気持ち - みる会図書館


検索対象: 小説現代 2016年12月号
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1. 小説現代 2016年12月号

くら 昏い廊下を歩きながら、家康が気落ちした様子で呟く 「元々、野生の鷹は簡単になっく生き物ではなく、長い時を きずなっく かけて絆を創らねばならぬのだ。されど、こちらが慣れる前 に怖れる気持ちの方が勝れば、それが鷹にも伝わり、主を見 下すようになってしまう。そうなれば、躾けるどころの騒ぎ ではなく、いずれ鷹狩そのものから興味が失せてしまうはず ほか だ。思いの外、竹千代が興味を示していたゆえ、疾鷹を与え 二十二 ( 承前 ) て好きなようにさせておいたのだが、少々性急すぎたやもし けが 典医から孫の怪我が軽いという報告を聞き、家康は胸を撫れぬ。孫と鷹野に出ることが楽しすぎて、余が浮かれすぎた ということか。可哀想なことをした」 で下ろした。 うなだ それを聞いても、後ろを歩く利勝は項垂れることしかでき 「竹千代が寝ているのならば、そのまま起こさぬ方がよかろ ない。 どいとしかっ 「 : : : 目配りが足りず・ : ・ : 申し訳どざりませぬ」 家康は土井利勝に目配せし、寝所を後にする。 おおい 「大炊、そなたのせいではあるまい」 「では、御典医。引き続き、若君様のど看病をお願いいたし 神 「いいえ、それがしがもう少し注意を怠らなければ」 まする」 の 「しばらくは竹千代の様子を見てやらねばならぬが、早々に代 利勝は頭を下げてから小走りで後を追う。 引き揚げることになるやもしれぬ。その覚悟はしておいてく 「こたびの鷹狩は、これで仕舞いかもしれぬなー たけちょ てんい いまわ 巻ノ参今際 たかがり いえやす たかの しつ はいたか つぶや

2. 小説現代 2016年12月号

し、「ぼくらがどうしてあの女にたぶら「いっから付き合っとうと、オレ様くと、どこで、なにをしてるか知ってない ちくいち かされたかをいっしょに考えてみるといん ? 」 と心配じゃないですか。ぼくも逐一彼女 うのは。今後の人生で今回の轍を踏まな「今年の夏からっす。でも、この一カ月に報告するようにしてますし」 いように」 くらいは会ってません そこだ ! 全員が心のなかでそう叫ん 一同、目に決意の光をたたえてうなず「ふむ、付き合って三カ月くらいでひと だ。おまえがフラれたのはそこなんだ そんのうじよう く。その面持ちたるや、さながら尊王攘つの恋が終わる。最近の若者の一般的なよ ! ごと せきばら 夷を決意した幕末の志士の如き悲壮さで恋のサイクルやね。じゃあ、つぎ一一年生ー「ふむ」都合先輩は咳払いし、「話を聞 あった。 束縛くんとビッチちゃんは合コンで知 くかぎり、ふたりがビッチちゃんと付き 「それじや一年生からいこうかー りあった。おたがいにワインが好きとい合っとった時期ってダブってないのかも 「よし」オレ様くんが薄い胸をドンツと うことで、「ねえ、彼氏とかは ? 」「おらしれんね」 たたいた。「おれからっすね んけど、そっちは ? 」「いまはおらんよ」 「でも、おれらべつに別れてないっす とが オレ様くんとビッチちゃんの馴れ初め「マジで ?. 「じゃあ、付き合っちゃおつよ」オレ様くんが口を尖らせると、束縛 は、野外フェスでのナンパであった。おかー「うん、いいよ」という似たり寄っくんも反論した。「そうですよ、ぼくた なじアーティストのライヴで盛り上が たりの流れである。 ち別れたわけやありません」 り、「ねえねえ、彼氏おると ? 」「おらん。 「いっから付き合っとうと、束縛くん ? 」「気持ちはわかるよ」都合先輩がたしな そっちは ? 」「おれもおらん」「マジで ? 」 「今年の春くらいからです。でも、ゼミ めた。「でも、そもそもきみらはほんと 「じゃあ、付き合おっか ? 」「うん、いいの勉強が忙しいみたいで、この夏はぜんうにビッチちゃんと付き合っとったって よ」という流れである。 ぜん会ってません。とかしても言えるとかいな ? 」 「なるほど」都合先輩が腕組みをしてう既読スルーやし」 「どういう意味っすかーオレ様くんがぐ すご なった。「つまり、ビッチちゃんは知り「やつばり三カ月で終わりか。一日に何ぐっと凄みを利かせた。「おれはちゃん あってすぐでも男と付き合えるというわ回くらいしとったと ? 」 と『付き合おう』って言いましたよ」 けか。ほかの人たちもそうかな ? 」 「ふつうですよ。朝、昼、晩で : : : まあ、 「それはそうだけど、きみの思う『付き 反対意見は出なかった。 せいぜい五十回くらいですかね。だれ合う』と、ビッチちゃんの思う『付き合 おもも てつ

