生まれの柳は、このとき四十歳だった河上の十五歳年下であ ように、その言葉を聞いた。 ( 同前 ) り、それを考えるとむしろ、両者の分け隔てない交流が注目 される。柳の本名は柳存仁。北京大学を卒業後、太炎文学院 翌四三年三月十五日には赤坂公会堂で初の評論部会の総会 教授、光華大学教授を務め、このとき南京国民政府の秘書を が行われた。そこで河上は部会幹事長 ( 兼務 ) として以下の していた。淀野隆一二が京都で祗園に席を設けたときは、女性ような事業報告を行っている。〈本部会は、十七年度に於い も含めた各国代表者のほぼ全員が出席したなか、彼だけが部ては、単独の事業は一つもしていない。 ( 中略 ) とはいえ、 屋を出て来なかったという。そんな柳が、最終日、京都発の 個々の本部会員の活動は、報国会全体の企画に参加して、 帰りの列車の車中で語ったことを、河上は憶えている。 色々重要な役割を果している。文芸報国講演運動、大東亜文 学者会議等の大企画にも、欠くべからざるチャンピオンを送 翌十四日、一同午前十時京都発で下関に向った。私は所 り出しており、各種の選定事業にも、有為な審査員を出して 用のため大阪までゆくので、そこまで同車した。車中柳雨いる。文壇にとって常住必要な整理員、銓衡係としての批評 生君と雑談していると、彼は突然私にいった。「君、僕が家の役割は、報国会の国家的事業の面にも活用されることは 昨日京都御所を拝観して何と思ったかいおうか ? それは 論を俟たない〉 ( 「評論随筆部会事業報告」 ) 。翌四月には、国際 ねえ、日本は此の戦争で非常に困難に出遭うだろうが、結文化振興会の派遣使節として、団長の武者小路実篤らと中国 局勝っという確信を得たんだ。」私はハッと思って、それ へ渡る。北京に五十日、南京に七日、上海に十日、天津、張 はどういう所からそう考えたんだ ? と聞き返すと、「そ家ロ、大同など、二カ月間滞在している。 れは大変説明がむずかしい。然し要するにあの御所を拝ん その四カ月後、八月一一十五日から三日間かけて行われた第 で荘厳で美しいんだが、ただそれだけじゃない、何という 二回大会でも、河上は副議長を務めている。日本側の参加者 か、民衆に向って明け拡げたものがあるんだな。ああいう は九十名ほど。台湾からは四名、朝鮮からは五名、満州から 風に君民一致の国は必ず戦争に勝つんだ。それは歴史が証は五名、中国からは十八名、モンゴルからは五名となってい 明している。そしてそれは曾ては支那にもあったのだ。」 る。開催にあたり河上は「真の国民外交ーー大東亜文学者大 それを聞いて私は涙が出る程嬉しかった。京都御所が分れ会を前にして」 ( 「朝日新聞」八月十日 ) という文章を寄せた。 ば、法隆寺なんかどうでもいい、と思った。彼はちゃんと 〈参加国の顔触は、去年と同じ日満華の三国に落ちついた。 見ているんだ。それから彼は続けた。「私が香港から南京形式的にはあまり変らなくても実質的には非常に変ったもの に来たことは正しかった。本当に私は香港で色々考えたん になると私は思っている。ありのままいえば、去年は大東亜 だよ。」そして今やっている新国民運動の話を、その困難精神とか、共栄圏文化とかいっても、それは日本側の理想で や希望を取りまぜて、雄弁にしゃべり出した。私は酔った あって、先方の頭の中にそんなものが成り立っているのか、 250
争の真義を理解し衷心より之に協力せんとする声を聞き得た ことであって、かく互いに真情を吐露し合えるのも流石に文 学者の会議ならではの感が深かった〉とある。大会は帝国劇 場と大東亜会館で行われた。すでに各国代表は、皇居、明治 神宮、靖国神社を参拝しており、会議後には、国会、土浦の 航空隊、文展、帝室博物館、各大学、撮影所などを見学。事 務局長を務めていた久米正雄の案内で吉原の引手茶屋にも行 ったらしい。その後は西へと移動し、伊勢神宮、大阪での講 演、奈良では法隆寺、春日大社、東大寺、さらに京都御所、 嵐山、清水寺などを回り、京都駅より帰国した。