法美 - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年12月号
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1. 新潮 2016年12月号

「数字だけで、どこのかわからんな」 あまりーー・自分が誘ったのだし、急いだ酔いも手伝って 抱きっき、唇が合わさるより先に舌を口の中にねじ込んだ。 ぼんやり鍵を弄んでいる男友だちを見ていると、法美は突 ひさしぶりに欲情し、亮吉の股間を握ったが、その手はすぐ 然、喉元がキュウッと締めつけられた。あの鍵が、すでに自 に引き離された。 分のモノだということに、法美は気づいたのだ。だれかわか 「今日はお預けや。またこんどやったるから」 らなかった息子の父親が亮吉であってもおかしくないと、金 亮吉は法美の頭を撫で、もう片方の手で乳首を摘まんだ。 曜日から思い始めていた。鍵は正当に、亮吉から法美に贈与 「この鍵預かっといてくれへんか。じきに取りにくるから」 されたのだ。鍵を渡したときのロづけは、いま思えばそのこ 亮吉は鍵を渡すと法美の腰に腕を回して引き寄せ、軽く口 とを充分に示唆していたではないか。 づけをした。 コインロッカーになにが人っているかはこの際問題ではな 「絶対にだれにもいうなよ。おまえを信用してるから」 い。法美にとって一円の値打ちもないものだとしたら、黙っ て扉を閉めるだけのこと。しかしその判断をするのは、鍵の 「亮吉に預かってっていわれてんけど、どないしたらええん 所有者である私でしかない。 やろ」 「とりあえず持っとくわ。そのうち取りにくるやろー 法美が、カマ軒の仲間とはちがう男友だちを呼び出して相 そういって法美が伸ばした震える手に、男友だちはメニュ 談したのは、困ったからではなく、目の前の男の気を引きた ーを持たせた。 いからだった。だからといってこの男と親密になりたいわけ 「そこの駅とスー。ハーのコインロッカー当たってくるわ。息 ではなく ( 寝たことはあったかもしれないが ) 、自分が謎め子と甘いもんでも食いながら待っとけよ」 いた出来事の渦中にいることの、確認と誇示と拡散のため 「なにいうてんのん、うちがやる ! 」 法美は、男友だちの背中を追おうとして息子を突き飛ばし 法美は、椅子の上に立ってはしゃいでいる三歳の息子に腕てしまった。尻から床に落ち、きよとんとした顔がみるみる を回して支えながらコーヒーを飲み、男友だちは向かいで赤歪みだした息子を置き去りにして、法美は駆けた。 ワインを飲んでいる。平日の昼間、安いファミリーレスト一フ 「なにを必死になっとんねん」 ンのガラスで囲われた喫煙席は煙で薄く曇っていて、自分も ドアの前で腕にすがりついてきた法美の両肩を、男友だち こんな環境で育ったのだから息子も平気だと、心で言い訳し は向き合ってから攫んだ。 ていた。 「おまえがおれに相談したんやろ。その時点でおれも当事者

