甦る幻の島尾日記 『死の棘』その前夜梯久美子 『死の棘』に至る日が記された島尾敏雄の昭和二十七年から 二十九年の日記。廃棄されたと思われていたが、妻ミホが箱に 人れて保管していた。
ています。風化したようにぼろぼろになっていたのは、母に た。その根拠は、『死の棘』に描かれた時期 ( ミホが日記を 見て狂乱した日よりも後 ) に島尾がつけていた日記の記述で見つかるまでの間、父が奄美の家の仕事部屋の押し人れに隠 ある。 していたため、台風のときの雨漏りで濡れたり、鼠にられ たりしたせいだと思います」 ミホによる詰問と狂騒の発作が続き、日常生活が崩壊した 今回見つかった箱の中の日記には、ミホを狂わせた十七文 この時期にも、島尾は欠かさず日記を書いており ( 島尾はの 字と思われるものは見つからなかった。『死の棘』およびそ ちにこの日記をもとにして『死の棘』を執筆した ) 、そこに の元になった島尾の日記には、ミホが留守中に読んだ日記 はミホが昭和二十七年から二十九年までの日記を便所に棄て は、島尾が帰宅したときインクをかけられて仕事部屋に打ち たと記されている。また『死の棘』でも、日記は妻がかわや 捨てられていたと書かれている。そしてその日記は、後日ミ に投げ棄てたとされている。 ホが便所に捨てたとされている。つまり島尾が二冊つけてい それなら箱の中にあった日記はいったい何なのか。本誌で た日記のうち、問題の十七文字が書かれていたのは、箱の中 「島尾ミホ伝ーー『死の棘』の謎」を連載していたとき、奄 の日記ではなく、このとき便所に捨てられた方の日記だった 美の島尾家で私が中身を確認した昭和二十七年と一一十八年の ことになる。ミホを狂わせるほどの言葉が書かれていたとい 日記について、伸三氏に尋ねてみたことがある。これらもミ うことは、そちらが彼女に読ませたくない内容が書かれた ホによって廃棄されたと考えられており、存在するはずのな 「裏日記」だったはずだ ( 昭和二十七年と二十八年の日記に前 い日記だったからだ。 「裏帳簿というのがあるでしよう。あれと同じで、父は裏日愛人に関する記述が少なかったと先に書いたが、そうしたこそ 棘 とはこの「裏日記」の方に書いていたと思われる ) 。 記をつけていたんです」 しかし、そんな日記を島尾はなぜ、自分の留守中にミホが死 伸三氏はそう言った。何と島尾は、ミホに見られてもいい日 手に取ることのできる場所に置いておいたのか。それについ 記と見られたくない日記の二種類を書いていたというのだ。 て詳しく述べるにはここでは紙幅が足りず、『狂うひと』を 片方はミホによって廃棄されたが、もう片方は島尾がずつ と隠し持っていた。その隠していた日記が、『死の棘』の時読んでもらうしかないのだが、簡単に言えば、島尾の中には尾 代が終わり、奄美に一家で転居した後で、ミホに見つかって家庭に波乱を起こしたい気持ちがあり、ミホに日記を読まれの るかもしれないことを半ば意識して外出していたのではない 取り上げられた。それをミホが箱に人れて保管していたので 甦 かということである。 はないかと伸三氏は言う。 平凡な日常に裂け目を作り、書くべき立場を獲得したいと 「小学生だった私は、母が日記を見つけたときの騒ぎを覚え
日記に書いていないが、ここでは幼い娘を見つめて言葉にし ことを「そのとき私は、けものになりました」と表現した。 ている。『死の棘』に登場するのは、これが書かれたときか お腹の底からライオンのような声が出て、そのまま畳にはい ら一、二年後のマヤである。『死の棘』の読者なら、この詩つくばって部屋を駆け歩いたという。 を読んで、両親の不和に押しつぶされていくマヤの痛々しい 実はこのときミホが狂乱したのは、日記を読んで夫の不貞 無邪気さを思い出すに違いない。 を知ったからではない。愛人の存在をすでにミホは知ってお 手のかからない子供だったマヤは、『死の棘』に描かれた 、前述したように探偵社を使って顔や名前、素性も知って 時期が過ぎた後の小学校三年生頃から少しずつ口をきかなく いた。