この行程に は河上も同行している。のちに書かれた、河上の詳細な報告 記事「大東亜文学者会議前後」 ( 「文學界」一九四三年一月 ) か ら、一部を引用しよう。 最初我々が最も心配したことは、我々の国家目的と彼等 の立場が若しや相容れない場合があったらということであ った。満洲国側は大抵大丈夫だが、参戦していない中華側 の顔が立たない場合が来るような成り行きが最も警戒され た。そういう場合の中国人の傲岸さ、又それから起るわが 政治的立場への影響などが杞憂された。それに似た近い前 例も、その筋から我々に好意的に警告された。我々文学者 としても、文壇始って以来例のない程高度に政治性を持っ た仕事を、我々自身の手でしかも国家の此の政治的に最も 重要な時期に手掛けるのだ。結局我々は、色々話し合った 揚句、表面平静に出来るだけ文学者の率直さで打解け乍ら も、心の底には、万一の場合には一歩も退かんぞ、という 匕首を呑んで、彼等を迎えるつもりでいた。 所が今いった東京駅頭での彼等の表情である。そこには 何等対抗的なものはなかった。といって、卑屈な、追従的 なものはなかった。その打解けた親しさには、矢張文学者 のみが持っ原則的に人を信じてかかる心持が窺われたと思 った。その夜再び日本側の発言者の打合せがあったが、昨 日まで最も強硬にわが国家目的強要論を唱えていた人が、 あの調子なら絶対にその必要ないといい出した程であっ た。そして事実その通りであった。 ( 「大東亜文学者会議前後」 ) 中国側の代表に対する緊張と打ち解けが率直に書かれてい る。このとき河上は中国代表の一人だった柳雨生と親密に語 り合った。河上が一日遅れで奈良に着いた日のことだ。 私は、此の儘寝るのが淋しく、酒の勢をかりて、柳雨生 君を電話で私の部屋へ呼んだ。彼はすぐ来た。「僕はただ 君に会いたくて、又来た。」と決して嘘ではないが、素面 では一寸いえないことをいった。彼は色々なことを語って くれた。戦前まで香港に二年居たこと。在米の林語堂から 渡米を慫慂して来たが断ったこと。それは北京にいる母の ことを思ってでもあること。香港で三ヶ月煩悶した揚句、 国民政府に投ずべく、広東から南京へ来たこと。等であ る。私は、彼の神経の痛い所へ触れては悪いと思って、何 も質問せず、ただ向うがしゃべることを聞いていた。 ( 同前 ) 電話で部屋に呼ぶという力関係が気になるが、一九一七年 249 小林秀雄
面的に排撃して、観音にすがっている。こういう風に非常上を想像してみる必要がある。 おおよそ半年前、一九四二年五月二十六日に設立された にテキ。ハキと転向する人と、僕みたいな長い間黙々と脱皮 「日本文学報国会」で、河上は評論部門の幹事長に就任して して変ってゆく人と、性分がまるで違うんでどっちがいい いた。六月十八日の発会式では、評論随筆部会代表として、 ってことはないのだと思う。事実、結果から大した違いは 内閣総理大臣にして陸軍大将、ならびに大政翼賛会総裁の東 ないじゃないか ? しかも君は僕がいまだにヴァレリイに 学んだことが悪かったとはいわないといって怒る。然しヴ条英機の前で、「宣誓」を述べている。そこには以下のよう な言葉がある。〈われわれの如く、祖先の血液や魂がそのま アレリイなんて僕にとって、たまたま昨日食ったビフテキ まこの生きたわれわれの肉体に蘇っている者にとっては、現 が今日の僕の肉体をなしているようなものだ。ビフテキで 在のこの一滴の血の分析の中に、永い過去と未来の運命や光 なくたってよかったのだ。僕の肉体は毎日新陳代謝する。 本当に臭いかどうか、名目に囚われないで、匂をかいでか栄や真心を、手に取るように読み取ることが出来るのであり らいってくれ。それでも僕の肉体が生臭くって厭なら、仕ます。これがわれわれ日本国民のみが享有する、他にかけが 方がない。僕をやつつけろ。僕は戦争以来神様という外濠えのない歴史の精神であります〉。座談会「近代の超克」が、 も人間という内濠も自分の手で埋めて、心の貧しさという河上の司会によって行われるのは、この一カ月後のことであ る。