「ああ、かなり違うよ。慣れるまで時間けどさ。全然痩せないんだなあ、これが」 四部屋ある二階の、一番奥がマナプのがかかるよ」 「じゃあ、コーヒーにミルクと砂糖入れ 部屋だ。帰ってきたばかりなので、まだ ぼんやりとマナプの部屋を眺めているるのやめたら ? 」 開けていない段ボールが山積みになってと、ドアをノックする音が聞こえた。 マナプが俺のコーヒーを見て笑う。ミ いる。 「マナプ、コーヒー ルクと砂糖など普通だと思っていたが、 十畳ある部屋の隅にはべッドが置か マナプがドアを開けると、コーヒーをマナプはブラックのまま飲んでいる。 れ、反対側には本棚が二つ並んでいる。載せたお盆を持ったおばちゃんが立って 「よくそんな苦いの飲めるな [ 昔とたいして変わっていないのだが、壁いた。 「コーヒーは苦いんだよ、そもそもさ。 にはサックスを吹いている黒人のポスタ マナプがお盆を受け取ってドアを閉めジュースじゃねえし」 ーが貼られている。その隣ではパーマ頭ようとすると、おばちゃんが中の様子を大人が子供を諭すような言い方だ。子 の白人が、陶酔し切った顔でビアノを弾うかがった。 供の頃と一緒だ。 いている。古びた日本地図と日めくりカ「あら、荷物まだ片付けてないの ? 」 「俺、甘党だし。苦いのは人生だけでい レンダーの俺の部屋とは大違いだ。 「いいから、いいから」 いかなと思って 考えてみると、マナプんちに来たのは マナプが鯊そうな顔でドアを閉めた。 マナプは鼻で笑うと、机の前の椅子に 中学三年の時以来だ。高校の時は学校が俺は机の上に置かれたコーヒーにミル座った。俺はべッドに腰掛け、お尻を上 違ったので、あまり顔を合わせる機会がクと砂糖をたつぶり入れ、スプーンでか下させて硬さを確かめた。 なかった。たまに会うことはあったのだき混ぜた。 なんだか間が持たない。久しぶりすぎ が、道端で話をする程度だった。 「お前、少し痩せたんじゃないか ? 」 て、何を話していいのかさつばりわから マナプが窓を開けると、冷たい空気が 窓の外を眺めていたマナプが振り返っない。 こ 0 入り込んだ。 マナプは大騒ぎしたり先頭に立って悪 「寒いな・ : ・ : 」 「俺か ? たいして変わってないよ」 さをする、ガキ大将のようなタイプでは ずのうめいせき 「やつば寒いよな、こっちは。東京から「俺はこの通り。中年太りもいいとこなかった。しかし、頭脳明晰でスポーツ 戻るとそう感じるか ? だ。ダイエットとかいろいろやってんだ万能、しかもイケメンだ。たいして愛想 さと
かける時は気が楽だ。 八割方成功するようになった。 になった。くるっと一回りするようにな 亡くなって間もない頃は、出前をとっ ったのだ。成功だ。ご褒美のエサをやる 俺はなんだか楽しくなってきた。 たりスー ーで弁当を買うことが多かっと、ビャービャー鳴いて喜んだ。やつば 翌週から「お回り」を教えてみた。 た。親父は文句を言わずに食べていた りトン子は相当賢いのだ。 てんやもの 最初にエサを持った手をトン子の目のが、しばらくすると、「今日も店屋物か」 久しぶりに達成感を感じた。 前にかざし、腕を円を描くようにぐるつなどと、文句を一言うようになった。自分調子に乗った俺は、次々に芸を教え と回してみた。トン子はきよとんとしては何もしないくせに、文句だけは一丁前た。「お手ーは左右両方の脚でできるよ いるだけで、反応がない。当然だ。「お手」だ。 うになった。「お回り」・も左右両方に回 ができたからといって、すぐに次の芸が親父は典型的な亭主関白で、家事などれるようになった。 できるわけではない。 