか〃に連い。 者もおるくらいどす れていかれた。あえて言うならば、絵に この仕事、俺にやらせてくれ。 宗一一は自慢げにそう言うと、ぐすりと封じ込められていた上代の空気のなか伊年は経典に目を落としたまま、どく けんらん 一つ鼻をすすり、 に、だ。優美で繊細、絢爛豪華。しっと りと唾を呑み込むようにして言った。 「修理が必要な三巻は、経箱の隙間からりとした情感をただよわせながら、どこ 「ほんまどすか ! 」 潮が入りこんだんか、しまうときに潮がか醒めた飄逸味を感じさせる不思議な世宗一一がばっと顔を輝かせて飛びついた。 ついたままやったんやないかと思いま界だ。一方で、かたく、冷たい、唐渡り「おおきに、ありがたい ! わいも、伊 おもて 320
「あ 1 あ、またこれやー 慮してのことではなく、自分の店が納め三本の指に入る豪商である。 角倉家の現当主は、与一の父・角倉了宗二は与一と伊年の顔を交互に見比 た素性の知れた紙だからだ。 以。筋骨たくましい、長身の、まるで赤べ、大袈裟にあきれてみせた。 宗二はゆっくりと扇を動かし、 へえ、た鬼のような魁偉な形相の人物である。子「二人とも、エ工かげんしつかりしても 「ひやひや。こりやまた : ・ 供のころ、はじめて与一の父を見たとらわな困りまっせー いしたもんやな」 そういって唇を尖らせている。 と感心した様子で声をあげた。そのまき、伊年と宗一一が思わず走って逃げ出し たくらいだ。 伊年と与一は顔を見合わせて、思わず まひょいと振り返り、 父親とは対照的に、与一は小太りの丸吹きだしそうになる。 「与一はんもこっちへ来て、まあ見てお 一番年下の、しかもただの水を飲んで くれやす。伊年はんが、またエライもんっこい体つき、短めの手足に、盃を持っ 指さえふつくらとした印象がある。色白いる宗一一に「しつかりしろ」と叱られる 作らはりましたえ の肌は赤ん坊のように滑らかで、いつものも妙な話だ。 と屈託のない声をかけた。 窓際に腰をおろし、庭を眺めながら蝿笑みを浮かべているような穏やかな容貌三人でいると、昔からよくこんな具合 しぐれ になる。 時雨に耳をかたむけていた相手が振り返は母親に似たのだろう。 っ ( 。 宗一一同様、与一とは子供同士の遊び仲 当年とって二十八歳。 すみのくら 間として知り合った。それ以来の付き合 一緒に飲んでいる三人の中では一番の いだ。かれこれ二十年近くになる。近所 わずかに下膨れ気味の丸顔。目も鼻も年長者だ。 で年齢が近く、商家に生まれた事実もさ ロもちまちまとした、どこか雅な感じが「なあ、与一はんはどない思います ? 」 ることながら、結局はうまがあったとい 「ん ? どないって : : : 何の話やったか する若者だ。 うことだろう。 いなー じつを言えば、伊年、宗一一、与一の三 三人はいまではそれぞれ立場を異にし 人が集まって酒 ( 宗一一はただの水 ) を飲与一が首をすくめ、申し訳なさそうに さがの ながらも、集まれば昔のように気のおけ んでいるのは、嵯峨野にある角倉の別邸宗一一に訊き返した。 「ちょっとぼんやりしとって、聞いてへない間柄だった。 だった。 角倉は、後藤・茶屋とならんで、京でんかった」 よいち ごとうちやや みやび かいい りよう 302
て漉いた紙で、卵色をしとるんで鳥子そう思って顔をあげると、宗二は気まとおりどすー 紙。温かで、筆の走りが良いのが特徴どずい様子で視線をそらせた。 宗一一は片手を顔の前に上げて拝んでみ つけぞめひきぞめ すな。これを漬染、引染して、一紙ごとすでにかれらに頼んで、断られた。そせる。 に色変わりを出して、経文も料紙の色のういうことだ。 無茶、いいよる。 変化に応じて書き分けられとります。鳥狩野派の絵師たちは、経典修理など経伊年はくすりと笑った。 子紙はほんまはえらい丈夫なものなんど師屋の仕事として一段低く見ている。や困ったときの何とやらだ。 すが、この三巻は、潮が入り込んだせいまと絵を得意とする土佐派の絵師たちに 「なあ、そんなことより」 いた なんか、きつう傷んどります。それは、 しても、事情はまず同じだろう。 「なんでつしやろ ? 」 まあ、こっちで何とかします。問題は そのくせ、今回の仕事は万が一のこと 身を乗り出した宗一一に、伊年はにつと があれば文字通り首が飛ぶ。