3. 小説現代 2016年12月号

ではないか。 いました。鈴は、お師匠さまに、その遺うに竹の幹が幾本も伸びた空を見上げた。 桃は鈴に心の中で詫びた。 題を解いていただきたかったのです。『塵 「お師匠さま、どめんなさいー 劫記』を読みたいなどと言ったのは、た 「わかれば良いのですよ」 だのこじつけでありますー 桃は鈴の頭をそっと撫でた。 鈴はがつくりと肩を落として、目を伏帰り際に春が、『広用算法大全』を胸 「お師匠さまは、『塵劫記』の巻末の遺せていた。誠心誠意反省した面持ちで、 に抱いて、おずおずと近寄ってきた。 題はど覧になりましたか ? 」 桃の着物に頬を擦りつけて甘えている。 「お師匠さま、この本についてですが 可愛らしい涙声のまま、鈴は早ロで呟 聞かされた桃は凍りついたような気分 いた。 だ。とりあえず、先日寺子屋に『塵劫記』鈴は、けろっとした様子で、何事もな 「えっ ? 」 を持って行かなくて本当に良かった、と かったかのように友達とはしゃぎ回りな 「鈴は既に『塵劫記』を読んでいるので胸を撫で下ろした。 がら帰って行った。 す。お父様に買ってもらいました」 「お師匠さま、『塵劫記』の遺題の解答寺子屋に戻ってからは、春と一緒はさ 鈴の言わんとしている意味がわからを鈴に示してくださいませー すがに気まずいだろうと、元の席に戻し ず、桃は呆然と黙り込んだ。 鈴は変わらずしおらしい声だ。他意なて得意な乗法のおさらいなどをさせてお 珍しく素直に、ごめんなさい、と口にくこの状況でそんな失礼な願いを口にすいた。先日桃に命じられた本の解読は、 出したため、鈴の胸の中で過去の懺悔がるほど幼いのだ。 すっかり忘れた様子だった。 湧き出したのだろうか。 「わかりました。私に任せておきなさい」 「お春、今日は、たくさんの出来事のあ よしだみつよし 「『塵劫記』の巻末で、著者の吉田光由やけくそになって答える以外に、桃にった日でしたね。ど苦労様でした」 様が、己のお師匠様が本当に良いお師匠道はない。 春は、とんでもない、と言うように大 こめだわら 様かどうかを、試すための遺題を示して 桃は、ずっしりと重い鈴の身体を米俵きく左右に首を振った。 おられます。光由様は、能力のないお師のようにぼんと竹藪に放り出してやりた 「できているかはわからねえけど、お師 匠様による塾の乱立を憂いていらっしゃい気持ちになりながら、吸い込まれるよ匠さまに聞いていただきたくて : : : 」 ざんげ

