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検索対象: 新潮 2016年12月号
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1. 新潮 2016年12月号

した。ジュンチとの共演作では主人公 ( ジュンチが演じた人その仕種が、物腰のあらゆる細部がサラリーマンの妻だった 物の上司 ) のひと回り年若い妻を演じていて、強烈な印象を のだ。貌はまるで違う ( 髪型をはじめ、メイクが違いすぎ 残した。その存在はぶれていなかった。つまり、この女には た ) 。しかし明らかに、あのサラリーマンの妻がこの女将を 嘘はないと思わせた。しかし、二番めの映画では女流棋士だ演じている、と、花梨にはわかった。同じ人間なのだ。見た った。それは囲碁のドラマだった。だから主演する女優が、 目はただの、扮装だ。 棋士を演じることに不自然さはない。観る花梨も、その点に すなわち外見以外は嘘を吐いていない。 は戸惑わない。なのにやはり、花梨は首を傾げた。あのサラ この時、五本の映画が十数本の映画に膨張し、それから、 リーマンの妻がこの棋士になったとは思えない、というのが たった二本の映画に収束するのが中学一年生の花梨には感じ その理由だった。同じ人間のように見えるのだけれども、違られた。すなわち、同じ女がいる世界と、そうではないほう う人間なのだ。同じ人間であるのならば問題はなかった。すと。だが、どちらの映画も二時間や三時間の尺には収まって いない。 なわち、あの ( 前作の ) サラリーマンの妻が、この映画に出 演して女流棋士を演じているのならば。しかし、やはり、ジ 続いて花梨は、その女優との共演をスクリーン上に観た俳 ュンチの出演作で感じたのと同様に、「私はあの ( 前作の ) 優たちの、目にとまった何人かの出演作ーー主に主演作 人妻ではないよ」と嘘を吐きながら女優は碁石をピシッ、ピ を追った。注意深い、そして惑乱させられる鑑賞法を続け シッと打つのだった。凜とした姿勢で。この映画を観ている た。それほど多い数ではなかったが ( 一年間に二十本前後だ とど 、花梨は前作ーージュンチとの共演作のことをシーンが改 った ) 、一本の映画は決して花梨の脳裡で一本に留まること まるたびに想い起こし、やはり二つの映画を同時に観ている がなかったので、じゅうぶんに多いのだとも言えた。花梨は ようだったし、むしろ二本の映画の往還運動からは第一二のシ もちろん、楽しいと感じられるから映画館に足を運んでい ーン、第三の筋が炙り出されるようだった。そして花梨は、 た。なにか、憑かれるような喜びがあった。また、映画館で さらに同じ女優の出演作を、映画館での三本めに、四本め なければ駄目だった。テレビには、画面の外がある。たとえ に、五本めにと選んだ。中学校に進んだ初夏までにそうし ば自宅の居間が。その外というものが視界に人る。タブレッ ひと た。その女は、ある映画では弁護士で、ある映画では余命半 ト端末も同様だった。そうして目に人る現実世界は、「映画 年の雑誌編集者を演じ、時代劇にも出ていた。その時代物が は、はなからニセモノだ」と主張していた。それでは駄目だ 花梨の「劇場での五本め」で、脇役だったが、大きな衝撃を った。スクリーンに映される映画は、まず最初に、「館外の 花梨に与えた。飯屋の女将に扮していたのだが、その表情、 現実などというものはない」と告げる。その上でニセモノだ おかみ ひと ひと そと 294

