さげす どうなったか。 それやこれやで、番太郎はずいぶん様と馬鹿にされて蔑まれるんだぞ」 株主はみずから働かず、人を雇って働変わりしており、万太郎の近くの番太郎「承知だ」 かせ、歩合をむしりとったのだが、このは辞めたいのだが、後釜がいないので辞「じゃあ、決まった」 歩合というのがきっかった。それでなくめられないと万太郎を相手にぼやいた。 万太郎の狙いは当たった。 とも町内から支払われる給金は知れてい待てよと万太郎はそのとき考えた。番 た。だから、なんでも屋として、物を売太郎は朝となく昼となく、晩も町内の者 るのに精を出していたのだが、よりいっと顔を合わせる。町内の者だけでなく、 そう物を売って稼ごうと物売りに精をだ往来を歩く者もふらりと立ち寄る。毎万太郎は物売りのほうは適当にやっ ささや した。 日、大勢の者と顔を接する。連中はほとて、顔見知りがくるとこう囁いた。 結果、店を広げる。木戸番小屋は公道んどが金に困っている。米だって百文買「百一文で金を貸す人を知っている。な にあり、商店の並びからはみ出して設けいしている。まとめて買う金がないかんならロを利いてやってもいいー られている。したがって、その分往来がら、百文でだいたい買えるのはまあ一升金貸しの口利きをしているということ 妨げられる。さらには、時間時間に拍子だが、一升を買ってその日その日を暮らにした。これなら生々しくなくって、借 木を打たなくなる。鉄棒も曳かない。 している。木戸番小屋には目の前にそん りるほうも借りやすい。この囁きは効い こ 0 木戸番小屋に向かい合って、自身番屋な連中、客がごろどろいる。 というのがこれも公道にはみ出して設け「分かった。親父 「あのオ」 ちょうやくにん られている。町内の町役人である家主が 万太郎は信濃者に話しかけた。 とそこいらの女房さん連中がひっきり 詰めるのだが、面倒だから家主は詰め「なんだべ ? 」 なしにやってきて、百文とか二百文とか ず、かわりに書役という役人を雇って詰 信濃者は聞き返す。 を借りていく。帳面に住所と名前を記載 めさせている。その書役が家主にかわっ 「おまえが探している番太郎に、おれがさせる。嘘を書く者はまずいない。だい て番太郎に文句を言わなければならないなってやろうじゃないか」 たい亭主は日傭取りとか棒手振りとか小 そろばん のだが、彼もまた番太郎とおなじ。雇わ「さっきも言ったとおり十露盤が合わな揚げだから、夕刻にはなにがしかの銭を れ者だから、見て見ぬ振りをしている。 いだけでなく、番太郎だの鉄棒曳きだの握って帰ってきて女房に渡す。女房はな ひょう かみ ぼてふ 264
で、てつきり家を継ぐのかと思ったのだれだし、親戚に顔向けできない。 「これ、どうやるんだ ? 」 が、そうではないらしい。 入籍する時、一度奥さんを連れてきた マナプがコーヒーミルを手に取った。 「えつ、そうなのか。親父さんは何も言らしいが、マナプの両親と差し障りのな「俺、やったことないんだよ。コーヒー わないのか ? 」 いことだけ話すと、小一時間で束示にとは好きだけど、いつも粉で買ってくるか 「言わないよ。母ちゃんもな」 んぼ返りだったらしい。「あいつらふざらさ。一回やってみたかったんだよ。ガ 「じゃあお前、親に何て言って帰ってきけてんのか ! 」と、マナプの親父さんが アーってさ」 たんだよ ? 」 激怒したそうだ。そりやそうだ。幼なじ俺は冷凍庫からコーヒー豆を取り出し 「別に。『ただいま』って言ったけど」 みの俺にも電話一本なかったので、かなてミルに入れ、フタをかぶせた。マナプ そうじゃなくて : : : 。帰ってきてからり気分が悪かった。 がスイッチを押すと、「ガアー」という も、親父さんとはうまくいっていないよ事情を知らなかった俺は、「俺の結婚でかい音がした。マナプがミルの音と振 うだ。おばちゃんも黙って見守るしかな式にマナブなど呼ばないぞ ! 