4. 小説現代 2016年12月号

僕は弟の手に自分の身をゆだねます。財産は弟のものになりますが、僕の愛んと山の中に入ってゆき、人の姿が消 かけら こうなることがなければ、弟は僕の体にを、遺言という形で弟に欠片でもいいのえ、家がまばらになっていく。 触れることはなかったでしよう。その濃で気づいてもらいたいのです。 道がやけに狭くなってきたなと思った 密さはもう、恋人同士の接触に他なりま僕の感情は、僕の死と共に消えてゆきら、とうとう中央線まで消えた。しかも せん。弟にその気が無くても、僕にとつます。けれど先生にこれを読んでもらえ曲がりくねって急カープがやたらと多 てはそうなのです。 ると思うことで、気持ちが昇華していくい。要所要所にカーブミラーはあるもの これほど濃厚な接触があるのに、僕とような気がします。 の、割れていたり曇っていたりとまとも 弟は恋人同士ではないのです。いっそ自死の間際、僕は弟の名前を、愛する者に車影が映らない。 分の気持ちを弟にうちあけようかと思っ の名を呼ぶでしよう。想像するだけで、 たまに遭遇する対向車は、この道に ためら たこともありますが、それはできません幸福な気持ちになります。 躊躇うことなく猛スピードで突っこんで でした。 これからの人生、永遠に愛されないでくるので、すれ違うたびに胸がひやりと おそらく僕は弟から拒絶されます。そあろう僕の、それが唯一無一一の光なのでする。 のことが怖いのです。愛されているか愛す。 緊張を強いられたドライプは二十分ほ されていないかぐらいは、僕にだってわ ど続き、目的地が近いと告げるナビの音 かりますから。 声に心底ホッとした。 僕は弟を愛しています。けれどその愛 急なカーブを曲がりきると視界がパッ すがの は報われることはありません。それでも菅野は長野の駅で電車を降りたあとレと開け、田んぽか畑と思われる広い平地 十分です。僕は弟の人生を手に人れられンタカーを借りた。目的地までの交通のがあらわれる。その山側、道路の脇に家 たのですから。 便も調べたが、バスが三時間に一本とと が一軒だけぼつんと建っていた。古くて 僕は弟に愛しているとは言えません。 ても使えたものではなかった。 大きな平屋。こういうのを古民家という 言えませんが、もし僕が先に死んだら、 ナビに住所を入力し、機械的な音声ののだろうか。 愛する弟に全てを譲り渡したいと考えて指示に従って車を走らせる。駅の近くも 目的地に到着しましたとナビが告げ います。僕が遺言などしなくても、僕のさほど交通量は多くなかったが、どんどる。ここが目指してきた喫茶店になるの

5. 小説現代 2016年12月号

たら返事が欲しくもなるだろう。神さましようとする営みは尊い。私も、そこに 傷ついた人は、報われなかったという が誰かを突き止めて、それを隣人にも証行けば敬虔な気持ちで頭を垂れる。でも恨みを抱える。私にも少しばかり、未清 明しようと、一つの世界観を創造したのどの神さまが本当かを判じることもでき算の恨みがある。最近気づいたのだが、 ゆる がいろんな宗教なのかなとも思うし、そないし、決まった流儀で信じたいとも思恨みには癒しではなく、赦しが必要なの れで安心する人もいれば窮屈に感じる人わない。ただ、信仰にすがる人の気持ちだ。あなたは辛がっていいのだという赦 もいるだろうと思う。時には信じるものはわかる気がするのだ。人類は長い長いしを得たときに、人は恨みや怒りのエネ が違うあまり戦争にもなる。 時間をかけて、いろんな方法で「神さまルギーを、呪いから祈りに変えることが 私は、神さまはやつばりいる気がするがいるような気がしてならないんだけできる。 えん のだが、誰であるかはわからないままでど、結局誰なんだろう ? 」という問いに 今、世界各所で不安を抱えた人々の怨 いいと思っている。どんな祈りの場所で答えを出そうとする営みを続けてきた。嗟が表出している。彼らを救えるのは威 あれ、人が不安を打ち明け、希望を形に特定の答えはいらないと思っている私も勢のいいヒーローではなく、一人ぼっち その問いを捨てることはできないし、どの夜に傍にいてくれる誰かだ。昼間は罵 んな人にも、そう問わずにはいられないり合う人々も、夜はそれぞれに一人泣 瞬間があるだろうと思う。だから私は、 く。そこには細い細い道が通じている。 あんきょ 人が「神さまがいるんじゃないか」と思分断に橋を架けるのは、隣人の心の暗渠 う気持ち自体を信仰しているとも言える。の水音に気づく、名もなき人びとである。 人と繋がるのは容易なことではない うだうだ考えてみたが、結局、人を人 ゅううつ し、どれほど一緒に過ごしたって、脳みたらしめるのは良くも悪くも、あの憂鬱 そはそれぞれ孤独に死んでいく。失望すなお友達、不安なのかもしれない。細道 るくらいなら他者への共感なんかしなけ崖道を惑い歩きながら、これからも私は ればいいのに、期待してしまうのだ。そ故無くおののき、生を抱きしめるだろら い の諦めの悪さの根底には、誰もがもの柔 う。泣いている子供の自分を迎えに行く ら る らかで切実な何かに突き動かされて生きのは、無力な自分を赦すことに似ている る と思った。 ていることへの信頼がある。 きゅうくっ 1 けいけん ののし 363