なお、会員総数は、設立から一カ月で、二千六百一一十三 本丸一つに裸で立籠っているから、易しいよ。そして僕み たいな生振をみんな虐殺して、君達精進派だけで日本文名に及んだ。 その後は部会を超えて報国会の審査部長になった。十一月 化が背負えるものなら背負って見ろ ! 三日から五日にかけて行われた、報国会主催の「大東亜文学 この河上の魂の怒号は完全に流されて、誰一人何の言及も者大会」では、菊池寛を議長に、河上は副議長を務めた。参 加者は「小林、林、亀井、保田與重郎ら常任理事を含む日本 なく、座談は次の話題に移っていった。これは不自然であ る。編集のさいに削除されたのか、あるいは逆に河上が加筆側五十名弱に対し、満州国から五名、中国から十一一名、モン ゴルから三名、朝鮮から五名、台湾から五名となっている。 したのかと疑いたくもなるが、それはともかく、この座談会 での河上の発言は、冒頭部での導人と、〈日本には仏教と神ほかに参与として百三十六名が参加している ( 『文藝年鑑』昭 和十八年版 ) 。このときの議題は「大東亜精神の樹立」、「大東 道がある〉という林に〈キリスト教もあるよ〉と付け加えた ことを除けば、ほとんどこの一カ所だけだった。河上は〈僕亜精神の強化普及」、「文学を通じての思想文化の融合方法」、 「文学を通じての大東亜戦争完遂に協力するについての方法」 は戦争以来神様という外濠も人間という内濠も自分の手で埋 の四つ。『文藝年鑑』には〈二日に亘った本会議に於て最も めて、心の貧しさという本丸一つに裸で立籠っている〉と言 っている。このように吐き出さずにいられなかった当時の河大いなる効果を修めたのは、満華蒙の各代表者達が大東亜戦 2 紹
「日本人の神と信仰について」 ( 一九四三年一月 ) は、以下の 林の言葉から始まる。〈この前の座談会「近代の超克」は末 完に了りましたから、最後の最も重大なる問題を今晩論じて みたいと思います。「現代日本人はいかにして可能なるか」 という問題と「日本人の神と信仰」という問題であります〉。 出席者は、林、河上、亀井勝一郎、中村光夫、「文學界」同 人の青野季吉、元「日本浪曼派」同人の芳賀檀の六名。小林 は出席していない。この座談会において林と亀井の態度はい っそう硬化している。ルネサンスの人間主義を認める中村と 芳賀に対し、それを否定したい林と亀井は執拗に、ほとんど 恫喝のように考えを変えさせようとする。たまりかねて芳賀 は亀井に向かって言う。〈信仰というものは、人間の深い体 験がなくてはありうるものでない。君の信仰には人間的なも のが欠けていると前から思っていた〉〈元より僕らは日本人 として生れてから生命は天皇に捧げ奉っているのだ。併し 其の捨身と人間の否定とは違う。僕は反対だと思う。ハワイ やガダルカナルの英雄たちも人間否定の気持で体当りをやっ たのではない。彼等も暖い血を持った人間なのだ。青春なの だよ。ただ彼等は人間よりもっと大きなものに其の生命を抛 って省みない高貴な人間なのだ。之は人間の否定ではなく、 僕らが考えている日本人という人間の完成であり、実現なの だ〉。これでも二人には通じなかった。なおも林らは芳賀た ちに、何を神と信じているのか、なぜ人間を否定しないのか と迫る。そんななか河上はついに、堪え続けていたものが切 れたように、林らに向かって怒鳴る。 河上さっきから黙って聞いていたが、今日の林と亀井 の神仏論は非常に明快で感心して聞いた。然し一旦君達が 芳賀や中村や僕に向うと、どうしてそう疳高く、排他的に なるのかね。何故そう人を裁くのかね ? それじゃ折角の 君達の神仏が、そこいらの観念的な日本主義みたいに、空 虚な、拵え物になってしまう。神というものはもっと大ら かなものだ。爽やかなものだ。 我々は君達の観念的な踏絵をつきつけられて身を隠すた めに、人間性とか、美とか、誠実とかいう飜訳もどきの泥 を吐くのは、今の所已むを得ない。