」と心に誓動に驚いていた。 い、って感じなのだろうか。 ったのだが : : : まだ実行できていない。 「もういいよ。そんなもんで」 「独り身になったから少し気が楽だった 「独り身で気が楽か : : : 」 俺がそう言っても、マナプは面白がっ な。帰ってくるの。高校の頃、学校から「ああ、楽になったよ。ストレスが減ってもう一回挽かせてくれと言う。また 帰ってくるみたいにな」 て。結婚なんて本当に紙切れ一枚だよ」 「ガアー」という音が響いた。 マナプが笑う。俺は独身仲間ができ その紙切れ一枚の、世話になってみた「これ、面白いな。何かすっきりするよ」 て、ちょっと嬉しかった。 結局、マナプは五回も繰り返してしま い気がするのだ。俺の場合。 そういえば、マナプは結婚式を挙げて「悪かったな。何も連絡しなくてさった。よほどストレスが溜まっているの抄 だろうか ? いなかった。この辺りでは、親戚中が集 。ずいぶん経ってしまったな」 A 」 子 まって飲めや歌えやの大騒ぎが当たり前 マナプが力なく言うので、ちょっとし「お前は変わりないのか ? 母ちゃん死 ン だ。それがマナプの場合、式を挙げないんみりした。みんな俺の知らないところんだ以外にー 頃 で入籍しただけなのだ。マナプの母ちやでいろいろあるのだ。 「うーん、変わりないかな。あんまり話の めんもく んがかわいそうだった。親の面目丸つぶ すようなことないなあ。まあ、そのうち さわ
「余所行きを一枚、おっ母さんに買ってになあ、おじさんは今日、機嫌が悪いんいー あげてくれませんか」 だ」 茅場町は八丁堀の北に位置しており、 「あのな」 幸兵衛のことで、まだむかついている。茅場町の北、日本橋川を背にして仮牢の 「なんですか」 「帰ってくれないか 大番屋が設けられており、廻り方の役人 「お前のおっ母さんとはなあ、とっくに 「わたしはあなたの子ではないとおっしが被疑者を連れ込んで詮索する調べ室も 縁が切れてるんだ。そんなことをする義やるのねー 五部屋ほどあった。 理はないし、するのもまたおかしなもの 「まあ、そういうことだ」 「廻り方のお役人さんとは何人か懇意に だ。おっ母さんにそう言っといてくれ 「人でなしー させてもらっている。なんなら使いを走 「おっ母さんから頼まれたんじゃないん「おっ母さんによろしくな」 らせてもいいんだぜ」 です。そうしていただけませんかと、わ「こんな情けない親だとは思ってもみな「廻り方の役人がなんだ。連中を怖がっ たしがおっ母さんに内緒で頼みにきたのかった。くるんじゃなかった」 て世渡りはできねえ。呼ぶなら勝手に呼 です」 「そうだ。二度とこなくていい」 ぶがいい。そうだ、そうしろ。それでつ 「なぜ、おまえが ? 」 「誰がくるものですか いでに、お前の元手の出所を調べてもら きびす ちかはぼろりと涙をこぼして言った。 ちかは踵を返したが、両の目には悔しおう。十両以上を盗んだら首を刎ねられ 「あなたはわたしのお父つつあんでしょ涙が滂沱とあふれていた。 る。三十両だもんなあ。首一つくらいじ う。なのにこれまでなに一つしてくれな やすまねえ。さあ、呼べ」 かった。一つくらい、わたしの願いを聞 百一文の金貸しは朝が忙しい。朝借り 五 いてくれてもいいんじゃないんですか」 て、タベに返す。ことに棒手振りなんか ゃぶ 「藪から棒に、娘だ、おっ母さんの余所「昨日、一日中親分のところで待っていは朝早くに借りなければなんともならな い。 行きをと言われてもなあ。別れたのは何たんだがねえ」 年も昔のことだから、そでだっていつま と声をかけて幸兵衛は入ってくる。万「お早う」 でも独り身でいたわけでもあるまい。お太郎は顔をしかめて言った。 「お早う」 前がおれの子だという保証はない。それ「しつこい野郎だな。ここは大番屋に近と次から次へと借り手はやってくる。 ぼうだ 268
