と二人の顔を交互にながめて、念を押一はんとどないな関係が : : : 」 安定を維持することができないまでに社 した。 と言いかけた宗一一が、はっとした顔に会構造が変化している。秀吉は、かれら なった。 天下様 の機嫌をむだに損ねるほど無能ではなか と呼ばれることをことのほか喜んだ太「そやった。与一はんはいま : : : なるほった。 閤秀吉が、伏見城の一室で息を引き取っど、そうどしたな 相応の対価と引き換えに、豪商たちは て六日になる。 と一人で納得したようにうなずいてい秀吉に船を提供する。 る。 享年六十一一歳。 かれらは貿易船を使って兵や物資を朝 一説に六十三歳ともいわれるのは、生与一の父・角倉了以らによってひらか鮮半島に運び、翌文禄一一年の停戦のさい まれた年がはっきりしないからだ。 れた日本船による南海貿易は、しかし、 の引き上げにも尽力した。 あしがる 名もなき足軽の子として生まれ、信長わずか数度実施されただけで、その後中豪商たちが代わりに秀吉に求めたのは ・そ - っ - り・と の草履取りから、ついに天下人にまで成断したままになっていた。 朱印状の交付であった。 ぶんろく り上がったかれの経歴は、いかに戦国乱文禄元年 ( 一五九一一年 ) 。 天下人 ( 政権担当者 ) のお墨付きがあ 世とはいえ、唯一無二のものであろう。 秀吉は十五万余りの大軍を朝鮮半島にるのとないのでは、他国との貿易手続き うんでい 振り返れば、わずか半年ほど前、あれ派遣した。 上、雲泥の差が生じる。 ぶんろくえき ほど盛大に行われた醍醐の花見は、秀吉世にいう文禄の役である。 半島からの海を越えた撤兵作業は思い が最後に試みた壮大な馬鹿騒ぎであった。 海外派兵のために大量の船腹が必要でのほか長引き、さらに船の艤装を元に戻 秀吉の死は、理由あってすぐには公表あった。秀吉は、南海貿易に使われていすまでに丸一一年を要した。 されなかった。 た日本船を朝鮮半島への兵および物資の そうして、船を港に、京・堺の豪商た 噂は、だが、水がしみだすように京の運搬用に提供するよう、京・堺の町衆にちーー与一もこのなかに含まれるーーーが 町に広がっている。与一にあらためて申し入れた。 朱印状の新規交付をいまや遅しと待ち受 「ここだけの話」と念を押されるほどの 無償、ではない。 けていた文禄五年秋。 あぜん ものではない このころすでに、上層町衆 ( 豪商 ) の かれらを唖然とさせる事態が生じた。 「太閤はんが死にはったからいうて、与金銭的支援なしには時の権力者が政治的秀吉が一一度目の朝鮮出兵を布告したの だい・こ じんりよく ぎそう 310
まぶしく照り返す陽光に眼を細めた。 評価は地に落ちた。さらに、秀吉の死ののことであった。 秀吉の姿が脳裏を横切る。 事実が公になれば民衆のこころが豊臣宗豊臣政権に忠誠を誓った者たちは、秀 与一は父に連れられて一度、秀吉に拝家から離れるのは避けがたい。 吉の死後わずか二年で一一派に分裂。雌雄 えっ 謁したことがある。個人的な好悪はとも もとより国内にはさまざまな不満がくを決することになったわけだ。 とくがわいえやす かく、あの赤ら顔の小柄な″猿のような〃すぶり、暴発の火種はあちこちに転がっ東軍率いるは徳川家康。秀吉が死にさ 老人が天下を治めていたことは間違いなている。 いして豊臣政権のあとを託した五大老の かなめいし い。 秀吉の死で要石がなくなった。 一人だ。 盗賊が横行し、海賊が跳梁跋扈する戦規律が緩み、ばらばらになる。 一方の西軍の中心は石田三成。こちら 国乱世が長くつづいた。 その結果は。 は、朝鮮出兵はじめ秀吉の意向を忠実に いくさが打ち続く世の中では、まっと たぶん、またいくさになる。 推進してきた有能な官僚型人物である。 うな商売は成立しづらい。