両腕に伝わったがそれだけだった。 「大丈夫か、美咲さん。どこにも怪我はないか」 その瞬間、美咲が動いた。 柔らかな声を美咲にかけた。 ふところはんみ 男の懐に半身になって飛びこんだ。 とたんに美咲は、全身からカが抜けるのを感じた。すがれ ひだりえり 背中をぶちあてながら、男の左襟を右手がっかんだ。 る人が現れたのだ。膝が震え出し、それは全身に伝わってい っこ。 肩の上に乗せて思いきり投げた。 得意の背負い投げが決まった。 「何だ、てめえは」 男は弧を描いて路上に落ちた。 獣の目が吼えた。 どよめきがあがった。 「俺はこの娘の、保護者だ」 店の前は見物客でいつばいだ。なかには拍手をする者もい ぶつけるように諒一二はいった。 た。どよめきはしばらくやまなかった。 「なら、てめえが相手になるのか」 投げられた男が、のろのろと立ちあがった。血走った目で 無造作に諒三が男に近づいた。 美咲を見た。 獣の目を諒三が睨みつけた。 「ぶつ殺す」 男の様子にひるみが見えた。 おび 腹の底から声を出した。 あれは怯えだ。 このとき初めて、美咲の全身を恐怖が襲った。男の様子は 諒三の目は鬼の目だった。 けもの 尋常ではなかった。獣の目で美咲を見ていた。手にしている 男が後退った。 のは大振りのナイフだ。 「てめえ、覚えてろよ」 男が一歩ずつ美咲に近づいた。 それだけ叫んで男はさっと背中を向けた。 「やめろっ」 大歓声があがった。 どこからか野太い声が聞こえた。 美咲はその場に崩れ落ちた。 声のしたほうを振り向くと、いっきたのか諒三が見物人の 目の端に途方にくれたような笹川の顔が映っていた。 前に立っていた。 ( つづく ) 392
三人は笑みを顔に残したまま、声の主「もしよかったら」モテスギくんが言っなんかに、という目で有象無象くんをひ をふりかえった。 た。「おれにお祝いをさせてもらえんかなーとにらみした。が、腕に抱きついてきた 思わず息を呑んでしまうほどの美男子「え ? 」ビッチちゃんの瞳がスパークしビッチちゃんに上目遣いで「お願い」と た。「そんな : : : でも、いいんですか ? 」ねだられると、蒸気機関車みたいに鼻息 がそこに立っていた。実際、ビッチちゃ しよせんビッチはビッチか、有象無象を荒らげた。 んはまるで奇跡でも見るような目つき で、肩にセーターをかけたその男を見つ くんはかすかな落胆を覚えた。そんで、 「オーケ 1 、お姫様の仰せのままに」 めた。 おれたちは何者でもありやしないんだ。 モテスギくんは前髪をかき上げ、ビッ ちそう チちゃんに片目をつむり、そそくさと人 「もちろん。なんでもど馳走するよー 「おれ、モテスギです」 夢から覚めたみたいに、ビッチちゃん「じゃあ、とりあえず喉が渇いたなーそ混みにまぎれていった。 が目をばちくりさせた。 う言って、ビッチちゃんが有象くんを肘名残り惜しそうにその背中を見送るビ でつつく。「有象くんと無象くんも一日 ッチちゃん。彼がふりむくたびに、手を 「ミスキャン、おめでとう」 ふりかえす。だれが見ても、それは恋に 白い歯をのぞかせて笑うモテスギくん働いとったけん、喉が渇いたやろ ? 」 「いや、おれらはべつに : : : 」 落ちた乙女のたたずまいであった。 の目には、有象無象くんなど存在してい いちず このような一途な目で見られたら、ど なかった。白馬の王子と出会った白雪姫「喉が渇いたやろ ? 」 「え ? ああ : : : 」彼女の真意を測りかんな男の耳にもドクドクと脈打っ恋の鼓 を見守る小人たち、それが有象くんと無 ねたが、ふたりともどうにかうなずい動が聞こえるにちがいない。あいつ、み 象くんだった。 た。「うん、そうやね」 んなにいろいろ言われてるけど、ほんと そうだよな、と有象くんは思った。こ 「ほら ! やつばり喉が渇いとるやん ! 」うはいい娘なのかもしれないな。モテス れが現実ってやつなんだろうな。 ギくんはそんなふうに思った。スタッフ 無象くんはじっと顔を伏せていた。そ「渇いた ! 渇いた ! 」 うしなければ、目のまえにいる男がない 「ねえ、モテスギくん、あたしお化粧をの飲み物のことまで気がつくし、ミスキ がしろちゃんを泣かせた男だと叫んでし落としてくるけん、そのあいだにみんなャンになってもぜんぜん偉ぶってないも んな。 まいそうだった。他人を貶めて自分を好の飲み物を買ってきてくれん ? 」 く見せる。そんな卑屈な自分自身から、 今度はモテスギくんが目を白黒させる足を止め、またぞろふりかえる。 番だった。なんでこのおれがおまえたち赤いガウンをまとった彼女の姿は、そ 必死で目をそらしていた。 おとし おとめ 124