6. 小説現代 2016年12月号

りつけない。そうこうするうちに子供が産まれた。ちかであ「おっ母さんに顏をだしてもらって、わたしの晴れ舞台を見 る。十日ばかりは休まなければならない。休んだ。そこへ三てもらいたいの」 井越後屋の手代が訪ねてきた。 「だめ、だめ、わたしはあなたもよく知っているように、朝、 おおだな 「あなたの仕立てを丁寧だとさる大店の奥方がえらく気に入昼、晩とお仕立て仕事に追われている。とてもそんな暇はあ られて、以後、仕立ては一切その方にお願いしたいとのこと。 りません」 お産の疲れがとれたら、早速にも店に顔をだしてくれないか」 「いま以上にお手伝いをするからさあ」 以後、そでは三井越後屋専属の仕立て屋となり、いまにい炊事洗濯はいうまでもなく、三井越後屋への送り届けもち たっているのだが、といって所詮は仕立て屋。そうそう賃金かは引き受けていた。そでは言う。 よそゅ をはずんでもらえるわけがなく、生計はかっかつ。豊勝一 「それにだいいち、わたしは余所行きを持ってない」 の御披露目に弁当持ちで顔をだすゆとりなどなかった。 手鍋提げてもと家をでたとき、余所行きを三着ばかり持参 「ただいま」 したが、男が家に戻らなくなってすぐその日の暮らしに困っ ちかが三味線の稽古から帰ってきた。 て、そでは余所行きだけでなく、身の回りの品ことごとくを かすりもめん 「お帰り」 質屋に入れた。着る物といえば、夏物冬物ともに絣の木綿を 「お腹すいた。なにかない」 一一枚ずっしか持っていず、二枚を着まわしていた。それはち 「あいにくなにもないの。夕飯まで我慢しなさいー かもおなじだから、そでの気持ちはよく分かる。だが、 「あのね、おっ母さん」 「余所行きのことはわたしがなんとかするからさあ」 「なあに ? 」 そではきっとなって言う。 「わたし、今度の御披露目で、みわちゃんの前座をつとめる「なんとかするって、どういうこと ? 」 ことになったの」 「なんとか・・・・ : 」 さえぎ 「みわちゃんて、誰 ? 」 とちかが続けようとするのをそでは遮る。 「お姫さんになった娘さんよ」 「お父つつあんの世話になろうというんじゃないんだろうね 「ああ、あの娘さんね。それで ? 」 え」 261 ちかの思いとそでの余所行き

