せば夫でよからん色々の事情もあるべけれど先づ堪忍して今 迄の如く御交際あり度と希望す」。 ・御趣意少しも相わかり不申候へとも要するに人学を一 一、虚子に経済的援助を申し出たことについては、「出来 年見合すとかそれハ何の理屈もなく候小生先日夏目に る丈は虚子の為にせんとて約束したる事なり当人も夫を承知 手紙を発し委細申やり候処同人より返事来り快く承諾今月 で奮発して見様といひ放ちたるなり」「虚子が前途の為なる 分より送金可致様申あり候し貴兄と夏目との相談にて 一年延期出来候とも小生の顔ハ何と御たて被下候や又何は無論なれど同人の人物が大に松山的ならぬ淡泊なる処、の 〔器用〕 んきなる処、気のきかぬ処、無気様なる点に有之候」。 の理由ありて夏目に向ひ其様な延期願を御出し被成候や 一、子規に期待することは、「大兄今迄虚子に対して分外 ( 中略 ) 要するに貴兄はいたすらに大学を恐れらるゝもの の事を望みて成らざるが為め失望の反動現今は虚子実際の位 に有之べく候さやうに恐ろしく・ハ固より一年延期したと てあてにハあり不申候故此事御断念を御すゝめ申上候其地より九層の底に落ちたる如く思ひはせぬや何にせよ今度の 方ならば夏目へも申わけ立つべく候小生も一時の梦と思事に就き別に御介意なく虚子と御交誼あり度小生の至望に候 小生よりも虚子へは色々申し遣はすべく候」。 ひてあきらめ可申候 掉尾は、「近頃は一月頃より身体の御具合あしき由精々御 保養可然名誉齷齪世事頓着深く御禁じ可被成」 ( 傍点・引用 という記述が見られる。 者 ) とあって、「虚子の事抔はどうでも御抛擲なさいよ頓 この件に関して、子規と漱石との間に何通かのやりとりが 交されたと推察されるものの、遺されたのは六月六日附の漱首」と結ばれる。鮮かな手際だった。 この仲裁が、子規と虚子、そして漱石自身それぞれの将来 石書簡一通だけである。これは、子規を慰撫し、虚子を弁護 する、いわば仲裁の手紙なのだが、じつに見事なものと感嘆にとって、きわめて重要なはたらきであったことは、ここに 記すまでもない。 するほかない。諭すように文を綴りながら、無意識の触手は 六月六日。この書簡中には、「妻呼迎の件色々御心配被下 子規の怒り、あるいは苛立ちの発生源をしつかり抑えている ありがたく存候実は先便申上候通父同道にて両三日中に当地 かのようである。 へ下向の筈に御座候間御休神被下度候」という記述も含まれ 一、虚子が撰科受験を一年延期するつもりでいることにつ いては、「虚子よりも大兄との談判の模様相報じ来り申候虚ていた。 子云ふ敢て逃るゝにあらず一年間退て勉強の上人学する積り なりと一年間にどう変化するや計りがたけれど勉強の上人学 176
下間敷やといふ事に御座候」とつづく。それまで「日本」は 漱石が子規に移転を報せた手紙は今日、伝わらない。そこ 無方針のままに、旧派の歌論や歌壇評を数多く掲載していた には珍しく、子規をして答えに窮せしめるような上っ調子の が、「社の見識を以て取捨するやうに致さば宜しからん」と表現があった筈なのだが。 主張するのだった。この言には、子規のエデイターシップが 四月十九日附の虚子宛て書簡中に、子規は、「此間漱石ョ 起動したことが確認される。 リノ来簡ニ自己ノ碌々タルヲ説キ次ニ『蕪村以来の俳人とい 三月二十八日、子規は漱石に宛てて、「先日 ( 彼岸の人 ) はるゝ貴兄と同日の談にあらず』ト書イテアッタノデ大ニセ あまりあたかきに堪へかねて車にのせられて ( 車迄は負て ケタネ、其返事ニ『僕でも尋常の健康であって細君を携へて いてもらひて ) 郊外をまはり四年目に梅の花といふものを見百円もらって田舎へひっこむのならいつでもやりたいのだ』 ていとおもしろく覚え候」と近況を報じると同時に、「歌に ト書テャローカト思ッテルノダガ又オコラレテモ困ルカラマ つきてハ内外共に敵にて候」と、苦衷を打ち明けた。