然し君達にとってそん な言葉尻を捕えてどうなるのだ ? それというのも、君達 はそういう考え方で自戒に自戒を重ねて今日に到達した人 だ。だから同じことを他に強いるのは已を得ない。そうい うポレミックが信仰の本質だということは、君達にとって 決定的なことで、決定的なことで悲しい宿命だ。 林河上、君の神は何だ ? 河上僕は僕なりの信仰とはいえないまでも、信念、悟 り、という風なものは以前から目指している。それは謙 遜、つまり「心の貧しさ」というものだ。これで十年来左 翼をやつつけ、又文学を見、人間を見、要するに僕の唯一 の武器としてこれを磨いて来た。これももとを糺せばカト リックの精神から学んだものだ。此の起源を尋ねて君達が 僕をやつつけるのは易しい。然し早い話が君達の神仏論が 非常に美しく且本当に苦しんで掴んだ真物だということを 雄 一眼で分るのも、実は理窟じゃなくて、此の心の貧しさの秀 お陰だということは、君達どう思う。 大体亀井君なんて人は、曾てマルクスを奉じ、次にそれ を否定してゲーテにつき、今此の典型的ルネサンス人を全
衆の心をつかむ力を持っている〉。だが皮肉なことに、座談 会中、目に見えてもっとも大きな対立は、河上が引き起こし 近代の超克 ( 承前 ) ( 0 ここまで主に、出席者の論文を読み解くかたちで、それぞ 津村秀夫の〈人間の精神は機械を造り出したが、今度はそ れの問題意識の糸を紡いできたが、座談会当日は、このよう れに食われ出した〉という言葉を受け、河上は、〈機械文明 というのは超克の対象になり得ない。精神が超克する対象に に話が進んでいったわけではなかった。たとえば河上徹太郎 は討議後に以下のような苦々しい言葉を漏らしている。〈会は機械文明はない。精神にとっては機械は眼中にないです ね〉と述べた。これに小林が〈それは賛成だ。魂は機械が嫌 議全体を支配する異様な混沌や決裂〉〈血みどろな戦いの忠 実な記録〉〈用語例・知的方法論・作業の史的段階、等々、 いだから。嫌いだからそれを相手に戦いということはない〉 と言い、さらに林が〈機械というのは家来だと思う。家来以 何の点を見ても食い違ったものがある〉 ( 「「近代の超克」結 語」 ) 。あるいは、このほとんど忘れられかけていた座談会を 上にしてはいかんと考える〉と同意する。この流れに対して 戦後に改めて問題化したことで、現在に到るまで「近代の超下村寅太郎が、〈機械を造った精神を問題にせねばならぬ〉 克」を論じるときの基礎資料となっている、竹内好の論文と抵抗するが、小林は、精神は機械ではないと繰り返す。下 「近代の超克」 ( 一九五九 ) は、端的にこう評している。〈「超 村は食い下がり、機械を嫌いだと言って済ます〈単に古風な 精神の超克も問題になると思う〉と言い返し、そのためには 克」すべき「近代」の理解からして各人まちまちであって、 その調整は討論の最後までついていない。しかも、第一日目機械も精神も含む〈新らしい叡知或は神学が必要だと思う〉 と述べる。応酬は最終的に、河上の〈機械と戦うものはチャ の学者たちのスコラ的な議論の堂々めぐりにたまりかねて、 ップリンとドンキホーテがあれば沢山だ〉という放言に到 第二日目には文学者側から空論よばわりが出、しまいに感情 り、以後の発言はほぼ、「文學界」同人の内輪的な談話にな 的なことばのやり取りが交される混乱におちいり、結論らし いものは何もないままに散会している〉。 る。とはいえ、討議後に書かれた菊池正士の論文は、この応 文字通りの〈空論よばわり〉は誰もしていないが、前述の酬に触れるところから始まっており、それはすでに見たよう に、神の問題に行き着いた。だから吉満義彦が論文の付記 小林の批判、あるいは、文明開化と自由民権運動をつなげて で、〈近代超克の問題が所詮「如何にして近代人は神を見出 考える西谷啓治に対する、林房雄の〈無理に結びつけようと する科学者の主観が色々な不幸な結論を産出すのである〉とすか」の問題に帰することは、期せずしてこの度の会合の凡 ての人々に夫々の意味で認められた〉と述べているのは、神 いう言い方は、たしかに場に緊張を走らせている。林はアメ リカニズムと映画についても問答無用に断言する。〈映画は学者としての我田引水というわけでもなかった。 事実、このしばらくあとに行われた「文學界」の座談会 世界の愚衆の娯楽物である。アメリカン・デモクラシーは愚