全くやらない。もちろん料理もできな この調子なら何でもできるような気が 何度か繰り返しているうちに、エサをい。働き者の母ちゃんは、家業を手伝いしたが、時々変な鳴き声を上げるのが気 追ってちょっとは首を動かすようになつながら家事をこなした。自分勝手で聞くになった。子プタなので、ビャービャー からだ たが、身体全体を回そうとはしない。後耳を持たない親父に、よくついてきたも甲高い声なのはわかるが、時々、「ププ ろに親父の気配を感じた。振り向くと、 のだ。訳のわからないことを言われてブッ、プブブッと、小刻みに低い鳴き 親父と目が合った。また嫌味を言われるも、文句ひとっ言わなかった。俺はそん声を出す。プタにもいろんな鳴き声があ のかと思ったが、何も言わずに立ち去っな母ちゃんを見るに見かねて、よく親父るが、あまり聞いたことがない声だ。 こ 0 に食ってかかったものだ。 親父が出かけた後、トン子と「お回り」 の続きをやった。誰の目を気にすること 「今日、寄り合いあるからな」 夕方になると、仕事を終えた親父が、 もなく、昼間の続きを延々と繰り返し「洋一、マナプが帰ってきたらしいぞ」 突然親父が言うので驚いた。幼なじみ ぶつきらぼうにそう言って出かけた。母た。俺は柵の中に入り ) トン子の目の前 のマナプのことだ。 ちゃんが亡くなってから、俺が食事を作にかざした手をお尻の方に回しこんだ。 らなければいけなかったので、親父が出すると、トン子はついに身体を回すよう「えつ、何かあるのか ? 法事とか」 よういち
上げ、お尻を下げることがわかった。思る。驚き過ぎて声も出なかった。 がって ! 」俺は怒りが収まらなかった。 時間がたって泣きやむと、自分はパチったより簡単に「お座り」の形になった「玄関から呼んでも返事ないからさ。勝 ンコしていたくせに、「お前どこにいたのだ。もっと時間がかかると思ったが、手に入ってきたよ」 んだよ。何してたんだよ ! 」と、俺に食教え方を工夫すれば何とかなるものだ。 マナプだ。勝手に俺の部屋に入ること ってかかるので、怒鳴りあいになってし最近親父は、トン子に芸を教えているなど、子供の頃は当たり前だったが、大 まった。 所を見ても何も言わなくなったが、たま人になってからはちょっと困る。今がそ うなのだ。 に小さな声で、「ぐわばら、くわばら」と、 「葬式行けなくて悪かったな」 嫌味たつぶりに呪文を唱えたりする。 「あっ、悪いな。お取り込み中でしたか 「そんなこと気にすんなよー 「そのうち線香あげに行くからさ : : : 」 「待て」はどうしたものかと思い、晩飯 マナプが申し訳なさそうに言った。 の後、自分の部屋でパソコンを開いて パソコンの画面を見るなり、マナプが 何で帰ってきたのか、嫁さんとどうな「待てーの教え方を調べた。 苦笑いした。俺は驚きと恥ずかしさで、 ったのか、聞きたいことは山ほどあった「豚調教ーと入力して検索してみる言葉に詰まった。 が、今日のマナプを見ているとそんな気と、「メス豚の調教ーというサイトがあ「そっ、そんなんじゃねえよ : : : 」 分ではなくなってしまった。とにかく、 った。トン子もメス豚なのでちょうどい ちょっとムカついた顔をしてみたが、 マナプは帰ってきたのだ。 いやと思ってクリックすると、とんでも恥ずかしかっただけだ。 ないサイトだった。女が縛られ、ムチで 「ほっほー、うーん。こりやすげえや ! 」 ぶたれている。とんだ調教違いだ。「お マナプが茶化すようにパソコンの画面 ーっ、こんなことまでやるのか ? 」と感に見入っていたので、俺は慌ててパソコ 俺はトン子の訓練を続けた。