2. 新潮 2016年12月号

鹿は流れに人り、ジャ・ハジャ・ハと対岸に渡って、向こう岸す。 を登りはじめた。 獲物との遭遇から止め矢までの一連の流れが、映像になっ しやがんで銃を構え、狙いを定め、セーフティを弾いた。 て頭のなかを駆け巡りはじめた。獲物を仕留めたときに、意 手元が暗く、サイトがよく見えない。息子がどこにいるのか識しなくても、かならず起こる現象だ。倉内はアドレナリン ちらりと確認して、引き金を引いた。 の副作用なのではないかと考えている。 当たらなかった。距離は二〇メートルも離れていない。 獲物を狩るのは面白い。そこにはたしかな興奮と喜びがあ 「くそ、暗くてだめだ」 る。準備を整え、じっと状況を積み重ね、備え、そして訪れ 「ナイフ、ナイフだよ」と息子が叫んでいる。動けなくなっ た遭遇の瞬間に、すべての感情を封鎖する。精神と肉体は装 た鹿のとどめはナイフで刺すと話したことがあった。そのこ置となり、絞り込まれるように連動して、破壊の一点に向か とを言っているのだろう。だが、この牡鹿を捕まえて、ナイ い集約する。殺生とは相手を殺すことのようで、実は、自分 フでとどめを刺すのは無理だ。 という人間をひととき殺すことだ。 沢を渡った。靴の中に水が入り込んでくる。気にしている 破壊装置が作動を止め、生身の人間に戻って獲物を前にす 場合ではない。 ると、戸惑いがやってくる。いま、目の前にある大きな肉の 鹿は窪地に人り込んで座っていた。倉内は息を整え、銃を塊は、その存在が過ごしてきた時間とこれから過ごすはずだ 立ち木に固定して、首元に狙いをつけ、引き金を引いた。銃った時間の塊だ。それは自分の身の程で受け止められるサイ 声とともに牡鹿はビクリと震えて、体をピンと伸ばし、うし ズではない。己の生をただ生きているものへ、なぜ、自分は ろ脚で空を掻いた。 圧倒的な暴力で介人することが許されるのか。いくら探して 「止まったぞ」と息子に叫んだ。 もその答えを得ることはない。ただ自分がなした事実が己の 「死んだの」息子が対岸で言う。 存在を激しく揺さぶってくる。どこにも逃げ場はなく、理由 「いったん橋に出て、まわってこいー も理屈もなく、ただ受け止めるしかない。 「わかったあ」と子供つぼい声が返ってきた。 人里から稜線を越えて山奥に人り込んでいるとはいえ、夜 鹿に近づいて、顔を照らすと、すでに瞳孔が開いていた。 中に銃を一二つも鳴らしてしまった。一つなら空耳でも、三つ 頸動脈を切ったが、血はほとんど出ない。 続けば銃声になる。誰かに聞かれていないだろうか ? 銃の薬室をあけた。空薬莢を出せば、もう何も人っていな 橋をまわって息子が来た。 「おまえ、さっきのナイフナイフってのなんだ ? 」 い。ゆっくり息を吐いて、見落としていることはないか探