2. 新潮 2016年12月号

の豚まんをもらったときの、思いがけないプレゼントをされ 法美に誘われて落ち合った居酒屋で、やつばりあんたがい たような少しはにかんだ笑顔で受け人れる。 ちばん安心できるわ、と法美がいったとき、子供のころから 551 の豚まんは、最寄りでも天王寺か難波でしか手に人おつばいしか取り柄のなかったこの女もいまならやらせるの らない。気軽に買いに行けない小学生は、親か来客の土産で ではないかと、発情しかけたのも束の間、耕太はかって患っ のみ口にすることができる。耕太は年に何回もないその機会 た淋病の排尿時の痛みを思いだした。こんな女としたらまた のたび、家が隣の法美にも一個わけてあげるのだが、そのと病気がうつる。 き法美がする表情を、乱暴に。ハンツの中に手を人れてくる男 見せられた画像の鍵に見覚えがあったが、適当な場所をい 子にもするものだから、そのたびに血がにじむまで机に爪を い、女友だちのものだというのはみえみえの嘘だし、鍵はバ 立てたり二の腕をんだりと自分を痛めつけても、無理はな ッグの中という見当も当たった。 いと思った。 耕太はいま「天然温泉鶴羽の湯」のロビーにいる。もし 耕太は他の男子のようにできなかった。法美がいいように駅のコインロッカーなら三日で荷物を移管されるということ されだしたころ、男子の手が。ハンツの中に人っているときにすら、法美は知らない。 耕太はにやにやしながら、いままで何度もそうしてきたかの 二十四時間営業で頻繁に客が人れ替わるここのロビ 1 のコ ように胸に手を出そうとすると、法美は手のひらの土手を突インロッカーなら、何日預けていても店側に不審がられるこ きだしてきた。尻もちをつき鼻血を舐めた耕太が、泣くこと とはないだろう。しかも百円返ってくる。それだけでも得し も忘れて見上げた法美の顔は、その数日前に大の糞を踏んづ た気分になった耕太が、スポーツバッグを持って人ったトイ けたときとおなじだった。 レで、落胆した自分がわからなかった。 中学にあがると、生まれたときからの幼なじみによくある バッグの中の紙袋に、帯封された一千万円がふたっと、九 ように耕太は法美と疎遠になり、噂話を聞いてもやきもきし つの百万円の束と、八十七枚の一万円札が人っていた。そし なくなった。男として見てもらえないのなら、女として見る て、くしやくしやに破かれた帯封。 のをやめようとしたら、わりと簡単だった。法美が父親を明 耕太は自分の落胆を、もともと三千万円あったのが十三枚 かさずに , ーー法美自身だれだかわかっていないとは、友人た抜かれていることによると、最初思った。損をしたと。とこ ちの共通認識だったーー出産したときも普通にお祝いを送ろが露天風呂で雲ひとつないのに星が見えない深夜の空を見 園 、母親と三世代で暮らすなじみある古い家には行かなかっ 上げていると、いくら金への執着が強い自分でもそれはない楽 ( 0 とわかった。そして、気持ちの落ち込みが落胆ではなく、胸

3. 新潮 2016年12月号

「おごってくれるん ? 」 小中学校の同級生だった瀬能亮吉のことを、耕太はあまり 「母子家庭から金を取るほど困ってへんわ」 知らない。中学卒業まで一度もおなじク一フスになったことが 半ば期待していたおごりだった。法美は、これでいろんな ないし、サッカーに興味もなかったから、法美が亮吉につい ことが解決するだろうと単純に喜び、礼儀として先に店を出 て彼氏の自慢をするように語っても、その後高校を中退して て待った。 サッカーもやめたと知っても、感慨らしきものはまったくな かった。 耕太は、駐輪場から自転車を出してくると、荷台を手で叩 いた。 亮吉が町に戻ってきて、法美にどこかのコインロッカーの 「坐れよ。ちっちゃいころ、ようふたり乗りしたやろ」 鍵を預けたという噂を聞いたとき、耕太が思い浮かべたのは 隣に住んでいたこの男と、幼いころいつもいっしょに遊ん どういうわけか、子大のようにじゃれ合っていた幼児のころ でいたのを法美は思い出し、気分もよかったし、荷台に横坐 だった。あのころから法美を好きだったのだ。 りした。 胸の膨らみが目立ってくるようになった小学四年のころか 「わがままいうていいか」 ら、法美の胸やスカートの中を一部の男子が無造作に、あた 「なんやのん。聞いてから考える」 かも菓子袋に手を人れるかのように、あるいは陰毛の生えか 「おれの腰に両腕でしがみついてくれへんか」 けてきた自らの股間を触るかのように、まさぐるようになっ た。 それくらいお安いご用だ。背中に胸をぎゅっと押しつけて やる。男と自転車の二人乗りをしながらそうするのが、昔か 五年生のとき耕太の高校生のいとこが、耕太の部屋で法美 ら好きだった。 とやったのを、耕太はいとこに押し込まれた押し人れから覗 「バッグ邪魔やろ。前カゴに人れるわ」 き見た。半年後の六年生になったばかりの肌寒い夜に、昼間 適当なところで耕太と別れたあと、法美は駅で途方に暮 いっしょにドッヂポールをした公園で三人の中学生とまぐわ れることになる。耕太に鍵を取られたと気づくのは、往来し っている法美を、中学生らに追い立てられて登っていた楠の た道を何度も往復し疲労困憊になって家に帰ってからだっ枝から見下ろした。寒さと緊張から漏らした小便がやつらの た。耕太の電話は電源が切られていて、いまどこに住んでい頭に降り注いだ思い出は、のちにしたたか殴られた痛みの記 るのか知らなかった。 憶と分かちがたい。 法美は、男が自分のからだに仕掛けてくることはなんで 十月ニ十一日水曜日深夜 も、断ったり嫌がるそぶりを見せるどころか、好物の 551