「お手」心してしまった。人間のよからぬ欲望ンを閉じた。そういえば、親父は晩飯の 後出かけたし、玄関の鍵など寝る時以外 と「お回り」の次は何をやろうかと考えは、とどまることを知らないらしい。 こ 0 目を皿のようにして画面に見入っていかけない。 試しにエサを持つ手を高く上げてみるると、突然ガタンという音がした。ハッ 「今さらなんだけど、線香あげさせても と、トン子がエサを追うようにして頭をとして後ろを振り向くと、男が立っていらおうと思ってさ。昼間忙しいだろうか
「佐々木先生っていうのがね。寮の舎監がいるのかもしれない。賢治はいっそう「もっと、もっと うけもち ひょうきん にくてい なんだども、学校では体操の授業も担任剽軽な口調で、 と話をせがんだ。どうやらあの憎体な じゃっかんきんぼ 男は、賢治にとって、若干の欽慕の対象 してる。一日中、顔を合わせるんだじゃ」「寮での指導のうるさいどど」 でもあるらしい。 政次郎は、息をのんで聞き入った。賢話をつづけた。 自分はいま、二階の十一一番の部屋で寝 治いわく、佐々木は軍隊あがりだという。 ( まあ、よかった ) 泊まりしている。同室者は一一年生がふた ( やはり ) ほっとしたとたん、胸中の土に、たち 在隊中、大けがをしたらしく、それがり、三年生がふたり、そして五年生の室まち新たな心配の芽があらわれる。学生 原因で除隊したが、いまも歩くと背が丸長で、つまり一年生は自分だけだから雑の本分に関する心配だった。 にわとり まり、鶏のように首が前後するのは後用をすべて負わされる。ランプのホャそ「成績は、どうだ」 遺症なのかもしれない。単なる体の癖かうじとか、雑巾がけとか、使い走りとか。 政次郎が口をはさんだとたん、トシが もしれないが、とにかく学生はそのさま あんまり頭にきたので、或る朝、ふと身をのりだして、 をとらえて、 んを上げないで山へふらりと遊びに行っ 「やつばり一番 ! 」 チキンさん。 たところ、帰ってきたら寮の入口で自分賢治はきゅうに顔をくもらせ、 を待っていたのは上級生ではなく、 「いや」 チッケさん。 「チッケさんだったじゃい」 声が低いのは、かならずしも体の成長 とかいうあだ名でこっそり彼を呼んで と、賢治は、そこで極端になさけないのせいばかりではないようだった。 いた。体操の指導は独特だった。もつば顔をしてみせて、 翌年三月、第一年次修了。席次は、百 「おら、廊下に正座させられてな。チッ四十三人中五十三番だった。国語、文法 ら突っ立って号令をかけるだけ、蹴った り殴ったりしなかったのだ。やはり後遺ケさんにどなられた。『二等兵は、正し作文、英語、英習字、博物 ( 鉱物 ) はよ 症だったのだろう。 き二等兵であれ ! 』」 かったものの、算術が足をひつばった。 「そんたな先生の、どこがこわいのす ? 」 にトウーへい、と等をやたらと強調し一年を通して百点満点中五十点をも取る ことがほとんどなかったのである。 と口をはさんだのは、シゲだった。あたのは、それが佐々木舎監の口調なのだ るいは小学校にはそれよりも厳しい教師ろう。弟妹たちは爆笑して、 ( つづく ) 342
百代の神謀 孫・竹千代の病床を見舞った家康は、 ー井利勝に彼の元服をほのめかす それは徳川家にって、 てつもなく大きな意味を持っていた 最終回 海道龍《朗【巴岡田航也
物書同心居眠り紋蔵 ちかの思い そでの余所行き 佐藤雅美【画】村上豊 一一一味線のお披露目の前座を っめるこになったちか だが、 女手一つで娘を育てた母そでは 余所行きを持っていない うマプ