3. 新潮 2016年12月号

「ご自身で勉強なさったそうですから、痛みもかゆみも、実 術後の麻酔の状態を確かめにいったとき、なくなった手足や 指が痛む気がするという患者の訴えを直接聞いた。目の前の際には失われた左手ではなく脳の問題だということは、ご理 患者が語った通り、確立された治療法はないが、海外では脳解いただけているかと思います」 の問題として研究が進み、そのなかで鏡を使った治療が試さ 万浬は、。ハソコンの液晶画面を患者に向けた。患者から提 供された、脳の画像が複写された光ディスクを再生し れ、一定の効果を上げている。 ている。 咋年の春、万浬がこのクリニックに移って初めて幻肢痛を 訴える患者が来院した。院長の嶋尾は、それまで幻肢痛の患 「痛みの原因は画像からは診断できませんが、左手が失われ たことを脳の一部が認めていないか、認めることを拒否して 者には心理療法および抗うつ剤や硬膜外プロックなどで対処 しており、患者が自分の状態に慣れるまで痛みをそのつど取いることが第一に考えられます。また脳内部の、からだの或 るという状況で、寛解に時間がかかった。万浬は、脳に直接る部位の感覚を司る部分が刺激されたとき、隣接する左手の アプローチするに等しい鏡を用いた治療法に以前から強い関感覚を管理する部分も、同様の感覚を得ていると誤解してい 心があり、嶋尾の許可を得て、失った右足が痛むという患者る場合も考えられます。たとえば、頬に寒けを感じる。その とも相談の上、従来の鏡を用いる方法に、自分なりの手技も 信号を、顔の感覚を司る部分と近い場所にある、左手の感覚 を司る部分も受け取って、寒け、イコール痛みと感じる」 加え、嶋尾がそれまで診ていた患者よりも早い時間で寛解に つなげられた。この患者の紹介で、もう一人の幻肢痛の患者 「左手がなくなったとき、脳のなかの左手を感じる部分も、 一緒に消えないんですか」 を診て、やはり早い時間で寛解に至った経験とを併せて、嶋 患者がなんとか理解しようとしてだろう、脳の画像に目を 尾が昨年冬の関東地区ペイン学会で発表した。大学病院の医 者もそれを見るか聞くかして、立場上正式には紹介できない凝らしながら問う。 ものの、患者にメモを渡したのかもしれない。 「脳は傷を受けてませんから、左手の感覚を司る部分は残っ てます。もしかしたら脳内のその部分は、もっと感じたいと 「この治療の要点は、ご自身の脳を騙すということです」 ス 万浬は、目の前の椅子に座ってからずっと貧乏揺すりをつ 願っているのかもしれません。手は、人間のからだにおいて レ ン 最も敏感で繊細な部位です。重い軽い、硬い柔らかい、熱い づけている患者に告げた。長袖の薄いジャケットを着て、左 手を隠した患者は、聞き間違いと思ったのか眉を寄せ、何で冷たい : : : 様ざまな刺激が四六時中人力され、脳はそれらを 高速で分類して処理をする。ところが突然の事故により、以 すか、と首を前に突き出した。

4. 新潮 2016年12月号

があることがわかり、高い確率でダウン症く最近、子どもを産んだという。ワークイ言を一部の者らがしたことだ。犯人は特殊 で産まれるだろうと医師に告げられた。夫ンプログレスは観なかったが、知り合いがな人物だ。実行してしまう人間と、そうで とも長い時間をかけて話し合った。長い対その舞台を観て教えてくれたという。そしはない人間には大きな溝がある。ネットを 話の結果、夫婦は子どもを堕ろすことを決て、自分が産んだ子が、まさにダウン症だ否定する気はまったくないが、どこか意識 断した。稽古の過程で、そこにべつの人物と話してくれた。時間を作って彼女に会っのなかにそれを抱えている者らが、ネット が唐突に、「堕ろすべき」だと娘に言葉をた。自治体や国の制度が、彼女のような立を通じて可視化された。かって在日朝鮮 かける。ひどく残酷な言葉だ。「障害者なん場の人たちにどのような支援をしている人、韓国人への差別は隠された場所で陰湿 て産んでなんになるのか」と。「堕ろせ、堕か。あるいは、まだ幼児の自分の子どものに繰り返されていた。だが、「在特会」の ろせ」とその人物は強い調子で言う。スケ特別な姿、行為についても、明るく語ってような姿をしてレイシストが目の前に現れ ッチでそこまで作ったあと、それを台本にくれた。彼女が明るい性格なのは以前からた事実を私たちはすでに知っている。優生 した。「障害者なんか産んでどうするの ? 」知っていたが、無理をしているのではない思想もまた、「在特会」と同様にレイシス と口にする第三者の言葉を聞いて、娘がそかと不安にもなった。 トによってあからさまに語られる恐怖を感 じざるをえなかった。 れに反発し、「産む」ことを決断する。 彼女から教えてもらった話を参考にし、 ワークインプログレスの段階で、すでに九月の本公演のための戯曲の執筆にかかっすぐに、「障害者なんか産んでどうすん このスケッチの反響は大きかった。だが、 た。最後のスケッチから着想しドラマを書の ? 」と一一一口葉にする人物を演じる女優から それはまだ演劇ではない。ドラマではないた。中絶しようと考えていた娘が、子をメールが来た。この台詞を口にすることで い。そして、私はそのときはまだ、スケッ産んでからどのような生活をしていたか。彼女にどれだけの負担をかけるかまだ演出 チといっていいだろう短いシークエンスをそして、「障害者なんて産んでなんになるする私も想像していなかった。いや、演出 ドラマにするつもりはなかった。娘の人物のか」と残酷な言葉を口にした人物に、そ家としていまだになにもわかっていないよ 像とその背景はなにも書いていない。「障れを言わせたものはなんだったか。 うに感じる。 害者なんて産んでなんになるのかーと残酷本公演の稽古開始のちょうど一週間前の 最後に、戯曲からラストシーンの一部を な一一一口葉を口にする人物についてもなにも書七月二十六日、「相模原障害者施設殺傷事引用したいと思う。なにかいやな気分が時演 いていない。その人物にそれを口にさせた件」と呼ばれる妻惨な事件が起きた。まさ代を覆っている。それが私にこの場面を無 のはなんだったか。 に「障害者なんて産んでなんになるのか」意識のうちに書かせたのだろう。「比佐子」刊 の 三月のワークインプログレスが終わってと口にした登場人物と同様の考え方を持つは母親、「涼子」が妊娠している娘であり、 実 からしばらくして、古くからの友人からていると、事件が報じられるにしたがいわ「真美」はその姉だ。「昼下がりの佐季」現 Z co を通じてメッセージをもらった。もちかってくる。それ以上に驚いたのは、ネッ が、「障害者なんて産んでどうすんの ? 」 ろん外部には漏れない私信だ。友人は、ごト上で、犯人の考え方に共感するような発と口にする人物であり、作劇上、「佐季」