ではミホを狂わせたものは何だったのか。それは日記 なり、やがて言葉を失う。崩壊しかかったノート群の中で、 に書かれていた島尾の言葉だった。 この詩がほぼ無傷で残っていたのは奇跡のような偶然だが、 「その一行が目に飛び込んできて、その瞬間、私は気がおか 島尾がここで描いたマヤの像の何とも言えない哀切さは、娘しくなりました。それはたった十七文字の言葉でした」 に対する島尾の将来の悔恨を先取りしているかのようだ。 ミホは私にそう言った。あの修羅の日々が始まったのは、 わずか十七文字の日記の記述のせいだというのだ。一人の人 島尾がつけていた「裏日記」 間を狂わせるほどの言葉とは、いったいどんなものだったの 箱の中の日記について、驚くべきニュースが飛び込んでき か。もちろん私は尋ねてみたが、ミホはそれを明かさなかっ たのは、今年の夏のことである。これらの日記は、ほかの島た。 尾敏雄関連の資料とともに、平成二十三 ( 二〇一一 ) 年以降、 ではミホが日記を見て「気がおかしく」なったのはいつの かごしま近代文学館に収蔵されているが、その後同館が専門 ことなのだろうか。『死の棘』の冒頭には「審きは夏の日の 家による修復を行ったところ、箱の中には計七冊のノート が終わりにやってきた」とあり、私が取材の過程で遺品から発 あったことが判明したという。奄美の島尾家で私が確認した見したミホの手記の草稿には「事件の発端は九月二十九日早 四冊のほかにあと三冊あったことになるが、その中に、昭和暁」と書かれていた。ということは、今回見つかった昭和一一 二十九 ( 一九五四 ) 年の七月から九月までの日記が含まれて十九年七月から九月の日記には、ミホが読んで狂乱した十七 いたというのだ。 文字が書かれているかもしれないということだ。 昭和二十九年は、ミホが島尾の日記を読んで正気を失い、 だが、島尾が「あいつ」と出会ってからミホが狂乱するま 『死の棘』に描かれた修羅の日々が始まった年である。私と で、つまり『死の棘』の前夜にあたる時期の日記は、本稿の のインタビューでミホは、夫の留守中に日記を読んだときの初めに述べたように、ミホの手で廃棄されたと考えられてき 746
ていいだろう。 で、ミホが「裏日記」と一緒に便所に投棄したと思われる 『死の棘』の第一章は、この日の昼下がり、外泊から帰って ( 『死の棘』時代の日記では島尾はこれを「交渉のノートの記 きた「私」が仕事部屋の机の上のインク壺がひっくり返って録ーと呼んでいる ) 。 いるのを家の外から見て、台所のガラス窓を破って中に人る 島尾はこれらのうち、手元に残った日記や記録をもとに多 場面から始まる。そして、妻のミホが読んだ日記帳が、イン くの作品を書いた。島尾にとって日記は執筆のための資料と クをかけられて打ち捨てられているのを見るのである。 いう側面があったが、それ以前にひとつの宿痾だった。どう このときミホが読んだのは「裏日記」であり、もう一冊の しても書かずにはいられないのである。 言わば「表日記」が、今回見つかったものである。その「表 小学生の頃から日記を書き続けてきた島尾は、五十七歳の 日記」の九月一一十九日のページは半分以上が欠損している。 ときのエッセイで「そのことに何らかの意義を託してそうし しかし残された部分に、「〈不明〉のガラス戸割って人る」 てきたのではない。むしろ自分のその姿勢を恥じてきた」と 「破局」という文字がはっきり残っていた。やはりこれは、 書いている ( 「日記からーー複合観念し。日記抜きで日を送 ことが起こった日に書かれた日記なのだ。妻に日記を読まれ ることを試しても半年も続かず、「今では私はあきらめて毎 て騒ぎが起きたその日に、もう一冊の別の日記にそのことを 日日記をつけるが、それをひとにはかくしておきたい」のだ という。 書いているわけで、記録することへの島尾の執念に圧倒され る思いがする。 