「ノブ、たまに泊りに来てもええよ。しよっちゅうは迷惑や 「バーやけど料理も出すお店。ちゃんとした料理人がいてる けど ねん。ビーフシチューとかグラタンとか、フランスの内臓料 千佐子はそのビルの三階で暮らすことに決めてしまったよ理とか」 うだった。 「内臓料理 ? フランス料理にそんなんがあるの ? 」 「うん、おいしいよ」 台所で、まだあけていない段ボール箱からすき焼き鍋を探 し出すと、明彦はそれを洗剤で洗いながら、 千佐子はそう言って、ハンドバッグを持っとア。ハートの部 屋から出て行った。 「家賃はなんぼや ? 」 と訊いた。 「すき焼きは一緒に食べへんのん ? 」 房江は訊いた。 「家賃も敷金もいらんそうやねん」 「そんな話には裏があるわ。千佐子、お母ちゃんは許さへん 住宅地を人ったところにある理髪店の前に車が待ってい て、運転席には男が坐っていたが顔は見えなかった。千佐子 タネは顔色を変えて言ったが、喋り方が穏やかなので、本はその助手席のドアをあけながら、 気で怒っているようには見えなかった。 「房江おばちゃん、引っ越しの手伝い、ありがとう。ノブに そのビルは、一階は喫茶店、二階は夜だけ営業するラウン も私からのお礼を伝えといて」 ジで、客のほとんどは近くの広告スタジオのデザイナーやテ そう言って、わざと茶目っ気を装った笑顔を向けて車に乗 レビ局の人たちだ。オーナーは延岡トキ子という四十前の女った。 性で、私が所属するモデルクラブの経営者と仲が良くて、そ 房江は、千佐子の父親の顔を思い浮かべた。千佐子が生ま れで知り合ったのだ。 れて三年目に結核で死んだのだ。生きていればいまは五十代 半ばだが、房江はその妻も子もある自転車屋の、まだ三十代 千佐子はそう言った。 の、どこか茶目っ気のある笑顔しか知らなかった。 房江は、千佐子が半年ほど前から会社での仕事以外にモデ ルとしても働いていることを知った。 いまはアル・ハイトという立場だが、会社を辞めてモデルを 本業にしないかと誘われていると千佐子は房江に言った。 「ラウンジて、なに ? 」 と房江はすき焼きの用意をしながら訊いた。 ( つづく )
「寺田さんは元気なんやろか。明彦の結婚式の日、えらい具 の、そのときどきの思い出を心に浮かべようとしたが、輪郭 合が悪そうやったから、熊おじちゃんが家まで送って行った の鮮明な映像というものは少なかった。千佐子はいつも目立 んやけど : : : 」 たない子だったのだ。 と房江は千佐子に言った。千佐子は蘭月ビルの方向へと視 兄の明彦は勉強がよくできたし、おとなしくて優しいの 線を向けたまま返事をしなかった。 で、南予の一本松町でも城辺町でも、まわりのおとなたちに 「ならず者崩れの土建屋さんやけど、悪い人ではなかったな は好ましく思われていたが、千佐子にはこれといって特徴は あ。千佐子が私立の女子高に通えたのは寺田さんのお陰やも なくて、優等生の兄の陰に隠れてしまったような存在だっ んね」 途中で私は余計なことを口にしていると気づいたが、言葉 千佐子が遊んでいる映像が浮かんでこない。なぜだろう。 はもう出てしまっていた。 房江はそのことを不思議に感じたが、考えてみれば、これま 「ええ人やろうが悪い人やろうが、そんなことがなんやの でいちども、千佐子にちなむ思い出そのものを胸に描いたこ ん ? 房江おばちゃんは、私にもお兄ちゃんにも心はないと ともなかったのだと気づいた。 思うてんのん ? あの男は、私が小学一一年生のときからずつ 蘭月ビルで暮らすようになってからも、あの周辺で遊んで とお母ちゃんと硝子障子一枚向こうで寝てたんや」 いる千佐子を目にした記憶がない。