4. 新潮 2016年12月号

引き戸の奥で人の気配がしたのを合図に、亮吉は駆けだし た。すぐに息が切れ、左手の児童公園に人った。子供がうよ うよいる中、べンチに坐りたばこに火をつけたが、指が震え て落としてしまった。足で踏み消し、また一本火をつけた。 「たばこくれへん」 背後に立ってにやにやしているのは、見まがうことなく法 美だった。亮吉は火をつけたばかりのたばこを差し出し、自 分はもう吸わなかった。 「あれ、うちの子やねん。紫の e シャッきてんのん」 アレは、小さなサッカーポールを蹴っていた。ひとりで、 まわりの子供たちと交わることなく、宙に浮かんでるみたい に楽しそうに。 「サッカーうまなって、あんたみたいに学費ただで高校行っ てくれへんかなあ」 法美はべンチを回りこんで亮吉の隣に坐った。 「父親はだれや」 「知らん」 法美のそっけない物言いに、亮吉はわざと顔をそむけた。 「嘘や、知ってる」 亮吉は苛ついた。法美の、ロが悪くつつばっていても相手 の顔色を見てすぐに媚びを売るところは変わらない。 「ほな、だれやねん」 法美はそれの返事をせず、たばこを返してきた。いいたく ないのか、あるいは、だれかわからないからいえないのか。 「返す。あれ孕んでからやめてたんや。ようこんなんスツ。ハ スツ。ハ吸うてたわ」 亮吉は初めて法美の顔をちゃんと見た。中学のころよりあ きらかに肌つやがよく、幼くさえ見える。 亮吉はたばこをくわえた。フィルターが唾液でべとべとに なっていて、ひとロも吸わずに捨てた。 「なんでフィルター濡らすかなあ」 「あんた昔から、それ嫌がってたよな」 昔。あの老人にとって、九年前は昔のうちに人るのだろう か。少なくとも、目と耳は使えていただろうか。 アレがポールを持ってこっちに駆けてくるのを見て、法美 は立ち上がった。 「明日の夜、カマ軒おいでや。毎週土曜日みんなで集まって んねん。あんたきたらみんな喜ぶで」 亮吉は「みんな」の顔を思い浮かべようとしたが、あの老 人と日焼けした高取しか像を結ばなかった。 法美とは九年ぶりというわけではないはず。少し考えて、 二十歳のとき東京で会ったのを思い出した。「みんな」のう ちの男女五人で東京に遊びにくるというので、亮吉も千葉か ら合流した。あのときはずみで法美と寝た。 「アレの父親って、まさかおれちゃうやろな」 亮吉はもう姿の見えなくなった法美に向かってつぶやい た。そして、あの夜を丹念に思い出そうとしたが、顔に向か って飛んできたサッカーポールをへディングで返したところ 園 に、走り込んできた小学生のトラップが美しかったから、ど楽 うでもよくなった。