5. 新潮 2016年12月号

間分後にうんこが出ます 排泄予知デバイス開発物語 一中西敦士 「排泄ビッグデータ」が人類を救う ! ノーベル賞級の発明、ここに降臨。 それでも、産みたい 歳目前、体外受精を選びました 刊 Ⅷ年以上子どもかできない 治療するか、諦めるか 0 978 ・ 4 ・ 193505316 97 甲 4 ム P339052 ー 7 うんこを漏らして惨めな思いをする のは僕一人で十分だ ! 起業を目指 してアメリカ留学中、道端でお腹ピ 1 ピ 1 大惨事を引き起こした若者が思 い立ったのは、排泄時間を超音波で 推定する画期的な機器の開発。ネット を駆使した仲間探し、身体を張った 実験、危機一髪の資金調達 : : : 。笑 いと涙と驚きに満ちた、開発ドキュ メント。月日発売◎ 1300 円 まさか自分が不妊だなんて : : : 想像 さえしなかった「現実ーからずっと逃せ ま げてきたけれど、やつばり子どもが お 欲しい。体外受精は怖い ? お金はいて くらかかる ? 命を創り出すなんてエ含 ゴ ? 答えのない自問自答でモヤモャ。 費 でもーーー。葛藤の日々と一歩踏み出し た先にある「未来」を率直に綴り、不 妊に悩むすべての人に寄り添うェッ価 の セイ漫画。月日発売◎ 1000 円 表