かったろう。それともこっこっ貯めてい 「なにい ! 」 「おれはさっきも名乗ったとおり、中橋「わたしのことって ? 」 たのか。女も相当泣かせたということだ 「わたしはあなたの娘です」 が、一銭もかけずにか。そんなことはあ広小路の親分のところで三下修業をして つか こうべえ るまい。それなりに金を遣っていたはいる幸兵衛という者だ。明日中に三十両「なんだって ! 」 を持ってこい。でないとややこしいこと「一年ほど前のこと。おっ母さんとお薬 ず。本当なら文無しのはずだ」 師さんの縁日にいったとき、偶然、あな 「腰痛で辞めたというのを誰から聞いになるぞ。分かったかー 胡麻塩頭はそう言い置いて木戸番小屋たと出会っておっ母さんが言った。ま た ? 」 あさ ぼうぜん ただの強請りかと思ったが、なにやかを後にする。万太郎は呆然とその後ろ姿だ、こんなところで女漁りをしてるんで すかって。あなたは言った。馬鹿こけ、 やと調べてやがる。どうも腰を入れてかを見つめていた。 商売の帰りだと。そのあとで、おっ母さ かってきているようだ。 んがわたしに言ったの。あの人はあなた 「誰でもいいじゃないか。とにかく猫糞 四 のお父つつあんよ、なんでも茅場町の木 した三十両を返してもらおう」 戸番小屋で金貸しをやっていて、たいし 「どうあっても言いがかりをつけるつも「あのオ りなんだな」 幸兵衛という強請り同然の男が帰った羽振りらしいわよとー もはや他人にひとしいが、最初で最後 「元手はどうしたって聞いているんだ。 て、ぼんやりあれこれ考えていたとき、 十五、六の娘っ子が声をかける。娘っ子の男だ。気にならないわけがない。そでき 無一文で金貸しはできない。言え」 行 所 「お前にそんなことを言う義理はねえ」 の客もいないわけではない。事情があっは万太郎の動同にずっと気を配っていた。 余 の と言いながら内心はぎくりとしている。て台所を任せられていて、それこそ米も「それでね、お願いがあってきたの。今 「そうれ、みろ、言えないんだ。言える百文買いしなければならないことだって度、さる集まりがあって、おっ母さんもそ わけがない。猫糞したんだからなあ」 あるからだ。万太郎は気を取り直して言出ることになったんだけど、余所行きがい った。 一枚もないから出たくないって言うの。 「いい加減にしないと叩きだすぞ」 の かわいそうと思わない」 「お前もいますぐ、三十両という金を用「なにか、用かい ? 」 ち 「おじさん、わたしのこと、覚えてます「だからなんだ ? 」 意はできまい。それとも手元にあるか ? 」
ぶざま えなくなる。だが。 光女の絵師たちに見られている。無様かんでいるようだ。 ーー違うな。 な仕事をするくらいなら首を置いて帰っ荘厳ともいえる景色にしばし見とれて からす 伊年は経典を前に腕を組み、うんと唸た方がましだ、と意地になっていた。 いると、背後で烏の声が聞こえた。 ひわだぶ っこ。 作業場に籠もって何日目のことだろ振り返ると、檜皮葺きの社殿の屋根ご 他の経典は一巻一巻絵が異なっているう、夜になっても眠れず、板塀によりかしに山がせまって見える。 のだ。第一、同じものを描いてもつまらかって絵柄・図案をあれこれ頭の中で並朝もやに白くかすむ山の斜面に動く姿 ない。 があった。 べ換えているうちに、気がつくと辺りが 何度か下絵を描いてみた。松を描き、薄明るくなっていた。 鹿の親子だ。厳島神社では、古来鹿た 千鳥を描き、竹を並べ、四季の草花を描また、やってしもた。 ちは烏とともに神の使いとして大切にさ いた。雲を描き、稲妻形の図案を描いた。 伊年は苦笑し、よいしよと掛け声をかれている ああでもない、こうでもない、と何度けて立ち上がった。大きく伸びをして、 ひょいと、おくにの顔が脳裏に浮かんだ。 もやり直した。 顔をしかめた。