蘭月ビルの子供たちとそ 千佐子は蘭月ビルのほうへと向けた視線を動かさないまま りが合わなかったので、どこか別の地域で遊んでいたのかも 言って、房江に一暼もくれずホームの階段を降りて行った。 しれないが、それにしても千佐子はどんな小学生だったろう 房江は、深く考えないまま浅薄な言葉を口にしてしまった か。どんな中学生になっていただろうか。寺田権次の援助で ことを悔いたが、千佐子のあとを追わなかった。きっとあと 高校は私立の女子高に進んだが、そのころは私たち一家は蘭 から大東市住道のア。ハートにやって来ると思ったのだ。 月ビルを避けて、あえて行かないようにしていたのだ。 晴れているのに太陽は歪んで見えたし、西の空は茶色とも その言動にも容姿にも、存在そのものにも、格別の特徴の なかった千佐子が、社会に出た途端に手品のように変貌し 灰色ともっかない霞がかかっていた。尼崎周辺から武庫川の あたりは大気の汚染がひどくて、呼吸器を痛める子供や年寄て、御堂筋に並ぶ多くの有名企業に勤める女子社員のなかで りが増えていると新聞で読んだが、あれがその大気汚染とい の も指折り数える美人として噂にのぼるようになった。 野 うやつなのかと房江は思った。 同年齢の男たちは臆して食事に誘うこともできない存在 電車に乗ると座席に坐り、房江は幼いころからの千佐子で、四十以上の男たちに、しよっちゅう高級レストランや値
房江にはすぐにわかった。 今夜の夜行で九州へ新婚旅行に旅立つ新郎新婦は列車に間 「風が冷とうなってきたねえ」 に合わせるために慌ただしく貸衣装屋から出て行った。大阪 と千佐子は言って、熊吾のマフラーを自分の首に巻きつけ 駅には明彦の同僚が車で送ってくれるという。 ( 0 明彦の妻となった喜代美は大阪府吹田市に両親とふたりの 「まだ十月の半ばやのに、熊おじちゃんはもうマフラーをし 兄と住んでいた。父親は市役所に勤めていて、まだ独身の兄 てるのん ? 」 たちもさして大きくはないが堅実な事業内容の会社で働いて いるらしい。 と千佐子は言った。披露宴で飲んだ安物のシャン。ハンで酔 っているようだった。 新婦側の家族や親戚たちと挨拶を交わして別れると、房江 はタネと千佐子と一緒に国道二号線に沿って歩いて、蘭月ビ 「わしは暑さ寒さに弱いんじゃ」 低予算の結婚披露宴だとわかっていたし、そのうえ仲人な ルのタネの家で留守番役をしている伸仁を迎えに行った。 ので、もっといい酒を出せとは言えず、熊吾は新婦の親戚が 背が高くなって、びつくりするほど美しい娘に育ったと聞 いてはいたが、房江は数年ぶりに逢った千佐子のあまりの美差し出す日本酒を猪ロで四、五杯受けただけだった。 どの家庭にも人にはわからない苦労があるものです 貌に驚いてしまった。 これは男からの誘惑も多いことだろう。千佐子も父無し子が、この松坂明彦ほど多くの悲しみを内に秘めて、しかもま で、貧乏のなかで育ったし、年頃になると寺田権次が同居す るようになり、母親と同じ蒲団で寝る日々が長くつづいたか 梗概 ら、男にちやほやされるとすぐに崩れていってしまいかねな ・モータープールを軌 松坂熊吾は、大阪市福島区でシンエー 道に乗せ、中古車販売店「中古車のハゴロモ」や板金塗装会 房江はそう案じたが、話してみると、千佐子は凜としてい 社を立ち上げた。横領から会社の資金繰りに窮した熊吾は、 て、御堂筋に大きな自社ビルを持つ一流企業の女子社員らし 関西中古車業連合会の設立に再び奔走し始めるが、妻の房江 に博美という愛人の存在を知られ、家を追い出される。昭和 い矜持を漂わせていた。 四一年、房江と大学生となった息子の伸仁と別居中の熊吾 しかし、身に着けているものは、高校を卒業して三年目の は、名刀関孫六を売った代金の半分を博美が小料理屋を買う 女子社員らしくなかった。身に着けている服もハンドバッグ ために使うことを決意する。房江は、多幸クラブの社員食堂 も千佐子の給料では手が出ないであろう高価なものだという での仕事を続けている。 ことは、多幸クラブで働く同年代の女子社員たちを見てきた 269 野の春