6. 新潮 2016年12月号

を相手にいろんなことを煽ったにちがいない、処女から生ま そもそもかれらに、語り合うべき事柄などない。何度繰り 返されたかわからない昔話ーー学校で強者だった小学から中れたとか触るだけで病気を治すとか法螺をまき散らして、屈 学までの、デフォルメされ誇張された数々のエピソード、そ知で無力な阿呆どもをかどわかしてきたんや。 「無知で無力な阿呆って、おれらのことやな」 うでなければ女か車か。ハチンコか競馬の話、それらを深夜の だれかがいうのにどっと笑いが立ったが、否定する者はい 公園でロにする者はいない。 ない。すると、べつのだれかがこういった。 かれらはみな、自分たちがなぜ置いてけぼりを食ったよう 「おまえらが相手なら、おれでも教祖になれるわ」 な感覚になっているのかわからず、日常の小さな幸せを想っ これについてはだれもなんら反応せず、発言者はスべった て紛らわせようとした。行きつけの食堂のかわい子ちゃん と縮こまったが、みんな心では、キリストのように全世界に や、もうすぐ工場に届く新しい金型や、車のローンがあと二 影響を与えるような存在がこの中から生まれても不思議では 回で終わることや、給料が出たら買うつもりのダウンジャケ ないと田 5 った。いや、そうなればと願った。そんなことが起 ットや、まだまだ遠い給料日のことなどを考えたが、しか こるような世の中のほうが、楽しいではないか。 し、そんなことどうでもいいと、すぐに打ち消さずにいられ みんないいかげん、すべてのことに飽いていたが、だれも なかった。さもないと、突然走り出したり罵り合ったり殴り 帰ろうとしなかった。帰るきっかけが、永遠に失われている 合ったりしかねなかった。 ような気がして、みんなほとんど絶望していた。 やがて鳥がさえずりだし、空が白む準備を始めると、かれ だれかが、べンチの下に隠れていた空気の抜けたサッカー らは立ち上がって伸びをし、仲間たちの疲弊した顔を見渡 ポールを見つけ、突っ立っている仲間に向けてだらしなく蹴 す。 った。するとひとりがポールに向かって走り込んできて、草 ひとりが、今日は仲間のだれかの誕生日ではなかったかと むらめがけて蹴り込んだ。 いうと、そういえばそんな気もするが、ここにはいない。そ 振り抜いた足の勢いに反して、緩く放物線を描くボールを こから、なにかの時間稼ぎのように、だれの誕生日なのか思 眺めながら、彼らは思った。これでやっと、今日を終わらせ い出そうとした。小中学校時代の教師や顔も忘れた同級生の られると。 名前も出たが、わからない。 忘れることのない誕生日といえばキリストだ、とだれかが いうと、どういうわけか場が色めき立った。 キリストなんてもとはといえば新興宗教の教祖やろ、底辺 ( 了 ) 91 楽園

7. 新潮 2016年12月号

いきいきと話したり、笑ったりする顔を見た記憶がなかっ これっぽっちも気にかける時間がなかったのよ」 た。だから眞蔵について考えるときには、線香の匂いがしみ 勝ち誇ったような笑い声をあげながら、智世が法事の席で ついた仏壇の遺影ばかりが浮かぶ。眞蔵は額縁のなかで感情話していたことがある。智世の話す内容より、なぜ笑いなが ら話すのか、歩にはそのほうが不思議だった。立ち人ること のうかがえない顔をして、ただこちらを見ている。よねに至 のできない感情的な秘密がそこに隠れているのなら、笑いの っては、まっすぐこちらを見ている様子でもない。切りぬか れたように顔のまわりが不自然に白いので、なにかの集合写意味もわからないではない。智世の笑いはいつもどこか攻撃 真からとられたものなのかもしれない。 的だ。仏頂面の写真しか残さなかった眞蔵やよねは、子ども 黙ってこちらを見ているふたりは、そこで時間が止まって たちの前で、どんなふうに笑ったのだろう。よねには笑う暇 もなかったのか。 いる。よねの声も、眞蔵の声も、聞こえない。生きていたと 眞蔵は基本的な生活力に欠けた次女、恵美子を気にかけて きの記憶がなければ、死んだ人間はただ一枚の写真でしかな いたはずだ。それとはまた別の意味で、末の娘である智世に い、と歩はおもう。 よねが助産婦になるために東京に出て、長野から遥かに離ついても大事におもっていたことは、智世が熱心に通ってい れた枝留にまでやってきたのは、助産師の恩師だった人にすたいくつもの稽古事からうかがえる。茶道を習って免状をと すめられてのことだと聞いた。その恩師とは誰で、どんな人 り、琴を習い、謡を習っていたのは智世だけだった。親から すれば、それは花嫁として送りだすときの彩り、箱にかける 物だったのか。枝留とはいったいどのような縁があったの リポンのようなものだったのではないか。 か。父や伯母たちは、そんなことすら聞かされていないのを 多少とも恥じる気持ちがあったのかもしれない。歩が一枝伯 勉強ができ、性格も穏やかな一枝を、よねはなにかにつけ 母に祖母の来歴を尋ねても、「どうだったんだろうねえ」と て優先し、引き立て、おのれと共通するなにかを託そうとし 梗概 他人事のように、素っ気ない声でさらりと言うばかりだっ 添島家の四人兄妺は北海道東部の枝留町に住む。長女・一 枝、長男・眞二郎、次女・恵美子、三女・智世。眞二郎は歩 よねには、枝留で生きて暮らすことからいったん離れて過 と始という姉弟を子にもつ。そして、一家の生活のかたわら 去の記憶にひたる暇もなく、とりわけ戦後はなにかの蓋が開 、ハルという北海道大がいた。 には、常にイヨ、エス、ジロ いたかのようにつぎつぎと現れる妊婦たちの世話をして、追 歩には、牧師の子である工藤一惟という恋人がいた。だが歩 われるように赤ん坊をとりあげていたーーー想像できるのはそ は札幌の大学に、一惟は京都の大学に進学することになる。 れくらいのことだった。 研究者の道に進んだ歩は、三鷹の国立天文台に勤務する。 「ひと様の赤ん坊にかかりきりで、わたしたちのことなんか 325 光の大