・つ 0 0 を・ 0 ・ 0 第・、物 0 0 0 ・・ 0 ・ 0 の・をや・朝 ・ 0 ・朝第 ・ 0 0 ・ 0 の 0 ・の 00 ・ を 00 ・・を・ 0 ・・・・ 0 ・・・・ 0 を 0 ・・ 0 ・ 0 ・第 00 を
かせたものは、彼の内なる異教性としての「士魂」、あるい 内村鑑三が明治四十一年に英文で刊行した列伝体の人物論 は「義ーを求めて止まない、黙した信仰の心だった。まさに 『代表的日本人』は、こうした文学の傑作というべきものだ。 このことが彼をして、欧米の社会的宗教制度としてのキリス ここでは歴史中の五人の人物が、士大夫の魂が演じた系譜の ト教に向かっても、それを唯々諾々と受容した近代日本に向なかに、内村自身の五つに分化した自画像のごとくに鮮明に かっても、異端者にする。河上が語りたいのは、内村のこの描き出される。これを紹介する河上徹太郎の文章もまた、み 宿命であり、それは取りも直さず、己自身の「士魂」を批評ずから進んでこの系譜を継ごうとするかのように、最も生き の一一一口葉で開いて見せることだった。 生きとするのである。 内村にせよ、白鳥にせよ、河上肇にせよ、日本の傑出した 「まづ主人公の人選だけ見ても、この書の著者の意図が分る 近代精神が、キリスト教に強く惹かれたのには、いたって深であらう。西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮 い理由があるだろう。それは、簡単に言うならば、江一尸期以 上人の五人である。彼等は鑑三自身の分身でないとすれば、 前から脈々と繋がる士大夫の覚悟と理想とが、この外来宗教聖書の中の名君・指導者・義人・殉教者なのである。読者は の普遍の精髄と強く響き合い、彼らの精神のなかに日本独特この中の西郷が余りにクロンウエルにつき過ぎ、日蓮がルー の闘いと共鳴とを引き起こしたからである。内村鑑三の生涯テルもどきの法難に遭ふと思ふだらうか。いや彼等の運命の ほど、このことを明確に示しているものはない。彼の著述個別性はちゃんと描き分けられてゐるのだが、その節に殉ず が、「わが近代文学史の正統の中に座を占め、のみならず専る純潔が神の国の『義』に準じるまでに昇格されるためにさ 門の小説家が果さなかった重要な自我の文学の一面を補強し うなるのである。或は又、既成宗派を難じる日蓮が鑑一二の てゐることに注目するのは大切なこと」だと河上徹太郎は一一一口教会主義に似、西郷の征韓論が長袖者流の『内治論』に屈し たのは、鑑三の悩みと戦ひの信仰が宣教師流の社会安穏のそ 「自我」とは、近代ロマン主義が高唱した例のヨーロツ。ハ式れにまるめられたのに似てゐるが、それはすべて唯一神の御 自意識のことではない。近代に蘇り、新たに覚醒した「士 心の裁きによってさうなってゐるのである」 ( 『日本のアウト サイダー』 ) 。 魂」のことである。したがって、彼らが「日本のアウ上サイ ダー」たることを強いられて産み出した「自我の文学」と ( つづく ) は、日本の近代にはっきりと在らねばならない〈士大夫の文 学〉のことだった。 2 お批評の魂