一晩中ずっと同じ格好で なぜ唐突におくにを思い出したのか、 これまでに目にしたどんな絵を当ては座っていたので体のあちこちが痛い。体自分でもわからない。しかも、久しぶり めてもうまくいかなかった。他の経典絵をほぐしに少し歩いてこようと思いたに思い出したおくには、床の上に仰向け の間におくと、どんな絵も場違いな気がち、ひさしぶりに作業場の外に出た。 に転がり、腹を抱え、足をばたばたさせ した。 朝日はまだ上っていなかった。 て大笑いしていた。傍らには美しい銀目 七日たち、十日たっても、満足のいく ちょうど潮がさしている時刻で、厳島の白猫。長いしつぼをゆらゆらさせて、 にぬ 下絵ができあがらなかった。 神社の丹塗りの社殿は海の上に浮かんで、、ちょこんとすわっている : ・ ああ、そうか。 宗一一がときどき作業場を覗きにきた。見えた。回廊の脚下を魚が泳ぎ、水の中 伊年が描いた下絵を見て「これでエ工んに建つ柱の間をくぐりぬけていく。 伊年はふいになにどとか思い当たり、 とちゃいますかーと遠慮がちにいった 日の出前のもやが白く海の上にたなびくすりと笑った。 き、海上の大鳥居はまるで雲のなかに浮 それが、わいの本当の顔やったな。 が、伊年は頑として首を縦に振らなかった。 いたぺい 322
人がいつも出入りしていた昭和四三年かわれないようにと願いを込めて : : : あのあ 5 名曲だ。五年間、新宿駅裏で「紅と ら四四年の、あの店の話の真偽をたしか娘には光という名前をつけた」。すごい。んぼ」という店をやっていたママの店じ めていく。 宿命の話である。瞽女・藤・宇多田、女まいの歌である。「故里へ帰るの。誰も でーー衝撃的に出てきた藤圭子である三代の話はまがうかたなき真実の唄であ貰っちゃくれないしーとポツリ。常連の が、父は浪曲師、母は瞽女 ( 三味線を弾る。一一〇一六年、宇多田が六年ぶりに復しんちゃんたちはもう泣いている。私も き歌う盲目の女 ) であった。東北・北海活。みどとな曲たちであった。おかつば泣いている。この曲が出たころ、私は本 かどづけ 道を門付してまわった。幼い藤も雪深いに黒髪で戻ってきた姿を見て、胸に熱い当に新宿駅裏を探しに行ったことがあ 地を一緒にまわった。その後のスト 1 リ ものが込みあげてきたのは私だけではなる。どこなんだ ? 西口なのか、東ロな いだろう。 : これほ ーはど存じのとおり。大歌手になり、ゴ のか、風景的には南ロなのか : ・ どの名曲はあろうか。一一〇一六年、なん タゴタがあり、娘が生まれ、またゴタゴ「新宿そだち」「新宿の女」のほかにも くわたけいすけ タし、娘は宇多田ヒカルとなって大スタ新宿を歌った曲は多く、「新宿サタデー とあの桑田佳祐が「束示の唄ーの中で、 あおえみな ーに。そして母子がここでももめて、家ナイト」 ( 青江三奈 ) 、「新宿ゴールデン街」この「紅とんぼ」をカバー。泣けてきち おうぎ はバラバラに。藤圭子の奇行が目立ち始 ( 扇ひろ子 ) 。これはタモリが「オールナゃうねえ。 め、最後は西新宿であのような不幸なこ イトニッポン」をやっているころ、回転でーーいま一度、読み返してみたんだ なかむらりゅうたろう とに : 。中村竜太郎「スクープ ! 」 ( 文数を変えるとおかまの声になると紹介しが、私のエッセイの偉くてすどいところ 藝春秋 ) 、週刊文春エース記者の本にこて超人気となった ( 扇ひろ子の黒歴史ではただ昭和四〇年代、五〇年代の想い出 うある。最後のころ、藤圭子に会った人ある ) 。時をポーンと越えて平成一〇 ( 一話だけを書いてるのではなく、その事項 しいなりん・こ の談によると、藤圭子はふらっきながら九九八 ) 年には、椎名林檎で「歌舞伎町に「今」という視点を必ず入れているこ もサングラスでたどたどしい足取りなのの女王」が生まれる。当時一世を風靡しとである。それが色あせない秘密だ。「新 でどうしたのときくと、「目が見えない」た渋谷系をもじっての新宿系。