5. 新潮 2016年12月号

に見える場所もあるが、ここに観光客などひとりもいない。 がしゅんとする、憐れみのようなものだとわかってきた。 そんな長屋の、法美の祖母も生まれ育ったという一戸に、 どうせまともな金ではないだろうが、どんな事情にせよ、 瀬能亮吉はこれを手中にしたのだ。なのに十三万円しか自由金光は小学低学年くらいまでよく遊びにきていた。十歳ころ から法美が男を家に人れなくなったのは、精通後の男を家に にできず、他人の手に渡してしまった。なんと無念なこと 人れないという掟があるからだと、男たちは思っている。若 い男を人れてしまえば、法美の母親だけでなく当時生きてい 耕太は自分の身に置き換えると、堪らなくなって湯に潜っ ( 0 た祖母まで我慢できなくなるからだろうと。この家はよほど 父親に縁がないようで、ずっと母子家庭であり、それもいま ・ハッグには袋に人った新品の下着もあって、耕太はためら や三世代目だ。 わず着けた。横でからだを拭っていた初老の男が数歩離れた インターホンを鳴らしてしばらく待っていると、アルミサ 洗面所に向かった隙ーー綿棒とティッシュを取りに行った数 ッシの引き戸が開いて母親が現れ、なにも聞いてないのに法 十秒間ーーに、ふたっ隣の開いたロッカーから自分の物のよ 美はいないという。靴脱ぎに法美がいつも履いているスニー うに財布を取り、一万円札を三枚抜いて元に戻した。 カーがあり奥で人の気配がするが、金光は伝言をひと言残し あと十万円。 ロビーに出てコインロッカーを開け、スポーツバッグに三 て去った。昨日亮吉に会ったと伝えてくれと。 法美から携帯端末にすぐに連絡がきたが無視した。単純で 万円を人れ扉を閉めた。百円玉を人れて鍵を回すと、コンと 落ちた音がし、耕太は自分がなにをしたいのか、まだわから後先考えないじつにばかな女だと思う。二十歳のころ中学の ない。 同級生らと東京に遊びに行ったとき、安ホテルの部屋をふた っ男女別のつもりでとっていたのに、みんなあほみたいに酔 っ払って一部屋で雑魚寝した。夜中にトイレに立った法美を 十月ニ十五日日曜日 昨夜カマ軒に法美がこなかったから、金光はビデオ店に金光は隣の部屋へ連れ込んだのだが、そこのソフアで亮吉が > を返すついでに家に寄ってみた。昨日亮吉と会ったこと寝ていて、しかしかまわず法美とべッドに人った。 空が白み始めたころ亮吉がトイレに立った。戻ってくると をいいたかった。携帯端末で伝えるのではなく顔を見たい。 寝ぼけたままべッドに人ってきたので、金光はそっとべッド どんな反応をするか楽しみなのだ。 から出て隣の部屋に帰った。 空襲に遭わなかったこの町には、いまだ築八十年以上とい あのあとふたりがやったのかどうか知らないし、そもそも う二階建ての長屋がいくつも残っている。京都の町屋のよう

6. 新潮 2016年12月号

こんな路地の奥だからだれも盗らないだろうと、得意先が 「そもそも、なんで亮吉は法美に鍵を預けたんやろ。大事な ここに置くよう指定していた。 もんが人ってるんなら、あんなばか女に預けんやろうし、た 「おれがそんなことすると思うか ? 」 いしたもんでなかったとしても、わざわざ他人に預ける意味 「いや、思てはないけど」 がわからん」 「ということは、おれを信用してるんやな」 「先週、法美はめっちやひさしぶりに亮吉に会うたいうてた 「信用 ? まさか。なんでおまえを信用せなあかんねん」 から、前からなんかつながりがあったわけでもないやろし」 金光はそういいながら、亮吉が冷えてもいない瓶ビールを 「やったことはあるんやろけどな」 盗むようなやつでないことを知っている。 ここで黙り込んだやつは、法美とやったことがあるのだろ 「そやろ、当然のことや。簡単に信用してもろたら困るわ。 。金光も黙ってみんなを見渡していると、なにニャニヤし ところでおまえ、人を信用するってどういうことか教えとい とんねんといわれたから、言い返した。 たるわ。信用っていうもんは、裏切りと分かっことのできん 「たぶん、おまえとおんなじこと考えてたんや」 表裏なんや。人を信用するってことは、同時に裏切りを受け 「そやろな」 入れるということ。よう憶えとけ」 顔を見合わせてグフフと笑い合ったこの男は、小学生のこ 「なにわけのわからんこというとんねん ろいつも法美を乱暴に扱っていた。男子トイレの個室で全裸 「金光、こんど飲みに行こうや。ふたりつきりで」 にしたり。あまりひどいから、中学になると法美に敬遠され 亮吉がにやにやしていたならまだよかった。真顔で目をそ て、結局一度もやってないだろう。 らさなかったから、金光はますます気味が悪くなり、亮吉を 耕太とも何年も会ってないから、亮吉のようにおれを見て 置いてその場を去った。 もすぐにはわからないだろうが、小学校のポイラー室とひと 言いえば、あばた面のクレーターを真っ赤にさせ、ロの両端 その夜に行ったカマ軒で、金光はコインロッカーの鍵の件から泡を吹かせるにちがいない。 を初めて知った。いま鍵を持っていると思われる耕太とだれ もちろん女子に気持ち悪がられた子供のころの癖を、二十 も連絡が取れないということも。亮吉と会う前に知っていた 四にもなってするとは思わない。しかし耕太といえば、いま ら、やつを問い詰めることができたのに。しかしみんなに でもポイ一フー室事件が思い浮かんでしまう。 は、気後れしたことが癪だったから、亮吉と会ったことはい 中学一年の夏休み、母校のプールに忍び込んで泳ぐことに わなかった。 なり、水着を持参した法美がポイラー室で着替えているとこ