「外の ダヤラズニヰル」と、照れ隠しのような冗談を記している。 敵ハ面白く候へとも内の敵にハ閉ロ致候内の敵とは新聞社嬉しかったに違いない。 の先輩其他交際ある先輩の小言ニ有之候まさかにそんな人 五月、漱石は句稿・二十九となる二十句を子規へ送るが、 に向て理窟をのぶる訳にも行かずさりとて今更出しかけた議五月二十九日附の子規書簡はその返事なのかも知れない。 論をひっこませる訳にも行かず困却致候」とある。 「御手紙拝見致候いっかの御書面中蕪村已来云く抔といは 子規は、隣家に宛てて四月一日と三日に、長文の書簡を送れて答にためらひ居候まゝついノ御無沙汰ニ相成候」と記 る。四月一日の一通は「全集」で七頁に近いものだが、「歌してから、近況が報じられた。「此頃ハ庭前に椅子をうっし につきて毎く御注意難有候」「定めて立腹の事と存候」など て室外の空気に吹かるゝを楽ミ申候」とある。 という文言ではじまって、縷々自論が開陳される。「今日歌 漱石は自身の門下生の句をも子規に送付することがあっ に就いて論ずべきは根本の方にありと存候」と、文面には子た。蒲生栄に宛てて、「大兄の俳句千江氏の分と共に過日子 規のラディカルな精神が横溢するのを見ることができる。な規手許迄送り置候処本日着の日本に三句丈掲載致来候間供御 るほど、子規は天晴れ、快男児であった。三日の手紙は、隣 一覧候」と記した一通 ( 六月十日附 ) が遺されている。 家からの反論に応えたものと察せられる。 漱石は三月末に慌しく、熊本市井川淵町に転居する。大江 村の家主・落合東郭が宮内省を辞して帰郷することになった 「研究年表」に、 からだった。 「六月末か七月初め ( 日不詳 ) ( 推定 ) ( 後者は、小宮豊隆推
られた。極堂から「ほとゝぎす」の経営、編集上の困難が訴 来ぬとあれば勿論雑誌は出来ぬことと存候 えられたのだろう、その返信だった。「ほとゝきすの事委細 御申越承知致候」とある。 年末は小生一年間最多忙の時期殊に此両三日は一生懸命に 内容の一部を抄出すると、 働いても働ききれぬ程に御坐候併しほとゝぎすの事も忘 れ難く貴兄弱音を吐かれてはいよ / 、心細く相成申候 呵々 : 収支償はずとありては固より分別せざるべからず候 既往の決算将来の見込につきて大略の処御報奉願候 貴兄御困難のことも大方推量致し居候へども何卒出来るだ 小生金はなけれども場合によりては救済の手段も可有之と けの御奮発願上候 存居候 定価の事は可成しば / 、変更せぬこそよけれと存候 と記される。「万里の外に在て小生ひとり気をもむ処御憫 併し少しにても経済的のことならば改むるに憚らずそれら察可被下候」と、切実な願いが籠められていた。 は御考にて如何様とも可被成候只隔月刊行の事は小生絶 この年のこととして、鏡子の回想によれば、東京に滞在中 対的反対に有之候隔月にするやうならば廃刊のまさるに の漱石は「読売新聞」に連載中の尾崎紅葉「金色夜叉」を読 如かずと存候 ( 傍点・引用者 ) み、樋口一葉の全集を購人した。俳句好きの一地方高等学校 教師も東京に戻ると、同時代の文学の動向が気になったのだ 「隔月刊行」「絶対的反対」は、抵抗勢力である旧派との闘ろう。「金色夜叉」には感心しない。