「士魂」によって激突したのだ。 いう、アジア古代の思想的系譜、それ以外にない。それ以外 岡倉天心の場合を見てみようか。天心もまた「一代の名文に、天心という稀代の実行家を「一代の名文家」として現わ れさせる源泉はなかっただろう。 家」であったことに変わりはないが、彼は文章をもって立っ 確かに、道教が持つ自然観ほど、天心の血を沸き立たせる た人ではない。新しい、名状し難い理想に駆り立てられて突 き進んだ行動の人である。河上徹太郎はそう観る。 炎はなかった。明治の日本画家たちに対する彼の美術指導 天心は、明治のロマン主義を最も烈しく体現したような人 は、実際にはどんなものだったか、それはほとんどわかって 物だが、それは時代思潮から来ると言うよりは、彼の天性か いない。ただ、絵筆の内側から来るカそれ自体をして、絵を ら来る。彼の天性が一身に時代を背負った、その特異な態勢描かしめようとした。その絵筆を動かすものは、古木、流 が、周囲からはその時代のロマン主義と見られるものになっ水、虫の声、雨の音、その他一切のものを、天地に鳴り響か た。それだけのことだろう。 せる巨大な何ものかである。彼は、これを単に理の言葉で語 したがって、彼を「時代思潮の標本みたいな類型」として ったのではあるまい、天心という「士魂」の底知れない感化 力をもって、明治の青年画家たちに、このような理想が現に 扱えば、天心のすべてはわかりにくく、矛盾に満ちたものに 映る。彼は「時代の中にゐてそれに創られた人物であるより 有り得ることを教えたのである。 も、その外にあって、自分の声でその精神を大きく歌ってゐ 明治三十年代、日露戦争をきっかけに勢いづいた国粋主義 るやうな存在である。のみならず、時に時代の流れの自然的 の潮流は、英文を自在に操って日本の古美術の優秀を海外に な歪曲を、自分一人の手で受けとめて、これを正しい方へ匡鼓吹した天心を、しばし時代の寵児に祭り上げたが、河上か さうとする気魄も見える。つまり私のいふアウトサイダーと はそのやうな存在であって、その故に私は天心をその中に数 のた へたいのである」 ( 同前 ) 。 を ュ 河上の言うこの時代の「自然的な歪曲」とは、むろん文明 カュ。 書 収鑢ビ IIIIZ 開化がもたらした「功利主義と物質主義」の歪みのことであ のビ篇 0 っ 2 デ 2 へ冠の -) ・・・ル・クレジオんいる る。これは、近代日本がみずから選んだものではない、歴史 一弱撃豊崎光一〔訳〕・定価 ( 本体 , 。。。円、税 ) 邦しな の圧力によって強いられたものだ。天心のうちの一体何が、 異か異 『輝特 これに抵抗していたのか。彼の血のなかを流れ続ける道教と ただ 新潮社版 2 れ批評の魂
まさにひたすらに「正直」であることが、マルクス経済学刻んで浮彫にしてゐるのである。この検事戸沢とドストエフ への傾斜を次第に深め、ついに社会運動への一途な没人を促スキーの『罪と罰』の同ポリフィリイと、勿論立場も人間も した。晩年にさしかかってからの地下潜人、検挙、四年間の違ふが、鮮かさにおいて似たものがあるのは故ないことでは 獄中生活は、肇の体には想像を超える苦役であっただろう。 ない。ドストエフスキーの超人に関する『信念』が、この 『罪と罰』といふ理想小説を書かせてゐるのであって、それ が、彼は、自分が学究として突き詰めた経済学理論に、何の 変更も、訂正も付け加えることはなかった。出獄に際して、 が検事といふ敵役ーー或はお望みなら弁慶に対する富樫とい ってもいいーーに人間的ニュアンスをつけるのである」。 彼が官憲に約したことは、経済学の研究をただ停止するこ と、一切の社会運動から離れることだった。ここには、思想 的転向と呼ばれるものは何もない。老僧の暮らしにも似た晩 年の静謐は、心中に秘めたその自信、ひとりの「正直」な者 たることへの逃げも隠れもしない信念からやってくる。徹太 精神に強力な「理想主義」が在る時、作品にはその分だけ 郎は、そう見ている。 の強力な「現実主義」が宿る。このふたつは、常に並行して 家を出て、地下に潜り、検挙され、人獄から釈放されるま実現される。河上肇の『自叙伝』とドストエフスキーの『罪 アナロジー での経験を克明に綴った『自叙伝』は、宗教文学の香りさえ と罰』との間に在る類似は、絶えず産み出されるこの並行関 アナロジ 1 する陰翳の濃い文体で書き進められている。特に「地下生活係の類似だと言える。