湯ロはなぜ早く映美の話を聞いてやら仕事とは関係ない部分だけであって、こ「嘉手納 ! 捜査してんのか , なかったのか、心底悔やんでいた。あのと仕事や組織がかかわったことになる丸藤が続けて声をあげた。会議室がざ から とき自分が彼女との約束を守り、相談にと、万力でも割れないクルミの殻のなかわっきはじめた。 乗っていれば、こんなことにはならなかに閉じこもってしまう。その殻をまとっ嘉手納が両腕を組んで眼を閉じている ったはずだ。湯ロはそう悔いた。 たまま引退していった先輩たちを何十人のを怒ったようだった。だが、そういう 捜査一課長の丸藤はいらだちこそ見せも見送ってきた。 とき、嘉手納が寝ているわけではないの ても、部下たちに何も語らなかった。憶 は、いつも隣にいる湯ロは知っていた。 測が憶測を呼び、丸藤と嘉手納の関係が 嘉手納がガタンと椅子を鳴らして立ち 捜査員たちのあいだで噂になっていた。 上がった。そしてそのままドアのほうへ いわく「若いころに嘉手納と丸藤が映美夜の捜査会議はいつも延長となった。歩き、外へ出ていった。丸藤が急ぎ足で ちくいち を取り合って、どちらも袖にされたらし報告内容は逐一質問が繰り返され、検証それを追った。立ちかけた湯ロの袖を隣 い」、いわく「いや、映美のほうが課長されるが、実際のところ捜査は遅々としの嶋田が引っ張った。 いさか のことが好きで、それを嘉手納さんに相て進んでいない。 「やめとけ。上の諍いに首を突っ込ん 談していたんだ」。だが、どれもこれも捜査員たちの疲れは極限に達していで、嫌な思いをした仲間をたくさん見て こうとうむけい しやくねっ 荒唐無稽な話だった。 た。灼熱の太陽の下での捜査も、柔道場きた。おまえだってあるだろー あお 嘉手納も丸藤も、普段はふざけているでの集団生活も、そしてこの延々と続く 嶋田は薄く蒼ざめていた。 ところや人格的穴のようなものを若い者夜の捜査会議も、もううんざりだった。 顔に感情を出さない嶋田には珍しいこ 0 き - ま、・こら・ たちにちらちらと見せるが、それがべテ 「おい、嘉手納 ! てめえやる気あるのとだった。そして横の佐々木豪となにか ラン警察官の韜晦戦術で、部下たちに本か ! 」 話しはじめた。佐々木は話しながらちら 心を見せないためであるのは、十年この大声があがった。 ちらと湯口を気にしている。会議室内は 世界で飯を食った者なら誰でもわかる。 ざわっいたままだった。 丸藤だった。 彼らべテラン警察官が本心を見せるのは頬を朱に染めてこちらを凝視していた。 前に並んで座る幹部たちがなにか小声 とうかい そで ぎようし 348
わけではなく、新聞の天気予報欄に記された不快指数は連日あまりに静かなのでまわりが心配していた。風呂に入ってい 九〇を超えた。この夏は、あまりに暑く、あまりに湿っていないのだろう、軽トラックで移動しているとき、ときどき強 こ 0 い体臭がした。しかし嘉手納を傷つけたくなくて、余計なこ 朝とタ、署のロビーに瓦崎市の主婦有志たちが交代で来とは湯ロは言わなかった。 て、炊き出しをしてくれるようになったことだけが小さな救尾田映美という名の彼女は、生年月日と年齢は、日活でポ いだった。 ルノ女優をやっていた時代のプロフィールどおりだった。そ 年輩者ばかりだが、女性がいるだけで場がなどんだ。 ういう意味で、彼女はリアルを生き、むしろまわりが彼女に しかし彼女たちは女一一人を殺した殺人者が許せないという 幻想を抱いていただけだったのかもしれない。 