宗二の声に、伊年ははっと我に返った。す。それから、もう一つ」 のひどく高価な磁器の面を見ているよう 一瞬、自分がどこにいるのかわからな表紙の装丁には薄絹が使われていた。 な気分にもなる。 しばたた かった。目を瞬いて、あたりを見まわ紙ではなく薄絹に描かれていたから、絵経典づくりに携わった者たちは、清盛 ちり す。 が消えてしまったのではないか、と宗一一を含め、皆とっくに死んで塵になってい 「えろう熱心に見てはりましたけどは自分の推理を述べた。 る。ただこの経典だけがこうしていまも 宗一一はその後もなお紙独自の優れた点残って、見る者を魅了する。 遠慮がちにたずねる宗一一をぼんやり眺についてあれこれ語っていたが、伊年は たしかに、狩野派や土佐派が描く今様 めているうちに、思い出した。 途中から話を聞いていなかった。 の絵とはまるでちがう。 平清盛が厳島神社に奉納した装飾経経典に目が吸い寄せられる。 一一 = ロうならば、いまを生きている者の目 典、全三十一一一巻。 表紙と見返し部分に、それぞれ絵もしを楽しませるためだけに描かれた絵では 修繕の必要な三巻を除けば、経典の表くは装飾が描かれている。平安時代の絵ない。絵を描いた者たちは、未だ存在し 紙・見返しに描かれた絵はいずれも四百師たちが、四百年以上も前に描いたものない誰か、いっかこの絵を見るであろう 年前に描かれたとは思えないほど色鮮やだ。 誰かの目を確信しているようだ : かな原形を留めていた。 はじめて見たとき、伊年は息ができな伊年は、自分でも不思議なほど経典絵 「紙ちゅうもんは本来、保管状態さえよくなった。 に魅了された。 ければ、四百年が五百年でもこのとおり 形や色のあいだから音が聞こえた。 こんな機会はめったにあるものではな 丈夫なもんどしてな。千年はもつ、言う次の瞬間″ここではないどこか〃に連い。 者もおるくらいどす れていかれた。あえて言うならば、絵に この仕事、俺にやらせてくれ。 宗一一は自慢げにそう言うと、ぐすりと封じ込められていた上代の空気のなか伊年は経典に目を落としたまま、どく けんらん 一つ鼻をすすり、 に、だ。優美で繊細、絢爛豪華。しっと りと唾を呑み込むようにして言った。 「修理が必要な三巻は、経箱の隙間からりとした情感をただよわせながら、どこ 「ほんまどすか ! 」 潮が入りこんだんか、しまうときに潮がか醒めた飄逸味を感じさせる不思議な世宗一一がばっと顔を輝かせて飛びついた。 ついたままやったんやないかと思いま界だ。一方で、かたく、冷たい、唐渡り「おおきに、ありがたい ! わいも、伊 おもて 320
確かにマナプの言う通りだ。名前を呼「知ってるさあ、それぐらい。プタは賢「じゃあ、五十万円でいいぞ」 ぶとこっちに来るっていうことは、自分いって昔から言われてんだよ。俺は何も「わかった。明日持ってくる」 マナプはすんなり返事をした。本気で の名前を認識しているということなの教えたことないけどな」 おろしね 金を持ってくる勢いだ。プタ一頭の卸値 だ。認識しているということは、返事を「どうして ? 」 「だってなあ、これ売り物だぞ。半年たなんか、その十分の一もしないというの しても不思議ではないということか ? プタは俺が思っているより、はるかに賢ちゃあ出荷する。大みたいにペットじゃに。 いのかもしれない。 ねえからな。芸なんか教えたら、愛着わ「ばっきやろー。五十万で売るなんて冗 談だぞ。そんなあこぎな商売やらんさ。 いて売る気になんかなんねえだろうよ」 「こりや面白いや ! なるほど、そういうことか。