一葉については、官舎 いのなかに生きる改革者として、当然の主張であったという の二階に寝ころんで全集を繰りながら、「『たけくらべ』など べきだろう。孤軍奮闘する表現者にとって雑誌とは何か、に には殊に感嘆して、男でも中々これだけ書けるものはない」 関わる重要な問題提起であるとも思われる。「畢竟松山の雑などと言った、という。また、広津柳浪の「今戸心中」に感 誌なればこそ小生等も思ふ存分の事出来申候」と、子規はな 心していたことも伝えられる。 かなかの戦略家である。東京で「日本」「日本人」を活動の 大晦日のことと回想される。山川信次郎に誘われて、三泊 舞台としながら、楕円形の構想の西方に、「海南新聞」「ほ か四泊かの予定で、漱石は玉名郡・小天村に出掛けた。小天 とゝぎすーの基地を必要としたのだった。 へは十一月にも山川や同僚たちと一泊旅行をしているから、 よほど気に人った土地だったのだろう。 何にもせよ小生は只貴兄を頼むより外に術無く貴兄若し出 おあま 786
・ : 其頃も小旅行に手頃な為めだったのでせう、五高の先回 ) を掲げ、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集 生方や学生さんたちが行かれたものゝゃうでした。熊本か に有之候」などと、過激かっ鋭い筆鋒をもって本格的に短歌 ら西北三里半ばかりのところで、山があり海があって、大革新に乗り出した。 変温い土地で、蜜柑の名所だと伺って居ります。高いとこ 二月二十三日、子規・正岡常規は隣りに住む社主、羯南・ ありあけだけうんぜんだけ したた しらぬひ ろに立っと、有明嶽温泉嶽などが見え、時には不知火がみ陸實に宛てて懇請ともいえる書簡を認める。「私が今日和歌 えたりもするさうです。泊まった家は前田さんといふ郷士 を非とするは前日俳句を非とせしと事情相似たるのみならず の方の別荘で、俗に湯の浦と言はれたところだとのことで 論點造も一致致居候。陳腐、卑俗、無趣味、無気力、人為の す。 ( 「漱石の思ひ出」 ) 法則に拘束せらるる事等は箇条の重なる者に有之候」とし て、 「研究年表」に、「前田覚之助 ( 案山子、大同倶楽部領首と あんざんし して第一回衆議院議員 ) の別荘一一階三号室に泊り、案山子と 歓談、越年する。『草枕』の素材の一部はこの旅行で得る」 との記載がある。 明治三十一年。 一月六日、句稿・二十八となる三十句を子規に送る。 一月七日、研屋旅館支店に狩野亨吉を訪ねた。狩野亨吉は 昨年末、漱石の懇請に応えて五高教授就任を受諾、併せて教 頭職に就くことを了承して来熊したのだった。一月二十二 日、第五高等学校教授、二十六日、教頭を命ぜられる。年俸 千六百円。 子規の日本新聞社での月給が、この年から四十円となる。 子規は二月十二日から三月四日まで、「日本」に「歌よみ に与ふる書」を連載 ( 十回 ) 、つづけて「百中十首」 ( 十一 あんざんし ・ : 然れども和歌は士君子間に行はるゝこと久しく先人し たる者は容易に抜け難きにつき和歌に付きての愚論愚作を 発表致し候ハゞ攻撃四方に起り可申候。勿論外部の攻撃を 恐るゝゃうな弱き決心にては無之候へども恐るゝ処は内部 の攻撃に有之候。歌を一一三首出す、はや四方より苦情が起 る、最早歌を出すことが出来ぬといふやうな始末にては余 り残念に存候に付予め御願ひ申上候わけに御座候。私がっ くり候歌なる者を続々新聞へ載せてもよろしく候ゃ。右御 許を得候はゞ外の諸氏の攻撃ありとも構はずやる積りに御 座候。 石 と記す。「旧政府を倒して新に新政府を組織する際に攻撃漱 を受くるは当然の事にて : : : 」とあるのは、子規の意気込み集 編 を語るものといえる。さらに「右に附属して御願ひ有之候。 それは外ならず新聞に掲載する和歌、歌論の選択を御任せ被