7. 新潮 2016年12月号

もがわかったのだから。 やろが」 法美の腕からカが抜けた。生まれて初めて、不貞を働いた だから、やられたと気づいたときの衝撃が大きかった。底 ような後ろめたさを感じた。いままでたくさんの男と寝てき 抜けに迂闊な女という自覚があったから、慎重に選んだつぎ たが、一度もそんな気持ちになったことはなかったのに。 の相談相手だったのに。 後ろに若い女の店員を従えて、息子がオロオロと泣きなが そもそも、なぜささいなことでも男に頼ってしまうのだろ ら歩いてきた。 う ? 自分でなんでもやろうとしていたら、人生どれだけ変 「いままでいわんかったけどな、この子の父親はあんたなん わったことだろう。 やで」 息子を寝かしつけたあとの居酒屋で、スマートフォンで撮 男友だちは目を見開いてから、ロだけ笑った。 「なにいうとんねん。計算合わんやろが」 った鍵の画像を見せたのは、男として見たことのない幼なじ みの耕太だった。年相応に大人っぽくなったとはいえ、青白 「計算もくそもあるかい。わたしにはわかってんねん。なん いあばた面はあいかわらず醜い。 でもわかってんねん」 「駅の裏路地のコインロッカーかもしれんな。あそこのは 法美はようやく気づいたのだ。いままで寝てきたすべての 男に、息子の父親であるといえるのだと。そして、自分が何そうとう古い。おれも、おれの親父もおかんも、あそこに捨 てられてたんや」 者なのか。どんな女なのか。いままでなにをしてきて、これ そんな境遇だったとは、知らなかった。腕が強ばってグラ からどう生きるのか。なにもかもがわかった気がしたのだ。 スから焼酎をこぼした法美に、耕太はたばこの煙を吹きかけ 「子供のことは金輪際なんにもいわんから、とにかく鍵返し ( 0 「まじに取るなよ。ちょっと考えたらありえんとわかるや 鍵を返した男友だちの顔から怯えが消え、救われたような ろ。おまえはガキんときと変わらんよなあ。ほんで、鍵はど 笑みが浮かんだ。なんてわかりやすい男なのだ。男なんてじ こにあんねん」 つに単純だ。法美は、ずっと昔からそのことを肌感覚で知っ 「これ女友だちのんやねん。画像が送られてきて、どこのや ていたことに気づいた。初めて気づいたわけではない。いま まで果てのないほど繰り返し男の単純さに、ーーそこから派生ろって聞かれたから。駅に行くようにいうわ」 「そうなんや。行ってみてどうやったか、また教えろよ」 する弱さとずるさにもーー振り回されてきて、身に沁みてい 耕太はそういうと、伝票を持って立ち上がった。 るはずなのだ。でももう、二度と失敗しない。もうなにもか 77 楽園