マナプと売らんけど : ・ : 好きにしていいぞ。あの マナプが子供のように笑う。水を得た 魚のように笑う。笑った魚など見たこと目が合った。ちょっと芸を教えただけだプタ、育ちが悪いからな」 俺とマナプは目を見合わせて笑った。 ないが。よく見ると、トン子の目もキラが、俺はトン子を売る気などない。 「そうなりやお前、商売あがったりだよ」なんだか俺も嬉しくなった。 キラしていて嬉しそうだ。 「その代わりマナプ、こいつも調教して 親父が長靴をドカドカ鳴らしながら近「じゃあおじさん。このブタ、俺に売っ てくれよ。いくら出せばいい ? 」 くれよ。もうちょっと女が寄り付くよう づいてきた。マナプは親父に声をかけ、 いくらマナプで にさ。難しいかあ : : : 。 マナプが突然言い出したので驚いた。 同じことをやって見せると言う。 も」 冗談かと思ったが、目が本気だ。 トン子を奥に戻して名前を呼んだ。ト ン子は迷うことなく、小走りでやってき「はあ ? 本気かマナプ。丸焼きにすん「何言ってんだよ。俺に任せてくれよ。 こ 0 そういうの得意だし」 のか ? 」 「ほう、なかなかだな。プタは頭いいん「そうだな。まあ、その前にいろいろ教親父は鼻で笑いながら作業に戻った。 えてからなー だよ。大並だっていうからなー 単行本はニ〇一七年一月十七日刊行予定 「本気でほしいのか ? 」 親父は大して驚いていないようだ。 です。 「本気、本気」 「親父、知ってたのか ? 」 106
ところてん がるのをぼんやりと眺めている。竹売りや心太売りの呼び声 せみしぐれ も絶え、ただ季節外れともいえる蝿時雨だけが耳をうつ。 四若者たち 目をあげると、相手は黒眼がちの目をきらきらと輝かせて じっと返事を待っていた。 「ほんで、その女とはその後どないなりました ? 」 舌でも出しそうな勢いだ。 色の浅黒い若者が玻璃でできた透明な酒器をもちあげて、 いねん ーーー子大みたいな顔やな。 伊年にたずねた。 コップ 反射的にころころとした黒毛の子大が脳裏に浮かび、伊年 差し出された器から、やはり玻璃製の小盃に酒を受ける。 は危うく口に含んだ酒をふきだしそうになった。 唇にあたるひやりとした感覚が心地よい。酒を口に含み、 かんやそうじ 目の前の若者は、紙屋宗一一。 伊年は満足げに目を細めた。 おおだな かみぎようおがわ たわらや 「俵屋」と同じ上京小川にある大店の紙屋の次男坊だ。 夏の終わりの昼下がり 当時、日本を訪れた宣教師たちが「この国の家は木と紙で ただでさえ京の夏は暑い。 ことにこの数日は、じきに九月というのに残暑ことのほかできている」と驚いたように、京の家屋は紙および紙製品で しようじふすまかけ あふれている。書籍や台帳類はいわずもがな、障子や襖、掛 きびしく、風のない午後の蒸し暑さは格別だった。 ちょうちんとうろう ものびようぶ 強い日ざしが土塀に照り返し、風景全体が白くかすんで見物、屏風、小箱に扇、紙布、紙衣、はては提灯灯籠のたぐ えるほどだ。風はそよともふかない。荷担ぎの男たちや行商いまで。家庭内の日常品、また美術工芸品に至るまで、これ神 雷 人、牛追いたちも、この時刻はさすがに木立や土塀の濃い影ほど紙を多用する文化は世界でも類を見ない。 紙屋を訪れる客の姿はひきもきらない。 のなかに腰をおろし、汗をぬぐいながら、白い土埃が舞いあ どぺい ギャマン っちぼこり
しばらくは呆気にとられた様子であった。 同時に、経典の絵を見たとき自分が何 ・ : 気は、たしかどすか ? 」 に強くひかれたのかを思い出した。平安願文表紙は″薄〃 の王朝風の空気だ。しっとりとした、こ見返しには″背中を丸めた鹿が足下の黒大がおあずけをくらったような宗一一 の顔に、伊年は思わずふきだした。 まやかな情感をもっているくせに、その草を食む図〃を描く。 かろ ぞくるいほんけじようゆにん 「たしかも、なにも、見立てや懸詞は王 他の一一巻 ( 嘱累品、化城喩品 ) につい 奥に漂う軽やかさ。一種のユーモア。 