そんな数宿そだち」から横山剣やら、浪曲の玉川 と言う。看板の文字も顔がつくほど接近ある歌の中でも私がトップに挙げるのは奈々福、宇多田ヒカル、桑田佳祐とつねさ ヒヒ しても見えず、ほとんど視力は失われて そうです ! 今、曲名を書こうとしに今を知ってる強みだ、アハハ。全然書蠅 の いたらしい。そして最後にこう明かしてただけで涙が出てきそうになりました。 き切れなかったので「新宿そだち」はま あか いやたいっかだ。 いた。「娘の目からはいつまでも光が失ちあきなおみ ! 「紅とんぼ」 " うただ どぜ ひかる ふうび もら くに 223
にをさておいても万太郎の木戸番小屋に 「それがなにか ? 」 太郎は小首を傾げながら聞いている。 ふかがわ 走り、百一文とか二百一一文とかを返す。 「おもに日本橋と深川を往き来する乗り「船が着いたぞオ、と声がかかって目が なかばし 万太郎はみるみる元手を増やした。 合いの屋根船を操っておられた ? 」 覚め、そうだ、この後、中橋の親分のと そうなると、もはや物売りなんかやっ 深川には一晩で一両はする料理屋や深ころに顔を出さなければならないのだと あわ てられない。物売りや拍子木打ち、鉄棒川七場所と言われた岡場所があちらこち用を思い出し、慌てて船を飛び降りまし くたび 曳きなどを専門にこなす番太郎を雇っらにあり、江戸からの客は、陸路は草臥た」 日本橋と京橋の間に中橋という橋が架 た。そもそも万太郎が株主から雇われたれるものだからおもに乗り合いの屋根船 番太郎である。その番太郎が番太郎を雇を利用した。万太郎はその屋根船を操るかっていたのだが、やがて橋は取り壊さ うというのだ。万太郎の木一尸番小屋は三 二人一組の船頭のうちの一人だった。万れて堀は埋められ、跡地が中橋広小路と みけんしわ 重構造という奇妙な構造の木戸番小屋に太郎は眉間に皺を寄せて聞いた。 いう盛り場になり、そこに顔役もいた。 なった。 「わたしが深川にいったのは中橋広小路 「あなた、なにが言いたいのです ? 」 「こんにちはー 「六年前のことです。わたしは日本橋のの親分から三十両の集金を頼まれてのこ 歳の頃、五十の半ばか。頭は薄くなっさる船宿から乗り合いの屋根船に乗ってとで、横木に乗っけた固い物というのは たっ ていて、残っている髪の毛は胡麻塩とい深川にでかけ、翌日、辰の刻 ( 午前八時 ) 集金した三十両だったのです。持ち慣れ う男が顔をだす。この手の男が百文一一百頃、おなじ乗り合いの屋根船に乗って日ないものですから、睡魔に襲われたと き 文の金を借りにくるのは珍しい。それで本橋に帰りました。前の晩にやったことき、なんだかおかしな物が懐にありやが も、百文二百文に困っていることだってがことですから、つまり、ほとんど一睡ると思って、無造作に横木に乗っけ、そ所 ある。万太郎は愛想よく応じた。 もしていなかったものですから、猛烈にのことをまた忘れて慌てて船から飛び降叨 で 「いらっしゃい」 睡魔が襲ってきまして、うつらうつらしり、 親分のところに駆けつけてはたと思 そ AJ 胡麻塩頭は言う。 い出したのです。そうだ、集金を頼まれ て横になりました。懐に固い物があっ い 「あなた、万太郎さんだねー て、横になるのに邪魔になる。懐から取たのだと。親分にしかじかの不始末を仕 の 「そうですがー 出かしましたと頭を下げて、船宿に引きか り出し、船縁の横木に乗っけた」 「五、六年ほど前まで船頭していた ? 」 この男、なにが言いたいのだろう。万返しました」 ごましお