段を表示していない有名寿司店につれていってもらっている とき降りたのは野崎駅だった。松茸山の手前にきれいな川が という。 流れていて、笠をかぶって揃いの法被を着た船頭たちが遊覧 伸仁が幼かったころ、「みにくいアヒルの子」という童話を楽しむ客に「野崎小唄」を聴かせながら棹を操っていた。 を読んでやったことがあったが、まさに千佐子はあのアヒ 伸仁はまだこの世に姿も形もあらわしていなかった。 ルの子だった。いじめられもしない目立たないアヒルの子 井草正之助もいた。海老原太一もいた。河内モーターの河 内善助夫婦も一緒だった。 子供は自分が周りからどう評価されているかを敏感に知っ 房江がそんなことを思いだしているうちに住道駅に着い こ 0 ている。とりわけ女の子は、それが容貌にまつわることであ ればあるほど、心の奥に傷を作っていく。 駅前に商店街が東へとつづいていた。引っ越し作業がすべ 硝子障子一枚向こうで男と同じ蒲団に人っている母親を見て終わるのは夕方になるだろう。みんなお腹が減っているに てきたみにくいアヒルの子が、なにを感じ、なにを考え、そ ちがいない。肉を買って行って、みんなですき焼き鍋を囲み たい。 れをどのように己のなかに納めてきたかを、誰も斟酌してや らなかったのだ。 房江は、精肉店の前で立ち止まり、おととい会社から突然 だがいま千佐子は白鳥になった。それゆえに隠れていた傷 に全社員に配られた二万円のなかからすき焼きに必要な食材 から血が出てくるのはこれからだ。 を買おうと決めた。 房江はそんな思いに浸って、熊おじちゃんの出番が来たの 多幸クラブのことしの半期決算で予想以上の収益が出たと ではないかという気がした。 いうことで、役職とは関係なく一律に二万円の臨時ポーナス 明彦が書いてくれた地図を頼りに、房江は国鉄環状線の外が配られたのだ。 回りに乗って、京橋駅で片町線に乗り換えた。 すき焼き用の牛肉、焼き豆腐、白菜、ねぎ、糸こんにや 電車が小さな工場や商店街が密集する町を東に進み、放出 、椎茸を買って、房江は商店街を抜けると踏切を渡った。 という駅に停まったとき、房江はそれが「ハナテン」と読む そこからは道の左右に畑がつづいた。遠くには大きな工場 ことを知った。「ホウシュッ」とは奇妙な駅名だなと思って群と生駒山が見えた。 いたのだ。 タネは勧めてくれるし、確かに家賃も敷金も安いが、ここ そうか、この片町線は野崎を通るのか。夫と結婚してすぐ はあまりに遠すぎる。多幸クラブの社員食堂での重労働を思 に松坂商会の社員たちと松茸狩りに行ったことがある。あの うと、朝、住道駅までの二十五分の道のりは、仕事にこたえ 276
っすぐに育った青年は稀でありましよう。 んな化け物だらけの蘭月ビルからはいちにちも早くおさらば 房江は、仲人の挨拶で熊吾がそう話しだしたときは、また してしまえ。家賃と敷金はこの前に電話で話したとおりだ。 余計なことを言わなければいいがと心配したが、熊吾は明彦 寺田はそう言って、タネの家から出て行った。房江は、寺 の出自には一切触れず、新婦のふたりの兄に、明彦を自分た 田が今夜ここでタネや明彦や千佐子と永遠の別れをするため ちの実の弟のように可愛がってやってくれと挨拶を締めくく に待っていたような気がして、戸口のところに立ち、大阪中 っ ( 。 古車センターの日除け塀を造ってくれた礼を言った。