7. 小説現代 2016年12月号

弁当を片手に次々と寺子屋へ駆け込んど面白味のない、上手くもなければ下手ないとでも言うような、利発そうな声 せわ とも言えない文字だ。時間に追われて忙だ。男の席の面々は皆、凍ったように硬 できた子供たちは皆、春の姿にぎよっと しなく働く姿が目に浮かぶような、文字直している。 足を止めた。 桃をまっすぐに見つめているのは、鈴 の形の特徴だけを強調した筆跡だ。 「挨拶はどうしましたか ? 」 仕事で筆を使い慣れた大人の書く文字という名の娘だ。九つになるが、誰より 桃が鋭い声で咎めると、子供たちは、 も早く習字の手習いを終え、年上の子供 はっと夢から覚めたような顔をして、 だ、と杉は思った。 「お師匠さま、おはようございます ! 」 「これでは癖が強すぎます。ここに手本に混じって『商売往来』を学んでいる。 を用意したので、この通りに書けるよう桃の寺子屋で一番に出来が良くて、なお と頭を下げた。 かっ生意気な金持ちの商人の娘だ。 部屋の隅でうんうん言いながら筆を動になりなさい」 かしている春の姿が気になって、朝の挨桃は自分の書いた手本を春に差し出し「ロを噤みなさい。興味のままに口を開 た。春は高価な宝物をいただく使者のよくのは恥ずべき振る舞いです」 拶に身が入っていないのは明らかだ。 うやうや 桃は待っていましたとばかりに、びし 子供相手に、春の身の上を語り聞かせうに、恭しく受け取った。 る必要はない。むやみに人の事情を詮索春が子供と同じように叱られている姿やりと言い放った。子供相手に意地悪を しないよう躾るのも桃の役目だ。子供たに、他の子供たちは互いに顔を見合わせしてやろうという気持ちは毛頭ない。し かし、生意気な子供をしどく正当な理由驟 ちはしばらく期待に満ちた表情で桃を窺た。 っていたが、桃がいつまでも春について子供たちは、春が、桃や住職の客人でで叱るのは、小気味が良いのは確かだ。 鈴は、決まりの悪そうなふくれつ面でた ない事実は認識できたようだ。しかし、 言及しないので、諦めたようだ。 し 当の春は、ばたばたと駆け込んで来る大人が厳しく手習いを受けている姿が、筆を持ち直した。 い 「できました ! 」 子供など目に入っていない様子で、顔もどうしても理解できないようだ。 整 「お師匠さま ! この方は、どこのどな部屋中に響く晴れやかな声に、子供た 上げない。 ま さ ちは向きを変える魚の大群のように一斉 「お師匠さま、でき上がりました ! 」 たですか ? 」 匠 ことわり 師 春の声に、桃は、どれどれ、と覗き込女の席から鋭い声が上がった。理のに振り返った。 お んだ。春の書く文字は、拍子抜けするほわからない出来事は腹が立って我慢でき着物の袖を乱雑にたくし上げて肘のあ しつけ とが ひじ