中国の上質な与一は背後の一一人に気づかれぬよう、 が、それゆえ武将としてはスケールの点 生糸や金襴緞子といった高級絹織物、伊窓の外に顔をむけて、そっとため息をつで見劣りするのは否めない。結局、西国 もうりてるもと 年が描く見事な扇絵、宗一一が調達する高いた。 の雄・毛利輝元が西軍の名目上の盟主と 価な紙製品が求められるのも、世の中が してかつぎだされた。 治まったからこそだ。 戦いは、実質上、 朝鮮への出兵をふくめて、秀吉には民 六平家納経修理 センス 衆のこころをむ不思議な感覚があった。 家康派 ( 東軍 ) 対反家康派 ( 西軍 ) こんにち天下が無事治まっているの慶長五年 ( 一六〇〇年 ) 九月十五日 - 。 せきはら は、良くも悪くも秀吉個人に対する民衆岐阜関が原で″天下分け目の戦い〃が というべきものであった。 の絶大な人気に負うていたところがある。行われた。 全国から武将たちが手勢を率いて関が だが、一一度の朝鮮出兵が膨大な戦費と東軍七万五千、西軍八万。 原に続々と集結。 兵力をむだに費やすだけの結果に終わっ これだけの数の軍勢がひとっ場所で相二陣にわかれ、睨みあう両軍のあいだ せんたん たことで、武将たちのあいだでの秀吉の見えるのは、日本の合戦史上、はじめてに戦端がひらかれたのは午前八時頃であ ばっこ はい まみ あい にら いしだみつなり 314
そもそも太閤はどこまでこのいくさを おそらく、常におかしかったわけではイコールではない。当然だ。 続けるつもりなのか ? あるまい。 摂取された水銀は体内から排出され まさか本当に唐天竺まで平らげる気で晩年、秀吉はときおり狂躁の発作に襲ず、やがて中毒症状を引き起こす ( 後年 はあるまい : われ、別人のようになったーー利休や秀ヨーロッパでは、帽子をつくる過程で使 疑念に駆られた兵たちの戦意は低く、 次についても、秀吉は後にかれらの死を用された水銀蒸気を吸い込んだ帽子職人 一一度目の派兵ははじめから苦戦を強いら悼んで涙を流した という証言が残さのあいだに、大量の水銀中毒者を出し れた。 れている。 た。ルイス・キャロル『不思議の国のア 秀吉はいったい何を考えていたのか ? 説がある。 リス』の挿絵に描かれた、頬が削け落ち、 もしかすると、どんな見通しももって 天下人に上り詰めたころから、秀吉は目をぎよろっかせた″いかれ帽子屋〃が いなかったのではないかとさえ疑われる。お付きの医師に命じてある薬を密かに、典型例である ) 。 を、ようそう 秀吉にはもともと狂躁の気がある。だ だが、頻繁に処方させていたという。 いささかあやしげな説だが、一応、説 いちやじよう しんしゃ からこそ一夜城などという誰も思いっか辰沙。 は説だ。 ない奇想天外な策で戦に勝っこともでき丹とも呼ばれるが、要するに水銀化合 はたして晩年の秀吉が水銀中毒による たわけだが、晩年、かれの狂躁はときお物だ。 狂気を発していたか、否か ? いまとな じようきいっ り常軌を逸していた感が否めない。 水銀が腐敗防止剤として有効に機能すっては確かめようもない。ただ。 けいちょう こんにちなお諸説入り乱れる「利休切る事実は古くから知られていた。このた 二度目の出兵 ( 慶長の役 ) にさいして、 腹。令が天正十九年 ( 一五九一年 ) 。翌め、古来中国でも辰沙 ( 水銀 ) は、不老秀吉は戦功の証として首 ( 頭部 ) の代わ 一五九二年の文禄の役あたりからどうも不死を願う皇帝たちにもしばしば求めらりに鼻を持ち帰るよう命じた。このため 怪しく、文禄四年 ( 一五九五年 ) に甥のれた。 半島に送られた日本の兵は、手ごわい敵 くらいじんしん 秀次 ( 一時は関白、左大臣 ) を処刑し、 天下人として位人臣を極めた秀吉が次兵ではなく、無抵抗な民間人をとらえて けんらん・こうしやじゅらくてい 自ら築いた絢爛豪奢な聚楽第の打ち壊しに望んだものが不老不死であったとして鼻をそぎ、千個ずつ樽に詰めて塩漬けに を命じたとあっては、あきらかに″おかも不思議ではない。 して持ち帰った。 しくなっていた〃としか思えない。 だが、 " 腐らない〃と″死なない〃は 日本に持ち帰った鼻は、京都・方広寺 ほうこうじ 312