8. 新潮 2016年12月号

@迷子の王様ー稲 リストラ請負人、真介がクビになる 様々な人生の転機に立ち会ってきた 彼が見出す新たな道は 超人気シリーズ、感動の完結編。 越谷オサム @いとみちー三の糸ー 津軽弁のドジっ娘メイド、いとは女子高生。 バイトに恋に ( ? ) 励む彼女に、受験という試練が 眩しくきらめく青春物語、卒業編ー @神様が降りてくる 経済犯として収監された過去を持っ著者が、 ついにその封印を解き放った。 最後の無頼派と呼ばれた作家・白川道の美学、ここに極まる ! 向新潮文庫 " シリー・ とおる 渾身の遺作 ! 日た はち 550 円 5 9784-10- 132977-2 ※累計部数は単行本と文庫の合計 池田清彦 さ @世間のカラクリ 用 人気生物学者が、世の定説のウソに切り込む痛快科学時評。 井上雪 月一 @廓のおんなー金沢名妓 - 代記ー 七歳で身売りされた娘はやがて東の廓を代表する芸者となる。 「選択」編集部編 @日本の聖域ザ・タブー 大手メディアが報じない「闇」にメスを入れる名物シリーズー 廣末登 @組長の娘ーヤクザの家に生まれてー 気鋭の犯罪社会学者が聴き取った、衝撃のライフヒストリー。 読売新聞水戸支局取材班 @死刑の殺人ー結躙聞疇 生きていることは時間のムダ。確実に死ぬには死刑が一番だ。 サンクチュアリ 590 円 978-4-1 127243-6 490 円 9784-10 ・ 120616-5