単純な気持ちで来ているのかと思ったが、そうではないよう署内では嘉手納と映美の間に何があったのか、さまざまな おくそく ヾこっ ( 0 憶測が噂となっていた。しかしそれが陰口にならず、みな最 ときおり作業しながら主婦たちが話す内容を聞くでもなく後は「嘉手納さんだから、何か理由があったんだろう」とい 聞いていると、彼女たちは殺された二人が風俗嬢だったことう話に落ち着いていく。捜査は自分勝手なこときわまりない けい・ヘっ をかなり軽蔑していた。語られる内容はしかしステレオタイ が、不思議な人徳だった。 あいこ ていしゆく プの貞淑な女をよしとする話で、そういうことに比較的真面ときどき娘の愛子が署を訪れて嘉手納と話していた。嘉手 目な湯ロでさえ閉ロするようなやりとりだった。だが、いっ納のいないときに愛子と話すと、とくに用事があるわけでは たい人間に変わりがあるだろうか。 なく、あまりに落ち込んでいるし、ほとんど家に帰ってこな くなったので心配で来ているだけだと言った。大学が完全に 「ええかい。人間の生き様に上下なんてないんで」 ひろしま 捜査の合間合間に広島弁で言っていた嘉手納の一言葉が、な夏休みに入ったので、家庭教師のバイトの日以外は暇だとい 夜 うことだった。お父さん、署にも泊まってないと聞きました、 ぜか主婦たちの背中を見ながら思い浮かんだ。 い はた つら その嘉手納の落ち込みかたは、傍からみても辛かった。 どこで寝てるのかご存じですかと愛子が言った。しかし湯ロ鮑 事 得意の軽ロは消え、肩を落とし、いつも下を向いて歩いても夜にわかれてからの彼の私生活は知らなかった。 刑 いた。ときどき地域課長や市長と将棋をさしているときも、 落ち込んでいるのは嘉手納だけではなかった。 かでな につかっ
いてください。嘉手納さんのグループはくれないか」 署時代に一緒で、直接の上司部下だった 独得の捜査をします。函館さんと緑川さ「俺が : : : か」 という。嘉手納はドロ刑の間では伝説的 んもそうです。まわりからどう見られる「どうした。嫌なのか 存在だったそうだ。しかし、あの性格ゅ かということよりも、仕事を前に進める郁のことを考えた。相棒として常に緑えに、丸藤とは何度もぶつかり合ったの ことを最優先に動きます。 川と一緒にいる。彼女をしばらく引き離だという。 正直いいますと風俗の女性たちとずいせないだろうか。いや、郁の前で映美の 「へえ。伝説になるようなドロ刑なの ぶん親密にしているという話は、署内で話をして、緑川に恥をかかせてやろうか か、あの人は」 は有名なことです。でも、それが良いと という嫌な思いが一瞬わきあがり、自分嶋田がお好み焼きを頬張りながら言っ こ 0 か悪いとかじゃないですよ。なぜかはわの小ささに心中で舌打ちした。 かりませんが、あの人たちはあまり悪く「まあいい。状況をみて、頃合いのいい 「ええ。すごい人みたいです。愛知県警 は言われないんです。人なつつこいとこ ときに話してみてくれ」 のドロ刑で、嘉手納さんのことを知らな ろがあるからかもしれませんが、おそら 嶋田が言った。 い人はいないって聞きました」 くあの人たちが人のために動いてるから そこへ女将が焼き上がったお好み焼き そこから嘉手納や丸藤の若いころのさ じゃないかなって僕は思うんです。発心二枚を持ってきて、鉄板に載せた。いちまざまな話が出た。誰にでも若い時代が が違うところにある。欲がないんです。ど戻ってもう一度やってきて、残りの一あったということを、自分たちは普段忘 佐々木は彼らのことを心底好きなよう枚を載せてガスの火をつけた。