くらまやま あいよう ひでよし 鞍馬山という愛鷹を載せた秀吉である。 秀吉は己の両手でロを塞ぐ。 野へお供するのは無理かとー 「猿、呼び名など、どうでもよいわ。差それを見て、信長と家康は思わず笑っ「何を弱気なことを申しておる。こうし てしまう。 て、余と元気に話をしているではない 出口を挟むな , 懐かしい会話だった。 か。大丈夫だ」 信長に命じられ、秀吉は頭を掻く。 家康は抵抗もなくそれを受け入れてい 「されど : : : 」 「はい。猿めは少し黙っておりまする」 「そなたは余の跡を取り、天下人になっ 「信長殿、いったい、いかがなされましる。 たか ? 」 いや、違う ! これは夢だ : ・ たそうではないか。そんな弱腰では、す 蒲団の上で胡座をかき、家康は普通に熱で浮かされたせいで、夢を見ているのぐに足をすくわれるぞー 問いかける。 信長の冷笑に、秀吉が横槍を入れる。 のうり 「ふふ、そなたがしょぼくれていると聞 もう一人の己が脳裡でそう叫ぶ。 「右府様の跡を嗣ぎ、天下を取ったの あづち よく見れば、信長は安土城で最後に会は、この猿めにどざりまする。しかも、 き、少し、からこうてやろうと思うてな。 たい った頃の姿だったが、秀吉は明らかに太天下人ではなく、この世に一一人とおらぬ なんだ、自慢の鷹もおらぬのか。見よ、 こう 金華は腕に据えぬでも、自然にわが肩へ閤になってからの姿である。秀吉が可愛太閤秀吉にござりまする」 ふしみ だぼら 留まるようになった。どうだ、羨ましいがっていた鞍馬山は、伏見城で飼ってい「猿、駄法螺を吹くな」 た蒼鷹だった。 「まことにござりまする、右府様。そう であろう」 「あ、はい : ・ それがしもさような仕 その姿で一一人が同じ席にいるはずもなだよな、家康殿」 ゆが 込みをしたいと思うておりました」 く、時が歪んでいるとしか考えられない。 「いい加減にせぬと怒るぞ。太閤などと しかし、それでも家康は眼前の光景という位があるはずもなかろう。くだらぬ」 家康は自然に答える。 「家康殿、この間から、ずっとこうなの 横合いから、我慢できずに秀吉が口を会話を自然に受け入れていた。 挟む。 「元康、これから一緒に鷹野へ出よう。 だ。そなたから太閤の意味を説明してく 「ほら、それがしの鞍馬も肩でおとなし鷹をな、肩に留めておく秘法を教えてやれぬかな。それがしが右府様のど遺志を からい ろう 継ぎ、唐入りまで行う天下人になったと くするようになった。いいだろう」 「猿 ! 」 信長はいつもの冷ややかな笑顔で言う。いうことをー 「あ、相済みませぬ。言わ、ざる ! 」 「それがしは病いで軆が動きませぬ。鷹「唐入り、だと ? ・ : 猿、今すぐ口を あぐら うらや ふさ 424
らかにはずれている。 「いや、明の使節が来て、すでに太閤様 百歩譲って、最初の朝鮮出兵 ( 文禄のに降伏書を奉じたらしい」 ベキン などと、さまざまな噂がとりざたさ ーー天皇の住まいを北京に移し、甥の役 ) には、 ひでつぐ ″戦国の余韻いまだ冷めやらず、血気盛れ、景気のいい話を声高に話している者 秀次を中国の関白に据える。 たちがあちこちで見受けられた。 そう宣言した秀吉が、どのていど本気んな西国武将を朝鮮半島で戦わせること だったのか ? で、かれらの力を削ぎ、あわよくば半島断っておくが、当時の京の人々に「日 本国」などというナショナルな観念はな 秀吉という人物を考えるさい、一一度にに領地を与えて自足させる〃 という秘めたる目的があったのではない。