8. 小説現代 2016年12月号

「小県での戦の折、わしが殿軍と知ってと一言われましてな。此度も、箕輪に参るか。 見逃してくれたろう なら長野様の病がどれほどか検分して参 「ならば、頼みがあるー 「それは、この身を逃してくだされたこれとー 真剣な眼差しを向けると、幸隆も軽く とへの報恩にござった。箕輪で養うても業正は苦笑して、細くなった肩を小刻面持ちを引き締めた。 ろうたのは、また別の話です」 みに揺すった。信玄は中々に気持ちの良「それがしに、できることならー 業正は柔らかな笑みを浮かべ、何度もい男らしい。 業正は丸めていた背を伸ばした。骨が 頷いた。 「見たとおり、間もなくお迎えが来るで軋み、ぼきりと音を立てる。 りちぎ 「律儀なことよ。時に、その頭巾は ? 」あろう。信玄殿は喜んでくれるかなー 「わしは主君を裏切って北条に降った。 からしいろ 幸綱は芥子色の頭巾を取り、剃髪した「一方では大いに悲しまれましよう。何が : : : それが愚かなことだと気付くのに 頭を見せた。 しろ、御身を高く買っておられた。業正時はかからなんだ。信玄に頭を下げさせ しんげん 「二年前、主君・信玄が得度致しました がある限り上野には手出しできぬと、嘆た其許を見習い、誰にも屈するまいと心 が、此度それがしも子に家督を譲るに当いておったほどです」 に決めたのだ。とは申せ」 いっとくさいこう たり、主君に倣い申した。今は一徳斎幸「ほう」 ふう、と大きく息を吐く。長く一言葉を りゅう 隆と号しております」 稲荷郭で幸隆と干戈を交えたのが四年連ねると少し辛い。再び口を開くのを、 「隠居されたか。それほどの時が過ぎて前、それに続いて二年前にも、武田は同幸隆は待ってくれている。どくりと喉を おったのだな」 じほどの軍勢を寄越していた。以後は音鳴らして、続きを口にした。 初めて会った頃の己は五十一、幸綱沙汰がなく、どうしたのかと思っていた「わしが死んだら上野は、信濃と同じよ が、そういうことだったか。 ーー幸隆は一一十九であった。あれから二 うに、いずれ信玄に切り取られるだろ 十年、働き盛りだった幸隆も齢四十九を「わしが死んだら、またぞろ兵を寄越すう。同じ奪われるなら、他の誰でもない、 数え、老境に差し掛からんとしている。 其許の手でやって欲しい」 その顔がしみじみと綻んだ。 もし幸隆が己の家臣だったら、それで幸隆は少し目を見開き、すぐに半ばま 「もっとも主君からは、楽隠居はさせぬも蹴散らせるのに。思っても詮ないことで閉じて、こちらの言葉を噛み締めてい ずきん ていはっ か」 かんか きし 148

9. 小説現代 2016年12月号

「なるほど。自ら降るのではなく、向こ べからずと、わしが何度同じことを申し矢島の眼差しは、これまでと全く違う うから迎えたいと申してきた。まさに、 たカ。恥じよ」 ものになっていた。深い悔恨の情が見え さわ 武田が頭を下げたことになるなー 家臣の気持ちを案じ、これまで決してる。この分なら障りあるまい。 「はい。されど : ・ : こ 口にしなかった叱責である。矢島定勝や 一時半 ( 一時は約一一時間 ) の後、夕刻 うちだよりのぶきしのぶやす 未だ報恩はしていない。心苦しそうな内田頼信、岸信保らの重臣は元より、赤を迎えた頃になって、矢島は幸綱の誓詞 面持ちに、業正は静かな笑みを向けた。石豊前や土井大膳らの中堅も下を向いてを取って戻って来た。これにて家臣たち 「其許の思いは分かった。下がって良い」しまった。だが一方で、なお嫉妬の炎をは本丸館から下がって行った。 たぎ たたず 幸綱が意外そうな目を見せる。業正は滾らせている者がある。 業正は、なお広間に佇んでいた。辺りが 小さく、それこそ、少しでも気を抜いて度し難い。それでも、これが人という闇に包まれた頃、ひとり深く溜息をつく。 いれば見落とすほどに小さく、頭を振っものなのだ。幸綱はきっと、こうした者「こうするより外にない」 た。箕輪に留まっても、どうにもなるまがいることを察していよう。だとすれば叱責されて悔い改めた者は良い。しか い。恩の返し方など幾らでもあるのだ。己は、今こそ本当の意味で恩を施さねばし、そうでない者もいるからには、命さ 眼差しの意味を感じ取ったか、幸綱は深ならぬ。 え狙われ兼ねないのだ。すぐに逃げよ く一礼して広間を辞した。 「幸綱に馬を与える。戦場で報いよと、 ーーー鞍と手綱の意味を、幸綱ならば察し 「あの者、きっと武田に寝返りますぞー我が恩を重ねるのだ。その上でなお武田てくれるだろう。 矢島定勝が目を吊り上げて呟いた。余に参るなら、其方らが申すとおりの恩知 「さらばじゃ」 の者も同じような顔でこちらを見ている。 らずであろうよ。定勝」 右手の指で瞼を押さえ、静かに肩を揺 かしこ 「たわけ ! 」 矢島が畏まって「はつ」と返す。業正らす。暗い広間に己ひとり、誰を憚るこ だいかっ ともない。 腹の底からの大喝に、皆がびくりと身は厳かに命じた。 を震わせた。言葉を失った隙に、業正は「其方が遣いとして赴くべし。武田には なお大声を捻じ込んでいった。 仕えぬと血判を取って参れ。与える馬に 「恩知らずと申した者があったな。恩をは、鞍と手綱も付けておけよ」 返させなんだのは誰だ。客分を疎んじる「 : : : 御意」 おごそ また一一年が過ぎ、天文十五年 ( 一五四 はばか 134