「ちょっと訊きにくいんですけど」おずッチちゃんたちの存在はもっと胡乱で危はないか。「真の男は二つのことを欲す おずと挙手したのは、有象くんであっ険である。なぜなら、それは一夫一婦制る、危険と遊戯を。それゆえ男は女を欲 おびや た。「けつきよく都合さん、いくら借金を脅かすものだからだ。もしも不純異性する、もっとも危険な玩具として」「女 したんですか ? 」 交遊的なアレがいつでもお手軽にやれて性は玩具であれ。きよらかな、美しい玩 「うん ? まあ : : : 百五十万くらいかな」しまうのなら、男たちはたったひとりの具であれ」 こんにち こいつ、都合がいい男だ ! 百五十万女性を愛し、守り抜くことにどんな生き もしもニーチェが今日生きていたら、 円もかけて、ビッチちゃんの手を握った甲斐を見出すことができるだろうか。真女性たちに石で打ち殺されていただろう。 だけなのか 性ビッチちゃんたちには、すべての婚姻「つまり」と、都合先輩が総括した。「ビ こつばみじん 全員の胸中におなじ疑問が渦巻いてい関係を木端微塵にできる力があるのだ。 ッチちゃんはやつばり二股をかけるよう た。もしかすると、こいつらもビッチち それではビッチちゃんをひとり残らずな娘じゃなかったということやね。この ゃんとは世間一般で言われているところ排除すべきかと言えば、そんな単純な話六人に関していえば、だれもかぶってな の、不純異性交遊的なアレはナニしてなではない。我々の社会においては、ビッチい」 いんじゃないか ? ちゃんは嫌悪と同時に憧れの対象であり、 全員がうなずいた。 しかしながら、それを口に出す者はい敬遠すべきと同時に守りぬかねばならな「今年に入ってからだと」と、勘違い先 ない。理由は簡単。自分ひとりだけ不純い、男性優位的自由の象徴なのだから。輩。「一月から三月くらいまではだれと 異性交遊的なアレをしていないとバレる有象くんを見よ。 も付き合っとらんことになる」 のが耐えられなかったからである。 無象くんを見よ。 「連絡が取れんくなったときが、たぶん ああ あまた ほんろう 嗚呼、世に数多いるビッチちゃんたち ビッチちゃんに翻弄されているすべてビッチちゃんのなかで関係が終わったとで みえ は、男たちの臆病さと見栄のせいで、ほの男たちを見るがいい。だれもが痛い目きやろう。ぼくらはそのことに気づくべな んとうはビッチでもなんでもないのに、 に遭ってなお、それでもどこか誇らしげきやった」 呼 A 」 ビッチにされてしまっているのではなかなのは、ビッチちゃんと睦みあうことに それから、六人は差しつ差されつ、し チ ろうか ! そのようなビッチちゃんたちょって自由を実感できるからなのだ。かんみりと飲んだ。それぞれの胸に、いち を仮性ビッチちゃんと呼ぶなら、真性ビのニーチェもつぎのように言っているでばん美しいビッチちゃんとの思い出を抱 むつ うろん 121
で毎朝整えている庭だ。 もう私の手には負えないから、高尚なで囲まれている。鈴が田畑の方向に逃げ 桃は一瞬くらりと目眩を感じてから、 師匠のいる私塾でもどこへでも行ってく れば、どれだけ遠くにいたってすぐに見 一目散に寺子屋に戻った。鞭を携えて再れ ! と叫びたくなった。 つけられる。 び裏庭に出る。 鈴は桃の師匠としての力を下に見てい となれば、身を隠す場所は裏庭の竹藪 どんな理由があれど、こんな横暴な真るに違いなかった。桃が本当は学問へのだけだ。 似は許されない。桃はきつく唇を噛んだ。情熱など持っていないことを見抜いてい 桃は鈴の名を呼ぶことなく、無言で竹 すぐに見つけ出して、きついお仕置きるのだろう。