あえて火中笑い、舌なめずりをするようにしていっ こうなん 宗一一は言葉を切り、顔をしかめて、巻の栗を拾うようなものだ。後難が怖くてた。 物の端の部分をひらいて伊年に見せた。 引き受けないのも無理はない。 「はよう、ほかの経典の絵も見せておく 表紙と見返しがぼろぼろだ。 「どないいうたら、エ工んやろか」 れ」 そこに描かれていたはずの絵がほとん 宗二は視線をそらしたまま、もぞもぞ伊年の側でも、なにも宗一一が困ってい ど消えかかっている。 と一一 = ロった。 ると聞いて、はるばる安芸国くんだりま いまよう 新たに絵を描かなければならない。 「狩野派や土佐派の絵師が描く今様の絵で足を運んだのではない。 せわ となれば、宗二の手に余る仕事だ。しはなんや忙しゅうて、この経典にはあわ面白い絵がある。 かし。 んような気がするんですわ」 そのことばにひかれて来たーーーお互い 伊年は首をかしげた。 なるほど、後付けでも理由は理由だ。様だ。 ゆいしょ かのう 由緒ある平家納経だ。御用絵師の狩野かといって、誰にでも頼めるたぐいの仕 きゅうていえどころあずかり 派、もしくは宮廷絵所預を務めてい事ではない。 た土佐派の絵師たちに依頼すれば良いで 「ここはひとつ、伊年はんを京で一、い はないか ? いや、天下一の絵付師と見込んで。この とさ す 「どないです ? 」 319 風神雷神
しばらくは呆気にとられた様子であった。 同時に、経典の絵を見たとき自分が何 ・ : 気は、たしかどすか ? 」 に強くひかれたのかを思い出した。平安願文表紙は″薄〃 の王朝風の空気だ。しっとりとした、こ見返しには″背中を丸めた鹿が足下の黒大がおあずけをくらったような宗一一 の顔に、伊年は思わずふきだした。 まやかな情感をもっているくせに、その草を食む図〃を描く。 かろ ぞくるいほんけじようゆにん 「たしかも、なにも、見立てや懸詞は王 他の一一巻 ( 嘱累品、化城喩品 ) につい 奥に漂う軽やかさ。一種のユーモア。 じようとう それが、見てもらおう、見てもらおうても、州浜、磯山に波形文様、それに松、朝和歌の常套手段ゃないか」 まき 大丈夫。これで合うとる。 と肩をいからせた今様の絵とのちがい梅、槙を配した構図がすらすらと決まっ からりと請け合った伊年は、少し考え た。いままで悩んでいたのが嘘のようだ。 ど。だから、これまでに伊年が目にした どんな絵を当てはめてもうまくいかなか金銀泥をふんだんに使って描き上げらて小声で付け足した。 そもそも誰も見たことがない絵な った。他の経典絵のあいだにおくと、どれた絵を見て、宗一一はちょっと妙な顔を した。 んやろ。合うとるもなにもないわい。 んな絵も場違いな気がする理由だった。 自信満々、平然とうそぶく伊年は、ま 顔をあげ、ふたたび社殿の背後の山肌「ええ絵やとは、思いますけど : : : 」 に目をむけた。 上目づかいに伊年の顔を覗き見る。伊るで人がちがったような朗らかさだ。宗 二はなんだかそら恐ろしいような感じ 子鹿を連れた親鹿が、背中を丸めて足年が知らん顔をしていると、絵を眺め、 さんざん首をひねっていたが、降参したで、それ以上はなにも言えなかった。 下の草を食んでいる。 数日後。 そのとき、社殿の背後の山の端から朝様子で意味をたずねた。 あき あき 傷んだ経絵は、伊年が描いた新しい絵 薄は秋、つまり安芸国。 日がのっと顔を出した。 ろくはら に改められ、「平家納経」修理修繕が終 伊年は目を細めた。柔らかな風が頬を鹿は厳島神社の鹿が草を食む鹿原と、 ろくはら かけことば なでるように吹き抜けてゆく。 平清盛の住まいがあった六波羅の懸詞。了する。 急に肩の力が抜けた。 鹿の背中の丸みを土坡から上る ( 沈宗二が恐る恐る差し出した経典一式神 雷 神 は、福島公によって無事嘉納された。 目の前の霧が晴れ、描くべき絵が決まむ ) 月 ( 日 ) の曲線に見立てた。 風 った。 ( つづく ) 伊年のこたえに、宗一一は目を丸くし、 すすき いた ほが かのう