いえるだろう。 規からの来信で知らされたらしい。「句稿」の九・六十一句 しかし、文中、唐突に「三々九度の方はやめにするかも知を同封した十二月十八日の書簡は、「遠路わざ / 、拙宅まで 御出被下候よし恐縮の至に存候其節何か愚兄より御話し申上 れず如何となれば先づ金の金主から探さねばならぬからな」 と記される理由については判然としない。十月八日に菊池謙候由にて種々御配慮ありがたく存候」と書き出される。そこ 二郎へ宛てた手紙に、「結婚の事も漸く落着致候御申越被下には、漱石がもともと家族とは教育上も性質上も気風が合わ 候小松崎のは母肺病にて没し候由につき小生には不適当と存ず、自身は幼時より「ドメスチックハッピネス」 ( 家庭の 幸福 ) などとは縁もなく、今さらそんなものを望みもしな じやめ申候矢張東京より貰ふ事に致候」とあるところから、 い、近頃は一段と隔意が生じているので、家族との関係を気 結婚話がいくつか持ち上っていたことが推察され、そのうち 遣ってくれるな、などと綴られ、縁談については、自分で対 にどうやら漱石のこころ積りも定ったものと考えられる。 漱石は十二月二十八日に、貴族院書記官長・中根重一の長応すべき問題なのだからこんなことにまで「貴意を煩はす必 要も」ない、という。 女・鏡子と麹町・内幸町の官舎の洋館二階で見合いをする。 抗議のような強い調子の懇請に、漱石の無意識の表出 ( ヒ 十一月六日に子規に上京の予定があることを伝えたのは、そ ステリーというべきか ) が隠されているのだろう。「尤も家 の頃までに見合いの日程が決まりかけていたからだろう。 〔しか〕 内のもの確と致候もの少なき故此度の縁談につきても至急を 子規に宛てて見合いに至る詳細がどのように伝えられたか 要する場合には貴兄に談合せよとは兼て申しやり置候」と、 は判らない。行方不明になった書簡があるのかも知れない、 とも思う。だが現在、全集に収録された書簡など知られる限無意識は一転して甘えた表情を見せるのである。「中根の事 〔ゆえ〕 に付ては写真で取極候事故当人に逢た上で若し別人なら破談 りの資料にあたっても、子規に宛てた見合いに関する記述は する迄の事とは兼てよりの決心是は至当の事と存候」と記さ ない。ここに紹介した手紙からは、一生娶ることができない だろう子規を気遣って、喜びが滲みでるのを憚る様子が観察れている。 手紙の後半の印象はまるで異るものである。 されるばかりである。漱石としては、「句稿」の八・四十一 句を同封した十二月十四日の手紙に、「東上の時期も漸々近 切角送った発句の草稿をなくしては困るではありません づき一日も早く俳会に出席せんと心待ち居候」と記すほかな かった。 か旧稿を再録して上るから序の時に直して下さい 過去日虚子に手紙を送る返事来る小生の発句を褒めてく ところが、である。子規は夏目家を訪問して、漱石の結婚 れたり有難いやら恥しいやら恐縮の至やら について三兄・直矩と話し合ったのだった。それを漱石は子