8. 新潮 2016年12月号

そうになった。 あれから自分が道を踏み外したという感覚は、亮吉になか った。サッカーをやめたことは、挫折ともいえない。ついて 「信用」を道具に詐欺を行うやつらに、信用されているお いけなかっただけなのだから。サッカー推薦で人ったから、 れ。奇妙な高揚感とは、ふつふっと沸くおかしみだったとわ 高校をやめるのも自然。その後は適当に働き、そこそこ遊ん かったのは、とりあえず乗った新幹線の座席で声を立てて笑 ったときだった。 で、法に触れることはたまに手を出す大麻くらいだった。 その大麻が縁で、亮吉はいつのまにか「信用」されるよう 日が暮れかけてきて、校庭の子供たちが片づけを始めた。 になった。なじみの大麻の売人から頼まれて、やばいブツの亮吉は自分に行く当てのないことをあらためて思い知った 受け渡しをりなく行っていたら、仲間扱いされるようにな が、かといって淋しくも心細くもない。 ったのだ。やばいブツは薬物のほか、ずっしりと重いバッグ それでも、感傷的になっているのだろうか、だれかを無条 のときもあった。詐欺で手に人れた札束だとわかっていた 件に信用したくなってきた。どこのだれだと知っている、と が、亮吉は中をあらためることもせず、もらえる一万円から いう間柄でいい。そうすれば、信用した相手がこの世に存在 三万円の小遣いで満足していた。 するというだけで、自分も生きている気がしてくるかもしれ ない。 ポス的な男に引き合わされたとき、こいつは無ロで愛想が ないが信用できると、売人は紹介した。 亮吉には意外な言葉だった。金になるからいわれたことを 十月一一十日火曜日 やっているだけで、だれかに自分を認めてほしいとかよく思 瀬能亮吉が先週金曜日に町で目撃されたことは、古くから われたいとか、考えて行動したことがなかった。少なくと の友人やエルマール 0 関係者のあいだにすぐに広まった も、サッカ 1 をやめてからは。 が、以後ばったり見られなくなった。残されたのはコインロ 今朝、呼び出されていつも打ち合わせをする喫茶店に行く ッカーの鍵ひとつで、法美が持っていた。先週土曜日の夜カ と、スポーツバッグを渡された。込み人った事情ができたか マ軒から出ると、亮吉が暗がりから出てきて預けられた。 ら、これを持ってしばらく親元にいてくれとのことだった。 この夜は息子の体調がよくなく、法美はいつもより早く家 こいつは信用できる。 に帰らなければならなかったから、いつもの酒量に追いつく 亮吉は、目の前の売人がかって自分を評した言葉を思い浮ためハイ。ヘースで飲んでいた。そうしないと、損した気分に かべると、奇妙な高揚感を憶え、徳島の両親の住所を ( 番地なるのだ。 まで憶えてなくて適当な数字を人れた ) メモに書く手が震え 目の前に現れたのが亮吉だとわかると、法美はうれしさの 乃楽園

9. 新潮 2016年12月号

背後に気配を感じて一歩前に跳び、振り返った。見たこと 耕太が逮捕されたというニュースも、やつの仕事が空き巣 のない女が立っていた。髪が茶色く胸がやけにでかい。 とスリだったということも、ひと晩の酒のアテにはなった 「亮吉の居場所教えてください」 が、それつきりで、コインロッカーの鍵のことはもうだれも 口にしなかった。 どいつもこいつも亮吉亮吉亮吉。高取は、髪が逆立ちそう になってきた。なにより、背後から驚かされるのを極度に嫌 行方不明だった金光の姪が遺体で発見され、何年も疎遠だ っていた。それをされると、太腿の急所に回し蹴りをするの った勝ち組体育教師の平田が容疑者として指名手配されたと が、子供のころからの対応だった。女にするのはたぶん初め いうニュースでさえ、驚きはしたが、かれらは楽しんだ。金 てだが、躊躇しなかった。 光がやってこないのをよいことに、心からおもしろがった。 うずくまる女の顔を蹴り上げたい衝動を抑えて、高取は車ついでのように、だれかが金光を攻撃すると、同調する者が に乗り込んだ。キイをうまく差し込めないほど興奮している居合わせた中の半分もいた。子供のころからいやでいやで仕 自分に苛立ち、目の前に幼児が立っているのに気づいても、 方なかったが、仲間の中心人物だから付き合わざるを得なか すぐにプレーキを踏むことができなかった。 った、今回のことで気がせいせいしたと。 平田が、一ヶ月以内に捕まるか、あるいは自殺するか、飲 み代を賭けたりした。新聞や週刊誌の記者がカマ軒にも押し 法美の息子を高取が轢いた。死にはしないが、なにか後遺寄せ、取材を受けたかれらは自分がなにか特別な、土地と世 症が出るかもしれないらしい。発進直後でスピードは出てい代に生まれたのだと勘違いできた。 なかったが、プレーキを踏んだのが二十メートルもあとだっ その感覚はかれらを幸福にもしたし、怠惰にもさせた。仕 たことで、故意に轢いたのではないかと高取は警察に疑われ事中に渋滞しているからとファミリーレストランに車を人れ ている。しかもその直前に、法美に蹴りを人れているのだ。 たり、十分歩くのを嫌って自転車を盗んだり、雨も降ってい 法美はこの事故をきっかけに、息子の鑑定をする決ないのに避妊具を買いに出るのを面倒がったりした。 意をした。とうとう。そこで、男たちの髪の毛を集め回って 朝起きられないのはいつものことだが、夜の寝つきが極端 いるそうだ。髪の毛を取られた男がいるとだれもまだ聞いて に悪くなり、深夜仲間に連絡するとだれもたいてい起きてい いないから、始めたばかりなのか、そもそもデマなのか。な て、秋の夜長、生まれたときから世話になっている児童公園 んにしろ、亮吉が町に帰ってきてからカマ軒での話題に事欠 に集まったりした。翌日仕事なのに缶ビールを何本も空け、 かないことを、仲間たちは喜んでいた。 話すことはとくにないのにだれも帰ろうとしない。