ミホを狂気に陥らせたものは、不貞の事実ではなく、島尾 この日の日記には、そのほかに「ミホ貧血で倒れ」という の宿痾である日記だった。子供たちをも巻き込んだ修羅の 記述があり、また「〈不明〉子の手紙を見せる」「〈不明〉の手日々を引き起こしたその日記は、一方で名作『死の棘』を生 紙一通あった」などという文字も確認できる。愛人からの手み出し、・島尾に作家としての確固たるポジションを与えるこ とになった。 紙を見せるようにミホに命じられたのだろうか。この日の記 述は「ナマグサイモノ」という、どこか無気味な言葉で終わ 半世紀のときを経て、島尾もミホもすでにない現代に現れ っている。 た日記。活字化されてしまえばそれは文献となり資料となる 島尾は生涯にわたって日記を書き続け、普通の日記のほか が、現物を前にすると、風化を拒む文字列からなまなましい に夢日記をつけていた時期もある。また、愛人との交渉の細アウラが立ちのぼるのを感じる。戦後文学史に残るこの夫婦 部についてもノートに記録していた。『死の棘』の第六章に の、言葉をめぐるすさまじい闘争のエネルギーが、そこには 出てくる「女とのこまかな動作を書きしるした手帳」がそれ くつきりと刻印されているのである。 ( 了 )
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その後、新潮社の編集者たちが加わり、島尾が遺した膨大な その一番上に、「取扱注意」と書いた紙が貼られた平たい 日記や原稿類の整理を担当するようになる。 紙箱があった。側面にはミホの字で「主人洋服」とある。そ その日、書庫や書斎のある一階では編集者たちが働き、登 れまでも評伝の執筆の参考になりそうな遺品が見つかるたび 久子さんは二階で衣類などを整理していた。二階の押し人れ に私を呼んで見せてくれていた登久子さんが「これ、まだ見 には、島尾が子供のころに着ていた服や学生服、海軍時代の ていないでしよう」と言って、箱のふたを慎重な手つきで持 軍服と軍帽などが、柳行李や茶箱に人れて保管されていた。 ち上げた。こうして私は日記のノート群と対面したのだった。 生前のミホは島尾に関係するものはすべて大切に手もとに置 文壇への野心と「あいつ」との出会い いており、鹿児島県立図書館奄美分館に勤務していたときの シャツや、自転車ごと川に落ちて脚を骨折したときに着てい 重なり合ったノートは、全体の三分の一ほどは破片になっ た革のジャン。、 ノー ( そのときの泥がそのまま乾いてこびりつ ていたが、人間の手で破ったりちぎったりした形跡はない。 。まるで風雨にさ いていたという ) もあった。 点々とある虫喰いの穴、水濡れのしみ : 上の棚には紳士服を人れる平たい紙箱が重ねられており、 らされて自然に崩れていったかのようだった。 よく見ると、ほとんど崩壊して無数の断片と化しているノ 中には島尾の背広やコートなどが丁寧に畳まれて人ってい ートと、かなり原形をとどめているノートがあることがわか た。その紙箱のひとつに、持ち上げるとふわりと軽いものが あった。蓋をあけた登久子さんは驚いた。例のノート群が人 った。伸三氏の許可を得て、後者のノートを確認させてもら前 った箱だったのだ。 った。このとき部分的ではあるが中身を読むことができたのそ 私が登久子さんからこの箱の中身を見せてもらったのは、 は、昭和二十七年の日記二冊と、昭和二十八年の日記一冊、 の 平成二十二 ( 二〇一〇 ) 年八月、ミホの評伝の取材のために そして同年の創作ノートらしきもの一冊の計四冊である。 死 奄美を訪れ、遺稿と遺品の整理に立ち会わせてもらったとき そこに記されていた内容は、本誌に今年の六月号まで連載 である。ミホの遺稿やノートなどは新潮社の編集者たちの手した「島尾ミホ伝ーー『死の棘』の謎」 ( 『狂うひとーー「死 で大まかに仕分けされ、「ミホさん関係」と書かれた十数個 の棘」の妻・島尾ミホ』として今年十月に新潮社より刊行 ) 尾 の段ボール箱に人れられていた。一階の和室でそれらを一つ の中でくわしく書いた。改めてざっと記せば、昭和二十七年の ずつ開封し、中身を確認していると、隣室から登久子さんが の日記には、経済的な苦しさ、才能に対する自信のなさ、体礙 甦 手招きをした。そこはかってミホの書斎だった部屋で、すで調への不安が繰り返し記され、「売る本をさがす時の内攻的 な一種のニヒル」「何かゞみたされていないという感じの持 に整理と分類が終わった段ボール箱が積み上げられていた。