は鼓吹奨励の責任ありと存候」という。文学運動の何たるか われる。美学、というべきものだろう。 を、漱石は心得ていた。迂巷に早く返事を出すように、と催 「次に述べたきは」、とつづく 促する。「日日新聞は同人より大兄宛にて毎日御送致し居候 「『ほとゝぎす』中にはまゝ楽屋落の様な事を書かれる事あ 〔いやしく〕 よし定めて御閲覧の事と存候」との一行に、漱石の虚子の驕 り是も同人間の私の雑誌なら兎に角苟も天下を相手にする 慢に対する静かな怒りが籠められていると感じられる。 以上は二三東京の俳友以外には分らず随って興味なき事は削 〔ついでながら〕 「乍序」、とある。 られては如何」と記される。「吾に天下の志」を持て、であ 〔しかのみならず〕 「『ほとゝぎす』が同人間の雑誌ならばいかに期日が後れて る。同人間の楽屋話は「加之品格が下る様な感じ致候高 も差支なけれど既に俳句雑誌抔と天下を相手に呼号する以上見如何」と、虚子を問い詰めた。「方今は『ほとぎす』派 は主幹たる人は一日も発行期日を誤らざる事肝要かと存候」 全盛の時代也然し吾人の生涯中尤も謹慎すべきは全盛の時代 と勧告する。「ホトトギス」は毎月十日発行の予定が、十日 に存す如何」、と。この言葉もすぐれて倫理的といえる。漱 も二十日も遅れることがあった。それでも、この年の十一月石に「ホトトギス」を、リトルマガジンではあっても、一級 発行号の「消息」に、「期日の後れ勝なるに係らず読者の の文藝雑誌に育てたいとする思いがあったことは疑いない。 益増加致し候は甚だ本誌の幸栄とする所に候」などと、ぬけ 「子規は病んで床上にあり之に向って理窟を述ぶべからず大 ぬけと記す始末だった。「ホトトギス」は気まぐれな、「慰み兄と小生とはかゝる乱暴な言を申す親みは無き筈に候苦言を 半分の雑誌」なのか、事情はさまざまあるのだろうが「門外呈せんとして逡巡するもの三たび遂に決意して卑辞を左右に 漢より無遠慮に評し候へば頗る無責任なる雑誌としか思はれ 呈し候」と、文面を締め括った。「是も雑誌の為めよかれか ず候」。 しと願ふ徴意に外なら」ず、とある。 「現今俳熱頗る高き故唯一の雑誌たる『ほとゝぎす』はかく 池松迂巷については「研究年表」に、「『白繍会』という短 〔かかわらず〕 無責任なるにも不関売ロよき次第なるべけれど若し有力な歌会に所属している。当時、寺原町の瀬戸坂に住む」、また、 競争者出でば之を圧倒する事固より難きにあらざるべし」 「渋川柳次郎 ( 玄耳 ) ( 第六師団法官部試補 ) を中心とする長 と、漱石はジャーナリズムという怪物の生態についても知悉野蘇南 ( 一等軍医正 ) ・川瀬六走 ( 法官部理事 ) ・広瀬楚雨 していたかのようである。読者層がそこにあると知れば、競斎・藤西溟 ( 実業家 ) などの一派を紫溟吟社と結びつける」漱 争者はかならず現れる、と。よしんば競争者が現れなくと と記載されている。熊本でも俳句熱が異様なほどの昂まりを集 編 も、「敵なき故に怠る様に見えるは猶更見苦しく存候」。この みせていたことが観察される。 一行には、若き漱石の人生観、倫理観が凝縮されていると思 虚子からの返信はあったのかどうか、現存しない。 てらばる
が確認されるのが好もしく、私には嬉しい。 は明確に察知されたことだろう。「書牘体の一文」とは、「日 十一月十五日の子規宛て書簡中に、「小生近頃蔵書の石印 本人」に載った虚子の俳話の一節を指す。漱石は、数え「二 一枚を刻して貰ひたり」と、漱石は「漾虚碧堂図書」と刻ん十三歳の快楽主義者」をたんに後進とばかりは思っていな だ蔵書印を得た喜びを伝えている。「漾虚碧堂とは虚子と碧い。「近什少々御目にかけ候御ひまの節御正願上候」とあっ 梧桐を合した様な堂号なれど是は春山畳乱青春水漾虚碧と申 て、手紙は「小生蔵書印を近刻致候是亦御覧に人候」と結ば ただよう す句より取りたるものに候」という。