10. 新潮 2016年12月号

えば、すぐに人の目をそらしたり、語尾がもごもごするよう 法美は自分と寝たことさえ憶えていないが ( それははっきり している ) 、なんにしろ、息子の父親はおそらく自分だと金なやつ。亮吉や耕太などだ。 光は思っている。後悔も罪悪感も責任感もなく、たまにカマ 「おれですよ。金光です。まさか、お忘れですか」 「ああ、金光か。酒屋やってたんや。ええからだになった 軒に連れてくる息子を抱いてあやしているとき、おまえと似 な」 てるとまわりにいわれても、法美は無関心だし、金光は悪い 気がしなかった。 亮吉が坐ったまま右の上腕を握ってきたから、金光はその 咋日、酒屋に勤める金光は千日前で亮吉と出会った。ビル 手を荒っぽく払った。びつくりし、また怯えた。亮吉はそん とビルのあいだの台車も通れない狭い路地の奥に、得意先で なことを気安くするやつではなかった。それに、ずいぶん落 ちついている。金光がいじめにかかると、耕太のようにおど ある居酒屋の勝手口があり、その前の空瓶の人ったビールケ おどはしなかったが、一歩引いて目をあわせなかったのに。 ースに男が坐っていた。 金光は、ふたつ重ねたビールケースをそっと男の前に置い 「触るな、気持ち悪い」 た。ケ 1 スの上にはさらに五本のリキュール類を載せてあ 「筋肉震えてたぞ。こんなんよう持つよな」 亮吉は重ねられたビールケースに目をやってから、ああ、 る。これが重さの限界で、腕の筋肉の痙攣と腰の張りはしば らく治まらないだろう。金光はいつもここでしばらく休憩すといって立ち上がった。 「この空瓶は持って帰るんやな」 るのだが、邪魔者が亮吉だとわかるとそうもいかない。 金光は、つい早口になった。 「亮吉さんやないですか。こんなところでなにしてはるんで 「町に帰ってきてるとは聞いてたけどおまえこんなところで すか」 なにしてんねん」 亮吉が町に帰ってきていることを知っていた金光は、あえ 亮吉は意外そうな顔をしたあと、半笑いでいった。 て敬語でいった。亮吉は金光の顔をじっと見たが、わかって 「おれにもわからん。おれ、なんでここにおるんやろ。なに いないようだ。酒屋で働きだしたこの四年で筋肉が一・五倍 がしたいんやろ」 増え、顔も四角くなった。すぐにわからないのも無理はな 気味が悪くなってきた金光は、空き瓶の人ったビールケー 亮吉は昔から、金光を苦手としていた。金光は、幼稚園児スを持ち上げ、持ってきたビールを顎で示すと、軽い反撃の つもりでいった。 のときから、突然高圧的になったりねちねち嫌なことを言い 「このビール、持って行くなよ」 続けたり物をわざと隠したり、相手によってしてきた。たと 楽園