良い師匠に恵まれなかった藪を進む。我ながら意地が悪いと思う をしなくては。桃にはもちろんのこと、 己の運命を察しているから、常に苛立っ が、疲れきって休んでいるところで不意 住職にも春にも、きちんと誠心誠意謝らているのだ。 打ちで首根っこを押さえつけてやりたか せなくてはいけない。 桃自身だって、自らを″良いお師匠さった。 幼い鈴に憎しみに近い怒りを感じていん〃だなんて思えるはずもない。 薄暗い竹藪の奥に古びた井戸が見えて ると気付き、桃は暗澹たる気持ちになっ 隠れたカが芽吹こうとしている春を相きた。 こ 0 手に肝を冷やし、手綱を離せと暴れ回る井戸の縁に、鈴が膝を抱えてぼつんと 鈴はいつだって、「おのれ、おのれ」だ。鈴には、ならば勝手にしろと背を向けた座っていた。寝込んでいるのか、頭を両 くなっている。 あれだけ利発な娘ならば、人の心を思 膝の間に埋めている。 いやり、いくらでも良い人間として振る清道が師匠だったならば、鈴は素直に 桃は、ほっとして息をついた。 舞えるはずだ。しかし鈴は、生まれ持っ従ったのだろうか。清道を一生の師と仰すぐに鞭をぎゅっと握り直し、息を潜 た適切な洞察力を、大人の逆鱗に触れるぎ、目上の人間を尊敬する心を身に付けめて鈴に近づく。 たのだろうか。 行動を取るために使う。 「お師匠さま、鈴を打ったら、お父様が しつけ 鈴がどんな大人に成長するかを思うと 桃は裏庭の竹藪を両手で掻き分けて、承知しませんよ。鈴の家では躾に手を上 桃は、この場で突き放して投げ出したく必死に進んだ。 げる習慣はないのですー なった。 浄見寺の辺り一面は、だだっ広い田畑顔を伏せたまま、鈴は硬い声で言っ あんたん げきりん
ひとたび寺入りをすれば、お前の歳など まさか春が束脩を用意していたとは思月六日には、子供の手を引いた母親たち 関係はない。子供たちと同じ謙虚な気持わなかった。正徳丁銀は、身寄りのないから渡される手土産の菓子で寺子屋の中 ちで学問に励みなさいー 若い娘には大金だろう。 がいつばいになる。子供たちが心待ちに 春は首元の風呂敷包みを片手で押さえ「今時は、入門の礼式は簡単になっていする日だ。 て、住職にペこりと頭を下げた。 ます。格式張った振る舞いは必要ありま春の人生で一度目の寺入りの儀式を、 「へい、ど住職さま。一生懸命やらせてせんよ」 そっくりそのまま真似ているのだろう。 いただきますー 桃は紙包みを、やんわりと押し返した。 しかし落雁は茶席で客に振る舞われた 春は風呂敷包みを解くと、中に入った春を受け入れると決めた理由には、春り、 先祖への供物として使われる高価な 小さな紙包みを開いた。亀のように首をの身の上を気の毒に思う気持ちが一番に菓子だ。 竦めて桃を見上げる。 あった。幾重にも折り畳まれた紙包みに寺子屋の子供たちが、団子のようにば 「そんで、お師匠さま。こちらを取り収入った正徳丁銀は、春の全財産に違いなくばく口に放り込むものではない。 い。 めてくださいませ」 「ずいぶんと、ご丁寧に : : : 」 取ってつけたような春の言葉に、桃は子供の初めての寺入りのように、晴れ桃は戸惑いながら一言葉を返した。思わ きよとんとして住職と顔を見合わせた。 がましい成長の儀式の場ではない。平然ず、子供にではなく、付き添いの母親に しようとく 録 春が差し出したのは、泥で汚れた正徳と受け取るのは荷が重い。 話すような口調になっていた。 ちょうぎん 抄 丁銀の銀貨だ。 銀貨の下にぎっしり詰まったものが、 「せつかくだからお菓子だけはいただき そくしゅう 寺子屋では子供の入門の際に、束脩と がさりと音を立てた。 