かれらは、ただ″おらが大将〃であ わたる朝鮮出兵は歴史家の頭を長くなや いか ませてきた。 と推測することは一応可能だる秀吉の豪気ぶりを楽しんでいただけで 天下人としての秀吉が指向したのは、 ( 後年、明治維新のさいも、同様の目的ある。戦場は遠く海を隔てた朝鮮半島。 せいかんろん で征韓論が日本国内で主張された。朝鮮自分たちが戦火にまみえる心配はない。 第一に″秩序の安定〃である。 かたながり 半島に住む人びとにとっては迷惑千万なとなれば、いくらでも無責任になれる 刀狩 ( 兵農分離 ) 話である ) 。 検地 ( 職業・住居の移動の制限 ) 海賊停止令 ( 海上秩序の一元化 ) だが、一一度目の朝鮮出兵にはどんな秘いつの時代も、民衆の反応はそんなも のだ。 秀吉が断行した主な政策は、いずれもめたる目的も探すことができない。 からてんじく たしかに、唐天竺まで制覇しようとい実際に戦場に送られる者たちこそ悲惨 乱世を終わらせ、世の中に安定した秩序 をもたらすことを目的としたものだ。 う秀吉の壮大な意図が明らかになると民であった。 文禄の役のさいには意気盛ん、鼻息荒 ちなみに、ここでいう「安定した世の衆は熱狂した。 げ・こくじよう 中」とは下克上を封じ、階級を固定化す二度目の朝鮮出兵の触れ書きがかかれく出掛けていった者たちも、一一度目の布 告には最初から懐疑的であった。 ることで、秀吉のような人物の再現を不た高札の前に京の人々が群がり、 神 可能にする社会のことである。 「加藤様が大軍を率いて新たに渡海され朝鮮国、さらにはその背後にひかえる 雷 大明国を相手に戦って容易に勝てないこ神 それはそれで理解できる。ところが。 たんだとよ」 とは、もはや明らかだ。 一一度の朝鮮出兵は、この方向性から明「今度こそは朝鮮も降参するだろうー である。 おい
噤まぬと、素っ首を落としてくれるぞ ! 」秀吉もおかしそうに笑った。 える秘法は、今度会うた時に教えて進ぜ 信長はいっ着替えたのか、一枚胴の南「違いまする ! 火が燃え移っておりまよう」 ビ ドがいとう 蛮具足を身に付け、深紅の天鵞絨の外套するー 信長は火焔の中で立ち上がる。 を羽織っている。それを撥ね除け、佩い家康が叫ぶ。 「それともうひとつ。天下人など、つま そうさんさもじ ていた宗一一一左文字を鞘から抜く。 外套の端に移った火があっという間にらぬ。風の吹く野で、何も考えずに鷹を 「あっ ! 」 信長の全身を包んでいた。 放していた方がよほど面白いわ。余に 家康は短く叫ぶ。 「これしきの火がいかがした。大事ない」も、やっと、それがわかった。さて、猿。 愛刀を抜いた信長の右手が燭台に当た信長は火燼の中で冷ややかに笑う。 帰るぞー ろう って倒れてしまったからである。床に「いやいや、右府様。これはよくありま信長の肩から燃えさかる鷹がふわりと そく 燭が転がり、広がっていた深紅の外套のせぬぞ。金華山も燃えておりまする」 離れ、信じ難いほどゆっくりと飛んでい 端に火が燃え移るが、信長は気づいてい秀吉が刀を収め、信長の全身に取り憑 きびす ない。 く火燼を払おうとする。 踵を返した信長は大股でそれを追う。 「右府様、太閤となりました秀吉の首その途端、火が秀吉の具足にも飛び移「右府様、すぐに参りまする。ところで、 は、さほど簡単には落とせませぬぞ」 り、みるみるうちに火燼に包まれた。 家康殿。余が滅した後、空位であった征 きんだみ ざま なぜか秀吉も金陀美の当世具足を身に 「あ 5 あ、余計なことをして、この様か。夷大将軍の職に誰か就いたであろうか ? 」 ばりんうしろだ 纏い、後光のような馬藺後立てが付いたされど、大して熱くはない。ほれ、家康秀吉も、火焔の中から問う。 