しかし、『日本のアウトサイダー』が、 時代の項は、そのままわが左翼文学中の最高傑作である」と 力を込めて描き出そうとするものは、こうした類似であるよ 河上徹太郎は断言する。その称賛ぶりを、『日本のアウトサ りは、ひとつの系譜、士大夫の文学に関わる明確な系譜であ る。 イダー』から引いておこうか。 イデアリスム 「行く先々の宿の主人、連絡の党員、検事、囚人のそれぞれ 河上肇の精神のうちにある「理想主義」は、社会科学とし が人間的に躍如してゐる。氏はもと大学でも法科より文科に てのマルクス経済学が養ったものでは決してない。和歌、漢 学ばうとし、ここいらの描写は『創作』のつもりで筆をとっ詩をよく修め、道徳の修養と文業の練磨とをひとつにして生 たといってゐるが、それは氏の『小説家』的教養の上での同 きた「旧幕以来」の士大夫の覚悟が、彼の理想を、「士魂」 を養った。河上肇は、内村鑑一二の「士魂」がキリスト教と激 年輩である自然主義の客観描写とは、筆力の上でまるで違っ てゐる。疑なく氏の『信念』の力がこれだけ人間の姿を深く 突したように、マルクス経済学の精緻な体系とまさにその イデアリスム
自称してゐた。河上肇は私がしばしば吉田松陰に擬したくな ち、更新され続ける生きた思想を身ひとつに持ち、俗論を焼 る人で、事実彼自身松陰に私淑して梅陰と号したこともあ き払う士大夫の魂を持っていた。 り、その志士Ⅱ革命家的情熱は武士的ピューリタニズムが主 経済学者にしてマルクス主義運動家、河上肇 ( 一八七九ー 導してゐるのである」 ( 同前 ) 。 一九四六 ) の例を『日本のアウトサイダー』で見てみようか。 重ねて言うが、ここで重要なものは「儒教的教養」ではな この人物は著者の同郷人、その遠縁にあたる。河上徹太郎 い、その種の修養によって「骨格づけられ」た彼らの人格で は、二十一二歳年長だったこの血縁者の若い日の面影をよく憶 ある。儒教、老荘、仏教、そして古神道が、溶け合ってひと えている。徹太郎が少年時、小学校の真夏の校庭で砲丸投げ っとなるまでに咀嚼され、骨格を得た彼らの人格ーー河上徹の練習をしていると、帰省中の肇が、隣の家の二階からのん 太郎はそれを「士魂」とも呼んでいる。「明治文化の基礎」 びりそれを眺めている。子供の全力を振り絞って投げた鉄球 には、そうした「士魂」があり、それは「単にそのつらだま が、「足許へストスト落ちる」。ややあって、肇が声をかけ すくな しひといったポーズだけでなく、人間的自己表現の方法論を る。ーー労多くして功尠いやうな遊びですな」。 も支配してゐることを忘れてはならないのである」と。 肇との淡い交流は、その後も長い間を置いて続いている。 したがって、「士魂」は、武士階級に属していることから 二十四歳で早世した肇の長男、政男が徹太郎の親友だったせ 育つのではない。大陸の文明を引き受け、迎え撃ち、独立し いもあろう。肇が亡くなって、かなり年月が経ち、その妻を た一身の生き方に高めようとする努力から育つ。河上の言う尋ねて行った徹太郎は、「今でも血色のいい、挙措のハキハ 「士大夫」とは、そうした努力の内に一生を送った者たちの キした、そして『刀自』といふ敬称がピッタリな老婦人」の ことを言う。こうした「士大夫」たちこそが、「明治文化の 思い出話を記している。 基礎」を、精神の屋台骨を支えたのだが、彼らはそのことに 「その時未亡人の故人に関する話では、たまたま自分のこと ひとえ よって、文明開化を偏に推し進める近代日本のアウトサイダ を心配する周りの人達に向って、 ーになった。なるほかはなかったのである。 『わしは正直だから救はれるが、お前らはみんな地獄へ落ち 彼らアウトサイダーたちが、西洋の文物に、思想に、外来るぞ。』 宗教たるキリスト教に激突したさまは、それぞれに壮観であ といったといふのが一番頭に残った。この人間認識が誤り評 批 った。彼らは、瞬時も〈知識人〉などという、魅力を欠いた なく河上肇の一生を導いて行ったのである」 ( 『日本のアウト あやふやな生き物だったことはなかった。颯爽の文勢を持サイダー』 ) 。