「春水漾虚碧一」は れ、余白に蔵書印が捺された。 禅の説法の一句。 冬季休暇中のことと思われる。松根豊次郎という松山中学 校の教え子から、添削して欲しいと句稿が送られて来た。豊 : 刻者は伊底居士とて先般より久留米の梅林寺に滞留し 次郎は第一高等学校生。松山に帰省して、五高から帰省した 近頃当地見性寺の僧堂に参り居候もの篆刻の余暇参禅のエ同級生から漱石の句が秀れていると聞いて、人門を決意した 夫に余念なき様子刻風は蘇爾宣篆法とかいふ奴を注文致候 のだった。この時は「ゆで栗を峠で買ふや二合半」の一句が 頗る雅に出来致候一寸御覧に人度と存候へども肉を買はぬ褒められた、という。豊次郎は三十三年から東洋城と号し 故押す事が出来ず次回に送るべし 漱石の俳句は「海南新聞」紙上に頻繁に掲げられていたか 「久留米の」とあるところから、伊底居士は書に関心をもっ ら、不在となった筈の松山でも、その空気のなかに漱石は生 「菅法師」に紹介されたものと推察される。「蘇爾宣篆法」は きていたのである。 中国・明の篆刻家・蘇宣の篆刻法をいう ( 「全集ー第二十二 十一月下旬に句稿・二十の二十八句が、十二月、年末まで 巻・注解 ) 。 に句稿・二十一となる六十二句が子規に宛てて送られた。 十二月五日の虚子宛て書簡では、漱石の褒めかたの見事さ につくづく感心させられる。情愛あり。一言でいえば、人格 的である。「今日日本人三十一号を読みて君が書牘体の一文 明治三十年。 を拝見致し甚だ感心致候立論も面白く行文は秀でゝ美しく見 少し先を急ぐこととする。とはいえ、この年も、 受申候此道に従って御進みあらば君は明治の文章家なるべし 子規に関しては、一、一月、松山で「ほとゝぎす」が創刊 〔ますます〕 益御奮励の程奉希望候」と、これが上滑りした過褒でな される。一、三月に腰部の手術を受ける。四月下旬に再手 く、優しさが滲み出た言葉であることは、漱石を知る虚子に術。一、「日本ーで「俳人蕪村」の連載開始 ( 十一月二十九
致、何でも一つ御願ひ申候材料はむつかしくてもやさしく 五月十九日の子規宛て書簡に「寺田寅彦」が登場する。 ても専門的でも普通的でも何でもよろしく候。という注文で ある。「規」の署名で、宛名は「金様」。 俳友諸兄の近況は子規紙上にて大概相分り候いつも御盛 この依頼に応えたものなのだろうか、漱石は第一一巻第七号 の事羨敷存候小生は頓と振ひ不申従って俳句の趣味 ( 四月一一十日発行 ) に「英国の文人と新聞雑誌」を寄稿した。 日々消耗致す様に覚申候当地学生間に多少流行の気味有之 候寅彦といふは理科生なれど頗る俊勝の才子にて中々悟り : 一般に文学者と呼ばれ又自ら文学者と名乗る者は独り 早き少年に候本年卒業上京の上は定めて御高説を承りに貴 〔すくな〕〔いわ〕 で述作をして独りで楽んで居る様な者は極めて鮮い。況ん 庵にまかり出る事と存候よろしく御指導可被下候 や文を売って口を糊するといふ場合に至れば必ず何かの手 段を以て世の人に自作を紹介し様と企てる。新聞雑誌は此 「俳句に遠かると共に漢詩の方に少々興味相生じ候」と、五 紹介物として頗る便利なものであるからそこで文人と新聞言詩一一首が添えられた。寺田寅彦が五高を卒業して東京帝国 雑誌との関係が生じてくる。 大学理科大学物理学科への進学が決まるのは、七月のことで ある。九月五日に、寅彦は子規庵を訪れ、十月十日発行の として、おもに十八世紀からデイケンズに至る英国の詩「ホトトギス」に「根岸庵を訪ふ記」を寄せた。 