いちごひと 兜を被っている。そして、愛刀の一期一殿もこっちへ」 「 : : : それがしが : : : 将軍職に就きまし 振を抜いて構えた。 秀吉は手招きするが、家康は無一言で首てござりまする」 ふたもと を横に振る。火焔に包まれた二人と二本家康は眩しげに眼を細めながら答える。 「あ ! 家康が必死で一一人を制止する の鷹を、ただ眩しげに見つめていた。 ・ : あははは、そうであろうと 「血相を変えてどうした、元康いつも「ふふ、金華も燃えたということは、そ思うておったわ。余が生きている頃か の戯れではないか」 ろそろ戻らねばならぬということか。こら、なりたそうであったからな。して、 信長が冷笑まじりに言う。 奴は余の案内役だからな。灰にならぬう太政大臣には、誰か上りつめたか ? 」 「慌てすぎじゃ、家康殿」 ちに戻らねばならぬ。元康、肩に鷹を据その問いには、家康も黙り込む。 さや まぶ 426
ない。 の一角に埋められた。同所にはいまも巨 京・堺の豪商たちは、足掛け七年にわ 大な塚が現存する。「耳塚」と呼ばれて 一一度の朝鮮出兵のあいだ。 いるが、実際は「鼻塚」である。 与一は京や堺の豪商たちとともに、秀たって秀吉の朝鮮出兵に協力させられた。 その挙げ句の頓死だ。 この野蛮きわまりない行状は、ルイ吉の求めに応じて朝鮮に何度か船を出し 朝鮮から兵を引き上げさせるための船 ス・フロイスら当時日本を訪れていた多た。 くの宣教師たちを驚愕させ、情報はただ兵や物資の運搬のためだ。戦地への航の準備に追われながら、割り切れぬ思い ちにヨ 1 ロッパ諸国に発信された。 海は危険が多く、与一も親しくなった優をかみしめていたのは与一ひとりではあ 秀な船乗りを何人も失った。報酬は出たるまい。 日本人は野蛮 さかいみなと 堺港で出船の手配を済ませ、一段落 というヨーロッパでの根強いイメージが、儲けを期待できるほどではない。 ついたのがようやく昨日。 は、おそらくここからはじまったもので南蛮貿易そのものは、相変わらずポル トガル船・スペイン船によって継続され久しぶりにゆっくりしようと思い、伊 あろう ( モンテスキューは『法の精神』 ( 一七四八年 ) のなかで「日本人は残虐ていた。与一ら日本の商人は、かれらが年と宗二に声をかけた。が、その後もな な民族である [ と、嫌悪もあらわにして運んできた品を港で買いつけ、国内に流んのかんのと後始末に追われて、昨夜も りざや 通させることで利鞘を得る商売形態だ。結局休むひまがなかった。 いる ) 。 人情の機微を察することに長けた往年直接船を出して買いつける場合と比べれ考えてみれば、十日ばかりろくに寝て いない。 の秀吉であれば、この程度の事態を予測ば、当然ながら、はるかに利は薄い。 えらい疲れた顔してはりますけど できなかったはずはない、と思うのだが 日本船による南海貿易をのぞむ与一ら 日本の商人にたいして、秀吉は朱印状の 秀吉の死を待ちかねたように、朝鮮か発行をちらっかせながら、たくみに協力さっき宗二にそう訊かれたが、気が緩 んだことで疲れが顔に出たのだろう。 を求めた。 らの撤兵が決まる。 このいくさが終わったら、おぬし浮かない顔の理由はそれだけではなか 天下人・秀吉逝去の情報が当面伏せら しんぼう った。 れたのは、停戦・講和の交渉を少しでもらのもうけ放題。もう少しの辛抱じゃて。 有利にすすめるためであった。 天下人・秀吉にそう言われては仕方が与一は窓の外に目をやり、庭の青葉に とんし 引 3 風神雷神