じようとう それが、見てもらおう、見てもらおうても、州浜、磯山に波形文様、それに松、朝和歌の常套手段ゃないか」 まき 大丈夫。これで合うとる。 と肩をいからせた今様の絵とのちがい梅、槙を配した構図がすらすらと決まっ からりと請け合った伊年は、少し考え た。いままで悩んでいたのが嘘のようだ。 ど。だから、これまでに伊年が目にした どんな絵を当てはめてもうまくいかなか金銀泥をふんだんに使って描き上げらて小声で付け足した。 そもそも誰も見たことがない絵な った。他の経典絵のあいだにおくと、どれた絵を見て、宗一一はちょっと妙な顔を した。 んやろ。合うとるもなにもないわい。 んな絵も場違いな気がする理由だった。 自信満々、平然とうそぶく伊年は、ま 顔をあげ、ふたたび社殿の背後の山肌「ええ絵やとは、思いますけど : : : 」 に目をむけた。 上目づかいに伊年の顔を覗き見る。伊るで人がちがったような朗らかさだ。宗 二はなんだかそら恐ろしいような感じ 子鹿を連れた親鹿が、背中を丸めて足年が知らん顔をしていると、絵を眺め、 さんざん首をひねっていたが、降参したで、それ以上はなにも言えなかった。 下の草を食んでいる。 数日後。 そのとき、社殿の背後の山の端から朝様子で意味をたずねた。 あき あき 傷んだ経絵は、伊年が描いた新しい絵 薄は秋、つまり安芸国。 日がのっと顔を出した。 ろくはら に改められ、「平家納経」修理修繕が終 伊年は目を細めた。柔らかな風が頬を鹿は厳島神社の鹿が草を食む鹿原と、 ろくはら かけことば なでるように吹き抜けてゆく。 平清盛の住まいがあった六波羅の懸詞。了する。 急に肩の力が抜けた。 鹿の背中の丸みを土坡から上る ( 沈宗二が恐る恐る差し出した経典一式神 雷 神 は、福島公によって無事嘉納された。 目の前の霧が晴れ、描くべき絵が決まむ ) 月 ( 日 ) の曲線に見立てた。 風 った。 ( つづく ) 伊年のこたえに、宗一一は目を丸くし、 すすき いた ほが かのう
一喝した。その軽くて視野の大きいめ に立っているのはイチである。ふだんのは二階、十一一番の部屋に入ってもらう」 がねが、いま、 彼女に似合わない、みように気どったロ 「は ? 」 ぶりで、 政次郎は、耳をうたがった。 ( あ ) ささき にわかに白濁した。 「こちら、舎監の佐々木先生」 わざと小首をかしげてみせて、 テープルの右の男のほうを手で示し「先生、いま、宮沢とおっしゃいました レンズの内側がくもったか。ちがう。 た。男は栗色の、靴プラシのような口ひか ? 」 目の玉そのものが熱い何かに覆われてい げを指ではさんで撫でつけながら、 佐々木は胸をそらして、 る。それが窓からの光をふくらませ、視 けいぞう 「佐々木経造と申しますー 界をにどらせたのにちがいなかった。 「中学校では、みな呼びすてですー もったい 勿体をつけて一礼して、 政次郎は、沈黙した。何か言い返した政次郎は、めがねの内側に指をさし入 やまがた れた。 「舎監長の山県先生がご不在のため、僭りしたら、いじめられるのは、 えっ 越ながら、私より入寮心得を説明してい ( 賢治だ ) 目をつぶり、まぶたへ指をめりこませ めいちょう たところでした」 た。ふたたび目をひらけば世界は明澄さ 政次郎のめがねは、丸めがねである。 話しかた自体は堂々としているが、政二年前、町内の店へあつらえに行ったをとりもどし、佐々木はロひげを撫で、 次郎にというより、組織内の上下関係にとき、店のあるじが、 賢治は希望あふれる目をしている。政次 はな 対して口をきいている感じがある。ひょ つるは、鉄がいいですな。 郎は洟をすすり、佐々木へふかぶかと頭 とカ をさげて、 っとしたら、この男、 ・ : 賢治を、よろしくお願い ( 軍隊あがりか ) レンズは小さいのが流行でして 「五年間。・ 直感しつつ、 します」 ね。顔が大きく、堂々と見える。 われながら、挨拶というより懇願であ 「賢治を、よろしくお願いしますー などと小うるさく助言するので、 父 頭をさげたら、佐々木舎監は、ろくに 「めがねというのは、飾りじゃねべ。読る。政次郎はイチに目くばせをすると、 の 答礼することもせず、 み書きの便利のためのものだ。つるは軽きびすを返し、逃げるように部屋を出て道 河 「この寮にはいま五十五人の学生が生活い鼈甲のもの、レンズはいちばん大きなしまった。廊下をあゆみ、玄関を出て、 銀 ふたたび黒い門をとおりぬける。 していて、部屋は十六あります。宮沢にもの」 せん べっこう