人・作家とジャーナリズムとの密接な関係を粗述したもので 五月三十一日、長女・筆 ( 筆子 ) が誕生する。「私が字が ある。「スペクテイター」から「ディリー・ニュース」まで 下手だから、せめて此子は少し字を上手にしてやりたいとい のさまざまな新聞・雑誌に言及した。しかし、こうしたテ 1 ふので、夏目の意見に従ひまして、『筆』と命名致しました」 マに関心をもって正面から向きあうェッセイを書いたのは、 と、鏡子は記している。漱石は「最初の子供ではあり、結婚 ほかには、「文学者となる法」を匿名で著し、のち三十四年してから満三年の後に出来た子ではあり、随分と可愛がりま 九月に丸善に人社して誌「學の燈」の編集にあたる内田 して、自分でよく抱いたり致しました」という。 魯庵の名前が思い浮ぶにすぎない。また、このような原稿を 石 掲載したところに、「ホトトギス」がたんに俳誌の域を超え て文藝誌を目指すものであったことが看取される。漱石とし 三月上旬から漱石を悩ませていた問題は、狩野亨吉から山集 ては、「ホトトギス」とのより深い関係をもとうとする宣一言 川信次郎に第一高等学校への転任の誘いがあったことであ のつもりであったのかも知れない。 る。三月十日附の手紙で漱石は狩野亨吉に宛てて、「先達山 〔のり〕 〔うらやましく〕 このこ 〔とん〕
・ : 大将は昼になると蒲焼きを取り寄せて御承知の通りび子規も見ていたことが思い出される。漱石は近藤家に保管さ ちゃ / 、と音をさせて食ふ。其れも相談も無く自分で勝手れた書画帖をひらいて子規の筆跡を見た、という ( 「研究年 に命じて勝手に食ふ。まだ他の御馳走も取寄せて食ったや表」 ) 。 うであったが僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。其れか 十一月六日には「子規へ送りたる句稿」の五・十八句を送 ら東京へ帰る時分に君払って呉れ玉へといって澄して帰っ る。同封の手紙に、「十二月には多分上京の事と存候」と、 て行った。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せとい 上京の予定があることを伝えた。そして、「此頃愛媛県には ふ。何でも十円かそこら持って行ったと覚えてゐる。其か 少々愛想が尽き申候故どこかへ巣を替へんと存候」と記され ら帰りに奈良へ寄って其処から手紙をよこして、恩借の金る。つづけて「今迄は随分義理と思ひ辛防致し候へども只今 子は当地に於て正に遣ひ果し候とか何とか書いてゐた。恐 では口さへあれば直ぐ動く積りに御座候貴君の生れ故郷なが く一晩で遣ってしまったものであらう。 ら余り人気のよき処では御座なく候」とあるのは、どういう メッセージなのかは判らない。子規が松山を発っ直前に、学 別れにあたって、子規は「行く我にとゝまる汝に秋二ツ」 校で住田昇校長排斥のストライキが起きて、校長が辞任する と詠んだ。 という騒動があった。「漱石は、生徒たちの態度に不快を覚 える」 ( 「研究年表」 ) といわれるが、あるいは漱石の義憤がロ 走らせた言であったのかも知れない。 なるべく 子規を見送ったあとも漱石の俳句熱は冷めず、いよいよ熾 ただ、追伸に、「駄句不相変御叱正被下度候可成酷評がよ んなものとなる。あたかも、子規が去ったあとの一階の空白 し啓発する所もあらんと存候」とあるのは、この言や善し、 を俳句の余韻で満たそうとしたかのように、である。子規は と記すべきだろう。 「桔梗活けてしばらく仮の書斎哉」という句を遺していた。 