妙な成り行きで、おくにと一夜をともにすることになった いまも宗二が玻璃の器から盃に注いで呑んでいるのはただ 翌朝。 の水だ。 顔を洗って帰ろうとする伊年を戸口まで送って出てきたお それで″子大のように〃陽気にはしゃいでいるのだから、 くには、別れぎわ、独り言のように、 たいしたものだった。 また来るといい。 「その扇どすか ? 」 たもと と低い声でぼつりと呟いた。 宗一一が、伊年の袂からのぞいている扇を目ざとく見つけ、 また ? 身を乗り出すようにしてたずねた。 「こないだ伊年はんが話しとった新しい工夫いうのんは、そ伊年は足を止め、半信半疑の思いで振り返った。 おくには顔を伏せていて表情が読めない。わずかに覗く口 の扇のことやおまへんのか」 もとには、どっちつかずの半端な笑みが浮かんでいるばかり 伊年は苦笑して、手にした小盃を卓の上に置いた。 袂から扇を取り出し、開いて見せる。 きんでいじ 唐突におくにが顔をあげ、ぞくりとするような目付きで伊 金泥地に極端に簡素化された雲形模様。 扇をゆっくりと動かすと、扇のなかに雲がむくむくとわき年を見た。 ーー次くるときは扇をもってきて。 あがる。一陣の風がたしかに感じられる。 今度ははっきりした声でそれだけ言うと、たちまち身を 「ひやひや」 ひるがえ 宗一一が目を丸くして妙な声をあげた。感心したときの宗一一翻して家の奥に駆け込んでいった。 あぜん 伊年は唖然として、おくにの後ろ姿を見送った。われに返 のくせだ。 伊年は、すぐにばちりと扇を閉じ、元のように袂にほうりったのは、しばらくたってからのことだ。 しんかん 耳を澄ませてみたが、家の奥は森閑として物音ひとっ聞こ 込んだ。 えない。 小盃を取り上げ、黙って酒を飲む。 家のなかに人がいるような気配は一切感じられなかった。 実際、酒でも飲むよりほかに、どう仕様もない感じだった。 周囲を見まわすと、どうやら伏見に抜ける街道を途中で外 しよう はんば ふしみ 299 風神雷神
と、別段声をひそめることなく、ある 【としての上層町衆の台頭をもたらし「どないしはりました ? 」 宗二が、ひょいと与一の顔をのぞき込秘事を口にした。 こう ーーー太閤が薨ぜられた。 むようにしてたずねた。 その中心的存在が、角倉一族だ。 驚くべきことに、角倉了以はこのころ「今日はなんや、えらい疲れた顔しては 宗二と伊年、二人の動きが一瞬びたり と止まった。 すでに別の事業を夢想しはじめている。 りますけど、何ぞありましたのか ? しゅんせっそっう 今度は河川の浚渫・疎通工事だ。了以与一は視線をついと窓の外にむけ、唇それぞれ眉を寄せ、妙な顔をしている。 「えー、ほんならなんです」 は河川を利用した運搬業務に強い興味をの端をかすかに歪めた。 宗二が首をかしげるようにして与一に 示し、その準備と下調べにとりかかって久しぶりに嵯峨野の角倉邸にこうして いた。人工的に河川の流れを変え、運河三人が集まったのも、与一の声かけによたずねた。 をひく前代未聞の大事業である。巨大船るものだ。 「秀吉公が死んだいう、京の町でいま流 による南海貿易の次は人工運河の建設。 なにか話があるのではないか、と勘のれとるあの噂はホンマやったと : ・ びん 商機を見るに敏 良い宗一一が気をまわしたのも無理はない。 というには、あまりに凄まじい、信じ 一方で、もう一人の " 幼なじみ〃伊年与一は己の唇に指をあて、声をひそめ るよう促した。 られないほどのバイタリテイだ。やはりは卓にひじをつき、ひらいた扇を顔の前 にかざして、ぼんやりと眺めている。 「あっ、えろうすみまへん」 一種の異常人というほかあるまい。 宗一一は首をすくめた。すぐに左右を見 貿易業務は、息子・与一に一任された。 それぞれ″らしい〃といえば ) らしい〃 回し、 与一は父の期待に応え、ある意味では態度だ。 「ほんでも、なんですえ。秘密も何も、 相変わらず。 期待以上に、商売をきりまわしてきた。 だからこそ、こうして久しぶりに会いそれやったら、京の町でとっくに噂にな 了以が次にやろうとしている新事業が波 ってまっせ ? 」 に乗るまで、一族の収入は与一が支えてたくなったともいえる。 いくことになるのだが 「ま、そやろな」 与一はふっと小さく笑い、体どと宗一一 にむきなおり、 与一はロのなかで呟き、 時代は刻々と動いている。 「それでも、いちおうここだけの話やー 「ここだけの話やー 309 風神雷神