ヾこっこ 0 「それにしても、嫌な時間だな。こんな アメリカ艦載機が爆弾を落し終わる くちひげ 日、正午近く、大きな口髭をつけたあぶない時間に出撃させるなんて、乱暴と、グラマン戦闘機が急襲して砲撃を加 猿渡参謀長は、厳しい顔で「佐々木はすだな」作見隊長は青空を見上げた。白昼えた。 でに、一一階級特進の手続きをした。そのはレイテ湾に飛ぶことはもちろん、空襲佐々木と奥原伍長の九九双軽は火を吹 き上げた。直掩機も燃え上がった。 上、天皇陛下にも体当たりを申し上げての危険も多かった。 ある。軍人としては、これにすぐる名誉 3 度目の乾杯の宴を終え、佐々木は操佐々木は必死で起き上がり、滑走路か はない。今日こそは必ず体当たりをして縦席に着いた。エンジンを回し点検しよら宿舎の方向に走った。 こい。必ず帰ってきてはならんぞ」と叱うとした時、天蓋が激しく叩かれた。整人から言われて、顔から血が流れてい りつけるように言った。 るのに気付いた。汗だと思っていたら、 備員が上空を指さし、大声で叫んでいた。 さくみ 直掩機の隊長、作見中尉が、佐々木に見上げれば、黒い編隊の機影がまっすべっとりと顔に血がついていたのだ。 燃料をどれぐらい持っていくかとたずね ぐに飛行場に向かっていた。佐々木はス佐々木は急に腹が立ってきた。こんな た。佐々木はできるだけ一杯にして行くイッチを切り、機体の外に飛び出して走真っ昼間に飛行機を並べて出そうとした ら、やられるのは当然だ。危険な時間帯 と答えた。さらに爆弾は落とせるのかとり始めた。 作見隊長は聞き、佐々木は落とせるよう奥原伍長も走っていた。二人は必死にに、ノンキに乾杯までして、出撃の儀式ま なって走りながら、目は上空の機影からでするとは。参謀どもはバカではないのか。 にしていると返した。 空襲が終わり、宿舎に戻ると奥原伍長 作見隊長はうなづいた。同じパイロッ離せなかった。 トとして、特攻隊に選ばれるか、直掩機上空 1000 メートルから、アメリカはいなかった。しばらく待っても、帰っ の担当になるかで運命は大きく変わった。艦載機は爆弾を落した。佐々木達は、滑て来ない。滑走路を探しに行くと、土の 直掩機のパイロットは、特攻隊のパイ走路脇に立っ兵舎の前の溝に飛び込んだ。中から飛行服の袖と白い手が突き出して その瞬間、猛烈な爆発が起こった。熱いた。 ロットに対して複雑な心境があった。自 分達は最後の最後、特攻を残して帰って気と振動と爆風が佐々木の体を襲い、振掘り起こすと、すでに奥原伍長は死ん飛 空 来る。それが、どうにもやりきれなかつり回し、叩きつけた。その上に、土砂がでいた。爆弾の破片が胸を大きくえぐっ 青 こ 0 水のように流れ落ちた。 ていた。佐々木が倒れ込んだ場所から 3
「あたりめえだよ。お前を騙してどうすて ? 」 「そうじゃなくてよ、実家に戻ったって んだよ。若い姉ちゃん騙すんならわかる「違うわよ。泉を引き上げて帰ってき ことだ」 たのよ 「呆を引き払って戻ってきたってことけどよ どうやら本当らしい。冗談ならニヤけ「はあ : : : そうなんだ。いやあ、びつく か ? 」 ぶっちょうづら りしたなあ」 た顔をするが、仏頂面のままだ。 「ああ、そうらしいなー したく 親父の話は本当だった。 俺は朝飯の支度をする手を止めた。ま 「おばちゃんもびつくりしたわよ。急に さか、マナプが実家に戻ってくるとは思俺は土曜の昼間、仕事がひと段落した わなかった。 ところでマナプの家に向かった。「誰にだもんー そんなこと聞いたの ? 」と、笑い転げる「そんな急だったの ? 」 「嫁さんも一緒にか ? 」 「そうよ。連絡あったの、帰ってくる前 マナプの母ちゃんの顔が目に浮かんだ。 「さあな。詳しいことはな・ : ・ : 」 の日よ」 親父が素っ気なく言う。 もしかすると親父の冗談かもしれない。 おばちゃんは呆れた様子だ。 呼び鈴を押すと、マナプの母ちゃんが 「誰に聞いたんだよ」 「へえ。そりや大変だったね 「飲み屋・ : ・ : でなー 出てきた。小学校の教師だったせいか、 「いつごろ帰ってきたんだ ? 」 あか抜けていて賢そうな顔つきは相変わ「わかるでしよう ? 洋ちゃんも」 「そりやそうだよな。