三人で皿れているんだなという話になった。お好 やこっ ( 0 み焼きを食べ終わると、嶋田がカウンタ に取って食べながら話した。 「じゃあ映美と寝ててもまったく驚かね「僕は若いんであんまり知らないんですーに向かって焼きそばをひとっ頼んだ。 えっていうことだな」 が」 腹が減ってしかたがないと言って、瓶ビ夜 た 嶋田が念押しすると、佐々木はゆっく 佐々木が前置きして話しはじめた。 1 ルも二本頼んだ。 い り肯いた。それを確認した嶋田は今度は どうやら派出所の稲田部長と鴨野から「よし。俺と佐々木はもう少し時間をつ鮑 湯口に振った。 聞いているようだった。 ぶしてから署に戻る。一緒に帰ったらま 「おまえ、緑川君とちょっと話してみて嘉手納と丸藤は、若いころ名古屋の北 た何を噂されるかわからんからな。とに
だ。どんな話があろうと保秘に関してはがいるか聞いてくれ』って俺に頼んでき嶋田はコップを手にして水をあおった。 心配ねえ。会議に上げるかどうかもおまたんで、何もないような気がするー そして視線を佐々木のほうに移した。 えが決めればいい。俺たちを信用しろ。 「そんなことわかるかよ。商売で何度か「佐々木、おまえはどう思う」 とにかくまずは、俺たちに言え。映美と寝て、それで好きになって、女がいるか「どう思うとはどういうことでしようかー なにがあった」 知りたくなったのかもしれんぞ」 「緑川がどういう人間か、ここで一番詳 湯ロは溜息をついた。 嶋田の言葉を聞き、そういうことならしいのはおまえだ。映美っていう女と寝 嶋田はまたじっと眼を合わせてきた。何か手がかりになることがあるかもしれてたと思うか」 「わかった・ : ・ : 」 ないと、湯ロは内ポケットから手帳を出「どう : : : でしようか : : : 」 いきさつについて話しはじめた。 して開いた。映美と話したやりとり、話佐々木は困っていた。 彼女が緑川のことを好きなようだといしているときの映美の表情がすべて書い 「どうでしようかってなんだ。聞いてる うこと、嘉手納とは昔からの知り合いだてある。もちろん嘉手納や函館君、そしのは俺だ。俺の質問におまえが答えるん かたおかさち ったようだということ、彼女が片岡佐智て緑川との食事会でのやりとりも事細かオ ど。緑川と映美は寝てたと思うか [ 子殺害について何か情報を持っているとに書いてあった。嘉手納とコンビを組む「ええとですね : : : 」 言い、それを湯口に伝えようとしていたようになってから、いつの間にか彼らと そこで言い淀み、テーブルに視線を落 こと、嘉手納にそのことを話したらその同じように細かいことをメモするようにとした。 話は黙っていろと言われたことなどを順なっていた。 嶋田の眼が光った。 を追って話した。 「なんだ、おまえ、そんな細かい字で手これは「ありえる」という一一 = ロ葉が出て 「なるほどな」 帳書いて」 くると、湯ロでさえ思った。そしてやは のぞ 身を乗り出して聞いていた嶋田が両腕嶋田が覗き込んだ。 り佐々木が継いだのは「寝てたかもしれ を組みながら上体を起こした。 湯ロは反射的に閉じた。嶋田が苦笑いません」という言葉だった。 「じゃあ、映美と緑川君とは何か関係がしながら小さく首を振った。見られたく 僕が言わなくても、もう噂になってる あったのか ? 」 なかったのは、郁のことが少し書いてあでしようし、これから出てくるでしよう 「それは知らん。でも『緑川さんに彼女ったからだ。それを知ってか知らずか、 から、まずはここの場だけの話として聞 354