寺田権 映画館の横の道に曲がるとき、 次は熊吾から一銭も受け取ろうとはしなかったということを 「仲人さんの挨拶、よかったよ」 聞いていたのだ。 と房江は熊吾にささやいた。 「ねえさん、わしもそろそろ年貢の納め時が近づいて来より 「あんなお堅い一家やとは思わんかったけん緊張したぞ。親ましたで。自分でちゃんとわかりまんねん。象みたいなもん 戚縁者も石部金吉ばっかりじゃ。揃いも揃ってあんなに無ロ ですなあ。死期を悟ってぼつんと一頭だけで姿を消してしま な一族も珍しい」 いよる。わしは象ほどでかい人間やなかったし、この世にな お好み焼き屋を閉めてもう数か月になるタネの家に人る んにも残しまへんでしたけど、息子を一人前の大工に育てま と、伸仁が寺田権次と花札をしていた。晩ご飯は寺田が国道 した。わしみたいな人間には、もうそれだけで立派なもんで 沿いの食堂から牛丼を出前で取ってくれたという。 っしやろ」 寺田は、新郎新婦もいったん家に帰ってくるものと思って 寺田権次は、最後の言葉を映画館の横の道を国道一一号線の いたらしかった。 ほうへと曲がりながら言ったので、房江にはよく聞こえなか 「明彦にお祝いを渡そうと思うてなあ。なんや、そのまま新った。 婚旅行に行ってしもたんかいな。花嫁さんの顔をひとめみた 暗がりの奥に吸い込まれるように消えた寺田のことが心配 かったなあ」 になり、房江は熊吾を呼んだ。 寺田は残念そうに言うと、タネに紅白の水引きを巻いた祝 「おうちまで送ってあげたほうがええと思うねんけど。おう い袋を渡した。顔や手が腫れぼったくて、体の動きも重そう ちは杭瀬やろ ? バスで三駅くらいや。ノブに送ってあげる 4 につ ( 0 ように頼もうか・ : : ・」 大東市の新築のア。ハートとは話をつけておいた。いつでも 房江の言葉に、夜の十時近い杭瀬の路地を伸仁ひとりで歩 引っ越しができる。明彦の新居からは歩いて二、三分だ。こ かせるわけにはいかないと熊吾は言い、 くいせ 2 川
話した。すると、その話はたちまち広まって、相手の耳にも 紀村晋一は大学院を修了してから教師になったので、去 届いた。相手の名を仮にとしておこう。 年、関西大倉学園を辞めて、母校の大学の教壇に立っている >- は遠くにいても絶えずぼくを睨みつけてはいたが、近づ と伸仁から聞いていた。シェークスピアの研究では若手のな いてこようとはしなくなった。卒業式が終わったら、どこか かでは群を抜いた存在だという。 で待ち伏せているかもしれないと怖かったが、茨木駅のホー いずれは大学の教授になる人なのであろう。 ムで電車を待っていると、 >- はなにかの映画で観たようなわ 房江は、紀村晋一の言葉を胸のなかで反芻しながら、 「もうお母ちゃんはお前のことにはロ出しせえへん。好きな ざとらしい気障な笑みを投げかけて、小さく手を振り、電車 に乗らず仲間たちとどこかへ行ってしまった。 ことをしなさい。道を誤っても親のせいにせんとってな」 「あの雑誌を学校に持って来てた子に、感謝せなあかんな と言った。伸仁からは寝息が返ってきた。 あ。お母ちゃん、逆恨みしてたわ」 房江はそう言って、寝間着の袖で涙を拭いた。 十一月三日の祝日に、タネと千佐子は大東市のア。ハートに 「結局、どこかで勝負をつけんと、災いは止めへんから 引っ越すことになった。たいした荷物があるわけではなかっ たが、それでも引っ越しという作業はカ仕事で、片づけにも さらになにか言いかけたが、伸仁はスタンドの明かりを消時間がかかると思い、房江は多幸クラブを休んで手伝うこと し、自分の蒲団にもぐり込んだ。 にして、伸仁と一緒に尼崎の蘭月ビルに行った。 