ましよう。銀貨は、しまっておきなさい」た らくがん し 呼ばれる礼物を贈る習わしになってい「子供たちに落雁を持って参りました。 慌てて師匠らしく喋ろうとするが、ど かね い る。貧乏な家ならば、金を掻き集めて作せつかく小田原から運んできた上菓子でうも調子が狂う。 整 った一枚の銀貨が定番だ。 す。ぜひとも、お収めくださいませ [ もじもじしている春から風呂敷包みを ま さ 元より桃の寺子屋には、正徳丁銀さえ 一緒に学ぶ子供たちへのお菓子の付け受け取ると、桃は銀貨だけを、春の手の 匠 も準備できずに手ぶらで入門する子供は届けも、寺子屋ではよくある光景だ。寺ひらの中にぎゅっと押し込んだ。 お いくらでもいる。 入りに良いとされる一一月の初午の日と六 「ご住職さま、後でそちらにもお持ちし はつうま しゃ・ヘ
り中だったりします。 が効いたようです。紋日 ( 行事などの名が立腹するのは無理もなく、「面白くな この上客は本来であれば、輸入材を用目で料金が二倍になる日。時代により異いから帰る ! 」と怒りもあらわになり、 いた高級感あふれる室内で、贅をつくしなるが、ひと月に十日前後ある ) に度々◇名代の済まぬ廊下は人だかり た床飾りや簟笥、琴、絹の特注三つ蒲団来てくれたとか、衣装代や花代などに常◇名代はなだめつくして呼びに行き と、振袖新造は必死に手をつくします などの中で夜を迎えるはずでした。それに気配りしてくれる客は、やはり上位に が納まらず、これは姉の花魁を呼びに行 なのに粗末な雑居部屋へ押し込まれ、さ置かれました。 くところです。 らに絹の三つ蒲団から二つ蒲団へ格下げ みようだい です。こんな″割床〃に押し込まれるの ◆名代 これらは夜の現場の様子です。妓楼の ろうそくあんどん この貰い引きと対になっているのが夜の様子というのは、蝋燭や行灯のほの ですから、堪忍なりません。上客は夢か ら覚めて、みじめな思いに急降下です。 ″名代〃です。花魁の馴染み客がぶつか暗い室内の中で、一方ではまだ座敷で酒 くるわ ってしまった場合や、病気などの時に宴がはられ、芸者の三味線やら皆の騒ぎ 当時は廓が " 社会勉強の内〃とされた ふりそでしんぞう のも、こういった事情があっての事と思は、妹分である振袖新造を身替り・代理声が聞こえてきます。また他方では数名 われます。富裕であっても金で支配できとして寝床に差し出しました。尚、数名で話し込んでいる者、ひそひそ話の男 ない世界があり、人生の悲哀をかみしめの客がかちあった場合には、妹分でなく女、情交中の者、そんな中でのひと騒ぎ なくてはなりませんでした。廓に行けばともともかく振袖を着た新造を出したよでした。このような場面は常に起こった バラ色ではなかったのです。 うです。この時の客と花魁の様子を川柳のでしよう。 それではこんな時どんな男が勝者かとに見ると、 客と名代 いうと、川柳では、 ◇勃として名代を取る ふんまん ◇もらわれた男をのぞけばいい男 ◇あやしげな新造出して身しりぞき ( 少さて、憤懣やるかたない上客。″名代 ということで、やはりいい男にはかな女の振新ではないが、振袖姿の新造をに触っちゃいけませんよ、だけど揚げ代 わないようです。そしてこのような時に 出して、遠のく花魁 ) は花魁の料金で、値引きはなしです〃と また、名代だからといって揚げ代が値いう過酷な状況の中、若い振新と一つ蒲 勝者となるのはイケメンの他に、常日頃 からスポンサーとしての花魁への貢献度引きされることはありませんでした。客団の中ともなれば、つい、名代に手を出 みぶとん つい もんび 396