俺、法事かなんか 「そこまで知らねえよ。お前、行ってみらずだ。水仕事でもしていたようで、エ で帰ってきたのかな、と思ってさ。一時 ればいいじゃないか。とにかく飯にしてプロンで濡れた手を拭いている。 「あら洋ちゃん、珍しいじゃない。マナ的に」 くれ」 「違うのよ。こっちに戻ってきたのよ。 親父はタバコをふかしながら、しかめブ ? 」 何考えてるのかわかんないけど。親子と やつばり帰ってきたのだろうか ? っ面で新聞を読んでいる。不愛想な奴だ が、時々冗談とも本気ともっかないこと「親父から聞いたんだけど、マナプ本当いってもね、一一十年以上離れて暮らして だま るからさあ。準備とかいろいろあるの に帰ってきたの ? 」 を言って人を騙すことがある。 よ。気持ちの準備もね」 「 : : : 帰ってるわよ」 「本当のことだよな ? 」 ちょっと嘘くさいので、確かめてみた。 「用事があって帰ってきたんじゃなく「そりやそうだよな。でもあいつ、時々 ぶあいそ あき 85 あの頃トン子と ( 抄録 )
噤まぬと、素っ首を落としてくれるぞ ! 」秀吉もおかしそうに笑った。 える秘法は、今度会うた時に教えて進ぜ 信長はいっ着替えたのか、一枚胴の南「違いまする ! 火が燃え移っておりまよう」 ビ ドがいとう 蛮具足を身に付け、深紅の天鵞絨の外套するー 信長は火焔の中で立ち上がる。 を羽織っている。それを撥ね除け、佩い家康が叫ぶ。 「それともうひとつ。天下人など、つま そうさんさもじ ていた宗一一一左文字を鞘から抜く。 外套の端に移った火があっという間にらぬ。風の吹く野で、何も考えずに鷹を 「あっ ! 」 信長の全身を包んでいた。 放していた方がよほど面白いわ。余に 家康は短く叫ぶ。 「これしきの火がいかがした。大事ない」も、やっと、それがわかった。さて、猿。 愛刀を抜いた信長の右手が燭台に当た信長は火燼の中で冷ややかに笑う。 帰るぞー ろう って倒れてしまったからである。床に「いやいや、右府様。これはよくありま信長の肩から燃えさかる鷹がふわりと そく 燭が転がり、広がっていた深紅の外套のせぬぞ。金華山も燃えておりまする」 離れ、信じ難いほどゆっくりと飛んでい 端に火が燃え移るが、信長は気づいてい秀吉が刀を収め、信長の全身に取り憑 きびす ない。 く火燼を払おうとする。 踵を返した信長は大股でそれを追う。 「右府様、太閤となりました秀吉の首その途端、火が秀吉の具足にも飛び移「右府様、すぐに参りまする。ところで、 は、さほど簡単には落とせませぬぞ」 り、みるみるうちに火燼に包まれた。 家康殿。余が滅した後、空位であった征 きんだみ ざま なぜか秀吉も金陀美の当世具足を身に 「あ 5 あ、余計なことをして、この様か。夷大将軍の職に誰か就いたであろうか ? 」 ばりんうしろだ 纏い、後光のような馬藺後立てが付いたされど、大して熱くはない。ほれ、家康秀吉も、火焔の中から問う。 いちごひと 兜を被っている。そして、愛刀の一期一殿もこっちへ」 「 : : : それがしが : : : 将軍職に就きまし 振を抜いて構えた。 秀吉は手招きするが、家康は無一言で首てござりまする」 ふたもと を横に振る。火焔に包まれた二人と二本家康は眩しげに眼を細めながら答える。 「あ ! 家康が必死で一一人を制止する の鷹を、ただ眩しげに見つめていた。 ・ : あははは、そうであろうと 「血相を変えてどうした、元康いつも「ふふ、金華も燃えたということは、そ思うておったわ。余が生きている頃か の戯れではないか」 ろそろ戻らねばならぬということか。こら、なりたそうであったからな。して、 信長が冷笑まじりに言う。 奴は余の案内役だからな。灰にならぬう太政大臣には、誰か上りつめたか ? 」 「慌てすぎじゃ、家康殿」 ちに戻らねばならぬ。元康、肩に鷹を据その問いには、家康も黙り込む。 さや まぶ 426