かける時は気が楽だ。 八割方成功するようになった。 になった。くるっと一回りするようにな 亡くなって間もない頃は、出前をとっ ったのだ。成功だ。ご褒美のエサをやる 俺はなんだか楽しくなってきた。 たりスー ーで弁当を買うことが多かっと、ビャービャー鳴いて喜んだ。やつば 翌週から「お回り」を教えてみた。 た。親父は文句を言わずに食べていた りトン子は相当賢いのだ。 てんやもの 最初にエサを持った手をトン子の目のが、しばらくすると、「今日も店屋物か」 久しぶりに達成感を感じた。 前にかざし、腕を円を描くようにぐるつなどと、文句を一言うようになった。自分調子に乗った俺は、次々に芸を教え と回してみた。トン子はきよとんとしては何もしないくせに、文句だけは一丁前た。「お手ーは左右両方の脚でできるよ いるだけで、反応がない。当然だ。「お手」だ。 うになった。「お回り」・も左右両方に回 ができたからといって、すぐに次の芸が親父は典型的な亭主関白で、家事などれるようになった。 できるわけではない。 全くやらない。もちろん料理もできな この調子なら何でもできるような気が 何度か繰り返しているうちに、エサをい。働き者の母ちゃんは、家業を手伝いしたが、時々変な鳴き声を上げるのが気 追ってちょっとは首を動かすようになつながら家事をこなした。自分勝手で聞くになった。子プタなので、ビャービャー からだ たが、身体全体を回そうとはしない。後耳を持たない親父に、よくついてきたも甲高い声なのはわかるが、時々、「ププ ろに親父の気配を感じた。振り向くと、 のだ。訳のわからないことを言われてブッ、プブブッと、小刻みに低い鳴き 親父と目が合った。また嫌味を言われるも、文句ひとっ言わなかった。俺はそん声を出す。プタにもいろんな鳴き声があ のかと思ったが、何も言わずに立ち去っな母ちゃんを見るに見かねて、よく親父るが、あまり聞いたことがない声だ。 こ 0 に食ってかかったものだ。 親父が出かけた後、トン子と「お回り」 の続きをやった。誰の目を気にすること 「今日、寄り合いあるからな」 夕方になると、仕事を終えた親父が、 もなく、昼間の続きを延々と繰り返し「洋一、マナプが帰ってきたらしいぞ」 突然親父が言うので驚いた。幼なじみ ぶつきらぼうにそう言って出かけた。母た。俺は柵の中に入り ) トン子の目の前 のマナプのことだ。 ちゃんが亡くなってから、俺が食事を作にかざした手をお尻の方に回しこんだ。 らなければいけなかったので、親父が出すると、トン子はついに身体を回すよう「えつ、何かあるのか ? 法事とか」 よういち
申しまして。もしやと思うて見張っておいがどう動くかを熟知している。つまり「ーーという話が耳に入っておる。如何 ったところ、案の定にどざった。その者策謀の基となる才を豊かに持っているのなることか、訳を聞かせてもらえぬか」 は庵から出ると、俺の目に気付いて逃げだ。他に取られたくないーーしかしその 左右の列から疑惑の眼差しを向けられ おったのです。透波では ? 」 思いは、何より、一本芯の通った幸綱のる中、幸綱は大きく息を吸い込み、長く 吐いた。 「いつのことだ」 心根が気に人っていたからだ。 こまね 「如何にも、我が庵には遣いの者が参り 「先ほど、昼過ぎです」 「さあ殿、お手を拱いておられては。今 やれやれ、と呆れて溜息をついた。 すぐ幸綱を召し出して、仔細を問い詰めました。山本勘助殿のご推挙があり、武 たやす 田晴信がこの身を迎えたいと申し出て参 「昼日中に動いて、容易く見つかる透波ねばー があるか。なりは、どうだった」 ひそめた眉根が、ぐっと寄った。赤石ったのです」 が言うのにも一理ある。幸綱ほどの男が 途端、満座にざわめきが満ちた。