うら しかし、黙っている必要もなさそうだ 「罵らぬよ。怨みもせぬ。関白如き、己の中で全身に汗をかいていた。 っ ( 。 でなれずにどうするか。やはり、親が子 やはり、夢であったか。 「まさか、それもそなたではあるまいを甘やかしてはいかぬな。それだけは、 そう思いながら、自然に上半身を起こ な、家康殿 ? 」 そなたに忠告しておく。あと、ここからす。 秀吉が疑いの眼差しを向ける。 先には、まだ踏み入ってはいかん」 なぜか頭の中が冴え冴えとし、軆から 「 : : : 申し訳ありませぬが、先日、それ秀吉は刀の先で一一人の間に火焔の線を熱も失せていた。 がしが太政大臣に任じられましてどざり 家康は濡れた頬を右手で拭い、それを まする」 「猿 ! 舌先で舐めてみる。 「さようか : : : 」 遠くから信長の声が響いてくる。 ーーー塩辛い。 ・ : まだ生きているとい 秀吉は急に寂しそうな面持ちになる。 「は 5 い、只今。ああ見えて、右府様はうことか。 「・ : ・ : やはり、秀頼は関白にも、太政大寂しがり屋なのだ。では、もう行かねば そう思いながら、ぼんやりと視線を移 臣にもなれなかったか。ということは、 す。 ならぬ。またな、家康殿」 皆が噂をしていたように、余のまことの鞍馬山に導かれ、秀吉もまた去って行 そこは秀吉が火焔の線を引いた場所だ っ ( 。 子ではなかったのかもしれぬな きわ 「太閤殿、さような風聞をご存じであり 家康は弾かれたように立ち上がり、一一 あれが・ : : ・今際の際というやっか。 ましたか」 人の背を追う。 漠然とそんなことを思う。 「知らぬはずがあるまい。それにおかし しかし、秀吉が引いた火焔の線の前で家康は確たる理由もなく己の両手を見 しわ いと思うておった。棄が亡くなった後、かろうじて立ち止まった。 つめる。皺だらけのくたびれた掌がそこ かような老人にすぐ新たな子が授かるほ 暗闇の中で火燼が小さくなり、やがてにあった。 どの精が残っておるわけがあるまい。さ消え去るまで、家康は茫然と立ち竦んで しばらくそれを眺め続けていた。 ちゃちゃ ふびん れど、あまりに茶々が真剣なので不憫にいた。気がつくと、両眼から泪が滴り落 ならば、信長殿や太閤殿と話して謀 神 思い、それは突き詰めぬことに決めた」ちていた。 いた己の声、あれが今際の声ということ の 代 「秀頼殿を関白に押し上げなかったこの頬を伝う泪の冷たさで、家康は目覚めか。 さと 百 身を、なにゆえ罵りませぬ」 る。周囲は闇に包まれており、己は蒲団 その刹那、家康は己の死期を悟った。 ののし すて おもも せつな
もたらした。 も、元も子も失う可能性の方がはるかに携えて報告に訪れた了以たちを迎えて、 高い。秀吉発行の渡航許可証をもった船秀吉はなにごともなかったかのような顔 ーー指をくわえて、ただ見ているわけが倭寇に襲われた場合、秀吉としても何でおもむろに〃朱印状〃を交付する。 にはいかないではないか。 天下人のお墨付き。 らかの対応策を講じなければならない。 要は″この者たちは倭寇 ( 海賊 ) では 与一の父・角倉了以は、のちに南海貿そのリスクを恐れたのだろう。 易に参人した理由を問われてそうこたえ結局、最初の航海は黙認の形で行われない〃という証明書だ。 ( 0 ることになった。 航海に失敗していたならば、決して手 、に入らなかった品であった。 ポルトガル人・スペイン人が南蛮地域何があっても見て見ぬふり。 かれらは賭けに勝った。 ただし、無事商いが成ったあかっきに を経由して中国の生糸その他の品を日本 ばくだい 手に入れた巨万の富は、あくまでその に運び、莫大な利益を挙げている。 は ( 貢ぎ物を持って ) 報告に来るがよい。 という、まことに虫のよい話である。 結果である。 目の前に商機が転がっているのだ。 このままではポルトガル人・スペイン角倉了以は京や堺で同志を募り、危険南海貿易における当時の日本の主な輸 人に商売の主導権を握られたままだ。かを覚悟で自ら船を仕立てて南海貿易に乗出入品目は、 れらと対等にわたりあうためには、南蛮り出した。 