日曜日は中央市場は休みだし、モータープールの朝も暇な カイ塗料店から借りた四トントラックをタネの家の前に停 ので起こさないでくれという伸仁の言葉に生返事をして、房めると、伸仁は細い道を隔てた工務店の資材置き場に人って 江はしばらく蒲団の上に正座していた。 行き、遊んでいる子供たちのなかに立って長いこと蘭月ビル を眺めていた。 どこかで勝負をつけないと災いは止むことはない。 きっと伸仁がなにかの書物で覚えた言葉なのであろう。だ すでに母親のア。ハートの近くの二階屋で新婚生活を始めて が、それは真実だ。 いる明彦は、家の前に引っ越し荷物をまとめて出していた。 房江はそう考えていると、伸仁が高校一年生のときの担任喜代美は大東市のア。ハート の掃除をして待っているという。 だった紀村晋一という若い教師が言った一言葉をふと思いだし 「蘭月ビル。思い出の多い建物やなあ」 房江も工務店の資材置き場に人り、伸仁の横に立っと言っ あの子は、好きなことをさせといたらいいです。 273 野の春
ないほうがいい。あの人がいると疲れる。 「刺したら殺してしまうがな。そんなアホなことせえへん。 房江は、伸仁が歯を磨きに行ったので、部屋の蛍光灯を消 そやけど、そいつはケンカが強いから素手では勝たれへん。 し、蒲団に人って枕元のスタンドを点けた。寝てしまった そやから、いざとなったら指の二、三本を切り落としたろ ら、いつも伸仁が消してくれるのだ。 と。そのためには、あのくらいの重さのドスでないとあかん 部屋に戻ってきて。ハジャマに着替えると、伸仁は、房江の やろ ? 」 枕元にあぐらをかいて坐り、煙草に火をつけた。 「指の二、三本を切り落としたら、お前、どうなるのん ? 「未成年者でスポーツの選手が煙草なんか吸うたらあかんや学校は辞めさせられて、少年院に何年か人れられるんやで」 ろ ? 」 「そんなこともわかってるよ。あのドスを出して、ぼくが本 「心を鎮めるためる前の一本は必要ゃねん」 気やとわかっても、それでも殴りかかってくるような根性の なにをえらそう。鎮めなければならないほど心が騒ぐこ やつなら降参するしかないがな。そういうやっかどうかを試 とがあるというのか。そうだ、もうひとっ訊き糺しておかなすために、あのドスを作ったんや」 ければならないことがあると思い、房江は寝返りをうって腹 「お母ちゃん、お酒が飲みとうなってきたわ。脅すだけのつ 這いになり、あのいやらしい雑誌と交換したドスでお前はい もりが相手を殺してしまうというのが刃物の怖さや。お前は ったいなにをするつもりだったのかと訊いた。あれを作るた それがわかれへんのか ? 」 めに、お前は二年近くを費やしたのだ。毎夜、太い鋼をグラ やつばりこの子は危険なものを持っている。もはや笑い事 インダーで削り、寒い夜に手を凍らせながら砥石で研ぎつづ ではない。房江はそう思ったとき、自分でも異様だと感じる なた けて、鉈ほどもあるドスを完成させたのはなんのためだった ほどの涙が溢れてきて、声をあげて泣いた。 のか、と。 「一芝居打とうとしただけやねん。お前がその気なら、ぼく 伸仁はうんざりしたように溜息をついてから、隣りのクラ も捨て身で受けて立っぞということを相手にわからせる芝居 スになぜかぼくにしよっちゅう絡んでくるやつがいて、その ゃねん。そうせえへんかったら、相手はいつまでもやめへん 絡み方があまりに執拗だったので、これはこのままでは終わ からな。そういうやつやねん」 らない、どこかで決着をつけなければならないと思ったのだ 「それからどうなったん ? 」 と一一一口った。 あのアメリカの「プレイボーイ」という雑誌を持っていた 「決着 ? 相手をあのドスで刺すつもりやったんか ? 」 やつが、それとドスとを交換したあと、どうしてこんなもの 房江は驚いて上半身を起こし、蒲団の上に正座した。 を自分で作ったのかとしつこく訊いた。それで、その理由を 272