10. 小説現代 2016年12月号

侍詰所に何人かの家臣が入って行こう「それは、ござりますまい。これほど嫌三年 ( 一五四四年 ) の七月を迎えた頃、 としている。聞こえよがしの陰口が誰でわれておれば、たとえ長野様にお仕えし風の便りに聞こえてきた。勘助は甲斐に あるか、業正にはさすがに分かっていたとて、ひとっ働く毎に皆様のご気分を入り、武田晴信に仕えたという。 た。敢えて名指しはせず「其方ら」と呼害することは必定ですー この頃になっても幸綱は未だ箕輪にあ ばわる。 「左様にお思いなら、何ゆえここに留まった。ただ、やはり侍詰所での毎日は息 「口さがないことを申すでない。客分をつておられるー が詰まったのであろう。昨年からは城下 いおり 粗略に扱う者は、信用を得られぬ。長野幸綱は、何とも気持ちの良い笑みを見に庵を構えている。それでも日々城に上 がカは、縁組と人の信に因ることを忘れせた。 がり、業正への挨拶を欠かさなかった。 るな」 「未だ、長野様にご恩をお返ししており その幸綱が、ここ十日ばかり顔を見せ どいたいぜん すると一団から土井大膳が一歩前に出ませぬ」 ない。初秋七月、昼間は夏の暑さを残せ こ 0 報恩が済めば出て行く、ということなど、朝夕はずいぶんと冷えるようになっ 「如何にも仰せのとおり。殿が変わらぬのか。海野一族と共に信濃に帰った方ている。風邪でもひいたかと思っていた 信を置いてくださる限り、我らとて誰ひが、幸綱にとっては良いだろう。分かっ が、今日になって思いもよらぬ一報が入 った。 とり背くつもりはござりませぬゆえ」 てはいるものの、寂しいのも確かである。 いや 幸綱を高く買う己への、遠回しな厭み「人の主たることは、難しゅうござるの「幸綱の庵に、怪しき者が入るのを目に であった。業正は「当たり前だ」と返すう。いやはや、されど幸綱殿のお心持ち、致しました」 とが あかいしぶぜん のみで、咎めることをしなかった。皆がこの勘助は大いに気に入った」 家臣の赤石豊前である。一一年前、皆が おもんばか 詰所に入って行くのを見届けると、幸綱 こちらの胸中を慮ったか、勘助はそ幸綱を揶揄した時に、その場にいたひと に眼差しを流す。 う言って高らかに笑った。沈んでいた空 りであった。赤石は何を言った訳でもな 「お気になさるな : : : と申したきところ気が押し流される気がした。 いが、同じ思いだったに違いない。此度 ざんそ だが、其許がわしに仕えてくれればの 山本勘助は、十日もするとまた流れてのことも讒訴ではあるまいか。 う。さすれば、あの者たちも少しはおと行った。どこへ向かったのかは知らな「何ゆえ、怪しいと分かるー なしゅうなろうて」 い。しかし、さらに二年が過ぎて天文十「大膳殿が、幸綱の庵に人る者を見たと ごと 132