9. 新潮 2016年12月号

・ ( 独り言のように。 ) 呼吸音、聴いたことがあるかしら ? : ( 理解したように頷くが、すぐにまた打ち消して、 いっかあの空から、爆弾が雨あられと降ってくるなんて、や 突き放すように続ける。 ) つばり、ちょっと信じられないわね。 ・ : でも、重慶の人た ちも、きっとそうだったのね。 お門違いじゃなくって ? わたし、あなたのただの妾なの よ ? それ以上でも以下でもない。愛してるわけでも何でも : そう思う ? 米国と、本当に戦争する気かしら ? 気ないのに、どうしてそんな辛気臭い話につきあう義理がある かしら ? え ? : はなくてもそうなる ? : : : あなたが聞いてきた話なら、そう : みつともないわねえ、ぐずぐずした口調 なんでしようね。大体、今まで、そうなってきたもの。 になって。・ : ・ : 相変わらず、情けない意気地なしよ。もう、 怖いわ。 いらいらするったらない ! 側にいたら、いつもみたいに思 いっきり、お尻を蹴っ飛ばしてあげるのに。。ハチンツて。 え ? : 小島君も徴兵 ? : : : どこに ? : : : そう、かわいそ : でも、喜ぶかしら、あなたそしたら ? アハハ ・謝 うに。 ・ : あんな気立ての優しい子が、・ : ・ : 恐ろしいこと。 らないでよ。あなた、わたしの旦那でしょ ? 泣いてるの ? : あのからだも、鉄砲の弾や爆弾でポロ雑巾みたいになっ女々しいったらありやしない。 てしまうのかしら ? そうならないためには、先に相手を殺 すんでしよう ? : : : あなた、それで今日は落ち込んでらした 大体、あなたなんて、わたしを妾にするには、随分と物足 のね。 らない男よ。どうしてあんなつまらない男に囲われてるんだ : さあ ? って、よく言われるもの。もったいないって。 お金もだけど、わたし、情にほだされやすいのよ。だってあ なたって、なんだか、かわいそうなんだもの、いつも一生懸 : え ? ( ニャッとおかしそうに笑って。 ) 馬鹿ねえ、 : 本当に、根っからの助兵衛ねえ、もう ! ま、 ・ : そんな程度の人間よ、あなたは。お国が勝手にや ってる戦争には、金輪際関わらないって、大見得切ってたじ ゃない ? 時々、自分を買い被って、大人物にでもなったみ ( しばらく、考え込むように項垂れる。しかし、気 丈に首を振って顔を上げる。それから、人が変わ ったように居丈高に。 ふん、あなたらしくもないわ。それで、わたしに慰めても らおうと思ったの ? 急にこんな時間に電話してきたのは、 そのせいなのね ? アメリカ

10. 新潮 2016年12月号

満月の道目 るかもしれない。それにこのあたりは、冬は「生駒おろし」 「ここで私とお母ちゃんとでは狭すぎるわ。そのうえ、お風 と呼ばれる強い寒風が吹きつけるという。 呂はあれへんし。銭湯まで往復で四十分もかかるなんて、私 大阪駅まで一時間と十五分くらい。大阪駅から多幸クラブ はいやや。私は大阪市内でひとりで暮らす」 までは地下街を歩いて十五分。合わせて約一時間半。 と言った。 シンエ ー・モータープールからならたったの二十分。 「そんな贅沢なことを。お前の給料で、大阪市内のア。ハート やつばり再来年の二月までシンエー・ モータープールの二 の家賃を払うてたら、服の一着も買われへんわ」 階で暮らそう。 タネは困ったように言って房江を見た。 房江はそう決めて、畑のなかに最近できたのであろう新興 千佐子が本気で言っていることをわかっているのだと思っ 住宅地への道を曲がった。 たが房江はロを挟むのをやめた。 千佐子がやって来たのは、引っ越し作業が終わって一時間 「大阪市内って、どこや ? 」 もたったころだった。 と伸仁は訊いた。 「無神経なことを口にしてしもて、ごめんな」 「多幸クラブから東へ二分。三階建ての小さなビル。三階は 房江は千佐子にだけ聞こえるように耳元で言った。 使うてないねん。物置になってるから、そこを千佐子の部屋 「えっ ? なんのこと ? 」 にしてもええって持ち主が言うてくれてるねん」 笑顔で応じた千佐子は、三畳ほどの台所とその奥の四畳 「そのビルの持ち主は男か ? 歳はいくっ ? もし女でも危 半、それに襖の向こうの六畳を長い脚で行ったり来たりし険だらけやなあ。危険が舌なめずりしてる音が聞こえてきそ て、さらにその奥の狭い洗面場と便所を覗き、 うや」 闇夜に浮かぶあの光は、未来を照らす道標なのか 息子は絵画を愛する少年に成長し、妻はアルコールから抜け出せずにいたが、 確かに一家に未来は拓きかけていた。熊吾があの女と再会するまでは 宮本輝 ◎定価 ( 本体 2000 円十税 ) C ) 新潮社 277 野の春