あち 「小綺麗な小袖と括り袴にどざった」 「なれば、いずれかの武士であろう。海北条や武田に与するなら、この上なく手こちから「恩知らず」「誇りなき者」と ばせい 野の遣いやも知れぬ」 罵声が飛ぶ。業正はじろりと睨んで皆を 強い敵となるであろう。 すると赤石は「あーと大きく口を開い 「あい分かった。仔細を問うてみよう黙らせ、しつかりと幸綱の目を見据えた。 ( 0 赤石は実に嬉しそうな顔で一礼し、足「して、其許はどうされるおつもりか」 「海野は武田に降ったのでしよう。よも早に去って行った。そして幸綱が城に上「我が願いは二つあり申した。ひとつは や幸綱も : : : おのれ、恩知らずめ ! がるのと同じ頃に、長野家臣の多くを引長野様にご恩を返すこと」 「恩と申すほどの恩は施しておらぬ。やき連れて戻った。得心できる申し開きを「もうひとつは ? 」 「我が真田郷を奪った武田に、頭を下げ つかむ者があるゆえ、わしは何もしてや聞かねば、収まりが付かぬ。そう言って、 れなんだ」 接見の広間に押しかけて来る。 させること」 「いえ、その。されど、ですな。どこの 目が丸くなった。この地に来た日か 「まこと、勘助の申したとおりよ」 れ 誰とも知らぬ者が出入りしておるのを、 人の主であることは、ことほど左様にら、ずっと、幸綱の中には信念があった。 な 少なくとも一一人が目にしておるのですぞー難しい。業正は致し方なく、皆を迎え入その正体を知って、手放したくないとい崛 業正は眉をひそめた。幸綱は、人の思れて幸綱に問い糺した。 う思いが強くなる。 すつば ばかま しさい
の動きを目で追っている。俺が飼い主だとわかっているに違してみた。それでもトン子は、「お手」をしようとしない。 いない。 やつばり無理なのかなといい加減あきらめかけていた時、 トン子が恐る恐る前脚を乗っけた。スローモーションのよう 映像を見たせいで、好奇心がムクムクと湧き上がった。ト にゆっくりと迷いながらだったが、ついにやってくれた。 ン子なら「お手くらいできるかもしれない。 感動的な一瞬だった。俺はトン子がかわいくてしようがな 俺はいつものようにトン子に話しかけ、頭をなでた。ちょ っとドキドキしながら、「トン子、お手」と言って左手を差くなり、抱きっきながらトン子の頭をなでた。 もう一度やってみた。今度は期待とは裏腹に、全く反応し し出してみた。反応がない。トン子はきよとんとしているだ けだ。ちょっと期待してやってみたのだが、すぐにできるわなかった。それどころか飽きてしまったようで、きよろきょ けがない。 ろして集中力がない。エサを見せるとシッポを振ってじたば まえあし たするのだが、「お手」はしない。根気よく何度も続けたが、 今度は「お手」と言った後、トン子の右の前脚をつかみ、 ダメだった。がっかりしていると、親父が後ろで腕を組みな 俺の手に乗っけてみた。シッポを振って喜んでいる。いやが る様子はない。何度か繰り返してから、トン子が自分で手をがら見ていた。 「さっき『お手』したんだよ。やつばりトン子は頭がいいん 乗せるかどうか試した。「お手 [ と言って手を差し伸べたが、 トン子は自分で前脚を乗せようとはしない。基本的なことをだよな。まだ二日目だよ、二日目」 忘れていた。エサをやらなければやるわけがない。 俺が言い訳するように言うと、親父は、 気を取り直してもう一度前脚をつかんで手に乗せ、その後「そりやすごいな。お前がトン子くらいの時は、まだ『お手』 録 エサを与えてみた。喜んでエサをばくつく。これを何度か繰できなかったもんな」 抄 と鼻で笑った。 り返せば覚えるかもしれない。期待を込めて繰り返したが、 ダメだった。 その日はそれつきり無反応だったが、親父に嫌味を言われ子 るのを覚悟で「お手」の練習を続けた。 結局この日、トン子自ら前脚を乗せることはなかった。 頃 の 三日目は二回出来た。何十回もやった中での二回なので、 翌日はもっと気合を入れて教えてみた。昼飯を食った後、 あ すぐにトン子の所に向かい、昨日と同じことを何度も繰り返まだまだだ。しかし、五日ほどたっとグンと確率が高くなり、