満月の道目 るかもしれない。それにこのあたりは、冬は「生駒おろし」 「ここで私とお母ちゃんとでは狭すぎるわ。そのうえ、お風 と呼ばれる強い寒風が吹きつけるという。 呂はあれへんし。銭湯まで往復で四十分もかかるなんて、私 大阪駅まで一時間と十五分くらい。大阪駅から多幸クラブ はいやや。私は大阪市内でひとりで暮らす」 までは地下街を歩いて十五分。合わせて約一時間半。 と言った。 シンエ ー・モータープールからならたったの二十分。 「そんな贅沢なことを。お前の給料で、大阪市内のア。ハート やつばり再来年の二月までシンエー・ モータープールの二 の家賃を払うてたら、服の一着も買われへんわ」 階で暮らそう。 タネは困ったように言って房江を見た。 房江はそう決めて、畑のなかに最近できたのであろう新興 千佐子が本気で言っていることをわかっているのだと思っ 住宅地への道を曲がった。 たが房江はロを挟むのをやめた。 千佐子がやって来たのは、引っ越し作業が終わって一時間 「大阪市内って、どこや ? 」 もたったころだった。 と伸仁は訊いた。 「無神経なことを口にしてしもて、ごめんな」 「多幸クラブから東へ二分。三階建ての小さなビル。三階は 房江は千佐子にだけ聞こえるように耳元で言った。 使うてないねん。物置になってるから、そこを千佐子の部屋 「えっ ? なんのこと ? 」 にしてもええって持ち主が言うてくれてるねん」 笑顔で応じた千佐子は、三畳ほどの台所とその奥の四畳 「そのビルの持ち主は男か ? 歳はいくっ ? もし女でも危 半、それに襖の向こうの六畳を長い脚で行ったり来たりし険だらけやなあ。危険が舌なめずりしてる音が聞こえてきそ て、さらにその奥の狭い洗面場と便所を覗き、 うや」 闇夜に浮かぶあの光は、未来を照らす道標なのか 息子は絵画を愛する少年に成長し、妻はアルコールから抜け出せずにいたが、 確かに一家に未来は拓きかけていた。熊吾があの女と再会するまでは 宮本輝 ◎定価 ( 本体 2000 円十税 ) C ) 新潮社 277 野の春
うやつや。南予の人は、大昔、南方のどこかの国から黒潮に 「わしが送るけん、お前と伸仁はもう帰れ」 房江の耳元でそうささやいて、寺田権次のあとを追った。 乗って丸木舟で渡って来た人たちやろか。腰に蓑を巻いて、 房江はタネが淹れてくれた熱い茶を飲むと、伸仁と一緒に斧を振り回して。そのなかにお父ちゃんの祖先もおったん ゃ。ぼくのお父ちゃん、そんな顔やで」 ー・モータープールへと帰った。十二時前 阪神バスでシンエ になっていたが、留守番を引き受けてくれた田岡は事務所で 房江は笑い、その祖先は、お前の祖先でもあるのだと言っ こ 0 受験勉強をして待っていてくれた。 伸仁はふいに話題を変え、千佐ちゃんはあんなにきれい 伸仁はパプリカ大阪北の寮長に車を貸してもらうと田岡を 天満の叔母さんの家まで送り、帰ってくると正門を閉めて鍵で、いくらでもいい男が寄ってくるだろうに、どういうわけ かおっさん臭い男とばかりつきあうのだと言ってテレビを点 をかけ、二階へあがって来た。 けたが、どの局も放送を終了していたのですぐに消した。 寝間着に着替えて待っていた房江は、千佐子があまりにき れいになっていたので、びつくりしてしばらく見惣れたと言 「おっさん臭い男って、どういう男 ? 」 っ ( 。 「歳はせいぜい二十二、三やのに、三十前後に見える。体が がっちりしてて、ハンサムではない。一見おとなつぼくて落 「背もぼくと変われへん。一緒に歩くのがいややねん。みん ち着いて見えるけど、所詮は見せかけ。