ルソン、マカオ、アンナン、アユタヤ、 ( 輸入 ) 生糸、絹織物、砂糖、火薬、 船に匹敵する巨大船を自ら仕立てて海に トンキン、パタニ 鉄砲、その他中国・西欧の珍品 乗り出すしかない。 いおうしようのう ( 輸出 ) 銀、銅、鉄、硫黄、樟脳、漆 そう考えた了以は、当時、信長のあと未知の危険や不測の事態とたたかいな がら、かれらは東南アジアの多くの港を器、刀 を継いで天下を統一したばかりの秀吉 に、船の建設と渡海の許可を申し出た。交易の場として開拓していく。 ちゅうちょ といったもので、一度の航海で得られ ポルトガル船・スペイン船にたよらな 秀吉は躊躇した、という。 勢力が衰えたとはいえ、いまだ日本近い、日本人の手によるはじめての南海貿る利益は投資額の一一十倍から五十倍にの ぼったと伝えられている。 海は倭寇の跳梁甚だしく、南海航路は危易だ。 無事航海を終え、南方の珍しい品々を南海貿易の成功は″新興フルジョアジ 険に満ちている。船を仕立てて海に出て 308
ものでよいから絵図になど記して、上様に聢とお伝えなさい 藤吉郎は信長と出会う。信祝言をあげ、足軽大将に取り ますように」 長は即座に名前を木下藤吉郎立てられる。藤吉郎は己の腹 こちくこいちろう 脳裏で鳰の海を描き、南湖西にある光秀の坂本城と、信長 と名乗るよう、命ずる。草履心として弟の小竹 ( 小一郎 ) あのうしゅう 様の安土山、そして湖北に出来上がるであろう俺の城を置い 取りとして召し抱えられた藤をむかえ、穴太衆を割普請で 吉郎は職務に励む。信長の側活用して清洲城の石垣を修繕。 てみる。なるほど東の方向を頭にして飛翔する鶴の姿が泛ん ひでよし にいるには心中で優位に立た信長の信を得て、秀吉という みの だ。間違いなく信長様もこの配置を気に入るだろう。 くすぐ ねば、と思う。「母」に対す名を授かる。信長は美濃を平 たけなかはんべえ それにしても信長様を擽ることにかけては俺以上の半兵衛 る想いなら優位に立てると思定。秀吉は竹中半兵衛と会 きつの である。たいしたものだと見つめると、素知らぬ顔で半兵衛 い、吉乃を信長に紹介する。 い、信長ではなく秀吉につく ちょう 信長の寵を受けた吉乃は長子ことを条件に口説き落とす。 は続けた。 きみようまる ねね 奇妙丸を産む。寧々と会い羽柴と改姓した秀吉に、信長 「今浜改め長浜は、国友とごく間近でございます。それも念 ″一目立ち〃した藤吉郎は、 は北近江三郡を任せた。 頭におありと見ましたが」 あいまい 曖昧に頷いておく。まさにその通りだ。いまさら山落に鉄 うんぬん 砲云々で近づく気になれないのだ。狡いと後ろ指をさされよ「城下は人にあふれ、活気に満ち、一息に膨らむことでしょ うが、本音で出自を隠したい。多少鉄砲の値が張ろうが、国う」 友の鉄砲鍛冶たちを傘下におさめたい。俺の顔色を見抜いた港を一一つ拵えること、石垣の一方を湖面に没するようにつ 半兵衛は、すっと話を変える。 くって城内まで船で入ることが出来るようにすること等々、 「そもそも小谷の城下町はあまりに寂しい。地勢もあって、 額を突き合わせて鳰の海を最大限に生かす方策と、都のよう 拡がりをもてぬのは慥かですが、寂しすぎます。ゆえに今浜、な規模は無理にしても城下は碁盤の目に区画を整理すること いや長浜を大きく盛んにするために、城下にては年貢や諸役などを決めて、即座に長浜の築城に取りかかった。 の免除を」 後の話だが、年貢や諸役の免除が効きすぎて、長浜城下に 「それだ。俺も戦より銭を大切にしようと思っていたところあまりに人が集中しすぎて逆に問題がでてきた。そこで年貢 だ」 諸役に関して方針を変えて人口流入を抑制しようとしたのだ たし くにと、も ずる みつひで しか うか 前回まてのあらすし とうきちろうのぶなが きのした ごばん はしば 232