で、やがて妻ミホの狂気を引き起こすことになるその愛人女 あるはずのない日記の発見 性は、安部公房が中心となって結成された「現在の会」の会 員で、年上の人妻であることを突き止めていた。だがその存 思わず息を飲む、というような常套句はなるべく使わない 在を心底実感したのは、朽ちかけたページの断片に島尾の字 よう心がけているが、その箱の中を見た瞬間の私の反応は、 で書かれた彼女の名前を見つけたこのときである。ああやは そう表現するしかないものだった。 り「あいつ」は実在したのだと納得したと同時に、虚実の皮 箱は、デ。ハートや洋品店で背広などを買ったときに人れて くれる、平たい大きな紙箱である。その中にあったのは、破膜が破れて小説の世界が現実にはみ出してきたような、一種 れ、ちぎれ、ぼろぼろになった数冊のノートだった。一部の異様な気分になった。 この時期の島尾の日記はミホによって廃棄されたと考えら ページはくつつきあって層状の塊を作り、風化した土壁のよ れてきた。それが、半世紀を経て衝撃的な姿であらわれたの うにところどころ表面がはがれ落ちている。だがその断片に だ。日記の人った箱を遺品の中から見つけたのは、島尾夫妻 は、判読できる状態で文字が残っていた。 の長男・島尾伸三氏の夫人である潮田登久子さんだった。 島尾敏雄独特の、神経質に並んだ米粒のような文字。私は 島尾は昭和六十一 ( 一九八六 ) 年十一月、六十九歳で亡く 息をとめたまま、青インクで書かれたその文字列に見人った。 うすき なった。最期の地となったのは鹿児島市宇宿町である。残さ 崩壊と呼ぶのがふさわしい状態で発見されたこれらのノー れたミホは夫の七回忌を機に、『死の棘』に描かれた修羅の ト群は、昭和二十年代後半の島尾の日記である。積み重なっ 日々の後に家族で暮らした奄美大島の名瀬にふたたび移り住 た数冊の一番上にあったノートの表紙には、手書きの文字で 「昭和年」とある。 んだ。夫亡きあとの二十一年間を喪服姿で暮らしたミホがこ 昭和二十七 ( 一九五一 l) 年は、三十五歳だった島尾が職業の地で亡くなったのは平成十九 ( 二〇〇七 ) 年三月のことで ある。 作家として立っことを決意し、妻子とともに神戸から上京し その翌年の夏から伸三氏の一家は東京から奄美に定期的に た年である。この年の夏、島尾は『死の棘』に「あいつ」と して登場することになる女性と出会う。私はそれまでの取材通い、ミホの終の棲家となった家の片づけにとりかかった。 742
0 て れ さ 、一三ロ に ノ の 年 八 十 っ マ 、刀 、黛一尾 ( 〈不明〉とあるのはページが破損して失われている箇所 ) 。 やさしいマヤ そのやさしさはどこから出てくるのか おれはそれをお前に教えはしなかった おれたちはお前を美しくなく生み むずかり泣くときも 放って置いて くたびれてひとりでに泣きやむのを待った 熱が出ても、せきが出ても お前のときは、なぜかほっておいた ぼろをきせられ 見たところかわゆ気でなく 出来ないことでも、お前は自分ですませようとして かえってぶちこわし、 叱られると恥じ人り悲し〈不明〉をし ひとりで黙って遊んだ 汚れた人形を背中にくゝり おできの出来た足で 鼻水をたらし、 どこの家にも〈不明〉 何かを貰って食〈不明〉 長女のマヤはこのとき一二歳だった。この時期の島尾はほと んど家庭に目を向けず、家族のことは最低限のメモ程度しか 〃 5 甦る幻の島尾日記 - ーー『死の棘』その前夜