中身は薄い。そんな な振り返るしなあ。タネおばちゃん、よう見たら彫りの深い タイプや。これまで三人の男を紹介してくれたけど、三人と 美人やから、千佐ちゃんは高校を卒業したころからお母さん も見事におんなじタイプ。ぼくはそのたびに、こんな男のど に似てきたんやなあ」 こがええのかと不思議で、首をかしげてしまうねん」 「よう見んでぎ、タネさんは美人や。明彦も端正な男前やし 千佐子も父親の味を知らないまま成人した。だから無意識 のうちに、自分よりもはるかにおとなっぽい男に惹かれるの 「兄妹やのにお父ちゃんだけ熊と猪が混じったような顔やな かもしれない。 「お前のお父さんこそ、よう見たら彫りの深い立派な顔立ち 房江はそう考えながら、テレビの前に坐り柱時計を見て、 もう一時になろうとしていると思ったとき、そうだ夫はここ やで。若いころはクラーク・ゲープルに似てるって言われた には帰って来ないのだと気づいた。あの女のア。ハートが夫のの んや。南予にはそういう顔立ちの人が多いねん」 野 住まいなのだ。三年もそんな生活がつづいているのに、なぜ 「えっ ? あのアメリカの美男俳優のクラーク・ゲープル ? 今夜は夫の帰りを待とうとしたのだろう。やつばり帰ってこ 似てるかなあ。それは褒め過ぎやろ。贔屓の引き倒しっちゅ
伸仁はなにも応じず、タネの家に人ると冷蔵庫や洗濯機や その京橋駅で別のホームの片町線に乗り換える。大阪の東 簟笥類などの重いものを明彦とふたりでトラックの荷台に運 のほうへまっすぐに奈良との境まで行く電車だ。 び始めた。 片町、京橋、鴫野、放出、徳庵、鴻池新田、住道、野崎、 「ノブちゃん、一回では無理やで。すまんけど、二回に分け四条畷。 て運んでくれよ」 京橋から住道までは三十分くらい。駅前の商店街を抜け と明彦は申し訳なさそうに言った。 て、田圃や畑のある地域を行くと踏切がある。それを渡り、 「積み方が下手やねん。蒲団をもっとぎゅうぎゅうに圧縮し さらに生駒山のほうへと歩くと小さな新興住宅地がある。ア たら、この机と五つの段ボール箱は載せられるで。ぼくは意 。ハートはそのなかだ。住道駅からア。ハートまでは歩いて二十 地でも一回で全部の荷物を運ぶ。またこの蘭月ビルに戻って 五分くらい。 くるのはいやや。蘭月ビルとは、きようで永遠におさらば 部屋は四つ。一階の奥が家主の住まい。その上は家主の妹 が住んでいる。私が引っ越すのは家主の隣りの部屋だ。私の 伸仁は言って、すでにトラックの荷台に積んだ蒲団を降ろ部屋の二階は空き家なので、もし引っ越すのならそこにして した。 はどうかと房江さんに勧めているのだ。 西隣に住む朴一家のおばあさんが、一升瓶を抱えて家から 「遠いなあ」 出て来て、これは手をかけて作ったドプロクで、国ではマッ と朴家のおばあさんは言った。 コリという酒だと言った。餞別として用意しておいたとい 「さあ、全部積めた。アキ坊、ロープをそっちから投げてく れ」 朴家は北朝鮮に行かず、ここに残った数少ない韓国人一家 伸仁は薄手のセーターを脱いで、額の汗を手の甲でぬぐい なのだ。 ながら言った。 すみのどう おばあさんは、大東市の住道というところは、尼崎からは 四トントラックには三人しか乗れないので、房江と千佐子 どう行くのかと聞いた。 は電車で行くことになっていた。 タネはいつもののんびりとした悠長な話し方で説明を始め 伸仁の運転するトラックが行ってしまうと、房江は朴家の おばあさんに挨拶して阪神電車の尼崎駅まで千佐子と並んで 阪神尼崎から梅田に行き、そこから国鉄環状線の外回歩いて行った。 りというのに乗る。天満、桜ノ宮、そして京橋。 駅のホームで梅田行きの電車を待ちながら、 こ 0