「こりや、本物の動物園より臭えかもしれねえな」 プリーフ一枚の嶋田は、顔を上げては何度も言った。 嶋田の大声が上がるたびに四係の連中のあからさまな舌打 ちが聞こえた。昨秋あたりから、三係と四係の間に小さな溝 ができていた。湯ロはうんざりしていた。三係内のいざこざ に加え、この四係との確執、そして瓦崎署員たちとの人間関 係と、面倒なことが複層的に重なってきている。 消灯後はやるせなさが混じった男たちの寝息が気になって なかなか眠りに入れない。隙間なく敷かれた布団は、寝返り をうっと隣の男の寝顔が眼の前二〇センチにあることも珍し くない。深夜になっても昼の間に建物が吸収した太陽熱が、 延々と男たちの体に放射され続ける。無風の熱帯夜ばかりが うんき 続き、温気はどこにも逃げ場がなく、ただこの柔道場で男た ちの寝息と混じり合って漂っていた。 やるせなさは、この団体生活だけにあるわけではなかっ た。ふたつの殺人の被害者が、下層の女であることも原因だ った。普段は快活な捜査員でさえ、苦り切った表情で被害者映美の死体が発見された日から、なぜか毎日のようにタ立 ためいき 一一人の境涯を囁き合っては溜息をついた。捜査員各々の心のがあった。夕方になると日蝕のように空が真っ暗になり、黒 おりちんでん いなずま 雲から稲妻が光った。 内に、署の裏側にある暗い沼と同じように澱が沈殿してい 雨が降らなかったころは捜査員たちは雨を求めて愚痴を言 た。湯ロも例外ではない。 ぬ い合っていた。しかし今度は連日の雷雨にスーツと革靴を濡 らされ、ストレスで表情が険しい。しかも雷雨で涼しくなる ささや しまだ 前回まてのあらすし 元風俗嬢が殺害された事件二日目の捜査が終わった深 で、愛知県警本部捜査一課の夜、湯ロは密かに昇任試験の ゅぐちけんじろうかわらざき 湯ロ健次郎は瓦崎署に詰めて勉強に励む。が、問題集のコ いた。相棒となるのは同署生ピ 1 を置き忘れ、翌日、捜査 かでな 活安全課のべテラン、嘉手納から戻ると署内で噂の的とな ようへい 洋平。夜も更けた頃、生安のっていた。なぜか嘉手納が持 みどりかわすずき はこだて 緑川、鈴木 ( 函館君 ) とともち主として名乗りを上げるが、 に地元の手羽先屋〈行き、そ二人の溝は埋まらない〕一。方、 の後、繁華街で深夜の聞き込捜査は新人警官の佐々木豪が みを行った。翌日、湯ロと嘉加わるものの、難航していた。 手納は遺体発見現場と被害者そんな中、新たな被害者が出 が共同経営していたデリへルてしまう。嘉手納と仲がよく、 えい 事務所を訪れるが、捜査方針湯ロも気を許し始めていた映 の違いから口論になる。 美が死体となって発見された。 346
どまで会議に出ていた瓦崎署の刑事たち視線をまっすぐ前に向けたまま、不自然ぎ、ワイシャツも脱ぎ、ランニングシャ が数人たむろして、地域課長や交通課長ではない所作でその細道へ折れた。 ッ一枚になった。 と話し込んでいた。彼らの眼がこちらを 一一〇メートルほどの間隔ごとに小さな低層の建物が続いたり、高層の建物が 注視しているような気がした。 街路灯があるが、それ以外は民家の窓か続いたあとに、左手に薄暗い西洋の城の ガラス扉を押して外に出ると、熱湯のら漏れる灯り以外ないので、眼が慣れるような建物がいくつか見えてきた。 湯気のような風が、巨大なヘビがとぐろのにしばらく時間がかかった。位置的に 「ラプホテル街です。瓦崎ではここに四 を巻くようにして、辺り一帯を抱え込んはおそらくピンサロなどの風俗店や飲食軒が固まってます。