。 . 手塚治虫の一 ロ 一般 徳 立文館 1005436 ロ ロ ロ 漫画家デビュー 70 周年企画 工ロカ The ShinchO Monthly December 296 112 D 初公開・ 永久保存 グラビア ! @TEZUKA PRODUCTIONS 特別寄稿 筒井康隆・手塚るみ子・中条省平・濱田高志 祥「息子と狩猟に」 ( 16 。枚 , 郎「肉声」 ( 初戯曲作品 ) 玄月「楽園」 十万城目学十森見登美彦「愛しんどい京都」 「甦る幻の島尾日記ーー『死の棘』その前夜」 いと ロ 明治 37 年 5 月 5 日第三種郵便物認可第 113 巻第 12 号平成 28 年 12 月 7 日発行 ( 毎月 7 日発行 ) ( 1 1 月 7 日発売 )
続」「話の筋など考えたが、枯渇していて自分の才能に絶望なるか」との一節がある。これは『文學界』十月号に掲載さ 的、夜のくらさ」などの記述がある。それまで造花作りの内れた「子之吉の舌」のことで、島尾本人が手応えを感じ、お そらく評判もよかったのだろう。島尾はそれまでに一度芥川 職をしていたミホが、この年の十一月に生活のため銀座のバ ーに女給として勤め始め、ミホが不在の夜に島尾が「あい賞の候補になっている ( 昭和一一十四年下半期 ) が、この作品 は候補から漏れた。このとき候補になったのは学生時代から つ」に会いに行っていたらしいことも日記からわかる。 の文学仲間で上京後も親しく交流していた庄野潤三で、この 「あいつ」とさらに関係を深めていった昭和二十八年の日記 回は授賞作なしの結果だったが、庄野は翌一一十九年下半期に には、「モラルの声とデーモンの声」「デーモンの声をきゝた いのに、それが出来ない」「ミホトノ家庭ハ感謝シティルガ、 受賞を果たしている。同じ一一十九年の上半期には上京後に親 一方打ッコワシタイ」などとあり、家庭を呪縛と考えていた しくなった文学仲間の吉行淳之介が受賞しており、彼らより ことがわかる。当時の島尾は外泊を繰り返し、妻子をかえり 年上の島尾は焦燥を深めていく。『死の棘』に至る島尾の放 蕩や妻への背信行為には、作家としての焦りや、平穏な生活 みない生活を送っていた。 をしていては優れた文学作品は生み出せないとの思いがあっ この時期のことをのちにミホが綴った文章を、私は奄美の たことが、この時期の日記を読むことでわかってくる。 島尾家で見つけている。島尾の書き損じ原稿 ( 『死の棘』第 一方、文学仲間だった愛人の女性についての具体的な記述 四章にあたる「日は日に」 ) の裏にそれは書かれていた。感 は、この日記には少ない。その理由は後に述べるが、昭和二 情をそのままぶつけたような走り書きで、愛人の女性のこと を探偵社を使って調べ、その写真も人手したことなどが記さ十八年の創作ノートに、彼女が言ったと思われる言葉が書き とめられているのを見つけた。前半部分はちぎれていて判読 れている。夫の放蕩に耐えねばならなかった苦しみが吐露さ れ、島尾が家庭生活についてミホに言ったという「 : : : 僕が不能だが、最後の三行は「コノママディルワョ / ドコニモイ カナイデコノママデ / コトシジュウ ( ? ) コノママディ 苦しむ時はお前だって苦しむのは当り前だ、「カサイゼンゾ ル」となっている。 ゥーだって、「カムライソタ」だって、みんな芸術のために このノートには小説の構想らしきものや、誰かが言った言 は戦場にしたんだ。芸術をするものは安楽になんて暮せない 葉、あるいは断想のようなメモがランダムに書きつけられて んだ。岩の上でも、地獄の果てまでも、お前と子供は僕と一 緒なんだ、芸術の女神はしっと深いからね」という一一一口葉が書いる。いずれも短いものだが、例外的に一ページ全体を使っ きとめられている。 て綴られた文章があった。娘のマヤのことを書いた詩であ る。このページは破損部分が少なく、ほぼ全文が判読できる 昭和二十八年十一月の島尾の日記には「子之吉が芥川賞に