十一月十三日、句稿の六、四十七句を送る。この手紙に 「子規へ送りたる句稿」の四となる五十句を同封した十一月 は、「今冬上京の節は仰せなくとも押しかけて見参仕る覚悟 三日の手紙には、「十一月二日河の内に至り近藤氏に宿す翌に候へども昨今の力量にては甚だ心元なく存居候」との謙辞 石 三日雨を冒して白猪唐岬に瀑を観る」とあって、漱石が子規 が見られる。追伸に、「善悪を問はず出来た丈け送るなり左漱 しらい からかい の遠戚である近藤家を訪ねて一泊、白猪、唐岬の一一滝に臨ん様心得給へわるいのは遠慮なく評し給へ其代りいゝのは少し集 編 だことが知られる。近藤家は造り酒屋。下男に案内されて男ほめ給へ」とあるのは、制作者の心理を率直に表明する言葉 滝・女滝を見に行ったのだった。この二滝は四年前の八月に として印象的である。同時に、編集者への教訓となるものと
処へ送りました。其頃はよく俳句を作って居りまして、そ 「序に附記す」とあって、「小生今回表面の処に移転せり」 れを又丹念に巻紙や半紙に書いて、子規さんのところへ送と記される。 るのでした。今でもその頃の句稿が沢山残ってをりまし て、それには子規さんが朱筆で点を打ったり、丸をつけた : 熊本の借家の払底なるは意外なりかゝる処へ来て十三 り、評を書いたり、添削したりして居ります。自分でも余 円の家賃をとられんとは夢にも思はざりし「名月や十三円 程興が乗ってゐたものと見えて、句を作るのは勿論のこ の家に住む」かね転居の事虚子にも御伝被下度候 と、よく金を送っては、子規さんあたりから活字本の七部 集だとかいった俳書を買って貰って、食事をする時にも傍 掉尾に「駄句少々御目にかけ候友人菅虎雄の句も同時に御 に離さずおいて熟読してゐたこともあります。 ( 傍点・引用批点被下度候」とあるが、「菅法師」にも俳句熱は伝播した 者 ) らしい。「無為」と号して句作を試みたという。この時は、 「谷川の小石の上の蛍かな」が子規によって、丸二つが与え なんだか、子規との秘密の交信を、新妻に覗き見されたか られた。 のようでもある。句稿・十七となる四十句は、九月二十五日 つづけて十月に、句稿・十八の十六句、十九の十五句が送 に送られる。同封された手紙には、「小生当夏は一週間程九られる。 〔州〕 洲地方汽車旅行仕候」と報じられる。また、「俳句も近頃は 「十月 ( 日不詳 ) 、教師をやめて上京しようかと考え、岳父 頓と浮び申さず困却致候夫にも関らぬ小生の駄句時々雑誌抔中根重一に相談する。東京商業高等学校校長小山健三を通じ に出るよし生徒抔の注進にて承知致候少々赤面の至と存じ て、外務省の翻訳官を依頼しておいたと返事受ける」と、 : 」などという記述は徴笑ましく思われる。 「研究年表」に記されている。補足説明欄には、「この前後、 漱石は、帝国図書館なるものができるようだが、そこへ就職 〔様〕 ・ : 大兄近頃は文筆の方は余程御勉強の模模雑誌の広告に できぬかと中根重一に依頼する。中根重一は、文部次官牧野 て承知仕候新体詩会抔にも御発起のよし結構に存候時に竹伸顕に会って事情を聞いたところ、第二次松方正義内閣成立 石 の里人と申すは大兄の事なるや序ながら伺ひ上候 ( 九月十八日 ) の直後で、どうなるやら夢のような話だとい漱 う。その旨を伝えてくる」とある。例によっての、漱石の現集 たけさとびと 編 子規は「竹の里人」の名を用いて、「日本人」に新体詩を状不満の小爆発であったとも考えられるが、同時に、漱石が 発表した。 大学や高等学校の教授職などに執着しない人物であったこと