昔からあるものみた でいた。 店の入った繁華街の三つほど奥に入ったいで、ほかでは許可がおりないんで、瓦 嶋田を探しながら交差点まで歩くと、 小道だと思われた。ほとんどが民家で、崎市の不倫している人たちは、みんなこ 彼はすでに横断歩道を渡り、建物の谷間 ところどころに一一階建てか三階建ての小 こを利用してるらしいですー たばこ で煙草を吸いながら二人を待っていた。 さなマンションが見えた。車がすれ違う佐々木が笑った。 信号は赤だったが両サイドに車はなかっ ことができない細い道は、そのほとんど おそらく近隣の苦情があってだろう、 た。湯ロと佐々木が急いで道路を渡るが一方通行だった。 どこも建物には装飾をほどこしてはある と、嶋田は煙草をアスファルトに落とし 三人は交互に後ろから誰も来ていないが、名古屋市内のそれのようにネオンが て革靴でもみ消し、額の汗を袖で拭つのを確認し、近くに寄って話しながら歩光るわけではなく、ただ駐車場と建物の た。湯ロの体もすでに下着の下で汗ばんいた。捜査のこと、嘉手納のこと、そし入り口に小さなライトが灯っているだけ でいた。 て刑事になりたい佐々木の将来についだった。 「行こう。どこだ」 て。さらに名古屋の西署の地域課にいる さらに十分ほど歩き、民家の塀の上に 嶋田が聞いた。 佐々木の父のことも話した。あまりに暑伸びた大きな松の樹を佐々木は左に折れ 「裏道から行きましよう」 いので、途中の自販機で冷たいジュースた。湯ロと嶋田も続いて曲がると、佐々木 佐々木が署のほうを気にしながら細いを買って飲み干した。すでに勤務時間でが古い民家の前に立っていた。よく見る 道にすっと入っていった。湯ロも嶋田もはないので、三人とも途中で上着を脱とその前にはうっすらライトアップされ あか と、も 350
なつめかおる で囁きあい、手元の書類の束を整えはじいた。 いく。佐々木も続いた。嶋田の大きな背 めた。 湯ロは郁と視線を合わせないように近中を見失わないように雑踏をかき分けな 「今日はこれで終わります。散会 ! 」 づき、左手を軽く上げてから右手親指でがら湯ロは追った。 副署長の声で、ざわっきながらもみな軽くドアのほうをさした。緑川が合点しすれ違う者のなかにはすでにジャージ うなず が立ち上がりはじめた。ガタンガタンと たように二度肯いた。 とサンダルに着替え、洗濯物を抱えて地 いう音に続き、パイプ椅子が床をこする湯ロは人混みを分けて外へ急いだ。 階へ急ぐ者たちもいた。洗濯機は計四台 みみざわ 耳障りな音があちこちから聞こえた。 「湯ロ、てめえうぜえぞ。早く昇進してに増やされていたが、足りるわけがな いなか 「おい、湯ロ・ーー」 田舎の所轄に行ったらどうだ」 、取り合いになっていた。 嶋田が立ち上がり、顎で出口をさした。 誰かが言った。三係の面々が振り向い 階段を降りていく嶋田がちらりと上を あざけ そして佐々木の肩を叩いてさっさとドて失笑しながら嘲った。むっとしながら見て湯ロたちがついてきているのを確認 アのほうへ歩き、みなを押しのけて外へ湯ロは外に出た。 し、さらに急ぎ足で降りていく。 出ていった。佐々木は湯口を気にしなが雑踏のなかで壁際に立った嶋田と佐々佐々木とともに一階に降りたときに は、すでに嶋田はロビーから出ていくと らそれに続いた。早く出ないとドアのあ木が何かを話していた。 たりが混んで動けなくなるのだ。 「おう、来たか」 ころだった。湯ロはそれを確認して数歩 みどりかわ 湯ロも立ち上がろうとすると、緑川と嶋田がこちらに気づいた。 前を行く佐々木の足もとを軽く蹴り、「お 夏目郁が立ったままこちらを見ていた。 近づくと、湯ロの腰を叩き、耳元で囁い、ゆっくり歩け」と小声で言った。 晩飯に誘おうと待っているのだ。その後いた。 佐々木が驚いたような顔で振り返った。 ろには函館君もいて、一一人を雑踏から守「佐々木が知ってる店がある。いつもの「止まるな。前を見てろ。ゆっくり歩け」 夜 るように立っている。このところ深夜の店じゃまずい。かなり離れてるらしい湯ロはまた小声で言った。 い 食事会には、嘉手納は来たり来なかった が、そのほうが都合がいい。おまえも付佐々木が察して硬い顔でペースを落と 事 した。 りした。来るときも口数は少なかった。 き合え」 刑 だから食事会は緑川と函館君が仕切って そのまま階段のほうへ急ぎ足で歩いて左側の地域課と交通課の島には、先ほ はこだて あご
しばらくは呆気にとられた様子であった。 同時に、経典の絵を見たとき自分が何 ・ : 気は、たしかどすか ? 」 に強くひかれたのかを思い出した。平安願文表紙は″薄〃 の王朝風の空気だ。しっとりとした、こ見返しには″背中を丸めた鹿が足下の黒大がおあずけをくらったような宗一一 の顔に、伊年は思わずふきだした。 まやかな情感をもっているくせに、その草を食む図〃を描く。 かろ ぞくるいほんけじようゆにん 「たしかも、なにも、見立てや懸詞は王 他の一一巻 ( 嘱累品、化城喩品 ) につい 奥に漂う軽やかさ。一種のユーモア。 じようとう それが、見てもらおう、見てもらおうても、州浜、磯山に波形文様、それに松、朝和歌の常套手段ゃないか」 まき 大丈夫。これで合うとる。 と肩をいからせた今様の絵とのちがい梅、槙を配した構図がすらすらと決まっ からりと請け合った伊年は、少し考え た。いままで悩んでいたのが嘘のようだ。 ど。だから、これまでに伊年が目にした どんな絵を当てはめてもうまくいかなか金銀泥をふんだんに使って描き上げらて小声で付け足した。 そもそも誰も見たことがない絵な った。他の経典絵のあいだにおくと、どれた絵を見て、宗一一はちょっと妙な顔を した。 んやろ。合うとるもなにもないわい。 んな絵も場違いな気がする理由だった。 自信満々、平然とうそぶく伊年は、ま 顔をあげ、ふたたび社殿の背後の山肌「ええ絵やとは、思いますけど : : : 」 に目をむけた。 上目づかいに伊年の顔を覗き見る。伊るで人がちがったような朗らかさだ。宗 二はなんだかそら恐ろしいような感じ 子鹿を連れた親鹿が、背中を丸めて足年が知らん顔をしていると、絵を眺め、 さんざん首をひねっていたが、降参したで、それ以上はなにも言えなかった。 下の草を食んでいる。 数日後。 そのとき、社殿の背後の山の端から朝様子で意味をたずねた。 あき あき 傷んだ経絵は、伊年が描いた新しい絵 薄は秋、つまり安芸国。 日がのっと顔を出した。 ろくはら に改められ、「平家納経」修理修繕が終 伊年は目を細めた。柔らかな風が頬を鹿は厳島神社の鹿が草を食む鹿原と、 ろくはら かけことば なでるように吹き抜けてゆく。 平清盛の住まいがあった六波羅の懸詞。了する。 急に肩の力が抜けた。 鹿の背中の丸みを土坡から上る ( 沈宗二が恐る恐る差し出した経典一式神 雷 神 は、福島公によって無事嘉納された。 目の前の霧が晴れ、描くべき絵が決まむ ) 月 ( 日 ) の曲線に見立てた。 風 った。 ( つづく ) 伊年のこたえに、宗一一は目を丸くし、 すすき いた ほが かのう